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五章 父と子と娘 3


 実父の見舞いに、アンラッセルの地に行くつもりなので、ついては、しばしの暇を乞いたい。
 そう、ルーファスが、主であるアレンに告げる。ゆるく目を細め、そうか、と応じた王太子の反応は、概ね好意的なものだった。
 高き窓より陽光さす、王太子の執務室。
 光と陰。陽光に照らされた、アンバーの床に、天窓の百合の意匠が、くっきりと浮かびあがっている。
 歴代の重みが刻まれた椅子、双頭の獅子を模した肘掛けに腕を預け、ペンを握りしめたアレンと、それより、半歩後ろに控え、光に相対する影のように、泰然と立つルーファスの姿もまた。
 太陽の加減だろうか、暖かな光に包まれた王太子とは異なり、ルーファスの半身は丁度、柱の影に隠れている。
 生まれ落ちた瞬間から、光となるべき宿命を負った者。その影たる事を、自ら選び取った者。さながら、それは彼らの役目を示しているようでもあり、同時に、対となる青年たちの本質をも、物語っているようでもあった。
 ぱら、と隅々まで目を通し終えた書面を、脇の山によける。黄金の頭を揺らしたアレンは、ナナメに顔を向けると、欠かすことの出来ざる片腕であり、己の腹心である男の姿を仰ぐ。――ルーファス。
 快活さと、落ち着きを同時に宿したような、主君の蒼灰色の瞳に見られたことで、黒髪の青年は、「はい、殿下」と表情を引き締めた。普段、国王や宰相に向き合ってさえ、儀礼以上の礼儀を取らぬ男が、自ら進んでこうするのは、唯一、主君の決めた御方のみだ。
 冷静沈着をもって知られ、日頃、凛然とした態度を崩すことのない腹心の、いつになくかしこまった様子がおかしかったのだろう。
 アレンは、ふ、と口元をほころばせた。それは、主従の枠を超えて、友に向けるような、親しみのこもったものだ。
「そう改まらずとも、ゆっくりと父を見舞ってくるといい。久方ぶりの父子の対面だ、積る話もあるだろう……此方の事は気にするな、緊急を要する案件はないからな。私と補佐役だけで、困ることはないさ」
「王太子殿下……しかし……」
 アレンの寛容な言葉に、自ら言い出したことであっても、ルーファスは、にわかに躊躇う。
 彼自身、何がしか、言葉にせぬ葛藤があるのだろう。いつになく歯切れが悪かった。
 父を見舞って、容体を見に来てほしい、という、父の主治医からの手紙を、無視せぬとは決めたものの、それ以外のところで、気がかかりは尽きない。
 アレンは、なんでもないというような顔をしているものの、その机には裁可すべき書類が、うずたかく積み上げられている。それ以外に、視察もあり、王太子という地位にある以上、式典の類への出席も義務づけられている。ルーファスが父・ウォルターに会いに行っている間、王太子の仕事量は、普段の倍になることは確実だった。
 もともと、どれほど多忙であっても、嫌がることなく職務に打ち込み、それでいて、些細な事案にも、決して手を抜く事を自らに許さぬ方である。
 お目つけ役がいなければ、碌に働かぬ者たちの多い王族の中で、その勤勉さは褒められるべきであり、片腕たるルーファスとしては、ひそやかな誇らしさでもあったが、部下を慮る余り、ひとりで背負い込み過ぎてしまう癖が、悩みといえば、悩みであった。
 無論、次期国王であるアレンには、一の部下であるルーファス以外にも、手足となって働く、大勢の優れた部下たちがいる。補佐役であるディオルトを筆頭に、皆、優秀かつ、忠義にも厚い男たちだ。が、そうであっても、彼らが束になっても、ルーファスに技量の点で及ばぬ上に、同じだけの権限も託されてはいない。故に、それらのツケは全て、王太子であるアレンに向かうことになる。
 それらを重々、承知していてなお、快く送り出そうとしてくれる、アレンの微笑みに、ルーファスは有難さと、そして、申し訳なさを覚えずにはいられなかった。
 無言のまま、頭を垂れた腹心に、王太子は首をかしげ、きょとんと不思議そうな顔をする。齢、十八とは思えぬ、落ち着いた物腰の青年であるが、そうすると、わずかに残った年相応の部分がかいま見える。
 ルーファスは面を上げると、流れる黒髪の隙間から、そんな王太子の表情を見、あえかな吐息をもらした。
 (この御方は、本当に……優しすぎる……しなやかで、どこまでも歪みがない……)
 太陽に向かって、しなやかに伸びゆく若木のような、その気性は、時に眩しすぎて、彼の胸に痛みをもたらすこともあったけども、同時に焦がれ、渇望してやまぬものでもあった。自分には生涯、手に入らぬものと、自覚していればこそ。己を含め、何かも包み込むような、アレンの心根に救われたものは、少なくない。
 そんな恩ある王太子に、これ以上の負担を強いることを、良しとせぬ思いが、黒髪の青年の胸に渦巻いていた。しかも。
 (今は、時期が悪い。ローディール侯爵が牢獄で不審死を遂げ、アンジェリカの件も、ルゼ伯爵と組んで、宰相が糸を引いていたフシもある……あれ以来、老狐が何も仕掛けてこないのも、かえって、不気味でさえあるな……)
 彼の父が、静養するアンラッセルの地まで、順調にいっても、馬車で十日ほど。雨などで道が悪ければ、さらに数日かかろう。
 ラザールを始め、宰相派の動きも見えず、不確定の要素が多すぎる中、主君をひとり取り残すことに、躊躇がないといえば嘘だ。いざという時、わが身を盾としても、守る覚悟があったところで、傍にいれなければ、何の役にも立たぬのではないか。不安や心配を挙げれば、キリがない。――自分の判断は過ちではないのか、と疑いたくなる。
「迷うなど、お前らしくないな」
 ルーファスの葛藤を、見抜いてだろう。アレンが、穏やかな声で言った。
 相変わらず、聡い方だ、と腹心たる青年は内心、舌を巻いた。
「……そうでしょうか?」
 表情ひとつ変えず、素知らぬふりで答える片腕の、不器用ともいえる器用さに、綻びそうになる唇をこらえて、王太子は、あぁ、と首肯した。
「アンラッセルに行くということは、向き合うと決めたのだろう……?いかなる形にしろ、お前を縛るものと。ならば、迷うべきではない」
 椅子から立ち上がり、彼は正面から、ルーファスと視線を合わせた。エスティア王家の血を濃く感じる、蒼灰色の双眸――。
 天窓から光が降り注ぎ、黄金の髪に輪をもたらす。それは、王冠の輝きにも似て、なお神聖なるもの。清らかなる、ひかり。
 厳しくも優しく、包み込むような声だった。
「安心するといい。お前が、かの地でどのような判断を下そうとも、私は此処で待っている。――信じているぞ、誰よりも、何よりも。ルーファス」
 暗闇を照らす、太陽にも似た、アレンの眼差しに、ルーファスは瞼を伏せ、しばし瞑目した。
 エドウィン公爵家の闇。先代・公爵夫人の死にまつわる出来事と、呪われたというべき、自身の生まれについて、彼は敬愛する主人にも、口を開いたことがない。
 否、誰一人して、教えようと思ったことすらなかった。
 過去に束の間の情を交わした女たちにも、打ち明ける気になど、なれるはずもなかった。心を閉ざした父についても、同様だ。だからこそ、父を追い出し、無理やり公爵家を継いだ。血も涙もない、氷のような男と陰口を叩かれても、一切の興味を抱かず、弁解しようなどと考えたことすらない。
 それでも、他人の醜聞を暴くことを、無上の喜びとする王宮の狸たちの間では、どのような話になっているか、容易に想像がつく。おそらく、生涯、口にはしないだろうが、間違いなく、それはアレンの耳にも届いているはずだ。けれども、それらを受け止めた上で、アレンは、信じていると言い切るのだ。
 打算もなく、迷いもなく、ただ純粋に。
 そのような態度を見せつけられては、下らぬ意地など、ひどく馬鹿らしいものに感じられて、ルーファスの唇からは、彼にしては素直な言葉が吐き出された。
「ご厚情、感謝いたします、アレン殿下……しばし、お暇を戴きますが、くれぐれも御身をお労りくださいますよう」
「わかっている。ディオルト達もいる。お前に心配をかけるような、無茶はしないさ」
 安心しろ、と爽やかに請け負った王太子に、ルーファスは、まったく信頼ならないと言いたげな目を向けた。
 忠誠を誓う主であっても、無茶をしない、という言葉だけは信じられない。
「……お言葉ですが、アレン殿下は周囲が勧めねば、まともに休息すら取られないではありませんか。政務には情熱を注がれているのに、己の体調には無頓着でいらっしゃるから、先日も、典医が嘆いておりました」
「う、ぐ……耳が痛いな」
 ルーファスの容赦ない忠言の数々に、アレンは頬をひきつらせた。
「とにかく、万に一つも、殿下が床に就かれるような事があらば、老狐、宰相どもが益々、増長することでしょう……ディオルト殿にも、よくよく言い含めておきます故、ご覚悟を」
「……仕事中毒で、放っておくと、碌に休息を取らないのは、お前もだろう。ルーファス」
 額をおさえ、ボソッと反撃を試みたアレンだったが、ルーファスの冷やかな眼差しと、「今、何かおっしゃいましたか、殿下」「いや……なんでもない」というやりとりの末、口をつぐんだ。男ながら、冴え冴えとした美貌の持ち主であるので、睨まれると、思わず、たじろいでしまうような迫力がある。
 はっきり言って、逆らいづらい。
 時々、妙なところで、譲らない腹心の頑固さに、王太子はひらっと片手を振って、降参の意を示した。
「最近、少し変わったな。ルーファス、悪い意味でなく、……何かあったのか?」
「……特には。僭越ながら、殿下の気のせいではありませんか」
 淡々と答えるルーファスには、自覚がないようだったが、少年時代から共に過ごしてきたアレンなればこそ、友とも呼ぶ男の、わずかな変化に気づく。
 冴えたる刃のような、硬質な雰囲気は変わらずとも、以前ほどの冷厳さは感じない。良い意味での、余裕が生まれているというか、それでいて、隙のない仕事ぶりには、ますます磨きがかかっているようだ。
 いままで向き合うことすら厭うていた、アンラッセルに行くというのも、ひとつの変化の兆しではあろう。
 その理由については、察するしかないのだが、アレンにとって歓迎すべきことだった。
 この、孤高の獣のような男が、ようやく、心を注ぐ相手を見つけたのだとしたら……喜ばしいことだと、蒼灰の瞳が和んだ。
「もし、変化をもたらしたのが、異母妹ならば……私は、セラフィーネに感謝しなければならないな」
 小声での呟きを、耳聡く聞きとがめたのだろう。
 何か、とルーファスが片眉を上げた。
 いいや、とアレンは笑顔で首を横に振る。
「伴侶は、大切にすることだ。愛する者と共にならば、乗り越えられることも、多いだろう。それに……」
 王太子はそこで言葉を切ると、秀麗な眉を曇らせ、やや寂しげな表情で続けた。
「――片翼の鳥は、飛べない。母を喪った、父上のようにな」
 父王の事を語るとき、王太子の声はどこか苦いものが混じる。
 ルーファスの瞳に、気遣うような色がよぎった。
「殿下」
「どうにもならぬことを、言ったな。忘れてくれ」
 臣下に心配をかけまいと、アレンはわざと明るく振る舞った。
 瞼の裏に浮かぶのは、在りし日の両親、国王夫妻の肖像だ。
 十の誕生日を前に儚くなった母、今は亡き王妃、聡明で、明るく、何より包み込むような愛情と、度量の大きさを持ち、国母と慕われた人だった。
 胆力に富み、気弱で、何かと優柔不断な国王を励まし、影から、このエスティアを守り、愛し続けた女性。この国を愛し、民を愛し、ひとり息子のアレンを愛し……何より、意志薄弱で、自分にすがるしかない父を、海のような広い愛情で包んだひとだった。
 ふくよかな手のひらで、幼い息子の手をくるんで、母は生きる為の知恵を授けてくれた。
『よく覚えておきなさい、アレン。民なくして、国も王族もありません。民は皆、お前の父母であり、師父であり、同時に愛し……何をおいても、命を懸けて、守るべき子らなのですよ』
『甘言に、惑わされてはなりません。お前には、大勢の者たちが、利益を得ようと寄ってくることでしょう。真実を見抜く目を、大切にしなさい。もしも、信じるに値する者を見つけたら……何があっても、信じ抜きなさい』
『父上は、国王陛下は優しいけれど、お心の弱い所があります。わたしが死ねば、お前の周りは、敵だらけになるでしょう……けれども、挫けてはなりません。戦って、戦い抜いて、国を守りなさい』
『もう、抱きしめてあげられなくて、ごめんなさい、アレン……私の、いとしい子……』
 最期の最期まで、従兄でもあった夫と、息子のアレンの将来を案じながら逝った、王妃。
 正妻であり、庇護者でもあった母が亡きあと、父王は寝室に引きこもり、国政は宰相に任せっきりになったが、アレンまで同じ道を辿ることは許されなかった。
 今は亡き王妃の教えは、今も彼の胸に息づいている。――なればこそ、倒れることは、許されない。
 そうしたアレンの口調から、何かをくみ取ったのだろう。
 ルーファスは薄い唇を歪めて、自嘲するように嗤う。今は亡き王妃と、従兄である国王は、仲睦まじい関係だったと伝え聞く。
 その一点だけでも、主君と自分では、価値観が決定的に異なるのだ。唇から零れ落ちた声音は、ぞっとするほど、冷やかだった。
「殿下のお言葉は、有難いのですが、私では、セラフィーネの良い夫とはなりえないでしょう。生れ落ちたその日から、日々、正気を失って、ゆるやかに狂っていく両親の姿しか、見た記憶がないのです……そんな男に、まともに人が愛せたり、幸せな家庭が築けると、本気でお思いですか……?」
 最早、嘆きは感じられない。
 絶望も、両親の愛を乞うた事すらも、ルーファスにとっては、既に捨て去った過去のものだ。
 冬の海にも似た、その蒼い瞳の奥には、深い深い、沈みこむような虚無だけが広がっている。
 若き公爵の心に巣食う、あまりにも昏い虚無の淵を見せつけられて、アレンは「ルーファス……」と名を呼んだっきり、言葉を失い、絶句した。それでも、微かに首を横に振ると、唇をひらく。
「それを言う相手は、私ではないだろう。ルーファス……セラフィーネは、お前の過去を受け止めきれない程、心弱い娘なのか。違うだろう?お前が、心を寄せた相手ならば」
 確信があったわけではない。けれども、アレンのそれは、そうであって欲しいという、祈りにも等しかった。
 王族の常として、異母兄弟は少なくなくとも、まともに交流と言えるものがあるのは、皮肉にも、宰相の孫である異母弟・セシルぐらいのものだ。
 ルーファスの妻である、セラフィーネはといえば、以前、何かの折に、遠目で姿を見かけた位だ。
 亜麻色の髪の、たおやかで儚げな風情の少女だった。それでも、やわらかな翠の瞳には、大人しげな中にも、芯の強さのようなものが垣間見えて、この男とも、似合いの夫婦になってくれたらと、ひそかに願っていたものだが……。己が、見込み違いだったのか。
 意図せずして、心の深い部分まで踏み込んでしまったアレンを、詰るでもなく、ルーファスは口元に淡く笑みをはいた。
 めったに見せない、その微笑は、主従としての関係を崩さない為の、境界線――。主君であっても、否、主君と仰げばこそ、この青年は時折、強引に矛先を逸らしてしまう。
「どうでしょうか……妻は、セラフィーネはまだ、私の最も醜い部分を知りません。知れば、目を背けるか、裸足で逃げ出すやもしれませんがゆえ」
 喋りながらも、ルーファスはその時のことが容易に想像がついた。
 自分の醜悪な部分をさらけ出した時、セラは果たして、怯えるのだろうか、それとも、いつぞやのように、静かな涙を零すのだろうか。翠の瞳を潤ませて、華奢な身体をふるわせ、細い声で鳴くのだろうか――その様を想うだけで、心が騒ぐ。醜悪な欲望が、頭をもたげる。奪いたい。支配して、俺のことしか、考えられぬようになればいい。
 もし、拒まれた時、己はすんなり、あの娘の手を離してやれるだろうか――羽をもいで、鳥籠に閉じ込めて、己の腕の中でだけ、甘く囀る小鳥であればいいのだと。
 ……あまりの醜さに、我ながら吐き気がする。
 馬鹿な、それでは最も嫌悪した、両親の関係と同じだと思うものの、狂った夢想を捨て去ることが出来ない。
「お前ともあろうものが……よもや、怖いのか?」
 遠慮がちなアレンの問いかけに、ルーファスはいいえ、と、ゆるり、首を横に振る。ただ。
「ただ……苦しいだけです」
 その男の言葉と横顔から滲む、艶めいたものに、アレンはため息を零し、精緻なシャンデリアの煌めく天井を仰いだ。
 (あてられたな……これは……)
 本人は無自覚なのだろうが、その眼差しも、声も、吐き出される言葉のひとつひとつさえ、己ではなく、唯一人の女に捧げられたもの。
 微かに眉間を寄せ、苦しげなそれは、耐えるような色気が滲んでいて、なんというか目の毒だ。男に使うには、抵抗のある表現だが、そうとしか表現しようがないので、仕方ない。
 宮廷の美しい花々と、噂を流しはしても、それはすべて一時のこと。周囲からは、どれほど執着を向けられようとも、自身は終ぞ、誰かを求めるということをしなかった男だ。 
 そんな男が、つがいを見つけた時、その執着の強さは、推して知るべしである。
 端整な容貌と相まって、その表情は女であれば、惹きこまれるような、凄絶な艶を孕んでいたが、残念ながら、同性であるアレンにとっては、まったく意味を為さない。
 むしろ、あまり面識がないとはいえ、異母妹のセラフィーネの身を、案じずにはいられなかった。絶対に伝わらないし、また伝える気もないが、なんというか、頑張れ、としか言いようがない。
 道化になりそうであるから、アレン自身、すすんで口にしようとは思わぬが――。
「まぁ……私としては、お前と異母妹が良いなら、とくに言うことはない。今の時期ならば、アンラッセルの気候は、過ごしやすいだろう」 
 ある意味、強靭な精神力で、気を取り直したアレンは、そう強引に話を纏めると、政務の続きをしようと、再び書面と向き合う。
 ルーファスも、時間を無為にする気はないのだろう。心得ました、と頭を垂れると、先ほどまでの感情を、綺麗さっぱり打消し、涼やかな表情で、いくつかの議案に、代案や疑問点を指摘し、王太子の補佐としての役目に徹した。
 仮に、どれほど秀逸な提案であっても、またゾロゾロと、宰相派の取り巻きどもが、己の私情を優先した結果、下らぬ難癖をつけてくることは、わかっている。ならば、その手間を最小限に減らし、あの無能な割に、領民から必要以上の税を巻き上げ、私腹を肥やす事だけは熱心な輩たちに、二度と無駄口を叩かせないように、完膚なきまでに潰してやるのが、己が使命というものであろう。


 ほぼ互角の能力を有するだけに、ふたりいれば、仕事は早く進む。
 そうこうしているうちに、太陽が傾き、軽食を部屋に用意させ、せっせと書類の山に打ち込んだ結果、天空をうす紫の薄紗が覆う頃、当面の議題は片付いた。
 あとは、視察の数々と仰々しい式典もあるが、そちらは王太子であるアレン以外には勤まらない。残りは、ディオルトら、他の側近たちに任せることになるだろう。
 アレンは凝り固まった肩を一度、ポキッと鳴らすと、疲れた素振りも見せず、
「ご苦労だった」
と、ルーファスをねぎらう。
「出立前に、悪かった。アンラッセルだと、片道、十日ほどはかかろう。道中、無事を祈っている」
「有難うございます、アレン殿下。ご承知の上と思いますが、ローディール侯爵を殺した下手人も、まだ判明しておりません。くれぐれも、ご油断なさいませんよう」
「あぁ、わかっている。あちらこちら、こう間諜に取り巻かれていては、気が休まる暇もないというものだ」
 この会話とて、どこぞの間者に、聞き耳をたてられているのは、確実だろう。
 それを逆手にとって、アレンは豪胆に笑い飛ばした。
 王宮の中で、完全に己が守られる場所など、皆無、というのを骨の髄まで叩きこまれていればこそ、いまさら動揺などありえぬ。
 ルーファスもくく、と主君に合わせて、低く喉をならす。ついで、つかつかと壁際に歩み寄ると、
「盗み聞きなど、良い趣味だな……どこの鼠だ?王太子殿下と違って、俺はそう気の長い方じゃない。皮を剥ぐか、ひと思いに首を刎ねられるか、いろいろと愉しい未来が見えるな」
と、あえて耳に心地よい声で語りかけ、とんとん、と長い指で壁を叩く。
 戯れのそれに、壁の向こうの間諜が、身じろぐ気配がした。
 この程度で、慌てるようでは、間諜としての質も知れたもの。ひいては、その雇い主も、彼らにとって大した敵ではない。
「雇い主の名前を、挙げてやろうか?グランゼール子爵、前・財務卿の横領の件で、宰相に泣きついていたな……余計な世話だが、気を付けた方がいい。奴は女癖も悪いが、有名な吝嗇家でもある。昔、奴の奥方から聞かされた話だから、確かだ」
 ルーファスがすらすらと語ると、壁の向こう側の間諜が、どんな顔になったか想像に難くない。
 報酬が支払われるかどうかも、怪しいぞ、と囁いてやると、とんっと廊下を蹴りつける音がした。逃げたようだ。
 ……愚か者め、何のために猿芝居をうって、今のいままで泳がせたと思っている?
 側近の手の者のひとりが、後を追う手筈になっている。あの間諜の雇い主は、あれが手を下すまでもなく、遠からず、その醜態を晒す羽目になるだろう。
「意外と、あっけなかったな」
 さしたる感慨もなく、アレンは肩をすくめる。
 この程度は、日常茶飯事。側近を信頼していればこそ、慣れたものだ。
 ええ、とルーファスは相槌を打つ。
「グランゼール子爵。例のローディール侯爵の、又従兄ですか。宰相派のひとりで、セシル殿下にべったりとくっついていた、取り巻きだったと……とはいえ、セシル殿下は、好んでいらっしゃらないようでしたが」
 ルーファスの言に、アレンはそうとわかる程、露骨に渋い顔をした。
 穏和で知られる王太子には珍しく、「馬鹿な真似を……っ」と、吐き捨てるように言う。
「子爵の不正の件は、捨てておけん。だが、例え、好いていなくても、セシルは悲しむだろう。あの子は、優しい……王族としては、優しすぎる子だ。罪人であっても、自らに近しいものであれば、心を痛めずにはおれまいよ」
 自分に間諜を放たれた事よりも、異母弟であるセシルの事を心配し、本気で憤っているらしい金髪の青年に、ルーファスは静かに、だが、厳然たる口調で言った。
「どうか、それ以上は、仰らないで下さい。ご兄弟を大切にさせるお気持ちは、よろしいとしても、私たちにとって王太子殿下の身に勝るものはないのです。――アレン殿下は、このエスティアの玉座につかれる御方と、皆、そう信じればこそ」
 諭されて、己の失言に気づいたのだろう。元より、聡明な性質だ。
 すまない、と絞り出した声は、強い後悔の響きを帯びていた。
「今のは、私に仕えてくれている全ての者を、裏切る発言だったな。もう二度と言わないと、誓う。本当にすまなかった」
 一時的に感情に流されたところで、王太子は柔軟な思考の持ち主であるから、さほど心配はしていない。
 ルーファスは浅く首を横に振り、湧き上がってきた、何故、という疑問を口にした。
「失礼ながら、お聞きしてもよろしいでしょうか……?セラフィーネもそうですが、他にも異母兄弟がおられる中で、アレン殿下は何故、セシル殿下を殊の外、気にかけられるのです」
 よりにもよって、宰相の血縁である、あの御方をという思いは言外に伝わっただろう。
 ルーファスの問いかけに、アレンは一度、目をつぶると、「あの子は、セシルは、私と似ているんだ」とこぼす。
「殿下と、セシル殿下が……ですか?」
 その答えに、ルーファスは首を捻らざるを得なかった。
 主君に対し、非礼にあたると知りつつも、声には隠しきれない疑問が滲む。
 年齢、姿かたちもさることながら、文武に長け、温厚で快活、人望も厚いアレンと、気弱で、人と接するよりも、動植物を好み、すぐに人の影に隠れたがるセシル殿下では、彼ならずとも、共通点を見つけることが、困難であろう。どちらが、より優れているなどと、馬鹿らしい事を言うつもりはないが……似ているという点には、同意できかねる。
 腹心の青年の反応は、予想の範疇なのだろう。
 アレンは小さく笑んだだけで、露骨に首をかしげたルーファスを、咎めようとはしなかった。
「性格が、という意味じゃない。環境が、似ているんだ。あの子の周りには、ラザールに媚を売ろうと、大勢の者が集まってくるだろう……だが、実際、宰相の駒である、あの子自身を知り、尽くそうという者は、誰もいない。セシルには誇れる美点が、沢山あるというのに、そこに目を向けようという気構えすらない」
 私も昔はそうだった、とアレンは苦く笑った。
「母の葬儀以来、周りの文官や侍女たちの反応が、ほんの少し変わったのに、すぐ気づいた。父は、私を王太子に立てたが、実際の国政は、大臣たちに任せていたからな。正妃という、後ろ盾を失った無力な子供には、仕えようという気概を、持てなかったのだろう。十になる前か、あぁ、これからは独りの戦いだと、自覚せざるを得なかった」
 セシルも、同じような状況だろう、と王太子は憂うように、息を吐く。
 いや、あの子の場合、周りにおべっかを使う貴族しかいない分、より悪いと。
「真実の意味での味方がいない、弟君を憐れんで、ですか?」
 ルーファスの言い回しは、やや皮肉めいたものになる。セシル殿下のことも、小鹿のようで、女々しいとは思うが、別段、嫌ってはいない。
 しかし、彼にとって、大事なのは、あくまでもアレンであり、セシルはただ、主君の異母弟。いざとなれば、宰相派に汲みする以上、手を下すことすら厭わぬ、そんな存在だ。
「そういう言い方は、適当ではないな……ただ、私にはルーファス、お前という友がいた。ディオルトや、幸いにも、信じる者たちに、多く出会うことが出来た。だが」
 ――セシルには、頼れる者がいまい。私が、あの子を突き放せば、本当の意味で孤独になる。
 口には出されぬそれに、ルーファスは眉を顰めて、ひどく苦い心情にかられた。
 多くは、語るまい。それは、感傷なのだろう。
 若くして、政務を投げ出した父王の代わりを託され、宰相派との戦いに精神をすり減らし、それでもなお、完璧な王太子として、生きる宿命を背負った青年の。強くあれ、隙を見せてはならぬ。その期待に、忠実に応えてみせたアレン殿下の、唯一つのもろさ。
「国を支えるべき御方が、肉親の情に、囚われるおつもりですか。アレン殿下が、そのような愚行に走られるなど、ありえぬと信じております」
「みなまで言わなくていい、ルーファス。私自身、自覚しているさ。公となるなら、私を殺さねばならぬ。――結局、私はセシルにとっても、良い兄にはなりえぬのだろう」
 ルーファスは、何も言わなかった。
 下手な慰めを言うのは、かえって、アレン殿下への侮辱になる。
「守り、愛情をそそぐだけが、真実の優しさではないと、知っているのに……な……」
 その時、急にアレンの身体がかしいで、足元がふらついた。
 刹那、意識を飛ばし、がくん、と首が落ちそうになるのを、ルーファスの腕が支える。
 主の突然の異変に、さしものルーファスも慌てずにはいられなかった。
「アレン殿下……っ!!」
 後ろ向きに倒れそうになる、アレンの身体を支えて、まさか、刺客かと殺気をみなぎらせて、周囲に鋭い視線を飛ばす。暗殺者の中には、遠距離を得意とする輩もいる。が、服越しに確認した限りでは、王太子の身に、目立った外傷はなかった。
 ならば毒の類かと、ルーファスはめまぐるしく、ありとあらゆる事象を考える。もしも、毒ならば、なお悪い。遅効性のものならまだしも、即効性のものならば、最悪、手遅れになる。解毒薬が効かぬものだったら、と考えると、背筋が凍った。叶うなら、話に気を取られていた、うかつな己を殴り殺したい気持ちだった。
「殿下、殿下、ご気分は……?」
 下手に頭を揺らさぬように、細心の注意を払いながら、ルーファスはアレンの前髪をかきわけた。やや癖のある黄金の髪をよけると、固く閉ざされた瞼が、ふるえる。
 その呼吸が、安らかであることに、黒髪の青年はどうしようもなく安堵した。
 ほどなく、くすんだ蒼灰色の双眸が、ルーファスの姿を映し、やがて、はっきりと焦点を合わせた。
「あ、ルーファス……私は、一体……どうしたんだ?」
 腹心にもたれかかるような姿勢に、かなりの違和感を覚えているようではあったが、その声が思ったよりも、はっきりし、傍目には異変が感じられないことに、ルーファスは二度、胸を撫で下ろした。
「急に倒れられたので、心配いたしました……ご気分は?すぐに、典医を呼びましょう」
「いや、それには及ばない。急に、強い眠気に襲われてな。不覚にも、寝てしまっただけだ。面倒をかけて、すまなかった」
 自分は刺客に襲われても、平然としている癖に、たかだか眠すぎて倒れた位で、典医とは大袈裟な男である。そこまで眠いなら、典医にご相談なさってください、と言い張るルーファスを、大事ないとなだめるのに、予想以上の労力を使う羽目になり、アレンは別の意味でゲッソリとした。
 ――王族は、二日に一度、典医の診察を受けているのだし、何かあれば、報せてくるだろう。最近、稀にこのような事がある、というのは、黙っておいた方が、良いのかもしれない。
 しかし、ルーファスの厳しい追及は、緩みを見せない。
「念の為にお尋ねしますが、昨日は何時間ほど、眠られたのですか?アレン殿下」
「う、うむ……きちんと睡眠は、取っているつもりだ。二、いや、三時間くらいか」
「殿下は私のことを、信頼してくださっているようですが……私は、王太子殿下の休息を取る、という宣言を信じられません。故に、明日からの遠出は、取り止めにします」
 表面的には、平静を装っているものの、その淡々とした語り口からは、ルーファスの激しい怒りが透けてみえ、アレンは内心、冷や汗を流す。
 日頃から、敵に回したくない男だとは思っていたが、己の片腕が、存外、気性が激しいことを知る王太子としては、ここで突っぱねたら、後が怖いのをよくよく身に染みていた。良くも悪くも、意志が強いので、説得には骨が折れる。
「ルーファス、私の事はいい。典医に診てもらうし、世話をしてくれる女官もいる。だから、気兼ねなく、アンラッセルに行ってくれ。先代のエドウィン公爵も、待ちわびていることだろう」
「お断りします。アンラッセルには、手紙を書けば事が済みます。アレン殿下のお体の方が、気がかりです」
 間髪入れず、即答してきたルーファスに、アレンは恨めし気な目を向ける。
 己のせいで、何年越しかの父子の対面が叶わぬとなれば、気に病まぬな、と言われても無理だ。
 自然、主君であるはずのアレンの声音も、懇願じみたものになった。
「……私が、頼んでもか?」
「今、申し上げた通りです。殿下の責ではありませぬ故、お気に病まれませんよう。あくまでも、私の意志です」
「どうしてもか。残念だ、セラフィーネがいれば、説得するのに力を貸してもらうのだが……」
 迂闊にも、妻の名を舌にのせた瞬間、ルーファスの顔色が変わるのを、アレンは見てしまった。
 同時に、自分の救い難い愚かさに、ため息をつかずにいられない。
「よく理解しました。アレン殿下には、少々、手厚い看病が必要なようだと」
 女ならば蕩けそうな、魅惑的な微笑で、そう言ったルーファスに、勇敢なる王太子は、己が敗北を悟ったという。
 
 結局、ルーファスは半ば寝こけかけていた、典医を叩き起こし、助手と共にアレンの診察をさせた挙句、王太子の側近であるディオルトを呼び出し、最低でも、三日間は殿下の傍を離れぬように、逆らい難い威圧感をもって告げた。のみならず、彼が公爵家の屋敷に帰るなり、妙薬と称して、とんでもなく苦い、どろっとした薬を送りつけられ、アレンを辟易させた。
 エドウィン公爵家伝統の薬とのことだが、これを飲めるのは、かなりの勇者であろう。――いや、結局、無言の圧力に負けて、飲み干すことになったのだが。
 やるべき事をすべてやり遂げて、疲れ果てた顔のディオルトと、寝台に縛り付けられたアレンをしり目に、ルーファスは翌朝、避暑地・アンラッセルへと旅立った。
「もう数年の付き合いですが、エドウィン公爵のあんな一面は、初めて見ましたよ。あの容姿で、あの才覚ですからね。いっつも隙がないし、他人に興味が薄い性分なんだと、そう思ってました」
 お目つけ役を命じられた、ディオルトが意外そうに言うのを、アレンは愉快そうに聞いていた。
「昔から、ああいう男だ。冷徹そうに振る舞ってはいるが、一度、心を預けた人間は、何があっても守ろうとする」
 寝台から身を起こして、アレンは雲ながるる空を仰ぎ見た。
 今頃、ルーファスら、エドウィン公爵家の面々を乗せた馬車は、王都の半ばを過ぎた頃だろうか。
 ――アンラッセル。
 王宮の噂好きの小鳥たちのさえずりが、もしも、真実の一端をついているならば、その地は彼の青年にとって、優しい場所ではあるまい。
 共に赴くであろう、セラフィーネにとっては、どうだろうか。その人柄については、ルーファスの言葉から、察するしかないのだが……それでも、どうか、その出会いが、幸いであれと祈る。
 これから、エドウィン公爵と、どのように付き合えばいいでしょうか、などと、他愛もないことを呟く、側近の声を子守唄の代わりに、王太子は眠ることにした。


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