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幕間 公爵と風邪 2 


「旦那様の所に、行かれるんですか?」
 階段を上がり、ルーファスの部屋へと向かおうとしていたセラを、灯りを手にした人影が呼び止めた。
 彼女が振り返ると、しぃ、と声をひそめ、唇の前で指を立てたソフィーと目が合う。
 亜麻色の髪の娘は、ぱちくりと翠の双眸を瞬かせた。
 夕陽も沈もうかという時刻、暗くなりかけた廊下に、蝋燭を手にした女中頭は、ぽぉ……、と宵闇に浮かび上がるようだ。
 ちらちらと揺らめく焔が、セラの透けるような瞳に、幻想的に映り込む。
「ええ。もう眠っているかもしれないけど……」
 そう返事をした奥方に、ソフィーは、にーっと豪快なまでに笑うと、手にしていた銀のトレー。水差しと、ミルク粥、よく熟れた林檎と、果物を剥くナイフなど、もろもろがのったそれを、セラの手に渡した。
 え……とトレーを受け取りながらも、動揺した風な少女に、ソフィーは、本当ならば、私の仕事なんですけどね、と言い、「でも、旦那様は、奥方様が見舞いにいらした方が、嬉しいでしょうから。うっかり、邪魔をしたら、おお、怖い。怖い」と、冗談めかした口調で喋る。
 しかし、それが唯の冗談ではない証拠に、水差しやら、あたたかな粥の乗ったトレーやらは、セラの手に預けられたままだ。
 ソフィーは執事のスティーブと共に、屋敷を取り仕切る、女性使用人の長であり、監督者でもある。
 面倒見の良さで、年若い使用人たちからは、母親のように思われていても、規律には従順で、姪であるメリッサでも失敗すれば、厳しく叱りつけ、肉親の情に溺れることはない。誰よりも、使用人の分をわきまえた人と、周囲からは思われており、実際にそうなのだ。
 例え、セラが王族の自覚は勿論、貴族の奥方としても、風変りな性格をしていても、ごく普通の町娘と変わらずとも、ソフィーはそれを笑わなかったし、貴族の作法に疎い奥方様が、派手な失敗しても、絶対に、それを馬鹿にしたり、ましてや蔑んだりすることはなかった。
 自分が監督する、女中達にも、そんな愚かしい真似は、決して、許さなかった。
 そんな人であるから、いくらセラが嫌がらないといっても、自分が運ぶそれを渡す、などという事は、在り得ないはずだった。
 女中頭としての、矜持にも反するだろうし、もし、奥方様がすすんでそんな真似をしたら、その手からトレーを取り上げたはずだ。にも関わらず、そうしたのは、風邪で寝込んでいるルーファスが、セラの見舞いを喜ぶ、という一点のみに違いない。
 トレーの、みずみずしい林檎を手に取り、セラは唇を綻ばせた。
「林檎、美味しそう……ルーファスの好物なんですか」
「ほんとうに小さい頃は、よく食べられていましたよ……うちの息子なんて、皮なんて向かずに丸齧り。坊ちゃまは、そんなことはなさいませんでしたけどね。でも、伏せられた時は、よく女中にねだっておられましたね」
 ソフィーは、昔を思い出したように、愉快そうに笑う。
 今じゃ信じられないでしょうけど、小さい頃の旦那様は、そりゃあ内気な子でね。身体も小さくて、ちゃんと育つかどうか、本気で心配したものです。
 頭はとってもよろしくて、ご両親に似て、お綺麗な顔をされていましたけど、神様は、その代わりに、この子の健康さと、在るべき寿命を奪ってしまうんじゃないか、って、スティーブさんと二人、よく案じたものですよ。今じゃ、当時の面影もない位、大きく育って、見下ろされるようになりましたけどね。すっかり、可愛げもなく……いえ、奥方様、今のは失言でした。内緒にしてくださいませ。
「ふふ、内緒だなんて」
 おどけた女中頭に、セラもつられて、くすくす、と喉を鳴らした。
 ソフィーは「お笑いになるなら、その方がいいですよ。女はね……時に涙を武器にしつつも、笑ってこそ、華ってものです。奥方様」と言い、それを体現するような、開けっぴろげな笑みを浮かべると、握り拳で、ふくよかな胸を叩いた。
「そういうものなの?」
 小首をかしげたセラに、ソフィーは自信たっぷりに、もちろん、とうなずいた。
「ええ、試しに、旦那様の前で、とびっきりの笑顔を見せてごらんなさいな。男は単純なとこがありますからね、好きな女の笑顔ひとつで、天国にも地獄にもいけるってもんです」
「はぁ……ルーファス、あまり単純な人には思えないけど、そうなのかしら」
「まあ、奥方様には、そんな小細工は必要ないでしょうけどね。旦那様に、深く愛されておいでだから」
 奥方様がいなければ、昼夜も開けないくらい、と、余りにも明け透けなそれに、少女は目元を赤くし、恥ずかしそうに、そんなことないわ、と身を縮こませた。屋敷に仕える者たちが、どんな風に自分たちの関係をとらえているかはわからぬが、いわゆる、一般的な夫婦とは程遠い関係だ。
 政略結婚ということを差し引いても、セラの背負うものは、あまりにも重すぎる。ルーファスであっても、無理だろうし、最初から、そんな重荷を背負わせる気もない。
 愛した人に、すすんで重荷を背負わせたい者がいるだろうか、不幸になるとわかっていて、同じ道に引きずり込むのか。
 初めて、愛した人には、幸せであってほしいのだ。其処に、自分がいてもいなくても、幸福であってくれなくては。だから、自分は、もうすぐ……。
「きっと、あたしじゃなくても、ルーファスを愛してくれる人は、大勢いるわ。本当は、とても、優しい人だもの」
 セラは未練を断ち切るように、己にそう言い聞かせた。自分ではない女の人に、ルーファスが手を差し伸べ、共に歩む姿を想像すると、ひどく胸が痛んだ。
 そんな資格もない癖に、彼の好意に、何も返せないまま裏切ろうとしているのに。
 嫌だ。独りぼっちにしないで、此処は、とても暗いの、寂しいの。誰かじゃ駄目なの、貴方がいいの。貴方の手だけが、欲しいの。
 鍵をかけた心の奥深く、我儘な子供が、延々と続く暗闇に、悲鳴を上げて泣き叫ぶ。止めて、そっちに行かないで。此処にいて。名前を呼んで。ルー……
 自分自身の醜悪さに、吐き気を覚えて、セラは心に重い重い蓋をした。
 なんて、醜い。
 何て、身勝手で、狡くて、救い難い子供なのだろう。
 光を求めているくせに、その光が眩しくて近づけず、光ある人を、自分と同じ暗闇に引きずり込もうとするなんて。そんな罪深いこと、許されるはずないじゃない。
 けど。
「それは、違いますよ。奥方様……もっと、旦那様を信じてあげなくちゃ、お可哀想です。あの方にとって愛情は、軽いものじゃないんですから」
 長いこと屋敷に仕え、そこに暮らす、公爵家の人々を見守ってきた女中頭は、穏やかな母性の声音で、けども、きっぱりと、セラの甘えを切り捨てた。
「旦那様はね、一緒に生きてくれる人が欲しかったんですよ。ルーファス坊ちゃんを、ずっと見てきた、私は……あの御方の気持ちが、少しだけわかる気がするんです」
 翠の瞳を伏せ、黙り込んだ娘に、ソフィーは優しく語りかけた。
「あの方は、ずっと、この広い屋敷で、一人で生きてこられたんです。ご両親は、それぞれ事情で手一杯で、ルーファス坊ちゃんと、きちんと向き合うことをなさいませんでした。やがて、お母様が亡くなり、お父様も去り、本当に一人になってしまいました」
「ずっと、一人で……?」
 そう問う、セラの声は、かすれていた。
「勿論、ああいう方ですからね……奥方様にお話しするのは、憚れますけど、旦那様に想いを寄せるご令嬢は、多かったですし、アンジェリカ様のようにお綺麗な方も、お優しい方も、愛情深い方もいらっしゃいました。皆様、それぞれ真剣に、旦那様を愛されていたと思います。けど、旦那様の方が、駄目だったのです。愛そうとしても、本当の意味では愛せなかった」
 ソフィーの声を聞きながら、セラの頭に、出会った頃のルーファスのことがよぎった。
 彼は、自らのことを、氷だと評した。他人から言われたからではなく、彼自身、そう自覚しているようだった。冷徹で、感情の変化に乏しく、本気で人を愛せない男だと。
 きっと、そんなことはなかったのに。
 セラにとって、ルーファスは最初から、優しい人だった。名前を呼んでくれた、屋敷をセラが帰る場所だと言ってくれた、何時だって、セラの手を放してしまう方が、楽だったはずだ。
 厄介事ばかり抱え込む、面倒な女であっただろう。何度でも、その道を選ぶ、好機はあった。
 でも、結局、彼は最後まで、自分からは、その手を離さなかったのだ。
「……無理だわ。あたしでは、ルーファスの望むものを、あげられない。だって、あたしの心は、醜いのだもの。あの人のことを愛しているのに、幸せにしたいのに、あの人が別の誰かを愛したら、苦しくて苦しくて、死んでしまいたくなるの」
 愛することは、その相手を、誰より不幸にすること。
 自分と同じ、果てのない暗闇に、引きずり込んでしまう事。
 呪いを背負うセラにとって、それらは最初から、決まっていることだった。何時か呪いが、彼女の心と身体を食い尽くすことと同じく、最初から定まっていることだった。愛することと、喪うことは、同じこと。
 幼い子供だった時分にも、それは辛いことに思えた。母の愛したジェイクおじさんだって、あんな風に死んでしまった。じゃあ、自分が愛したら、どんな悲劇が待っていることか。怖い、恐ろしい。
 まだ見ぬ未来に怯えるセラを、見かねたように、師匠であるラーグが忠告した。――セラ、君ね。誰かを本気で愛するのは、止めた方がいいかもしれないよ。きっと、煉獄のような苦しみを、味わうから。
 琥珀の瞳が、彼女を見て、細められる。
 あの時、その瞳に込められた意味は、わからなかった。今ならば、理解できる。あれは、セラを憐れんでいたのだ。愚かな恋をし、愚かに死ぬであろう弟子を、心から憐れんでいたのだ。
 もしも、呪いが解けたなら、愛した人を幸せにできるかもしれないよ。君次第だけどね。魔術師は、そう慰めるように口にした。
 ――ラーグ。呪いは、解けなかったわ。でも、愛してしまったの。一番、愛してはならない人を、愛してしまったの。凶眼の魔女の呪いに連なる人を。どうしたらいいの、教えて。
「愛なんて、綺麗なものだけじゃ、ありえませんよ。それに……奥方様の心は、奥方様だけのもの。たとえ、旦那様でも、全てを手にすることは出来ません。奥方様のお心が寄り添うところ、それが真実です」
 わからないわ、両手を顔に押し当てて、セラはかぶりを振った。わからないの、何も……自分自身の心すら。
「もしも、わからないのならば、それも奥方様の、お心なんですよ。それを否定することは、誰にも、旦那様にだって出来やしないんですから」
 でも、とソフィーは、うつむいた少女の亜麻色の髪を優しくすいた。労わるように、優しく。
 ソフィー、彼女は、きっと後悔していたのだ。ほんの数年、屋敷を離れているうちに、其処は何もかも変わってしまって、愛くるしかった子供は笑みを失い、屋敷は暗い澱みに支配されるようになった。だからこそ。
「私は、奥方様のお心が、きちんと答えを見つけると、知っていますよ。だって、旦那様は誰よりも、それを信じておられるのですから」
 信じていた。ソフィーもまた、信じていた。ルーファスの望む形と、この少女の願う形は、異なるのかもしれない。でも、どちらも魂の深くで、相手を、相手だけを求めているのだから。
 その、あたたかい手と、亡き母親を思い起こさせる、包み込むような眼差し。それに応えられないことが苦しくて、悲しくて、セラは面をあげることが出来なかった。


 執事と従者の手によって、寝台に押し込められてからも、ルーファスの眠りは、浅かった。
 舌が痺れるほど、苦い薬湯を飲み干したというのに、一向に熱が下がらぬことと、おそらく、無関係ではないだろう。
 一人寝には広々とした寝台で、ルーファスは薄く目を開け、天井を見上げては、うつらうつら、夢と現の間をたゆたう。
 母の、流血の悪夢に魘されなくなってから、どれほど経つだろうか。よく覚えていない。
 以前、夜毎、嫌でも見続けていた血の惨劇は、最近、すっかりなりをひそめ、アンラッセルから帰ってからというもの、もう彼を苦しめることはなくなった。
 理由は、ルーファス自身、よくわからない。
 父と対面したことで、己の中のわだかまりが薄れたとも、同時に、それほど単純なものではないとも思う。
 何にせよ、母が亡くなった少年の日から、決して、外れることのなかった枷が外れたような、不思議な解放感がある。
 予感がする。
 父母やマリアの事のことを思い出し、その悲劇にやりきれなさを覚えることはあっても、最早、母の死に際に、心を囚われることはあるまいと。
 眠れぬ、と嘆息し、ルーファスは、寝返りを打つ。
 母の悪夢を見なくなった代わりに、時折、別の夢を見るようになった。
 セラの夢。
 彼女が何処か、遠くに、彼の手の届かない場所に行ってしまう。
 亜麻色の髪と、華奢な背姿が目に映る。
 ただの夢だと知りつつも、手を伸ばさずにいられないような焦燥にかられて、ルーファスは声を上げた。
「待て」
 亜麻色の髪を揺らし、少女は一瞬だけ、男の方を振り返った。
 透ける翠の瞳が、彼を映す。
 微かに笑ったようだった。
「セラ、……っ」
 伸ばした手は、その柔らかな髪に触れる寸前に、すり抜ける。
 触れれない、触れられない。どうしても。
 萌木色のドレスの裾が翻って、それは、すぐ近くに在るにも関わらず、余りにも遠い。
 ――ルーファス。
 どこまでも広がる平原の向こうで、彼を呼ぶ、セラの声が聞こえる。
 誘うようなそれに、ルーファスは端整な面をしかめ、厳しい声を返した。
「そちらに行くな。二度と、戻れなくなるぞ」
 伸ばした手は、またも彼女の手を掴む寸前で、運命の悪戯のようにすり抜けてしまう。
 ふと気がつけば、彼らのいた地面は崩れ、少女の身体は、崖下へと落ちていく。
「――セラ!」
 ルーファスの伸ばした手が、崖下に落ちていくセラの指先に、触れた。
 深い崖の谷間に落ちていく、セラはやわい微笑みさえ浮かべて、そっと青年の手を離す。
 まるで、もう良いのだと言いたげに。ありがとう、さようなら。
 そうして、独り、崖下に堕ちていくのだ……。悲嘆も届かない、崖の底へ。
 夢はいつも、そこで終わる。
 所詮、ただの夢だ。馬鹿馬鹿しい。
 ルーファス自身、よくわかっている。
 それでも、そんな夢を見てしまうのは、セラの纏う、どこか儚げな雰囲気のせいだろうか。
 寝つくのを半ば諦めた青年は、うっとおしい前髪をかきわけ、どうせ寝れぬなら、書物でも読むかと灯りに手を伸ばした。
 気分は最悪だが、文字を追うぐらいは造作もない。
 書斎に行きたいものだが、それは、ソフィーあたりがお冠だろう。
 枕元にあった異国の文献を手に取り、暇潰しくらいにはなるかと、男の長い指が頁をめくりかけた、その時だった。
 コツン、と遠慮がちに扉が叩かれ、開いた扉の隙間から、銀のトレーを抱えた少女が顔をのぞかせたのは。
「ルーファス、まだ起きている……?」
「あぁ、今、起きたところだ」
 セラは、ほっと安堵したように、口元を緩める。
「あの、入ってもいい?」
「断る」
 寝台から身を起こしたルーファスからの、予想だにしなかった返事に、セラは目を白黒とさせ、うつむいた。
「う、あ、ごめんなさい。水差しを持ってきたんだけど、邪魔だったわよね……おやすみなさい!」
「冗談だ、本気にするな。理由もないのに、貴女を追い返したりしない」
 慌てて、バタバタと忙しなく立ち去ろうとする少女の背中を、ルーファスは、呼び止めた。
 セラは駆けかけた足を止めると、本当に?と、揺らぐ翠で、彼を仰ぐ。
 その様が、まるで小動物のようだから、ついついからかいたくなるのだが、そう言ったら、さすがのセラも気を悪くするであろう。
 おずおずと、扉の前に戻ってきた彼女を、彼は部屋の中に招き入れた。
 セラは運んでいたトレーを、寝台の横の円卓において、ちょこんと隣の椅子に腰を下ろす。
 そうした彼女の服装に、ルーファスは「その格好……」と、片眉を上げた。
「え、何か変かしら?」
「いや……」
 ルーファスは、否定した。別段、変ではない。
 裾の広がる、ゆったりとしたネグリジェ。
 ランプの灯りに、ほのかなクリーム色を帯びたそれは透けるようで、男の欲を煽る。
 日頃、結っている亜麻色の髪は、うなじに流され、橙の灯りを受けて、象牙色の肌からは甘い花の蜜が薫る。
 おまけに、椅子に座った少女は、大丈夫?とばかりに首を傾けて、じっと、寝台のルーファスを見つめてくるのだ。
 これで、何も意識しない奴は、男ではない。
 夜、こんな格好で、若い男の部屋を訪れるなんて、誘っているのでなければ、新手の嫌がらせかとも思うが、セラにそういった意図がないことは、わかっている。
 警戒心が薄いのか、男という生き物を理解していないのか、多分、その両方だろう。
 ルーファスは溜め息をこぼし、寒いだろう、これでも着ておけ、とセラの細い肩にガウンをかけた。
 寒かろうとは嘘ではないが、これ以上、あんな格好でいられたら、此方の理性が持たないというのが、本音である。
 セラは、わふ、と大きすぎるガウンに埋もれたものの、逆らう気はないらしく、大人しく袖を通す。
 そうして、一息つくと、寝台に手をついて、片手を伸ばすと、ルーファスの額に触れた。
 男は浅く目を伏せ、少女の手を受け入れると、なすがままにさせている。
 熱かったのか、彼女の翠の瞳が、心配そうに曇った。
「まだ熱が、高いね……どう、ルーファス?果物くらいなら、食べれそう」
 トレーの林檎に目を留め、ルーファスは「ああ。それか?」と、赤い果実を指差す。
 セラは、ええ、と頷くと、果物を剥く用のナイフを手にした。
「林檎。ソフィーが貴方の好物だって言っていたけど……」
「特に、好きでも嫌いでもないな。確かに、昔はよく食ったが」
「そ、そうなんだ……」
 ナイフを手に、林檎の皮を剥く、セラの手つきがこのうえなく危なっかしいのを横目で見ながら、ルーファスはうなずく。
「先代の女中頭の実家が、果樹園でな。時期になると、食べ切れないほどの量が、屋敷に届くんだ」
 マリアの一件で、先代の女中頭が職を辞してから、その風習も途絶えてしまったが、懐かしい果実ではあった。
 少年だった時分の、数少ない平穏な記憶を掘り起こし、目を細めたルーファスに、セラもまた優しい目をする。
 しかし、見舞われた側であるはずの青年は、ちらりとセラの手元を見やると、「林檎が、ずいぶんと歪な形に剥けているが、食えるのか?それは」と、指摘した。
 丸かったはずの林檎は、あちらこちらを無残にそがれ、四角くなっていた。
 どう剥いたら、こんな風になるのか。ある意味で、称賛ものだ。
 食えるのかは、ワザとだ。どんな形であれ、食べれるに決まっている。
 案の定、ルーファスの指摘に、少女はあわわ、と顔を羞恥で真っ赤にし、「ご、ごめんなさい!ちゃ、ちゃんと剥くから」と、叫ぶ。
 その直後、林檎の果肉は削がれ、芯だけになっていた。
 冷静沈着で知られる青年も、流石に絶句する。
「どこをどう剥いたら、林檎が芯だけになるんだ……不器用さも、此処まで行き着くと、天才的だぞ」
「お許しを!」
 がばっと頭を下げたセラに、ルーファスはやれやれと肩をすくめると、束の間、発熱の辛さも忘れ、「ほら、貸してみろ」と、その手からナイフを奪い去った。
 長い指先が、くるくると器用に動き、するすると林檎の皮を剥いていく。よどみなく洗練された、その動きに、少女は、見惚れ、ほーっと感嘆の息を吐く。
 刃物の扱いに慣れた手は、林檎の皮だけを剥いて、一切の危なげがない。常に指を切りそうで、見ている者をハラハラさせるセラとは、偉い差である。
 彼女は翠の瞳をきらきらと輝かせ、器用だね、と純粋な羨望の眼差しを、青年へと向けた。
「ルーファス、前から思っていたけど、何をしても器用だね。ナイフだけじゃなくて、剣も扱えるし」
 心からの賞賛らしい、セラのそれに、ルーファスは普通、褒める順番が逆だろうと、額を押さえた。
「貴女の中では、林檎の皮を剥けることと、剣を使えることが同列なのか?不愉快だ、訂正しろ」
「ええ?」
「それに、俺が器用なんじゃない。大概の人間は、皆、貴女よりはマシに剥ける」
 真実をつくルーファスの発言に、セラは心底、落ち込み、さめざめと泣いた。
「ううう、ごめんなさい。お見舞いに来たのに、手を煩わせているあたしって、一体……?」
 膝を抱え、どんよりと重い空気をまとい始めた彼女に、ルーファスは、まったく世話がかかる女だ……、とボヤキつつ、その淡紅の唇に、手ずから剥いた林檎をひとかけ、押し込んだ。
 むぐぐ、とむせかけたセラだったが、食え、とばかりのるルーファスの圧力に負けて、しゃりしゃりと果肉を咀嚼した。
 太陽の光を受けて育った、林檎の甘酸っぱい芳香が、口いっぱいに広がる。
「……美味いか?」
 そう尋ねてくるルーファスに、セラはこく、とうなずきかけたものの、当初の目的を思い出し、違う!と声を張り上げた。
「違うでしょ!病人の為に持ってきたものを、あたしが食べて、どーするの!あう……、その、美味しかったけど」
 己は間違っていないはずなのに、この恥ずかしさは、何なのだろう?
 頬のみならず、耳まで紅潮させ、しどろもどろに言い訳をしだした少女を、どこか愉快そうに見ていたルーファスは「何だ、そんなことか」と、口角を吊り上げた。愚かな獲物、せっかく今まで、我慢していたというのに。
 そうして、
「あ……」
 セラが反応する前に、男は顔を寄せると、その唇を奪った。
 甘い、林檎の味がする。
 余韻を味わいつつ、唇を離すと、セラが茫然自失の態で、「あああ……うわわ」と混乱の呻きをもらし、顔を赤くしたり、反対に青ざめたりしていた。
 不意打ちの衝撃から、立ち直れないらしい少女の耳に、恐ろしいほど綺麗に笑ったルーファスは、甘いな、と艶めいた囁きを寄せる。
「女子供じゃないんだ。俺は、こちらの方を、味わいたいものだな……セラ?」
 風邪は他人に移すと、治るらしいからな。
 冗談とも本気ともつかないことを、低い美声で囁いてくるルーファスに、セラは遅まきながら、身の危険を察知したようだった。遅すぎる。狼に狙われた兎だって、もう少し早く、我が身の危険を察することだろう。
 すくっと立ち上がると、ルーファスの胸に、ふかふかの枕を押し付け、「病人は、大人しく寝ていなさい!」と、まるで、口うるさい母親のような事を叫んでは、尻尾を巻いて、脱兎の如く逃げ出した。
 廊下からは、バタバタと忙しない足音と、「林檎が、林檎がいけないの……!食べられちゃうんだもの、ううん、何で林檎じゃなくて、あたしが食べられるの!」と、悲鳴にも似た声が響いている。
 ルーファスは、腕に押し付けられた枕を見て、くくく、と忍び笑いを漏らした。
「面白い。絶対に飽きないな、あれは」
 俺の手から与えられた果実を、何の躊躇もなく飲み込んで、白い喉を晒した女には、無防備ゆえの、抗い難い色香があった。亜麻色の髪からは、芳しい花の香りがして。
 あんな姿を見せられては、手を出すな、という方が無理だ。
 しかし、逃げられてしまっては、元も子もない。臆病な野兎を口説くまでには、些か、時期、尚早であったようだ。
 少々、やり過ぎたかと反省しながら、ルーファスはとろりと、意識がまどろんでいく感覚を覚えた。
 今更ながら、ようやく薬湯が利いてきたらしい。
 先ほどまでの息苦しさは、嘘のようにやわらいで、熱も下がりつつあるようだった。いまだ寝台に残る、彼女の花の香りに、頭痛が癒えるのを感じながら、青年は目を閉じ、今度こそ、眠りの淵へと沈んでいった。


 青年が深い眠りに落ちた後、再び、その部屋を訪れる影があった。
 蝋燭を手にしたその人は、絹の寝衣の裾を引きずって、花の香りを纏っている。白い手が、ぎゅう、と裾に皺を寄せた。
 翠の双眸は、蝋燭の炎に色を変え、その瞳の奥は、切なさと憂いを帯びている。
 靴はなく、裸足だった。
「ルーファス、もう眠っているのでしょう?」
 セラはルーファスの寝台に歩み寄ると、静かに呼びかけた。返事はない。
 薬湯が、よく利いて、深い眠りの中にいるのだろう。気配に聡い男としては珍しく、かたく閉じられた瞼が、上がる気配はなかった。
 少女は、安堵とも落胆ともつかぬ息を吐いて、ゆるり青年の寝台へと歩み寄る。その横顔を、蝋燭の炎が照らしていた。
 セラが近づいても、ルーファスが目を覚ます素振りはなかった。
 微かに眉を動かしたものの、瞼は閉ざされたまま、すぐ傍にいる少女に気づくことはない。よく眠っているのだろう。セラは足音を立てぬよう、寝台の横に膝をつくと、眠れる男の横顔を見た。
 見る者に特別な感情を抱かせる、あの冷たく、鋭い威圧感をもつ蒼い瞳が、瞼に伏せられているだけで、黒髪の青年の印象は、随分と和らいで見えた。眉間に皺を寄せることもなく、健やかな寝息を立て、規則正しく胸を上下させる。手を伸ばせば、心臓の鼓動が伝わって、セラはそれを、泣きたい位に愛しく思った。
「貴方に、お別れを言いに来たの」
 語りかけたセラに、答える者はなかった。
 黒髪の青年の瞼は、先と変わらず、かたく閉じられている。
 それに怯むことなく、セラは独白めいたそれを続けた。
「最後の最後まで、迷惑をかけて、本当にごめんなさい。出来る限りのことは、していくつもりだけど……どうか、あたしのことを忘れて、憎んで、最初から居なかったと思って」
 もう決めたのだ。
 残された時間の最後、無駄な足掻きをして、この身を蝕む呪いが解けたとしても、解けなくて命を落としたとしても、ルーファスと同じ道を歩むことはない、と。
 酷く身勝手な言い分だと、自分自身が一番、よくわかっている。
 でも、セラに残せる言葉はもう、それだけだった。
 これは、罰なのだ。身を引き裂くような胸の痛みは、呪われた娘が、大勢の罪もない人々を不幸にした女が、人並みに誰かを愛そうとした罰なのだ。
 愛したかった。愛されたかった。それだけだった。けれども、そんなこと、最初から許されるはずもなかったのだ。
「どうか、幸せになって、貴方だけは幸せでいて――ルーファス」
 神様、慈悲深き女神様、とセラは祈った。
 もしも、唯一つ、願うが叶うならば、この人をどうか幸せにしてください。
 あたしが、傍にいれなくていいのです。咎人である魔女が、祈りを捧げることが許されるなら、どうか――。ルーファスに、この優しい人に、あたしの分の幸福をあげてください。あたしは何もかも無くしてもいいですから、全部、あげてください。お願いです。神様……
 この人に祝福を、あたしの愛した唯一の人に、叶えられる限りの幸福を。どうか。
「……セラ」
 名を、呼ばれた気がした。
 その時、セラの腕を、男の指が掴んだ。強く、強く……翠の瞳が、動揺したように見開かれる。驚いたセラが、寝台のルーファスを見ると、その瞼は閉ざされていた。
 間違いなく眠っているのに、その腕は、その指は、少女の腕を決して離すまいというように、痕が付くほど強く、握りしめている。
 無意識であろうそれに、彼女は抗えなかった。
 ――行くな。
 びくっと背がしなった。
 ただの寝言であろう、それから、耳を塞ぐことが出来ない。
「離れるな。傍にいろ」
 それだけ。唯、それだけ。それなのに、セラの瞳からは涙が溢れて、止まらなかった。
 透明な涙が、しろい頬を伝い、枕へと落ちる。
 ああ、この人は、こんな罪深い身でも、引き留めようとしてくれる。傍にいることを、望んでくれる。今、この瞬間、鼓動が止まったとしても、悔いがないほどに、満たされた。幸せだ。
「さようなら、ルーファス……貴方を愛せたあたしは、幸せだったわ」
 その言葉で、セラは愛した人に、永遠の別れを告げる。
 きっと、あたしにとって、最初で最後の、愚かしくて、でも、幸せな恋だった。


 夜が明ける。
 しんと澄んだ朝の空気、窓辺で鳥たちの囀りが聞こえる。
 平穏そのもの朝であるのに、妙な胸騒ぎを感じて、ルーファスは寝台から身を起こした。蒼い瞳に、鋭い光が宿っている。
「……セラ?」
 亜麻色の髪の少女は、傍にいなかった。
 心に大きな穴があいたような空虚感に、焦燥じみたものを抱えつつ、ルーファスは妻である少女の姿を探し、屋敷中を訪ねて回った。セラの寝室、食堂、書庫、己の書斎、大広間、使用人部屋に至るまで、部屋という部屋を探し回り、幾度も幾度も、その名を呼んだ。けども。
 セラは痕跡すら残さず、エドウィン公爵家の屋敷から、忽然と姿を消していた。
 奥方の部屋は綺麗に片づけられて、あたかも、最初から、そんな者は何処にも存在しえなかったようだった。


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