エルダという女中と医師に先導されて、ルーファスら一行は、屋敷の中に入った。
紺色のスカートがひるがえり、医師のふくよかな背に続いて、扉をくぐり、広々とした玄関ホールに足を踏み入れる。
幼い頃から、何度も此処に連れてこられて、ひと夏をアンラッセルの地で過ごすこともあったルーファスは、数年ぶりだというのに、特に感慨深げな素振りも見せず、カツカツと踵を鳴らし、野生の獣のような、優雅でしなやかな歩みで、屋敷の内部に入り込んでいく。颯爽とした背姿、堂々とした姿勢は、屋敷の主人めいた風格すら漂わせていて、実際、そうではないかと錯覚しそうになる程だった。
開け放った扉から、一陣の風が吹き抜けて、ひらりと蝶のように舞いこんだ葉が、床に落ちる。
ルーファスの祖父にあたる人の代から、長くエドウィン公爵家に仕えている執事、この別荘へも幾度も訪れているスティーブも、また然り。
慇懃な所作で、若い主人に付き従い、軽く目を伏せたまま、数々の記憶が埋もれる、屋敷の扉をくぐる。
いつも通りの、落ち着いた老執事の横顔からは、その胸中によぎっているだろう、様々な想いを読み解くことは難しかった。あえて言うならば、微かに寄せられた眉間の皺が、スティーブの複雑な胸の内を、物語っているのかもしれない。
勝手しったる、とばかりに、すいすいと歩みを進めていく、当代の公爵やその執事とは異なり、此処に初めてやってきた、セラやミカエルは屋敷の内部に、くるくると視線をさまよわせずにはいられない。
特に、ミカエルは本邸とは趣の異なる、しかし、意匠を凝らした造りに圧倒される。
「わ……」
食器のつまった革鞄を抱えたまま、従者の少年は天井を見上げ、感嘆の声を上げた。
ひろびろと開けた玄関ホール、吹き抜けの高い天井、天窓は五弁の花びらを模しており、その周りを覆う大理石は、蔓草や植物の形に彫りぬかれている。
硝子窓から降り注ぐあわい光が、黄晶石の床に花びらの影を咲かせた。
一種、犯し難いような静謐さと、本来は相容れぬはずの、不思議な華やかさに目を奪われる。
繊細な美意識によって、作り出されたそれは、外装よりも内の美を重んじる、エルチック様式の面目躍如といったところだった。
思わず、惚けたミカエルの横では、翠の瞳をそわそわと彷徨わせ、首を回す、セラの二の腕を「何を、呆けているんだ」とルーファスが引き寄せた。見慣れぬ場所に、物珍しさを覚える気持ちは、彼とて、まったく共感できぬわけでもないが、それでも、幼い頃から出入りしてきた場所だけに、今更、まじまじと観察しようなどという気にはなれない。
その豪奢さに、圧倒されるミカエルの気持ちはともかく、天窓から降る光に目を細め、綺麗……と睫毛をふるわす妻の気持ちは、彼には理解の及ばぬ範疇だ。
ととと、半ば強制的に青年の方に引き寄せながらも、セラは「だって……」と小さく唇を尖らせた。足が止まる。ルーファスが、無言のまま睨むと、従順な少女は軽く肩をすくめ、わかってるわ、と呟く。
素直な返事に免じて、ルーファスは腕を掴む力を緩めず、「案内は、あとだ」と言い添えた。
そんな公爵夫妻の会話が、微笑ましかったのだろう。先を歩む女中の少女が、くすり、とやわらかな笑みをもらす。
アンダーソンは恰幅の良い腹をゆらし、ご自慢の口髭を撫でながら、「よろしければ、のちほど屋敷の中をご案内いたしましょうか。奥方様」と、人の好い笑顔を見せた。「ええ、是非」とセラが、唇をほころばせる。
ほんの一瞬、張り詰めていた空気が緩んで、あたたかな余韻が残る。
鞄を抱えたまま、所在なさげに立ち尽くしていた従者の少年を、執事が「……ミカエル」と静かに促した。ミカエルはもう一度、天井を見上げると、薄青の双眸を曇らせ、はい、と素直に応じた。
人の気配の少ない割に、隅々までよく掃除の行き届いた室内、趣味の良い内装、太陽の光あふるる其処は、本来、居心地の良さを覚えても良いはずなのに、なぜか、背筋を撫ぜる冷やかな空気に、少年はゾクリッと肌を粟立てた。後ろを振り返ると、当然ながら、誰もいない。
共にアンラッセルに来た御者は、未だ外である。
微かに、首をかしげた金髪の少年は、「ミカエル」と名を呼ぶ声に応じて、主人の高い背中を足早に追いかけた。
「それで、アンダーソン先生……父上の様子は?」
応接間に入ると、ルーファスは会話もそこそこに、アンダーソン医師にそう尋ねた。
ひとりでも、テキパキと手際よく、お茶の支度を整えた黒髪のメイドは、どうやら混み入った話になりそうだと気配で察したのか、
「ご子息のご到着を、皆に伝えて参ります。何か御用がございましたら、お手元のベルを鳴らしてくださいませ」
と言うと、まだ洗練されたとは言えぬ挙作、やや緊張した面持ちで、恭しく一礼し、その場を辞した。
農村の出身らしく、貴族の風習には、物慣れぬ風ではあるが、聡明な娘である。
パタリと扉が閉められ、靴音が遠ざかっていってから、アンダーソンはゆるりと唇を開いた。「坊ちゃん……」あえぐように言い、すがるような眼差しを、ルーファスへと向ける。きつく寄せられた眉間には、肉体的ではない疲労が察せられた。
医師の碧眼に宿る、苦悩の色を、その意味を十二分にわかったうえで、ルーファスは前言を取り消そうとしなかった。
サイドテーブルに肘をつき、顎に拳をあてがい、鋭く、抉りこむような眼差しを、崩そうとはしなかった。
その蒼い瞳と視線が交わった瞬間、下手な言い逃れは、無意味だと悟ったように、アンダーソンは力なく首を横に振った。変わらぬ父子の関係に、落胆がないといったら、ウソになる。しかし、白々しい誤魔化しは、己の首を絞めるどころか、この青年への侮辱であろうし、かえって、その強靭だが、ときに苦しいほど繊細な精神を、傷つける羽目になろう。
「残念ですが……ウォルター様、御父上のご病状は、相変わらず、としか申し上げられませんな。ルーファス坊ちゃん」
うなだれた医師の言葉の真意を悟ったのは、息子であるルーファスの他には、執事のスティーブだけだった。
謹厳な老執事は、職業意識の賜物か、表面上は動揺をみせず、平然とした素振りを貫いていたものの、その右手は爪を立てるほどに、きつく握りしめられていた。先代、ウォルターがまだ青年だった時分から仕え、その人生の半分を見守ってきた執事としては、内に秘めたる、様々な想いがあるのだろう。しかし、それを自ら口にすることは、決してない。
スティーブの変化を、見て取ってだろう。ミカエルが気遣うように、大丈夫ですか、とその人を仰ぎ見た。さながら、祖父を気遣う孫のように。スティーブは、淡く笑むと、心配ないというようにミカエルの肩を叩いて、前を向くように仕向けた。
ルーファスは。
そうか、とひとつうなずくのみで、嘆くはおろか、表情すら変えなかった。そこには、今やただ一人の血の繋がった肉親である、父への心配も、その病状が、回復していないことへの落胆も何もない。
むしろ、冷やかでさえあった。氷、と評される鉄面皮のまま、青年はクッ、と嘲るように吐き捨てた。
「ならば、会う価値もないかもしれんな」
「坊ちゃん……!お言葉が、過ぎますぞ!」
「歴然たる事実でしょう。アンダーソン先生」
声を張り上げ、顔色をなくす医師とは対照的に、ルーファスは悪びれない。――最初から、期待はしていませんでした。そう続けた声の温度の無さに、アンダーソンは己の無力を痛感する。
それでも、よろよろと面を上げ、蚊の鳴くような声で言った。
「坊ちゃん……それでも、此処までいらしたのでしょう?どうか、お父上にお顔だけでも、見せてさしあげてくださいませんか」
どうか、と懇願じみた医師の口調を、ルーファスが突き放すことはなかった。
元より、余り期待はしていなかった故、そう落ち込むこともない。
「ええ、そのつもりです。例え、私にとって無駄足で、父にとって何の意味も為さないとしても」
「そんな……」
最早、医師は口をつぐんで、何も言おうとはしなかった。
ただ、何か物言いたげな目で、今や公爵家の当主となった青年を見つめる。呆れでもなく、怒りでもなく、ただ純粋に憂い、案じているようなそれだった。
「……ルーファス、どういうこと?」
「旦那様?」
一方、話についていけないのは、公爵家の事情に通じていないセラとミカエルだ。
両側から、戸惑うような目を向けられて、ルーファスは言葉少なに、「会えば、わかる」とだけ告げて、重い腰を上げた。
螺旋階段をのぼり、廊下に敷かれたオリーブグリーンの絨毯の上を歩む。
先代のエドウィン公爵・ウォルターの居室に向かうまでの間、セラもルーファスも、執事も従者も医師も、誰一人として、口を開かなかった。まるで、これから待ち受けるであろうことを、恐れているかの如く。
淀みない足取りで歩んでいた黒髪の青年は、とある扉の前で足を止め、ノブに躊躇なく手をかけると、ノックすらすることなく、中へと入った。
――途端、眩しい、ひかりと風が押し寄せた。
窓を、全開に開け放っているからだろう。室内は眩しいほどに明るく、風がカーテンを大きくはためかせている。風を孕んだカーテンが、ばさばさと唸っていた。
セラは眩しげに目をすがめて、ルーファスの背中の側から、その部屋を眺めた。
とかく物のない部屋だった。
室内には、家具らしい家具が、簡素な木の椅子を除いて一切なく、ただまばゆいほどの光に満ちている。
ただ一点、部屋の中心にある椅子と、そこに座った人影だけが、影を落としていた。
薄茶の髪が、陽光を受けて、黄金色にも似ていた。白いシャツが、目に眩しく。
椅子に座った影が、ゆっくりとした動作で、振り返る。
薄緑の双眸が、ルーファスらを映した。
それはどこか、硝子玉のような、虚無をたたえている。
「……」
その男の顔を正面から見て、セラはハッ……と息を呑んだ。
息子の方が、より研ぎ澄まされたものであるが、その端整な面立ちは、ルーファスとよく似通っている。
ウォルター。
目や髪の色こそ異なれど、その容貌はどうしたところで、濃い血の繋がりを意識せずにはいられない。父子、という関係は、否定しようもなかった。
けれども、ルーファスとよく似たその人に、セラは何故だか、恐怖心にも似たものを覚えて、前に立つ男の袖を、無意識のうちに握りしめた。
明確な理由などない。ただ本能が、警鐘を鳴らす。
ただ、その男、ルーファスの父である人の目が、生きている人間とは思えない程に、ある意味、澄み切っていて、怖い程の虚無を宿していたからだろう。
喜びも哀しみも、何もない、ただ人形のような目をしていた。
その肌に触れたところで、体温すら感じられないような、そんな生身のものでないような異質さだ。
姿こそ似通っていても、若々しく、生命力に溢れたルーファスとは、対極の存在のようだった。
「……」
その男、ウォルターは首をかしげると、その生気の感じられない眼差しで、まず息子であるルーファスを正面から見つめ、ついで、セラや医師らを順番に写し、最後にまた息子へと戻った。
三年近くの歳月を経て、父子が向き合う。
自分によく似た息子、そして、自分を当主の座から追い落とした青年を見つめて、ウォルターは唇を開いた。
――貴方は。
「どちら様ですかな?」
と。
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