遠からず、一雨きそうな空模様だった。
灰の、雨の気配を濃く孕んだ雲が、ベールのように空を覆いつつあり、風が吹く度に、また新たな雲が東の方角から流れてくる。
応接間に執事のスティーブとミカエルを残し、一足先に屋敷を出たルーファスを探すべく、セラは玄関から飛び出した。
途端、強い風が、亜麻色の髪を乱した。
薄紫のスカートが、ぶわあああぁと大きく膨らむ。
くしゃくしゃ、と乱された髪を押さえて、淡い翠の双眸が曇天を仰ぐ。
バサバサバサッと翼を広げた鳥が、近づく雷雨の気配を察したように、慌ただしく枝から飛び立つ。
庭の芝生を踏みしめながら、くん、と少女が鼻を鳴らすと、ぬるいような雨の匂いがした。
東の空に一瞬、白くまばゆい閃光が走る。
ひかり……雷だ。
見つけなければいけない気がした。
雨が降りだしてしまう前に、ルーファスの姿を。
彼が雨に打たれてしまう前に。
セラは何か思い詰めたような表情で、強く唇を噛むと、辺りを見回し、欲する人の姿を探した。
その瞳に、揺らぐ心を宿して。
彼の人の名を呼ぶ。
か細く、見えない糸をたぐりよせるかのような声だった。
「ルーファス……?」
最初は小さく、心もとなかった声音は、だんだんと高くなっていく。
何処にいるの?
「ルーファス、どこにいるの……?」
返事は、かえらない。ただ返事を求める声だけが、虚しく木霊する。
ぬるい雨の気配をはらんだ風だけが、やむことなく強さを増し、黒い木々の影が大きくかしいだ。
ザワザワ……ザワザワ、木々のさざめく音に、セラは訳もなく不安を煽られて、歩調を速めた。
見つけなければ。探さなければ、彼を。
――願わくは、この雨が、この雨が降りだす前に。
エドウィン公爵の先々代が買い取り、かつて夏の避暑を楽しんでいたというだけあって、別邸とはいえ、その庭は広大なものだった。
ルーファスは、一体、何処にいるのだろうか。
返る声もなく、その青年の姿を探し求めながら、セラはあてもなく、やや暗くなってきた庭園をさ迷い歩く。
昼間とはいえ、空が黒い雲に覆われた今、そこは薄暗かった。
蔦を巡らせたアーチも、この天気にあっては、どこか暗い陰りを帯びているようだ。
咲き初めの花が萎え、だらりと首を下げている。
「……っ」
おい繁る枝をかき分けたセラは、指の先に走った刹那の痛みと、ぷくりと盛り上がった鮮血の赤に、眉をひそめた。
尖った葉で、切ってしまったのだろうか。
心配性なメリッサか、ソフィーあたりが見咎めれば、まあまあ奥方様……っ!と渋い声をあげそうなそれを、セラは気づかぬフリでやり過ごし、再び、歩く速度をあげる。
しばらく、庭をあてどもなく歩き回り、屋敷の裏手に回り込んだ時、ようやく、探し人の姿を見つけた時の、彼女の喜びは、何とも言えぬものがあった。
「ルーファス」
焦燥を抱いていた胸のうちに、あたたかな安堵が広がる。
亜麻色の髪の少女は、顔の強ばりをゆるりと崩して、眦を下げた。
セラの視線の先、芝生に寝転ぶようにして、黒髪の青年が目を閉じていた。眠っているのだろうか。
土にまみれるのも厭わず、緑の絨毯で昼寝など、余り、そういった行為を好まなそうな男にしては、珍しくもあろう。
もともと、わずかな疵もなく、文句のつけようもない程、整った容貌の男であるが、そうして、かたく目を閉じていると、よりいっそう、良く出来た彫像のようだった。
日頃、鋭く相手を見据える、深い蒼が閉ざされて、風貌の険しさをやや削いでいる。
厳しさをやわらげたそれは、少年のようでさえあった。
規則正しく、微かに上下する胸に、確かな生の息吹を感じて、セラは安心すると同時に、その穏やかな眠りを覚ますことに、躊躇いを覚えた。
半歩、歩み寄りかけた靴が、そこで止まる。
ざわりと伸びた草が、風で波のようにうねった。
「ルー……」
されど、彼女のそれは杞憂に終わる。
セラがルーファスの名を呼ぶよりも一寸早く、かたく閉じていた瞼が上げられて、 男が射るような鋭い目で、彼女を見ていた。
深い蒼。
海の底にも似た、冷厳さをたたえたそれが、セラを映している。
何時から、目を覚ましていたのだろうか。
寝起きだというのに、焦点がぶれた様子もない。
ふ……、と一瞬、その険しさが緩む。
「貴女か……わざわざ、俺を呼びに来たのか」
すぐ傍らに立つ、セラの姿を認めて、ルーファスはそう言うと、息を吐いて、半身を起こした。
艶やかな黒髪にからんだ青草を払う男の仕草は、どこか気だるげで、億劫そうでさえある。
投げやりというのとも、いささか異なるが、まとう雰囲気は退廃的といってもいい。
傷ついているというよりも、全てを諦めてしまったようなそれ。
先ほどの父親との邂逅が、無視よりもなお悪意を感じるあれが、その心に、暗い影を落としているのだろうか。
こみ入った事情を知らぬセラには、図りかねる部分もあったが、それでも、そんなルーファスの表情を見ているのは、胸が痛んだ。
「うん……」
うなずいて、セラはちらりと暗さを増した空を仰ぐ。
もうすぐ雨が降りそうだし、スティーブさんもミカエルも心配してるよ。早く戻ろう?
そんな言葉がつらつらと頭をよぎるものの、彼女はそれを、ルーファスに告げることが出来ない。
何となく、何となくではあるが、急かすことは、今以上にルーファスを傷つける行為である気がして、頭に浮かんだそれを、音にはできぬ。
雨の匂いをはらんだ生ぬるい風も、屋敷で待っている執事や従者のことだって、頭にないわけではない。けれども、やはり、理性と感情は別物だった。
どうするのが最善か、悩んだセラが立ち尽くしていると、ため息をついたルーファスが、「……座れ」と端的に言い、脱いだ上着を地面に放る。
王都でも指折りの仕立屋が縫ったそれにしては、いささか粗雑な扱いに、セラは汚れちゃうからいい、と身を引こうとする。
いやいやと首を横に振った彼女に、男は嘆息し、その細腕を引くと、やや強引に座らせた。
こうでもしなければ、この少女のことだ。遠慮して、ずっと立っていかねない。
すとんと半ば無理やりに腰を落とされて、驚きに目を瞬かせていたセラだったが、やがて抵抗しても無駄だと悟ったのだろう。
元より、傍らにあることが、決して嫌なわけではない。
大人しく、膝を丸めると、セラは言葉もなくルーファスの隣に寄り添った。
在るべき会話は、ない。だが、息つまるような沈黙よりも、この場を離れてしまう方が、怖かった。
ひとりになることよりも、ひとりにしてしまうことの方が、ずっとずっと怖い。
腕を組み、黙して屋敷の方に目をやっていたルーファスは、思い出したように口を開く。昔、
「幼い頃、家庭教師に手を引かれて、よく此処に連れてこられた……別荘に赴くことで、短い夏の間だけでも、俺と母を引き離す為にな」
淡々としていながら、哀切の響きを帯びたそれに、セラは膝を抱え込んだ手にぐっ、と力をこめざるをえなかった。
そうすることで、何故そんなと、思わず問いつめたくなる気持ちを、胸の内に押し込める。
セラが知る限り、ルーファスが己のことを語ることは、殆どなかった。
特に子供時代のことは、いっそ頑ななまでに、舌にのせることを避けていたフシがある。
否、当事者であるルーファスだけではない。
長らくエドウィン公爵家に仕えている者たち、スティーブや女中頭のソフィーさえ、若君の幼少の頃を懐かしく語ることはあっても、その両親のこととなると、途端に口が重くなる。
現当主の父母、先代の公爵とその夫人、屋敷に仕える者たちにとっても、かつての主人にあたるはずの人々の痕跡は、王都の本邸からは見事なまでに消されている。
いっそ、その不自然さを浮き彫りにせんばかりだった。
時折、老執事が悔いるような口調で、先代やその奥方について、ぽつりぽつりと言葉少なにこぼす他に、屋敷の使用人たちでも、彼らの存在を語る者は皆無といってい。
ルーファスの両親に何があったのか、それは、エドウィン公爵家の最大の秘事のようだった。
「あの男……つまり、俺の父親にあたる男だが……」
傍らのセラが、真剣に聞いている気配を察してだろう。
最も濃く血の繋がった身内を語るにしては、ひどく冷然とした口振りで、ルーファスはそう続けた。
薄く口角を上げ、苦く笑う。
「……驚いただろう?もう、ずっと前からああだ」
血の繋がった息子である俺のことを、あの男は望んで、なかったことにした。
その日以来、父と子として接することもなければ、まともに名前を呼ばれたこともない。毎度、毎度、顔を合わせるたびに、赤の他人の如く振る舞われる。
かれこれ十年近くも、ずっと、な。
蔑むようなそれには、ほんのわずかな憐憫がこもっていた。
「なんで……」
つい今しがた、その現場を目撃したとはいえ、ルーファスと父との異様な関係と、衝撃とも言える告白に、少女は唇を震わせ、絶句した。
かけるべき言葉が、見つからない。
なぜ、どうして、そんな問いかけばかりが、頭の中をぐるぐると回りゆく。
我が事でもないのに、顔を青ざめさせたセラに、ルーファスは苦笑めいたそれを、唇にのせる。
そんな顔をするな、と耳朶に落とされた囁きは、 優しくも、どこか哀しい。
ひとつ、愚かな恋のはなしをしよう――。
「俺の父、ウォルター=ヴァン=エドウィンは、若き日、国王の使者として各国を巡っていた。母のいるアムリッツ公国の宮廷を、使者団と共に訪れたのも、エスティア国王の親書を携えてのことだった――」
美しい恋だった、と往時を知る者は、口を揃える。
大国エスティアより、使者として訪れた公爵家の嫡男、名をウォルターといった。
明るい大地の髪と、穏やかな緑の瞳。
複数の言語を自在に操り、才知に長け、優雅な物腰と、端整な風貌の青年だった。
当時、二十を少し越えたばかり。
若々しく、才能にも恵まれ、希望にあふれた彼は、輝ける貴公子とも称された。
先代の国王の命を受け、諸外国を巡っていたウォルターは、旅の終わりに北の小国アムリッツ公国を訪れる。
宮廷に招かれた彼は、そこである少女と、運命とも言うべき出会いを果たす。
艶やかな黒髪と、湖面のごとく澄んだ、蒼い瞳を持つ乙女。
名を、リディア。
ようやく十五の齢を数えたばかりの、アムリッツの蒼き薔薇とも渾名される、美しい少女であった。
その無垢で汚れない美貌は、のちに大国エスティアの使者の筆をもって、妖精とも記される。
アムリッツ大公の姪にあたり、触れることすら躊躇うような、清楚で儚げな乙女であったと。
大国の使者として訪れた、若く才気あふれる貴公子は、妖精のような乙女に一目で恋に堕ちた。
貴族の令嬢として、また大公の姪として、真綿でくるむように大切に大切に育てられ、内気で繊細な性格であったリディアも、初めての感情に酷く戸惑いながらも、ウォルターの穏やかな物腰と、誠実な態度に心を許し、その求愛を受け入れた。
大国の使者と、小国の令嬢。
立場も生国も違うふたりであったが、出会い、運命のような恋に堕ち、使者としての限られた時間、蜜月のように愛を育んだ。
当時を知る者は、憧憬まじりに溜め息を吐いて、夢見るような眼差しで、まるで綺麗な一対のような貴公子と令嬢を、こう表現したという。
――美しい、お伽噺みたいな恋だったと。
かくして、ふたりは結ばれる。
使者は、初々しい花嫁を連れて、祖国へと帰還した。
幸福な結末、しあわせな二人、永遠を誓って。
その後は、ねぇ、その後は……どうなったの?
――結末は、語られなかった。
「ルーファスのお父様は、どうして……?」
かすれる声で尋ねたセラの額に、ルーファスは手を伸ばす。
そのまま、撫ぜるように、柔らかな髪を持ち上げた。
ぽたり、泣き出した空が、最初の一滴を落とす。
それは、涙にも似て。
隠しはしない、と男は言った。
「もしも真実を知りたいのなら、スティーブか、アンダーソン先生に聞け」
彼らなら、貴女の問いに応えてくれるだろう、と。
真相を知る赦しを与えながら、ルーファスはセラの華奢な首もとに顔を寄せた。
吐息がかかる。
肌から伝わるかすかな熱を求めて、孤独に凍えぬよう。
どうして、と男は、最早、帰らぬ過去を悔いるように続けた。
――なぜ、美しい恋のままで、終わってくれなかったのかと。
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