黄金の秋から、冬に移り変わろうとする、身の芯から凍えるような、そんな朝のことだった。
「旦那様ー?旦那様ー!」
主人のルーファスの部屋の扉を、幾度も叩きながら、従者の少年は、おやと首を傾げる。
彼の主は、正直なところ、余り朝に強いお人ではないが、こう何度も呼びかけられて起きない程、気配に鈍い性質でもない。むしろ、その逆である。
いつもなら、最初か二度目の呼びかけに、すぐ返事が返ってくるのだが、今朝は奇妙なまでに静かだ。
扉の向こうからは、寝台から身を起こす気配も、又、着替えの衣擦れの音もしない。
いつもと異なるそれに、ミカエルの薄青の瞳が、少し不安そうに揺らいだ。
「まだ起きていらっしゃらないのかな……」
昨晩のご帰宅も、酷く遅かったことだし、と従者は自分自身に言い聞かせるように、ひとり、うなずく。
王太子殿下の補佐であれ、領主としての仕事であれ、己に課せられた職務は完璧にこなし、決して、わずかなりとも手を抜くことがない主人のことである。
いかに普段通り、涼しい顔で振る舞っていても、疲労がたまることもあるだろうし、うっかり寝過ごし、朝寝坊することだってあるだろう。
旦那様とて、二十歳の青年である。
人間である限り、そういう日もあるだろう。
そうは思いつつも、これ以上、けたたましく扉を叩いて良いものか、ミカエルは悩み、うーむ、と腕組みをした。
主人であるルーファスに起床を促すのは、従者の彼に与えられた役目であり、日課である。
それに従えば、無理やりにでも起こすべきなのかもしれないが、普段、殆ど休まず、精力的に働いている旦那様が、珍しく、爽やかな朝を迎えようとも、心地よい眠りの世界に浸っているのだ。
もうしばらくの間、ゆっくり寝かせておいてさしあげたい、と願うのは、主の健康を案じる従者として、咎められる罪ではあるまい。
しかし……、とミカエルの頭の中でもう一人の自分が、異論を唱えた。
朝食の準備は、ソフィーやメリッサの手で既に済まされ、奥方様も席についておられることだろう。
テーブルの上には、コックのベンが腕を振るった、新鮮なハーブのサラダ、とろけるような舌触りの卵料理、分厚く切ったハム、チーズ、焼き立てのパンに、バターと金色の蜂蜜を垂らしたもの。朝摘みのラズベリーなどが、並べられようとしている。贅沢ではないにしろ、美味な食卓だろうが、冷めてしまったら台無しだ。
起こすべきか、起こさざるべきか、それが問題である。
当の本人にとっては問題で、他者にとってはそうでもないそれに、従者が判断がつきかねていると、すぐ前の廊下を執事のスティーブが通りかかった。ミカエルは顔を上げると、「スティーブさん」と、その規律正しく、泰然と伸びた背中を呼び止める。
老執事は、銀の燭台を抱え、燃え尽きた蝋の後始末をしているようだったが、ミカエルが主人の部屋の扉の前で、所在なさげに立ち尽くしているのを目に留めると、おや、と目を細め、ついで訝しげな表情をする。
その唇から、何をしているのです、という声が上がるまで、さほどの時間は要さなかった。
「旦那様の部屋の前で、何をしているのです?ミカエル。もうとっくに、朝食の準備は済んでいますよ。奥方様もお待ちです」
早くなさい、と穏やかな声で促されて、従者の少年も遅まきながら、旦那様を起こそうと、決意した。
確かに、いい加減、起きてもいい頃である。
扉の前で、こんな風に会話をしていたら、気配に聡い旦那様のことだ。もうすでに、寝台から身を起こされているかもしれない。
そんな風に思いつつ、ミカエルが再度、真鍮のノブに手をかけると、彼が扉を押し開けるよりも早く、内側から扉が開けられた。
気の毒に、従者の少年は「うわ、っ」と短い悲鳴を上げ、前へとつんのめると、鼻の頭をしたたかに扉に打ち付けそうになる。
横から伸びてきた男の腕が、肩を支えてくれなければ、それはそれは、悲惨なことになっていただろう。
扉の内から、黒髪の青年が出てくる。
「おはよう」
深みのある、ややかすれた声が、耳朶を打つ。
また今朝は、随分と手の込んだ起こし方だな、と低く笑うルーファスに、ミカエルは狼狽っぷりを悟られまいと、必死に挨拶を返した。声が裏返ってしまったのは、たぶん、己の責ではないと思いたい。
「ひゃ、おひゃようございます。と、とんだ失礼をいたしました」
主人の手を煩わせたという、罪悪感と羞恥心から、ミカエルは弾かれたように身を起こし、金髪の頭をぶんぶんと縦に振った。
視界の端では、執事のスティーブが「おはようございます。旦那様、良い朝でございますね」と常通り、穏やかで、慇懃な挨拶をする。
丁重な物腰の中にも、温かみを感じるのは、老執事の人柄であろう。
あぁ、とうなずいたルーファスの姿に、普段とは異なるものを感じ、ミカエルは、ぎょ……っ!と目を剥いた。
「だ、旦那様……!」
何事だ、騒々しい、と従者の反応に、彼の主人はやや機嫌を損ねたように、眉を顰めた。
よくよく聞けば、その声はいつもより、かすれていて、熱っぽい。
艶のある黒髪は乱れ、頬は常より赤みを帯びており、いつも氷のようだと謳われる蒼い双眸は、悪い熱を孕んだように潤んでいた。
二つ釦を外したシャツは、はだけ、程良く筋肉の付いた逞しい胸板を晒している。
男同士であるがゆえ、従者も、無論、老執事も恥じ入ることはないが、ご婦人であれば、それこそ、目の毒になりそうな眺めだ。
日頃、二重三重にも重ねられた鉄面皮が崩れ、ぼぅ、と此方を見る眼差しは、端整な容貌も相まって、男ながら、恐ろしい程、色気めいたものがある。
ミカエルは、自分が起こしに来て良かったと、神の気まぐれな采配に感謝した。メリッサ辺りが来たならば、妙な意味はなくても、きゃあっ……!と、甲高い声を上げそうだ。
「どうした、ミカエル。百面相なんかして、妙だぞ」
大丈夫なのか、と、あろうことか、こちらに気遣うような目を向けてくる主人に、従者は「い、いいえ」と顔を引き攣らせた。大丈夫かと問い詰めたいのは、こちらの方である。
「だ、旦那様……どこか、お具合でも悪いのですか、顔が赤いですよ」
「……そうか?俺は、いつも通りだと思うが」
顔は赤いながらも、平然とした態で、さらっと答えるルーファスに、ミカエルは、ははは……、と乾いた笑みを浮かべた。
この態度が、曲者なのだ。
奥方である少女には、時に過保護なほどの振る舞いを見せる青年であるが、ルーファスは、己の体調には無頓着というか、どうでもよいことと捉えているフシがあった。
疲れたと弱音を吐くこともなければ、怪我をしても、痛みを訴えることはない。少々の怪我ならば、己で手当てをし、女中を呼ぶことすら稀だ。
以前、夜中に、けっこうな大怪我を負って帰った時ですら、自分で止血し、医者を呼び、使用人の手を煩わせることがなかった。
元来、病気をしにくい、丈夫な体質だということを差し引いても、ある意味で、使用人、泣かせと言っていい。
そのくせ、奥方さまが体調を崩した時など、医者を呼び、滋養のあるものや、手に入りにくい果実を用意させ、よくよく注意を払うよう、奥方様付きのメリッサに言い含めるのだから、どうなのかと、思わずにはいられない。
従者の立場からすれば、その半分でも、自分の体調に気を配ってほしいものである。
はああ、とため息をつくと、ミカエルはルーファスの傍へと歩み寄り、踵を上げ、「ご無礼を」とその額に手の平を押し当てた。熱い。
あきらかに、高い熱がある。
当のルーファスが平然としているので、誤魔化されそうになるが、本来、倒れてもおかしくないような熱であろう。立っているのも、辛いはずだ。
「旦那様、あの、すごい熱ですよ……!寝てなくて、大丈夫なんですか」
顔が少し赤い他は、目立った変化もないルーファスは、僅かに首を傾けると、冷静な声で、問題ない、と言い切る。
「大事ない。心配するな、ミカエル」
「……っ。大丈夫じゃない方に限って、そう仰るんですよ……!僕は、ただ……」
旦那様が心配で、と声を張り上げかけた、ミカエルのそれを見越したように、ルーファスはふ、と口元を緩めると、なだめるように、ぽんと少年の頭に手を置き、そのまま、淀みない足取りで、階下へと降りて行った。――一瞬だけ、微かに笑う気配がした。
取り残されたミカエルは、呆然と、その高い背中を見送る。燦々と差す朝陽が、壁に長い影を映して。
(あの人は、何時から、あんな風な顔をするようになったのだろう。穏やかな目を……)
元々、一度、心を許せば、情が深い人ではあった。
孤児として彷徨い、捨て猫のような有様だったミカエルを、拾い上げ、従者にしてくださった。少年にとっては、たとえ何があっても、忠義を誓うべき恩人である。
しかしながら、以前の、いや、少し前のルーファスはといえば、いつも氷のような無表情で、凍てついた冬の気配を、その身に纏っていた。
笑うことは殆どなく、仮にあったとしても、皮肉気に口角を上げる位のものだ。
王太子・アレン殿下の事だけは、揺らぐことのない忠誠と敬愛を注いでいるようだったが、それ以外は、長年、仕えた屋敷の使用人達とですら、見えない壁という名の、距離があるように感じていた。
アンジェリカのような美しい令嬢や、着飾った貴婦人達に愛を囁かれながらも、ルーファスの孤独は癒されず、いつも飢えたような、苦しい、満たされない目をしていた。
寂しい人だと、そう思っていたのだ。
それなのに、旦那様は、何時しか自然に、その人が傍にある時だけ、穏やかな空気を纏うようになった。
やわらかく微笑い、淡い光に祝福されたような、翠の瞳の少女。さながら、春の息吹が、凍てついた大地をとかすように、少しずつ、少しずつ……。
(僕は、知っている)
(奥方様が、この屋敷にいらしてからだ……旦那様が、変わられたのは)
(僕たち、屋敷に仕える者たちが、何年もかかって無理だったことを、奥方様は、たった一人で成し遂げてしまった。敵わないな……それは、きっと旦那様が、奥方様のことを、深く……きっと、誰よりも……)
時に反発しつつも、誠心誠意、ルーファスに仕えてきたという自負があるだけに、従者の少年の胸には、少しだけ、寂しいような、悔しいような、複雑な想いが去来する。けども、それ以上に、嬉しいと心が喜びの声を上げていた。
敬愛する主人の幸福を願っていたのは、ミカエルとて同じ気持ちだ。
満たされたような気持ちになり、薄水の瞳を細めかけた少年は、目の前の問題が、ちっとも片付いていないという現実に思い至った。
「……って!旦那様ー!その熱、絶対、風邪ですよ!知らんふりしないで、大人しく、寝ていてください!!」
わー、とルーファスの背を追いかけて、階段を駆け下りたミカエルの後ろでは、スティーブがふむと思慮深げに顎に手をあて、
「旦那様が、風邪を召されるとは……王宮に使いを出さねば、そうだ。エドウィン公爵家・伝統の薬湯の用意を……」
などと、ぶつぶつと呟いている。
昔、性質の悪い風邪を引いた時、件の薬湯を飲まされて、その想像を絶する苦さに、大袈裟ではなく失神しかけたミカエルは、密かに戦慄し、震え上がった。
朝食の席に現れたルーファスに注がれたのは、幾つもの好奇の視線だった。
椅子についたセラは心配そうに、眉を曇らせ、
「ルーファス、顔が赤いよ。熱でもあるの?」
と口にし、その傍らに控えたメリッサは、足に巻いた包帯の白さも生々しく、目を丸くして、口元に手をあて、ルーファスを見ている。
ガラス皿に山盛りの、瑞々しい果実を運んできたソフィーは、ルーファスの赤い顔を見て、おやまあ……、坊ちゃん。お顔が、真っ赤ですよ、と子供の時のように呼び、困ったように肩をすくめた。
食堂の全員から注がれる、痛い程の視線には気づかぬ振りで、黒髪の青年は椅子を引くと、妻である少女の対面に腰を下ろす。途端、翠の瞳が不安そうに揺らいでいるのが、目に映った。
否、揺れているのは、俺の方か。ひどい熱のせいか、視界が霞み、頭がガンガンとけたたましく警鐘を鳴らすのに、ルーファスは、うんざりとした。
この程度、さして辛いとも思わんが、思うように考えが纏まらないのは、どうにも苛立つ。
書斎で待っている、片付けねばならない書類の束を思うと、我知らず、嘆息が漏れた。今日は、王宮への出仕の日だというのに、このように情けないなりでは、王太子殿下に顔向けできぬ……。
気遣うように、手を伸ばしてくるセラの顔が二重にぶれて、ルーファスは失笑した。
ふわりと柔らかな手が、額を撫ぜる。
熱をもった肌に、それは、ひやりと心地よかった。絶えず、耳の奥で鳴り響いていたガンガンという音が、一瞬、聞こえなくなる。
セラの唇が震え、大変、と抑えたような悲鳴がこぼれた。
「すごい熱……ルーファス、寝てなくて、大丈夫なの……?」
ルーファスは、意志の力で首を横に振った。
「平気だ、騒ぐほどのものじゃない。貴女は、少し離れていろ」
うつる、とまで口にせず、青年は前よりも、さらに細くなったように見える妻の身体を、力をこめず押した。
己の風邪は、回復しようが、悪化しようがどうでも良かったが、この華奢で折れそうな手首の持ち主が、病に耐性があるとは、到底、思えなかった。
メリッサと女中の名を呼ぶと、金髪碧眼の娘が、心得たようにうなずいて、セラの肩を引く。
屋敷の当主よりも、奥方の方が第一らしい。
馬車の事故に巻き込まれて、足に怪我を負い、給金は出す、しばらく休暇をやろうといっても、頑なに首を縦に振ろうとしなかった娘である。セラもメリッサの足を気遣い、その案に賛成したのだが、奥方様のお世話をしたいのです、と頑固に言い張った。
忠義なことだ、とルーファスは口にはせぬが、ひそかに感心した。
女中頭を務めるソフィーの姪は、明るく、話し好きで、叔母に似て面倒見が良く、熟練の使用人というには未熟すぎるが、セラ付きとしては及第点で、申し分なかった。
「風邪なら、ちゃんと薬を飲んで、あたたかくして眠らないと、治らないんじゃない?」
「いや、風邪ではない。ただ悪寒がして、食欲がなくて、熱があるだけだ」
屁理屈というべき青年のそれに、セラは苦笑した。
「えっと……それを、ふつう、風邪っていうんじゃないの」
「……そうとも言うな」
見え透いた芝居の後、ルーファスは渋々と、それを認めた。
二人のやりとりを見かねたソフィーが、おっとりと口添えする。
「奥方様の仰る通りですよ、旦那様……たかが風邪なんて、侮っていると、治るものも治りませんよ」
「いらん世話だ。そんな暇はない。俺が呑気に寝ていたら、その分、王太子殿下に、余計なご負担をおかけすることになる」
屋敷の肝っ玉母さんとして慕われるソフィーは、主の冷然とした態度を歯牙にもかけず、両手を腰にあてると、
「まーた、そんな聞き分けのない子供のようなことを、仰られて……周りが皆、心配してるっていうのに、無茶をするところは、昔と変わりませんね。困ったこと」
と、頑是ない幼子を見るような目で、まったく、とでも言いたげに、ルーファスを見やった。
ぴしゃりと叱り、呆れたと愚痴りながらも、その目は肉親に向けるように優しい。
彼女の前に立つと、ルーファスは時折、己が坊ちゃん、若君と呼ばれていた、少年の時分に戻ったような錯覚を抱く。
お世辞にも、可愛げのある子供ではなかっただろうに、ソフィーの彼を見る目は、いかなる時も変わらなかった。
青年が態度を軟化させたのを見て取り、女中頭は声を和らげると、諭すように言った。
「お優しい奥方様に、あまり心配をおかけするもんじゃありませんよ。ねえ?」
ソフィーの助け舟に、セラは真剣な表情で、こくんこくん、と何度もうなずく。
「そうですよ。奥方様に風邪がうつられたら、大変ですもの。早く治していただかないと!」
妻を盾に取られた挙句、メリッサにまでそう言われては、ルーファスは己の逃げ場のなさを悟った。
貴種たる身の上、公爵であろうと、屋敷の当主であろうとも、がっしり手を組んだ女たちが相手では、勝算は皆無に等しい。
「お前たち……」
青年が、なおも無駄な足掻きを試みようとした時、おぞましい緑色の薬湯の椀を捧げ持ち、ミカエルが食堂へと飛び込んでくる。
「旦那様。スティーブさんから、薬湯を預かってきました!さあ、これを飲んで、寝て下さい。さあさあ」
この薬湯、気を失いそうになる位、マズいですけど、という本音を、ミカエルは喉の奥で、飲み下した。
ツンと刺激臭のする薬湯を、鼻先に突き付けられたルーファスは、心底、嫌そうな雰囲気を醸し出したものの、疲れたような息を吐くと、一気に薬湯を飲み干し、眉すら顰めず、拳で唇をぬぐった。
「王宮に、使いを。無断で、出仕を取りやめるわけにはいかん」
ルーファスの声に、迷いなく応じたのは、ミカエルでもソフィーでもなかった。
「もう、伝えております。執事として、具合の悪い主人を、外に出すわけには参りませんから」
「スティーブ……」
老執事は慇懃に一礼すると、「勝手な真似を致しまして、誠に申し訳ございません。お叱りは、病が癒えた後で、いかなりと」と、主人の身を案じるそれを、口にする。
相変わらず、己には過ぎたる程に、よく出来た執事に、ルーファスはいや、と労いの言葉をかけた。
「助かった。礼を言う。世話をかけたな」
「とんでもございません。それよりも、旦那様。ご体調がすぐれぬ中ですが、少々、お耳を拝借したいことが……」
謹厳な面持ちで、声をひそめたスティーブに、ルーファスは一時、体調の悪さも忘れて、身を乗り出し、「何かあったのか」と尋ねた。
主人と執事の会話に、ソフィーやメリッサ、ミカエルの顔に、鎮痛なものが宿る。
メリッサは祈るように、静かに目を伏せ、ぎゅっと手を組んだ。
「今朝方、報せがありまして、アンの義姉の葬儀が終わったと……しばらくは、姉の喪に服すそうですが、甥や姪が落ち着いたら、又、屋敷に戻ってきたいと申しております」
「そうか……姉君は、残念なことだったな。アンにはいつでも、子供達が落ち着いた頃に戻ればいいと、告げてくれ。必要とあらば、少々の金子ならば、用立てよう」
ルーファスの返事に、執事は頭を垂れた。
「有難うございます。旦那様のご慈悲に、アンも深く感謝することでしょう。アンからも、言伝を預かっております。『旦那様が、わたくしの姉に、聖アメリアで治療を受けさせてくださったこと、感謝しております。このご恩は必ず、屋敷で働いてお返しします』……と」
エドウィン公爵の口添えがなければ、姉にきちんとした治療を受けさせることは、出来なかっただろう。借して頂いたお金は、働いて返す、というアンの決意に、ルーファスは淡々と、「俺は、何の力にもなれなかった。ましてや、礼を言われる覚えはない」と、応えた。
「治療は、アンの義姉が受けたもの。天上から、貸したものを、返してもらう術はない。よって、妹が何を言っても、受け取る理由はない。わかったな、スティーブ」
「御意に。ですが、よろしいので?」
「構わん。聖アメリアの院長は、お節介だが、話しのわかる男だ。悪いようにはしまいよ」
ルーファスはそう語り、くっ、と皮肉気に口角を歪める。
「今更、こんなことをしたところで、氷と言われる俺の悪評は変わらんがな」
「旦那様は、またそのようなお戯れを……いつも、そうなさっておいでなのに」
「だが、事実だろう?」
渋い顔をした執事に、ルーファスは頓着なく言い放った。
誰も彼も、聖人君子ぶりたがる貴族社会で、己を良く見せようという欲のない主人を、スティーブは尊重しつつも、その真の姿を知るだけに、歯痒くも思う。
そんな主人と執事の会話を、セラは虚ろな眼差しで、聞き流していた。
会話は耳に入るたびに、なぜか素通りしていく。
誰が亡くなったの。どうして、誰も彼も皆、不幸になってしまうの。何故、どうして、何で……っ!
胸の奥深く、彼女の問いかけに、答える声があった。声は嗤っていた。
楽しげに、嗤っていた。
――決まっている。お前が居るからだよ、セラ。
――お前が居るから、皆、不幸になる。お前は、災厄を呼ぶ娘なんだ。不幸と悲しみ、死神はお前の周りに集ってくる。ふふふふ、愉快だねえ!ああ、何て愉快なんだろう!
――自分の所為で、他人が不幸になっていく姿を見るのは、どうだい?災厄の娘、運命の娘、憎き英雄王の血筋、思い知るがいい。わたしの無念を、苦しみを……その身が、呪いに食い尽くされる日まで!
――忘れるな。ジェイクも、リーザも、フレッドとユーナの兄妹も、お前の所為で不幸になった。死んでしまった。忘れるな、忘れるな。忘れることなんて安らぎは、罪深いお前には、決して許されないんだ!全部、お前の所為だ!
――そうして、お前は、愛した者を皆、不幸にするんだよ。お前を愛してくれた男も、ね。あはっ、あはははははは!
耳を塞いでも、声が止む事はない。
十年以上も、事あるごとに、セラを蔑んでくるそれは、呪いのようだった。腕に刻まれた黒い鎖のように、目に見えるものではない。だが、精神を蝕むことでは、より性質が悪かった。
しかし、どれ程、苦痛に耐えることであっても、物事には、許されざる慣れが存在する。幼い頃は、姿なき声に怯え、発狂したくなったそれも、十年も経つと慣れてしまい、悲鳴を上げることなく、何も聞こえない風に振る舞うことが出来た。
「セラ様……?どうなさったのです、お顔が真っ青ですよ」
「え……?」
我に返ったセラが、顔を上げると、心配そうにこちらを覗きこむ、メリッサの碧眼と目が合った。
休むということを厭う性分からか、あれやこれやと話しているうちに、熱が上がってきたルーファスは、執事と従者に追い立てられて、二階の自室に引き上げていくところだった。
流石の彼も観念したらしく、おとなしく寝ていてください、いいですね?と念を押すミカエルに、わかっている、と素直にうなずいて、抵抗する素振りも見せない。
ソフィーは肩をすくめると、思い立ったように、粥でも用意しようと厨房へと向かう。
食堂には、奥方である少女と、足を引きずる女中だけが残されていた。
「何でもないの。ちょっと、その、頭がぼーっとして……話の途中で、ごめんなさいね。メリッサ、続けて」
やや様子のおかしいセラを、不審に思うこともなく、メリッサは「アンの事ならば、大丈夫ですよ」と、努めて、奥方様を励まそうとする。
「アンは、しっかりした人ですし、旦那様の信頼も厚いです。あぁ、縫い物がとても上手で、セラ様は、まだよくご存知ないですよね……?屋敷に戻ってきたら、真っ先に、ご紹介しますわ」
優しく話しかけてくれるメリッサに、セラは儚く、笑みに似た、中途半端なものを返すことしか出来なかった。
「そう、ありがとう……」
おそらく、再びアンに会うことは、最早、永遠にないだろうけど、その気持ちが嬉しかった。メリッサ。
貴女の優しさに、何度も救われた。呪われた無力な娘に、忌まわしい魔女に、心からの笑顔を向けてくれた。
明るくて、面倒見が良くて、皆から好かれて、まるで、向日葵みたいな女の子。
でも、でもね、メリッサ……もし、貴女の大切な人が不幸になって、貴女の足の怪我が、もっと重いもので、あたしの所為で、大切なものを失うのだとしたら、それでも、貴女は、今と変わらずに、笑ってくれるかしら?
「――メリッサは、優しいわ。明るくて、周りを照らしてくれて、太陽みたい。大好きよ」
セラの唐突なそれに、メリッサは些か面食らったように、瞠目した。
「あの、セラ様。仰る意味が、よく……?」
困惑した彼女に、セラは全ての感情を抑え込んで、綺麗に笑ってみせた。
「わからなくても、いいの。ごめんなさい、ありがとう……貴女と過ごせて、幸せだった。ううん、この屋敷の皆と過ごせて、本当に幸福だった」
母様が死んでから、宰相に囚われ、王宮に閉じ込められてから、ずっと、寂しかった。
呪いの影に絶えず、怯えていた。
ラーグを通じて、解呪の魔女として振る舞っている時しか、セラであれなかった。セラフィーネ王女、呪われた娘、それが、彼女に課せられた運命だったから……。
でも、宰相の思惑だったにしろ、この屋敷に嫁いでからは違った。ルーファスは、己を、セラ、という一人の人間として見てくれた。
名を、呼んでくれた。孤独に震える夜、共に在ってくれた。狂おしいほどに、抱き締めてくれた。己の罪を、逃げずに共に見届けてくれた。氷と呼ばれる彼は、セラにとっては、誰よりも、この世界で一番、優しい男だったのだ。
別れが近い、今だからこそ、認められる。愛しているのだ、彼を。誰よりも、誰よりも。
自分よりもずっと、大切な人。冬の海のように、凍てついた、でも、とても綺麗な蒼を持つ人。自分に課せられた呪いが、彼を死なすことになるのならば、自分が消えてしまった方が、よほど良い。
「セラ様、なんか変ですよ?何故、急に、そんなことを……」
メリッサの言葉に、困惑を過ぎて、疑念が宿る。
ここで引き留めておかなければ、この儚く微笑う、奥方様がどこか遠い、手の届かぬ場所に行ってしまいそうで、女中の少女の手は、無意識に、セラのドレスの袖を、強く握りしめていた。
「ううん、大したことじゃないわ。でも、誰かに、伝えておきたかったの。此処は、暗くも、寂しくもなかった。光にあふれて、あたしが生きていてもいいんだ、って、そう思えたの。あの人が、いつだって、手を伸ばしてくれたから……」
ルーファスは、違うと否定するだろうが、セラにとっては彼こそが、暗闇にあって、僅かな光明を示してくれる人だった。
暗闇の中を彷徨っているように思える、彼の人の周りは、実のところ、優しく、穏やかな光に溢れていて、皆、彼を慕って、集まってきていた。
不思議だった。
ルーファス=ヴァン=エドウィンという青年は、敵も多く、その言動は穏やかとは言えず、王太子を守るという信念の為ならば、手を汚すことすら厭わないだろう。
太陽の眩しさよりも、宵闇を照らす、銀の月が似合う人だ。
それにも関わらず、彼の周りには、優しく、揺らがぬ芯を持った人々が集う。その人々が持つ、小さな灯りは、されど、消え去ることがない。セラは、その光に焦がれ、自分もそう在りたいと渇望した。叶いはしなかったが、悔いはない。
呪われた身に、救いの光は差さない。けれども、光に手を伸ばせただけ、自分は幸福だったのだ。
「セラ様……何で、そんなお別れみたいなことを仰るのか、理由がわかりません。これからも、ずっと、旦那様と一緒に生きていかれるのでしょう」
メリッサには、夢があった。叶うかどうかもわからない、幻のような。でも、叶って欲しい夢だった。
旦那様と奥方様が、仲睦まじく暮らされて、やがては、可愛らしいお子様方が生まれて……十年位経っても、叔母は、相変わらず、しゃきしゃきとしているだろうし、スティーブさんはミカエルを始め、使用人の教育に熱心だろう。
自分は、誰かに嫁いだら、屋敷を離れなければならないだろうが、同じ時期に子供が生まれたら、乳母になるのもいいかもしれない。
セラ様に似たら、穏やかで、素直な子。もし、旦那様に似たら、綺麗だけど、口の達者すぎる子になるのだろうけど。
そんな未来があるのかもしれないし、全く異なる将来が、待っているのかもしれない。メリッサには、明日のことだって、わかりはしないのだから。
でも、夢見ることぐらいは、許されてもいいはずだった。
幸福だった、なんて、まるで――この先にもう、幸せがないかのような言い方、していいはずがない。
「生きたかったわ。ずっと、あの人と一緒に」
この屋敷が変わりつつあることに、勘の鋭い者は、気づきつつあるだろう。
最初は、歯車が狂ったような小さな不幸、でも、それが積もり積もって、大きな悲劇を生む。それが、セラに課せられた呪い。十七年間ずっと、向き合い続けた、宿命。
ねえ、幸せだったのよ。メリッサ。幸せだったの。
だから――幸せなまま、終わりにしましょう?
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