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五章 父と子と娘 8


 前日から降り出した雨は、夜半に激しさを増し、翌日もまた降り続いていた。
 今もまた、屋敷の窓を細く鋭い雨が打ち付けており、そこから見える庭の花壇は、露をふくんで濡れている。
 開きかけたばかりの蕾は、気まぐれな風に耐えうる力がないらしく、力なく首を折ってしまった。
 雨が、心なしか強くなってきている。
 しとしとと止むことなく、煩わしいばかりの風雨の音と異なり、エドウィン公爵家の別邸は、静寂に包まれていた。物音や足音も殆どせず、王都の本邸に比べれば、数えるほどでもない使用人たちが、昼食の支度をしている他は、働く者もいない。
 ひろびろとした玄関ホール、応接間から客室に至るまで、相当な部屋数があるにも関わらず、その殆どは空き部屋であり、アンダーソン医師や女中達の部屋をのぞけば、がらんどうだ。雨で太陽がさえぎられ、薄暗くなった屋敷の中が、どこか寂しいような印象を与えるのも、止むをえないことと言えよう。
 灯された燭台の炎だけが、ほのりと明るい。
「どうぞ、奥方様」
 節くれ、骨ばった手が、その言葉と共にティーカップを差し出した。白磁に、一輪の青い薔薇が咲いている。
 顔を上げると、いつもと同じ厳格な面が、こちらを見下ろしていた。されども、深い年輪が刻まれた、その瞳の奥には、見守るような暖かさもあった。
 それがわかるから、セラもまたほわりと唇を緩めて、やわく微笑う。
「ありがとう。スティーブさん」
 老執事は、慇懃に頭を垂れた。
 どれほど、共に過ごそうとも、スティーブは使用人としての境を越えようとせず、丁寧さを崩そうとはしない。
 最初こそ、それに戸惑い、物足りなく感じることもあったセラだったが、執事が年少の使用人たちに向ける、厳しくも優しい眼差しと、若き主人に捧ぐ敬愛と、慈しむようなそれを認めてからは、誰よりも、エドウィン公爵家のことを愛し、また守ってきた人なのだと理解している。
「おいしい……」
 紅茶を一口、奥方様である少女の声に、執事はかたくなに引き結んだ口元を、微かにやわらげた。
 セラが自らがいれた紅茶を味わうのを見届けて、スティーブは横を向くと、テーブルの片隅、いささか緊張した面持ちで座っているミカエルの前にもまた、かぐわしい香気薫る紅茶を置く。
 白い湯気がたちのぼるそれを前にしても、従者の少年は、行儀良く膝の上で手を重ねて、微動だにしない。
 その緊張ぶりが、此方まで伝わるようだ。
 柔和な面立ちは、どこかあどけなく、少女めいてさえいるのに、ミカエルの薄水色の瞳に宿る、鋭く凛としたそれは、紛れもなく少年の、否、男のものだった。
 何がしか、決意を秘めたような目をして、親代わりともいえる老執事を見つめ、出された紅茶に、口をつける素振りも見せない従者に、スティーブは溜息ひとつ、控えめに促した。
「ミカエルも、どうぞ。お飲みなさい」
「あっ、はい。スティーブさん、ありがとうございます」
 自分自身でも、緊張していた事に気づいてだろう。
 ミカエルはカップを持ち上げると、ごくりごくりと喉の渇きを癒した。
 頃合いを見計らい、執事は同席していた奥方に許可を求むると、セラとミカエルと同じテーブルに腰をおろした。
「さて……何から話せば、よろしいものやら、この老骨には判断しかねますな……」
 老執事の渋く、深みのある語りと、硝子窓を打つ雨音が重なる。
 室内には、三人だけがいた。
 スティーブとミカエル、そして、セラ。ルーファスは、何処か別室で静かに過ごしているのか、此処にはいない。
 先々代から仕える執事が、エドウィン公爵家の過去を語るとあって、セラもミカエルも緊張したような、聞きたいような、聞きたくないような、ひどく複雑な顔色をしていた。
 ルーファスと父のあんな会話をみせられて、気にならぬといったら、嘘になる。けども。
 隠しはしない、とルーファスは言った。真実を知りたくば、医師か執事に尋ねるがいいと。
 それでも、当事者である青年が目を背け、公爵家の者たちが頑なに口を閉ざしたそれを暴くことが、本当に正しいことなのか、奥方である少女にも従者にも判断できかねた。
 大切な人のことを、知りたいと思う気持ちに嘘はない。けれども、セラにしろ、ミカエルにしろ、知る事でルーファスとの関係に歪なひびが入るのを、恐れずにはいられなかった。
 目を伏せ、祈るように手を組み合わせたセラの横顔にも、正面を見据え、唇を結んだミカエルの表情にも、そんな想いが透けてみえる。
 故に、その想いの強さを、覚悟のほどを確かめるように、スティーブは、セラとミカエルの二人に問う。
「旦那様……ルーファス坊ちゃまの、ご両親さまの過去は、決して楽しいものではありませんよ。それでもなお、聞きたいと、知りたいと願うのですか?」
「はい」
 歪みのない目をして、ミカエルは、はっきりとした口調で答えた。
 路地裏をさ迷っていたところを拾われ、あの人の背中を追いかけたからこそ、主の抱えるものを知りたいと、恐れはあっても、強く強く、そう願う。
 ええ、あたしも。
 その隣、セラもまた首を縦に振り、穏やかな、されど揺らぎのない声だった。
「知りたいと思うの。たとえ、どんなに辛いものでも、そうでなければ、ルーファスと向き合えない、そう思うから」
 ミカエルとセラ、それぞれの返事に、若さとは、若いとはこういうものかと、眩しいものさえ感じて、スティーブは目をすがめた。
 歪みなく、恐れも知らず、故に躊躇うことがない。
 それは、かつて若者であった老執事にもあり、いつしか、長い歳月の中で磨り減らすようにして、失われたものだった。
 淡い希望を手繰り寄せるような心持ちで、 スティーブは此方を見る翠と薄水色、二対の瞳を見つめ返した。
 奥方様とミカエル。
 この二人なら、もしかしたら、受け止められるかもしれない、受け入れ、挫けることなく、歩んでいけるかもしれない。
 しなやかな精神を持ち、何より、それぞれの立場で旦那様を強く想う、この二人ならば、もしかしたら……。
 エドウィン公爵家を支配する、黒い霧をはらうことが叶うかもしれぬ、と老骨らしくもなく、鼓動の高まりを感じた。
 スティーブは一度、心を落ち着けるように、目線を落とすと、「では……」と、淡々と語り出した。
「まずは、あの肖像画をご覧いただきましょう」
 スティーブの言と指に促されて、セラとミカエルはその執事が指差したものを、ほぼ同時に見つめることになった。
 暗がりの中、閃いた白い雷光に、浮かび上がったその肖像画の女。
 従者は瞠目し、セラは息を呑んだ。
 先代様の書斎の奥に、隠れるように飾られておりました。埃も被っておらず、綺麗なものでしょう?
 執事の声が、耳をすべっていく。
 それ程、肖像画の女は、目を逸らしがたいような美しさを持っていた。
 そう、大きな絵ではない。
 本邸に飾られている、歴代のエドウィン公爵の肖像画からすれば、半分ほどしかない。
 にもかかわらず、圧倒的な引力を放つのは、画筆の力と、そこに描かれた女の倒錯的なまでの美貌ゆえだろう。
 夜明けの空、濃い青紫の色のドレスを纏った若い女が、艶やかな黒髪をなびかせて、振り返っている。
 白い肌はなめらかで透けるよう、華奢すぎる肢体は、繊細な面立ちと相まって、妖精めいてさえいる。
 こちらを見つめる、こぼれ落ちそうな宝石の瞳。
 きらきらと光を散らしたそれは、汚れなさをたたえており、何かを訴えかけるようだ。
 やや幼さを残した、麗しい乙女でありながら、淡く開いた唇は甘く、えもしれぬ色気を醸し出している。
 純白のシーツに黒い染みを落とすように、あまりに汚れがないゆえに、かえってグシャグシャにしてやりたいような、そんなあられもない妄想を抱かせる。
 何より、その瞳は震えがくるようだった。
 深い、深い、湖面のように澄んだ蒼。
 一切の汚れがなく、喜怒哀楽すら感じさせず、妖精が人を見るかのような、透徹としたそれであった。
「先代、ウォルター様の奥方でいらっしゃいます。御名をリディア=リセル=フォルテーヌさま……これは、確か御歳十七の時の画でございますね」
 お綺麗な方でしょう。実際は、この肖像画よりも更にずっとずっと美しく、また儚げな方でした。
 そう語るスティーブの表情には、隠しきれぬ後悔と、亡きひとへの追憶があった。
 リディアは、執事にとっても、浅からぬ縁のある人だった。
 繊細で感受性が強く、悪意はびこる中を生きるには、脆すぎるおひとだった。けれども、決して、悪い御方ではなかったのだ。
 あんな惨たらしい亡くなり方をするような、そんな……。
 心の奥底に押し込めた過去に、スティーブが引きずられそうになるのを、セラの声が留めた。
「わかるわ、ルーファスのお母様でしょう?瞳の色がそっくりだもの、ルーファスの方が、もっと濃い蒼だけど」
 翠の瞳が、細めらるる。
 そう、ですね、とミカエルが相槌を打った。
 スティーブは、肖像画の女の目を見、ええ、とうなずく。
 光の加減で、微妙に色合いが変わるのですよ、と。
「蒼に紫をおとしたような、何とも言えぬ色なのです……アムリッツ大公の系譜に、よく出たものです。故に、かの国が戦火で滅びた後、――亡国の貴色とも、呼ばれたとか」
 美しい、今はもう途絶えてしまった、蒼の。
 これから語ろうとする事への準備か、一口、香り高い紅茶で喉を潤すと、スティーブは言葉を重ねた。
「一体、何から話せばよいやら……とりとめのない話になりそうですが、どうか、ご容赦ください」
「――今よりもう、三十余年も前になりましょうか。当時、妻と産まれたばかりの我が子を亡くし、自暴自棄になっていたわたくしめを、先々代のエドウィン公爵、ルーファス坊っちゃまの祖父にあたられる御方が、執事の補佐として雇ってくださいました……」
「先々代は、豪気なご気性で、多少、金銭に無頓着な嫌いがありましたが、明るく、情の深い御方でありました……優秀なご嫡男、ウォルター様が殊の外ご自慢で、それこそ、目にいれても痛くないような溺愛ぶりございました」
 喋りながら、スティーブは瞼の裏に、昔日をまるで昨日のことのように思い出す。
 ルーファスの祖父に紹介されて、ウォルターに初めて会った、あの日のことを。
 先々代は豪快で勇敢な性格であったが、どちらかといえば、貴族として並み以下の才能しか持たなかった。
 それは、仕えているスティーブの目から見ても、明らかだった。故に、己とは正反対の息子。学問に才を発揮し、優雅さを備え、温厚な性格のウォルターに、嫡子として多大な期待を寄せており、周囲が苦笑するほどの入れ込みようであった。
 大恩ある主人とはいえ、息子自慢、親の欲目もあろうと思っていたスティーブだったが、実際に会ったウォルターは、優秀さを鼻にかけることもなく、温和で誠実な青年だった。
「ウォルター、新しく雇ったスティーブだ。老ジョージの補佐についてもらおうと思っている。年も若いし、いずれ、お前に付き従う形になるだろう」
 父親の言葉に、ウォルターと呼ばれた青年は、親しみある微笑を浮かべる。
 窓を背にし、陽光に照らされた貴公子は、未来への希望にあふれ、輝いているようだった。
「ウォルターだ。よろしく、スティーブ」
 身分の差を感じさせず、手を差し出してきたウォルターの笑顔を、スティーブは生涯、忘れまい。
 光がこぼれて、前途あふれる若者を、祝福しているようだった。
「それから、一、二年程でしょうか。ウォルター様が、国王の特使として、アムリッツ公国を訪れ……その地で、リディア様と出会われたのは……」
 その時のことを、スティーブは今も、鮮明に思い出すことが出来る。
 国王の命で諸外国を回るウォルターの、身の回りの世話をする為に同行し、アムリッツ公国でも共にあったからだ。故に、ウォルターが生涯に一度ともいうべき恋に堕ちた瞬間も、その目で目にしていた。
 大公の城から、そう遠くない、澄んだ湖のほとりで、ウォルターとリディアは出会った。
 とりどりの花が咲き誇るそこで、花摘みを楽しんでいた黒髪の乙女は、振り返り、ウォルターとスティーブの姿を認めると、恥じらように微笑う。
 純白のドレスがことのほかよく似合って、さながら、花の妖精のようだった。
 少女はウォルターの手に、今しがた摘んだばかりの花籠を押し付けると、はにかむような笑みひとつ、花の香りをまとわせながら、去っていった。
 会話はなく、お互いの名も又、知らなかった。けれども、それで十分だった。
 ただ一瞬の、わずかな邂逅で、その恋は芽生えたのだ。
 艶やかな黒髪の、美しい乙女に、ウォルターが心を奪われるのを、その恋の軌跡を、間近で見ていたスティーブは、もしも、運命の恋というものがあるなら、これこそが、そうであろうと信じたものだった。
 ――それはそれは、あまりにも美しい、お伽噺のような恋だったので。
「つつがなく特使のお役目を果たされたウォルター様は、帰国の日取りが決まっても、リディア様と離れ難かったのでしょう。ウォルター様は、意外と奥手なところがおありでしたが、勇気を振り絞り、共にエスティアについてきて欲しい、とリディア様に求婚なさいました……リディア様は、当時、お歳十六を数えたばかり、母国を去り、愛する家族と遠く離れて、異国に嫁すことを、少なからず不安に思い、躊躇いを覚えられているようでした」
 それでも、リディア様はウォルター様の求婚を、承諾されました。
 大公の姪として、大事に大事に育てられたリディア様にとって、それは生涯、唯一の恋だった。
「手放せないそれを抱いて、ウォルター様の手を取り、エドウィン公爵家へ嫁がれたのです」
 初々しく、また美しい花嫁であったと。
 まだ、たったの十六だった。母国への懐旧の情は、家族への思慕は、どうしても捨てられぬものがあっただろう。
 それでも、ウォルター様に寄り添うリディア様は、夫となったばかりの青年と顔を見合わせ、幸せそうに微笑いあっていた。
 幸せな結婚。
 恋をして、結ばれて、そこで物語のように幕をおろしてしまえれば、どれほど美しかったことだろう。
 悲劇は、転落はそこから既に始まっていたというのに。
 揺れ動きそうになる感情を、努めて抑え込んで、執事は己が目にした事実のみを語る。
「リディア様は、生まれてから一度も、アムリッツ公国を出たことがなかったせいか、エスティアの公用語には、あまり通じておられませんでした。ウォルター様との会話は、母国語で話せば良かった……けれども、エドウィン公爵家の親族たちとは、そうはいきません。言葉が不自由なことで、嘲笑われ、蔑まれ、小国の出身よと陰口を叩かれ、幾度も幾度も、お辛い思いをなさっておられました」
「そんな、酷い……っ!」
 セラが、憤慨するように声をあげた。
 たった十六かそこらで、頼れる身内もおらず、異国に嫁いだ少女に、その仕打ちは、あんまりではなかろうか。
 ましてや、味方になるべき夫の身内が、こぞって敵に回るとは。
 ええ、奥方様の仰る通りでございます、スティーブは沈痛な面持ちで、首を縦にふった。
「喋れば、言葉が不自由なことを笑われ、黙っていれば、愛想がないと悪辣な嫌味を言われ……そんな日々を過ごすうち、リディア様は徐々に笑みをなくされて、社交の場を嫌い、屋敷に引きこもるようになっていきました」
 美しい花嫁への嫉妬も、多分にあったのだろう。
 酷い時には、蛇や毒蜘蛛の死骸を送りつけられたり、卑猥な文言の書かれた手紙を渡されたり、あることないこと醜聞を流されたりもした。
 言葉がよく通じぬからこそ、その状況は、針のむしろであっただろう。
 それら全てを無視し、なかったことに出来るほど、リディアの心は強くなかったのだ。
「半年、一年、二年、そうした日々を重ねるうち、リディア様の少しずつ、精神の均衡を崩されていきました……本来、穏やかなご気性でしたが、感情が不安定になり、いきなり物に当たり散らされることも珍しくはありませんでした」
 本当は、とスティーブは思いを巡らす。
 涙に暮れていたリディア様は、故郷に帰りたくて、帰りたくて、しょうがなかったのだろう。
 ――自分は何故、こんな場所にいるのだろうか。
 蔑まれ、祖国の悪口を聞く為だろうか。
 帰りたい。
 帰りたい。
 お父様に、お会いしたい。
 お母様は、お元気だろうか。
 幼かった弟は、今頃、どうしているだろうか。
 帰りたい。アムリッツへ帰りたい。あの優しい場所へ、愛する人々の元へ帰りたい。
 夫となった、穏やかな青年のことを、愛していないわけではない。それでも、何時の日か。
 あの愛おしい場所へ、帰りたいのだと。
「ウォルターさんは……」
 ぽつりとセラが、疑問を投げた。
「ルーファスのお父様は、その時、どうしていたの?リディアさんが苦しんでいる時に」
 無視されるような情のない方ではありませんでしたよ、と前置きしたうえで、老執事は「先代様は……」と続けた。
「ウォルター様は、幸運な御方でした。公爵家の嫡男として生まれ育ち、容姿にも才覚にも恵まれ、温厚な性格で敵を作られるようなことも、殆どありませんでした。身分を嵩にきることもなく、誰からも好かれ、愛された……が故に、人に見下されるという経験を、他人に認められぬという辛さを、一度も、ただの一度も味わったことがない」
 知らないというのは、時に、自覚のある悪意よりもなお、人の心を傷つける。
 お優しかった、先代様。
 奥方様の気持ちを理解はしても、だからこそ、気持ちを同じくすることが、どうしても叶わなかった。
 枕を枯れることのない涙で濡らして、異国から嫁いだ乙女は、故郷を恋しがり、狂おしく嘆いた。
 帰りたい。帰りたい。私の生まれ育った国に、帰りたい。
 嫁ぎ、公爵家の一員となった以上、そう簡単に逃げ帰ることなど許されぬ。それでも、帰れる故郷がある、愛する人々がそこで健やかに暮らしている。
 それだけが、彼女の心の支えであった。
「……そんな折のことでした。リディア様が、御子を……ルーファス様を、身ごもられたのは」
 ルーファスの名を口にした時、その執事の声が微かに震えたのを、セラだけが察した。
「親族との関係に心を痛めていたリディア様は、妊娠を機に、ますます神経を尖らせていきました。お若かかったこともあるでしょう。また、何処か、少女めいたところが抜けきらぬ方でした……妊娠を喜ぶというよりも、日々、変化していく己の身体に怯えられているようでした。ですが、ウォルター様は、純粋に我が子の誕生を、待ち望んでおられた」
 これを機に、親族との関係も改善されるかもしれぬ、と。
 表には出されなかった、些細な感情のすれ違いこそ、実は決定的な亀裂であったのだと。
 ふくらんでいく胎、やつれていく少女……私は、何処にいくのだろう。この胎の生き物は、誰の子だろう。
 スティーブや、公爵家の使用人達が、若い奥方の異変に気づきかけた矢先のことだった。
 リディアの祖国、アムリッツ公国が、戦火に巻き込まれたのは。
 隣国の継承権争いに巻き込まれて、小国には為すすべもなく、被害は瞬く間に広がった。
 必死の抵抗を続けながら、援軍を求める、アムリッツからの再三の書状や使者を、同盟国であるはずのエスティアは見て見ぬふりをした。
 エスティアにとって、アムリッツとの同盟は、名目上だけのものだった。わざわざ援軍をよこすほどの義理もなければ、搾取できるほどの旨みもない。
 貫いた態度は、無関心という、実に冷やかなものだった。
「祖国が戦火に巻き込まれたと耳にした時、リディア様の嘆きようは、私ども使用人達ですら、耳を塞ぎたくなるようでした。アムリッツには、あの御方の大事な、全ての方々がおられたのです。両親、友人、幼い弟君……故郷を遠く離れた地で、助けに向かえぬ辛さは、我らの想像を絶するものであったのでしょう」
 臨月も近く、心穏やかに過ごさねばならぬ時期であったが、リディアはじっと、手をこまねているわけにはいかなかった。
 当時、エドウィン公爵の爵位を継いで、王宮においても力を発揮しつつあった夫に、家族を助けてくれるように哀願した。ふくらんだ胎を押さえて、涙ながらの、切々とした訴えであったという……。
 お父様を、お母様を、アルファスを、アムリッツの人々を助けてください。お願い。お願い。愛しています。ウォルター、だから、どうか……私の故郷を、見捨てないで。
 きっと、とスティーブは目を伏せた。
「ウォルター様も、リディア様の願いを叶えたかったでしょう。惚れ込んで、連れてきた妻なのですから……けれども、先代様のお立場が、それを許しませんでした。エスティアの方針が、傍観である以上、アムリッツに手を貸すことは、国への背信行為になりえます。エドウィン公爵家の当主としては、到底、聞き入れられぬ願いであったのです」
 妻である少女とて、それは承知の上であっただろう。それでも、望まずにはいられなかったのだ。
 愛する祖国を、救って欲しかったのだ。愛した男を、信じたかったのだ。きっと。
 その先を語ることは、忠実なる執事にとっても、痛みを伴う行為である。
 胸の内、血を流すかのような苦しさを味わいながら、スティーブは、彼の国の滅びを語る。
「臨月のひと月ほど前でした。リディア様の故郷が、隣国の軍隊に焼かれてたのは。女子供、老人に至るまで、容赦なく灰塵にされ、大公の血筋の者は斬首、その首は城壁に並べられたと聞き及んでおります……惨い、むごすぎる話です」
 それが、限界だった。
 帰れるはずの故郷を、愛する家族を喪ったリディアの精神の糸は、あっけなく切れた。否、むしろ、望んで正気を手放したといってもいい。
 ルーファスの出産を間近に控えながら、妊婦となった少女は、半ば廃人のような有様だった。
 過ちに気づいたウォルターが、いくら己の愚かさを悔いても、時すでに遅し。
 医者や産婆の尽力によって、なんとか出産を無事に終えたものの、己が産んだ息子の、目を開いた赤子の、その蒼い瞳を見た瞬間、耐えきれなくなる。
 アムリッツの蒼。亡国の貴色。それは、リディアにとっての罪の象徴だった。
 絹を裂くような絶叫が、細い喉から上がる。
「いやあああああああ、許して、お父様、お母様、アルファス、見殺しにする気になんかなかったの!助けたかったの、助けたかったの!ごめんなさい、ごめんなさい、許して、そんな目で見ないで……!」
 アルファスというのは、リディアが祖国に残してきた幼い弟の名である。
 ルーファスは、それにちなんだものだった。
 崩れていく心の中、故郷の面影にすがることだけが、彼女の生きる術だった。
「お心を閉ざしてしまったリディア様は、我が子を我が子として、受け入れることを拒まれました。赤子だったルーファス坊ちゃまを、その腕に抱かれることも、名前を呼ぶことすら、唯の一度もなかったのです」
 そんな、あんまりだ……!と、ミカエルが声を荒げた。
 人の好い少年でなくとも、眉を顰める話ではあろう。
 ましてや、従者にとっては、いかなる事があろうとも、大切な主人である。
「そんなの、そんなのってないですよ……!旦那様は、何も悪くないじゃないですかっ」
「……ミカエル」
「今の話を、どう受け入れろっていうんですかっ!旦那様のご両親は、それはお気の毒だと思いますけど、なんで、何の咎もない旦那様がそんな目に合わなきゃいけないんですか……!」
「ミカエル」
 興奮し、立ち上がった少年をなだめるように、その肩に手をおいて、スティーブは静かに諭す。
「――真の悲劇というのはね、悪人がいないことなのですよ」
 執事がミカエルを諭すのを、セラはただ黙って、聞いていた。



 階段の踊り場に、ルーファスは立っていた。
 雨の音が、聴こえる。
 あの日は、曇っていただろうか。それとも、晴れていただろうか、今はもう、思い出せない。
 ――昔、一度だけ、別邸にやってきた母が、この場所で笑いかけてくれたことがある。
 物心ついた頃から、幼い息子を見て、微笑うことなどないひとだったのに。
「ははうえ」
「アルファス」
 母は会ったこともない、成人することなく死んだ叔父の名で、ルーファスを呼ぶ。
 それが、亡き母方の祖父の名にすり替わることも、度々だった。
「ははうえ」
「私に、息子なんていないわ。変な事を言うのね、アルファス」
 母となってなお、乙女のような若々しい母は、美しい柳眉を寄せて、怪訝そうな顔をした。
 そのまま、くすくすと笑いながら、階段を駆けていく。
「ははうえ」
 僕は、貴方の息子です。
 アルファスなんて、他人の名で、呼ばないで。僕の名を呼んで、僕を見て、どうか、どうか――。
 くすくすくす、母の箍が外れたような笑い声が、幾度も幾度も耳を木霊して。
「坊ちゃま……」
 黒髪の少女が、泣きそうな目をして、ルーファスを見ていた。
 女中のマリアだ。
 涙もろい性格なのか、ルーファスが母親に無視されるたびに、辛そうな態度を隠そうともしない。
 夫であるウォルターも、屋敷の使用人達も諦めているというのに、変わった女である。
 疲れないだろうか、などと幼いルーファスが首を傾げていると、腕を引かれ、抱きしめられた。
 幼い少年を胸に抱いて、マリアは懸命に語りかける。
「お可哀想な、お坊ちゃま……。私は、何があっても、坊ちゃまの味方ですからね」
 傍にいます。
 あの女は、マリアはいつもそう言っていた。
 ルーファスが遠い過去に想いを馳せていると、柱の影から、ミカエルが姿を現した。
「旦那様」
 何があったのか、従者の少年は、泣くのをこらえたような顔をしていた。
 それでも、ルーファスと目が合うと、精一杯、笑顔を浮かべようと、健気に口角を上げる。
 どうかしたのか、と主人が問う前に、従者の少年は「旦那様」と呼びかけると、面を上げ、真っ直ぐにルーファスを見つめて、真摯な声音で言った。
「旦那様、僕を拾ってくださって、ありがとうございました」
 それだけ、どうしても伝えたかったんです、とミカエルは泣きそうな表情で、笑った。


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