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五章 父と子と娘 4


 風の強い、よく晴れた日のことだった。
 のどかな田園風景の中、二頭立ての馬車が二台、走り抜けている。
 先頭を走る、たくましい黒鹿毛の馬は雄々しく、並ぶ青毛の目は聡明そうな光を宿している。
 壮年の御者が鞭をしならせると、ひひーんと嘶くと共に、両輪が滑らかに回り、馬車は速度を上げた。
 素朴な田舎の道に、紋章の掲げられた立派な馬車は、一見、不似合いそうにも思えるが、この地、アンラッセルにおいては、実際のところ、珍しい風景ではない。
 東にガリレヤ山、古代の煌めきを宿す、シューレン湖を遠目に見ることの出来るアンラッセルは、夏の涼やかな気候もあり、避暑地として名を馳せている。
 地元の者たちが暮らす村から、少し離れた場所には、貴族たちの別荘がいくつも立ち並んでおり、アンラッセルの者たちにとっては、収穫した野菜を売ったり、絞りたてのミルクを届けたりする、上得意でもあった。ごくごく短い間だけ滞在する、お貴族様たちは、別世界の住人であると同時に、有難いお客でもある。とはいえ、それも商売をする者に限られ、それ以外の者たちにとっては、気まぐれに来ては、枝をそよがせ去っていく、一瞬の風のようなものだ。
 その証拠に、農作業をしていた男はちらり、と顔を上げると、再び、種をまくために身をかがめ、ロバで荷車を引いていた男は、立派な馬車を見て、道の脇に避けたものの、通り過ぎるまでの間、ふわぁ、と退屈そうに欠伸をする。じわりとにじみかけた汗を、涼風がちらした。
 繋がれたロバはこれ幸いと、よだれをたらし、呑気に青草を食んでいた。その尻の周りを羽虫が飛び回り、わずらわしそうに、尻尾を振って追い払う。草と土の泥臭い匂いがする。
 雲はなく、青で塗りつぶしたような空、さえぎるもののない太陽。その日差しは、思いのほか強い。
 風がざわざわと、木漏れ日の光を散らし、木々の影を揺らめかせた。
 馬の蹄の音が遠ざかり、畑を耕す農夫の前で、並んだ二頭立ての馬車は、小川にかけられた橋を渡り、小さくなっていく。
 その先にある別荘は、ひとつしかない。
 夏の間だけ、滞在する貴族やら、富裕な商人たちが多い中、闇に沈み込むようにひそやかに、春夏秋冬、めぐる季節を拒むように、そこに留まり続ける貴人の館。
 物見遊山な貴族たちとは異なり、その主人は、ほとんど屋敷の外に姿を現さない。地元の住人とも、必要以外の関わりをもとうとせず、敷地のそばにも近寄らせない。何かを拒むように、かたく閉ざされた門は、傍から見ても奇異な存在ではあった。住人も少なく、女中や配達の者が出入りする他は、中年の小太りな医者が、時折、丘のあたりを散歩をしているぐらい。肌に白いシャツを羽織っただけの、幽霊のような男を見た、という、うさん臭い目撃譚もある。
 とかく、奇矯な噂の絶えぬ屋敷ではあった。
 それ故に、荷車を押していた男は、手の甲で日差しをよけ、馬車に掲げられた紋章を見て、おや、という顔をする。双剣と片翼の鷲――それは、エドウィン公爵家の縁者であることを示すもの、だ。
 人との交わりを拒むように、ひっそりと佇む、瀟洒で立派、だが、どこか薄暗い雰囲気のただよう、そのお屋敷は、公爵家所有のもの。されど、高貴な身分である人の元に、尋ね人が来ることは、ひどく稀であった。特に、ここ一年ほどは。ましてや、あんな馬車が来たのは、ただの一度もなく、おそらく初めてではなかろうか。
 馬車に乗っているのは、どのような立場の人であろうか、男か女か、それとも……。らしくもない好奇心がうずいたものの、自分のロバに涎だらけの鼻先をこすり付けられて、男はひどくウンザリした顔をした。
 そんなことをしている間に、二台の馬車は、生い茂る緑に影に隠れて、すでに見えなくなっていた。


 背もたれに半身を預け、その身をもって馬車の揺れを感じながら、セラは物憂げに目を伏せると、浅く息を吐いた。
 緑樹を透ける光にも似た、淡い翠の瞳に、ふるえる睫毛が儚い影を落とす。
 レースで縁取られた薄紫のドレス、膝の上におかれた手は、ぎゅっ、と頑なに握りしめられていた。
 ふぅ、とこぼされた吐息が、そのまま揺らぐ少女の心を物語っているようだ。
 セラの頭にあるのは、己に隣に座り、長い脚を組んで、窓の外に目をやる黒髪の青年のことだった。彼女の伴侶。冷たく感じる程に、整い過ぎた顔には、何の感情も浮かんでおらず、その気持ちを察するのは、容易ではない。
 優雅な、どこか近寄りがたいような雰囲気は変わらずとも、その蒼い双眸は、昏く、深淵にも似た静けさをたたえていて、迂闊に声をかけることを、躊躇わせる何かがあった。
 ――ルーファス。
 セラの唇が紡ぎかけたそれは、音にはならない。胸の内で、泡のようにはかなく消える。
 亜麻色の髪の少女は、そうと気取らぬよう、小さく首を横に振った。
 女中頭のソフィーやその姪のメリッサに見送られて、王都の、エドウィン公爵家の屋敷を出立してから、およそ十日。
 避暑地・アンラッセルに向けた旅路は、天候にも恵まれて、大過なく、概ね順調なものであった。
 一台の馬車には、ルーファスとセラの夫婦と、生活に必要な品々が積み込まれて、もう一台の馬車には、執事のスティーブや、従者のミカエルを筆頭に、数名の使用人たちが乗っている。
 女の身に長旅は堪えるが、執事のスティーブが、細やかな気遣いを尽くしたおかげで、奥方であるセラは幸い、他に体調を崩す者もおらず、途中で医者に駆け込むような羽目にもならずにすんだ。
 そう、順調すぎるほどに、順調な旅路と言えた。
 王都の喧騒を離れ、のどかな田園風景、煙突から煙がたちのぼる、こじんまりとした家々、どこからか鳥の鳴き声が聞こえて、ちょろちょろと澄んだ小川の水面には、誰ぞの戯れか、赤や黄色の花びらが流れている。近所の子供だろう、花冠をかぶった少女たちが、足を泥だらけにしながら、草の上を転げまわっていた。
 平和そのものだ。
 そんな風景は、リーザやフレッド、親しい人々の身に起こった災禍に、心をひび割れさせていたセラにとっては、大きな心の慰めになった。腹の底から笑うことはできなくとも、燦々と輝く太陽の光に目を細め、美しいものを、素直に美しいと感じることはできる。笑いたい、泣きたい、いとおしい。
 暗がりに灯りをともすように、そんな感情をひとつひとつ呼び覚ましていく、彼女とは対照的に、共にいるルーファスはだんだんと口数が少なくなっていった。
 アンラッセルが近づくにつれて、それはさらに顕著になる。
 もともと弁が立つ割には、饒舌な男ではないが、それに輪をかけたように、寡黙といっていい。セラが話しかければ、普通に言葉を返すのだが、自分からは滅多に口を開かない。
 窓の外に目をやり、だが、風景を楽しむという風ではなく、無言で腕を組むルーファスの表情は、妻となった少女にとっても、初めて見るものではあった。
 敵に向ける冴え冴えとした刃のような冷徹、ふとした瞬間、見せる、青い炎のような激しさとも異なる。
 ただ、胸が苦しくなるような、そんな静けさだけがある。すっと通った鼻梁、男性的に尖った顎に影がかり、男の首筋に陰影をつくりだす。あぁ……。
 ――近寄れない。この人の纏う何かを壊せない。どうしても。
 ふいに息が苦しくなるような切なさを覚えて、セラは端整な横顔から目を逸らすと、さながら逃避のように、車輪の軋みに耳を傾け、馬車の窓から流れていく景色を眺めた。
 道の両脇に生い茂る緑、そこに点々と散るように、白と黄色の小さな花が咲いている。可憐なそれ、名はなんというのだろう。この辺りにしか、咲かぬ花だろうか。
 空は抜けるように青く、古き神々が棲むという、ガリレヤ山を仰ぎ見ることが出来る。厳然と、雄大な姿を誇るそれは、かつて揺るぎない信仰の対象でもあった。
 少し離れた場所には、貴族のものであろう、瀟洒な別荘が立ち並び、この地、アンラッセルが、エスティアでも有数の避暑地であることを感じさせた。
 ひらけた道の真ん中で、ロバが引く荷車とすれ違う。 
「……静かだな」
 セラの翠の瞳が、ぼんやりと風景を映していた時だった。
 こちらのことなど、気にしてもいなかったような男が、ふいに声をかけてくる。
 低く、耳通りの良いそれは、すとんと胸に落ちてきた。
 セラは窓に向けていた顔を、身体ごと振り返ると、ルーファスと正面から向き合う。蒼い双眸と、視線がかちあった。
 ルーファスはくっ、と苦笑めいて微笑うと、どこか儚いような空気をまとって、彼女に手を伸ばした。軽く触れるだけ頬を撫ぜ、静かだな、と同じ言を繰り返す。
「……緊張でもしているのか?大人しいな」
 尋ねられたセラは、男の指先が頬をなぞっただけで離れていくのを感じながら、ゆぅるりと首を横に振る。どこもかしこも柔らかいばかりの女であるのに、こういう所は、妙に譲らず、頑なですらある。
 そうして、例の、向き合う方が苦しさすら覚えるような透徹とした眼差しで、ルーファスを映すと、穏やかに、だが、はっきりと、違う、と言う。
「あたしじゃない。緊張……かはわからないけど、いつもと違うように見えるのは、貴方の方よ。ルーファス」
 セラの物言いに、ルーファスは「俺が、か?」と片眉を動かす。
 少女は、そう、とうなずいた。
 そうして、一度、唇をかむと、遠慮がちに言おうか言うまいか、迷っていた言葉を口にする。声は、微かにふるえて。
「アンラッセルに行くって、そう口にした日からね。貴方の目が……少し変わった気がするの。自覚はないのかもしれないけど」
 男が、わずかに口角を上げた。可笑しそうに、くるしそうに。
「おかしなことを言うな。貴女は、思わせぶりな事ばかり口にする。それも、魔女だからか」
「……誤魔化さないで。あたしに言えない事なら、教えてくれなくていいの。でも、お願いだから、そんな風に嗤わないで……つらい」
 くしゃりと顔を歪めかけ、呻くように言ったセラに、ルーファスは薄く笑って、彼女が言いたかったであろう台詞を口に出す。
 己の言葉に、少女が眉をひそめるであろうことを、鮮明に頭に描きながらも。
「セラ、貴女の言いたいことをあててやろうか?俺が伝えてないんだ、微細をうがって、尋ねたくて仕方ないだろう。――これから行く場所に、何があるのか」
「そんなこと……っ」
 皮肉めいたルーファスの言い回しに、セラは顔を赤らめ、反発しかけたものの、心の奥底を見透かすような男の視線が、それを許さなかった。
 かくして、男が予期した通り、眉を寄せた少女は、やや疲れたように嘆息すると、力なく首を横に振った。
 ぼすっ、と背もたれに身を沈める。
 ルーファスはなぐさめるように、その亜麻色の髪をすくい取る。自分で傷つけておきながら、勝手な真似だ。セラは目を伏せる。
 傷つけながら、優しくされるのは、あまり好きではない。
 くるしい。胸が締め付けられる。
「時間潰しに、つまらん昔話をしてやろう。ある愚かな男と女、その息子の話だ」
 最近、さらに細くなった少女の手首を握り、ルーファスはささやく。
 耳元で囁やかれたそれに、セラは面を上げ、青年の顔を仰ぎ見た。男の表情が、いつになく儚げで、今にも消えてしまいそうで、わけもなく不安を抱く。
 ルーファスの声は続いた。
「男は女を愛し、女はそれに応えて、息子を産んだ。だが、女はやがて故郷を恋しがり、男の手から離れようとし、男はそれを許さず、鍵をかけた黄金の鳥籠に閉じ込めた……外の世界に出さず、宝石とドレスと美しいものを餌にして、絶対に、その鎖を外そうとしなかった……女は、それに耐えきれず、心を壊して、愛した男も、己の産んだ息子も、いつしか己を取り巻く全てのものを呪うようになった」
「心を病んだ妻を、それでも、男は逃がしてやろうとしなかった。幼い息子ともども、屋敷の中に閉じ込め続けた。毎日、泣き叫ぶ女を、薬漬けにして、寝台に縛り付けてな……」
「その果てに、男は妻を殺し、女は絶望の中で死んだ。抜け殻になった男は、当主の地位を投げ捨てて、この先の屋敷にいる――どうだ、下らん、愚かな、救い難い喜劇だろう」
 凄絶なそれに、セラは絶句して、ルーファスが淡々と語った、その昔語りの意味を考えた。
 男、女、その息子。それは、もしかせずとも……。
 息苦しさを感じつつも、セラは男の表情を見ようと、目をつぶりたくなる衝動を、懸命に踏みとどまった。そこには、いつもと変わらないルーファスがいて、だが、その後ろの窓硝子に映りこんだものに、彼女は息を呑んだ。 
 ――艶やかな黒い髪に、蒼い瞳の男の子が、じっと、唇をかみしめ、此方を見つめている。
 その小さな手のひらには、いくつも切り傷があり、しろい指からは赤い血の雫が滴っていた――
 刹那の幻。目の錯覚かと、セラが目を擦りかけた時には既に、その幻影は跡形もなく消え去っていた。馬車の窓には、唯、先ほどと同じく、流れゆく景色だけが透けている。セラはぱちぱちと何度も、目を瞬かせた。
 人々から≪解呪の魔女≫と呼ばれる身でも、彼女は師匠であるラーグのように、絶大な魔力を誇るわけでもなければ、なにか秘めたる力があるわけでもない。
 もちろん、今、何かの魔術を使った覚えもない。
 (今の男の子は、誰……?ルーファスに、よく似てた)
 幻であるところの、セラの問いかけに答えられるものは、誰もいなかった。
 疲れが見せた、ただの錯覚であったのだろうか。
「……どうした。今の話を聞いて、気分でも悪くなったか?」
 急に顔色を無くしたセラに、ルーファスが怪訝そうな顔をした。
 少女はハッ、と詰めていた息を吐くと、夢から醒めたような顔つきになる。平気……かすれる声に、男は眉を寄せたが、それ以上、問い詰めようとはしなかった。
 セラは刹那、気を取り直すように目を閉じると、獣にも似た鋭さを持つ、男の目を見据えた。
 臆すこともなく、怯むこともなく、潔いほどの強さで。
「その男の人に、これから会うの?」
 柔らかな声音、だが、逃げることを許さぬような、その問いかけに、ルーファスは低く、声も立てずに笑った。
 己も大概だが、この女もそれに劣らず、ある意味、容赦がない。類は友を呼ぶというが、魂の深い部分が共鳴しているのかもしれぬ、と言ったら、あの金色の魔術師など、自分を殺しにきかねない。
 ……貴女の物言いは、時々、残酷だな、と甘い声で囁くと、セラは困ったような顔で、咎めるような目でルーファスを見た。
 責めるよりも、案ずるようなそれに、わけもなく苛立って、男は衝動に突き動かされるままに、少女の華奢な身体を片手で引き寄せると、己の腕の中に抱きこんだ。
 セラは、かすかに身を震わせ、無言の抵抗を宿してルーファスを見たものの、無駄を悟ってか、暴れようとはしなかった。
 男の胸を叩こうとした手は、その寸前で止まり、諦めたように、たれ下がる。
 抱き込んだ柔らかな身体は、最近、とみに痩せたような気がして、青年の琴線をふるわせた。透けるような肌も、細い手首も、やわらかすぎるそれは、彼が力を籠めずとも、容易に壊してしまえる。けれども、そうでいながら、身体はともかく、この女の心は、思うが儘にはなりえない。
 女の匂いがしないそれは、ゆえに潔癖で、触れることすら拒むよう。
 恋慕なのか、執着なのか、欲望なのか、それとも、もっと汚らわしい、どろどろとしたものに心を囚われながら、ルーファスは耳朶に唇を寄せた。
 救いようもなく、悪趣味だと、誰に言われるまでもなく、己自身が良く知っている。
「――いっそ、このまま抱き殺してやれたらと思うがな」
 心臓に刃を突き立てるような、その言葉に、セラはあえかな吐息を零したものの、逃げ出そうとはしなかった。
 それは、冷酷とうたわれる青年の言葉の裏に、ほんの一片、脆いものを感じたからかもしれない。何故だか、上手く説明することは出来ないのだけれど、今は、今だけは、この腕を拒んではいけない気がした。
 後ろ向きなせいで、彼の表情は見えない。だから、少しだけ手を伸ばして、手のひらを重ねる。
 セラのやわく脆い手と比べると、剣を握るルーファスの手は固く、力強い。それは、少し怖くもあったけど、見える場所でも、見えない場所でも、沢山のものを守ってくれている、愛おしいものでもあった。だから。
 彼女は、唇をほころばせると、淡く微笑う。
 ――逃げないよ、此処にいるよ、と。
 男の返事は、なかった。けれども、自分を抱え込んだ腕の力が、ほんの少し緩んだ気がして、セラは窓に目をやった。
 何かを堪えるように、唇を引き結んでいた幼い男の子の幻と、今、苦しげな目をして、自分を抱え込んだ青年の姿が、彼女にはどうしてか、同じものに思えたのだった。


 小川にかけられた橋を渡ると、屋根以外、木立の陰に隠れていた、屋敷の全体を見ることが出来るようになった。
 大樹に囲まれ、自然のままの姿を残す庭。
 水車が回り、田園風景の一部として溶け込んでいる。
 その中心にそびえ立つ館こそ、エドウィン公爵家の別邸のひとつである。
 八十年ほど前に流行った、エルチック様式で建てられた館は、派手好みのエスティアとしては、やや控えめな造りで、それがかえって、洗練された品の良さを作り出している。
 先祖伝来のものではなく、やり手だが、浪費家だったというルーファスの祖父が、没落貴族から買い上げたものだそうだが、その落ち着いた佇まいは、祖父の選んだ中では、趣味の良い部類に入る。
 そこに暮らす人物との因縁がなければ、素直に賞賛できるのだが……、とルーファスは窓越しに、十年近く、久しく訪れていなかった屋敷を見上げた。――父が、ウォルターが、此処にいるのだ。
 父と別れてからというもの、あれほど、厭うていた場所に来たというのに、彼の胸には何の感慨も沸かなかった。
 それは、自分自身でも驚くぐらい、何の感情もわかない。指摘されるまでもなく、父にとっては、情のない息子だろう。
 どうしたの、と首をかしげるセラに、いや、と応じて、ルーファスは御者が開けた扉から降りると、御者に荷物を任せ、妻である少女に手を貸した。
 もう一台の馬車から、老執事のスティーブや、よいせ、よいせ、と銀食器の収納箱を抱えた、従者のミカエルが降りてくる。
 手伝おうとするスティーブを制して、ルーファスがひょい、と片手で持ち上げてやると、従者の少年はずずず、と三歩ほど、後ずさり、
「僕は、そんなに非力ではありませんので、ご心配には及びません。旦那様」
と、頑なに言い張るので、プライドを折るまいと、好きにさせてやることにした。
 御者や下男も手伝い、荷物を下ろしていると、馬車の音を聞きつけてか、屋敷の扉が開いて、中年の男と、若い女が出てきた。
 若い女は、制服らしい紺色のワンピースを着て、男の後ろに従っていた。
 見慣れない顔だが、こちらへ来てから、雇った女中だろうか。
 一方、五十前後とおぼしき男の方は、ルーファスがよく見知った人物だ。記憶にある姿より、少しばかり恰幅が良くなっただろうか。
 口髭や、急いでいる時の、せかせかとした歩調は、昔のまま。
 ここ三年、心を閉ざした父、ウォルターに付き合い、半ば世捨て人のような生活を送ってきたはずなのに、その碧眼は、以前と変わらず明晰で、温かみをたたえている。
 エドウィン公爵家付きの医師であり、昔から、父母だけでなく、己自身も何くれとなく世話になった、アンダーソン先生、その人だった。
 せかせかと、慌てて駆けてくるような勢いのアンダーソンに、ルーファスの方からも、歩み寄る。
 セラもまた、一度、隣を歩く青年を仰ぎ見、そのあとに続いた。
 互いに歩み寄り、距離が近づいたところで、ルーファスの方から医師に声をかけた。
「お久しぶりです。アンダーソン先生」
 足を止めたアンダーソンは、ルーファスと目が合うなり、おぉ、と感極まったような声を出し、ともすれば碧眼を潤ませた。
 別れた時、屋敷の若君であったその人は、まだ十七歳だった。
 この療養の地に来て以来、会うのは三年ぶりだ。それは、長くもないが、短くもない時間だった。
 記憶の中にあるよりも、さらに冴え冴えと、精悍になった青年の顔を見た瞬間、アンダーソンは年甲斐もなく、ふるえそうになる舌を叱咤した。
「坊ちゃん……いや、ルーファス様、ご立派になられて……」
 艶のある黒髪、蒼い瞳、それは、今は亡き母親と同じもの、成長したその姿は、記憶に残る、若き日のウォルターと酷似していた。
 数十年の時を経て、医師の瞼の裏で、父と息子の姿が重なりかけ、医師はそっとため息をつく。――この若君にとっては、残酷でしかない事実であろう。
 そんなアンダーソンの葛藤には、気づかぬはずもなかろうに、ルーファスはそれには触れず、最早、少年とは言えない低やかな声で言った。
「アンダーソン先生も、お元気そうで何よりです。あれ以来、一度も顔を見せず、申し訳なかったと思ってます」
 申し訳なかったとは思うが、あまり後悔はしていなかった。
 実際、アンダーソン医師から、手紙を受け取らなければ、生涯、アンラッセルに足を運ぶことはなかったかもしれない。
 少年時代からの付き合いで、ルーファスの性格は、よく理解している医師は、いいえ、と首を振る。
「坊ちゃんが忙しい身なのは、重々、承知しておりますよ……貴方は、昔から、勤勉で優しい子供だった。王太子殿下の右腕として、欠かさざる存在であられることでしょう。突然、こんな風に呼びつけて、深くお詫びせねばなりませんな」
「……それはそうと、一度、屋敷の中に入っても?妻や執事も、長旅で疲れておりますし」
 医師の世迷いごとは、聞かなかったフリをして、ちょこんと後ろに立っていたセラを視線で示す。
 ルーファスがはっきり言わなければ、楚々とした風情で、大人しく話を聞いているだけの彼女の存在は、アンダーソンの視界に入らぬことだろう。
 彼が声をかけると、セラは「気にしないでも、良かったのに」というような表情で、ちょこちょこと歩み寄ってくる。王女としてもどうかと思うが、貴族の奥方としての自覚も、皆無であろう。なにせ、先ほどまで荷物を運ぶのを、手伝おうとしていたくらいだ。まったく――頭が痛い。
 額を押さえたルーファスはさておいて、セラの存在を認めると同時に、青ざめたのは、アンダーソン医師だ。
 坊ちゃん、お人が悪いですぞ、と口にした声は、微かに震えている。
「ご結婚なさったなら、さっさと報せてくださっても、罰は当たりますまい。おかげで、奥方様にとんだ失礼を、いたしてしまったではないですか」
「ああ、手紙に書いたはずですが、最後の一文で」
「坊ちゃん……そんなにまでして、私の寿命を縮めたいのですかっ!」
 アンラッセルまでは、なかなか貴族社会の状況が伝わらないらしい、とルーファスは己の事を棚に上げ、他人事のように思った。
 彼が妾腹の王女を娶った、というのは、貴族で知らぬ者はいなくとも、ここで暮らす人々にとっては、知る必要のない些事だろう。秘された王女と呼ばれた、セラの立場もあるが故、余計にかもしれぬ。
 アンダーソン先生の後悔は、想像に難くなかった。
 真面目で人の好い性格の医師は、ああ、よりにもよってセラの存在を無視してしまったと、猛烈な後悔をしているに違いなかった。
 ここで、仮にも王の娘である、などという事実を告げれば、この場で卒倒するか、そこの浅い小川に身投げしかねない。さて。
「初めまして、アンダーソン先生。私は、セラといいます。お会いできて、嬉しいです」
 はああ、とうなだれていたアンダーソンに、亜麻色の髪の少女は、自ら歩み寄ると、朗らかな笑顔を見せる。
 セラ、という貴族らしからぬ名前に、一瞬、不思議そうな顔をしたものの、その気取らない様に、壮年の医師もまた相好を崩した。――坊ちゃんとは、随分、正反対の性格に思えるが、これはこれで、うむ、悪くない。
「至らぬご無礼、何とぞ、平にお許しください。グレッグ=アンダーソン、先祖代々、エドウィン公爵家の主治医を務めさせていただいております。どうか、アンダーソン、とお呼びください。奥方様」
「ええ、よろしくお願いしますね。アンダーソン先生」
 にこやかに挨拶してくるセラに、中年の医師はすがるような眼差しで、ルーファスを見た。
 一般的な貴族の奥方としては、セラの態度は及第点とは言えないから、その反応も無理からぬこと。
 変わった御方ですな、と言葉にせずとも、目が語っているアンダーソンに、ルーファスはため息まじりに告げる。
「……妻は、こういう性格なのです。ですから、お気に病まれなくて、結構ですよ。アンダーソン先生」
「はあ」
 ご自慢のちょび髭を撫でる、アンダーソンの仕草に、懐かしさにも似たものを覚えていると、後ろに控えていた女中が、「あ、あの、お屋敷に、お茶のご用意がございます」と遠慮がちに申し出た。
 まだ十六か、そこらだろう。新米なのか、緊張した様子が見て取れた。
 肩で切りそろえた黒髪に、そばかすの散った顔が、愛嬌があり、若々しい。
「わかった。案内を」
 ルーファスが短く告げると、黒髪の女中は陶然と、その青年の顔に見惚れたように、ぽぉ……となって、しばし、ボーっとしていた。
「エルダ、エルダ」
 それを察したアンダーソンが、こっそりと名を呼んでやると、黒髪の少女は、みるみるうちに顔を真っ赤にして、
「しっ……失礼いたしました」
と、ぎくしゃくとした足取りで、歩き出す。
 やれやれと、若さに微笑ましさを感じる医師が、その背に続いて、セラも屋敷の方に向かおうとする。当然、ルーファスも来るものと、疑ってなかった。だが。
「――マリア」
 転びそうな勢いで、歩く黒髪の女中の背中を見て、ルーファスの眼差しが、すぅ、と冷徹な光を帯びる。
 その変化に、セラは戸惑った。
「……ルーファス?どうかしたの」
 男はいいや、と否定の言を口にすると、少年時代、何度か過ごした別荘へと足を向けた。
 あの黒髪の女中が、どうというわけではない。ただ、別人の姿と重ねただけだ。
『坊ちゃま、ルーファス坊ちゃま……!』
『凄いですね。坊ちゃまはウチの弟より、三つも年下なのに、もうこんな難しそうな御本を読まれるのですね』
『マリアは、坊ちゃまの手を離したりしませんよ。絶対に。お約束します』
 記憶の奥底に封じていたはずの、それが蘇ってくるのが、わずらわしく、ルーファスはそれに蓋をした。
 何もかももう、終わったことだ。
「黒髪の女か、随分とまた愚かしい真似をする」
 そう呟いて、ルーファスは眉をひそめた。


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