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六章 王女の呪い 1


 奥方様が居なくなられてから、気がついたことがある。
 このお屋敷は、僕が思っていたよりも、こんなにも広かったのだろうか――。
 ミカエルはふと、紅い絨毯のひかれた廊下で足を止め、振り返った。
 そうして、やや項垂れた風に、浅く首を横に振る。
 思った通りと言うべきか、そこには誰もいなかった。


 二十日前に、奥方様が……セラが突然、その姿を消してからというもの、エドウィン公爵家の屋敷はまるで、火が消えたようだった。
 表面上は、奥方様がいらした時も、何も変わらない。
 奥方様が自ら姿を消されたことを知るのは、旦那様を除けば、執事のスティーブ、女中頭ソフィー、奥方様付きのメリッサ、それと、ミカエルの四人だけだ。
 妾腹とはいえ、王家から降嫁された、奥方の失踪などという、エドウィン公爵家の醜聞を、王宮のお喋り雀たちの餌にせず、騒ぎを大きくしないためには、そうするよりなかった。
 他の使用人達には、ほんの少し体調を崩された奥方様は、しばし療養に行かれたということになっている。
 アンラッセルの地から戻ったばかりで、かなり不自然さがぬぐえないそれであっても、この公爵家においては、旦那様が仰ったそれに異を唱える者はおらず、ごく自然に受け入れられた。
 最初は、奥方様がいらっしゃらないことに、微かな違和感を覚えていた者たちも、十日も経つと徐々に慣れ、屋敷の内は以前の平穏さを取り戻しつつある。
 しかし、ふとした瞬間、ミカエルは寂しく思う。
 このお屋敷は、こんなに静かだっただろうか?これほど、寒々しい空気を漂わせていただろうか。
 何も、変わってはいない。ただ、奥方様が降嫁される前に、昔に戻っただけであるのに……。
 それなのに、公爵家の中からは、笑顔が消えてしまったようだ。
 焦りと、一抹の寂しさを覚えているのは、従者の少年だけではないらしく、年季を積んだ熟練の使用人であり、何事にも動じないスティーブや、鷹揚で、頼もしいソフィーでさえも、どこか調子が狂ったように、些細な失敗が多々あった。
 きびきびとした真面目な仕事ぶりは変わらずとも、暇になると老執事は、遠く、窓の外を見つめることが増えたし、ソフィーは運んでいた皿を、床に落として何枚も割るなど、まるで新米の女中のような失態を、同じ週に二度も繰り返した。
 それでも、奥方様のことを口にするのは、禁句のようにはばかられて、従者の少年は口をつぐみ続けるよりなかった。
 はあ……、とその唇から、無意識の内に、重々しいため息が漏れる。
 (不思議だな……ただ、奥方様がいらっしゃらない頃と、同じに戻っただけなのに)
 (旦那様みたいに、従わずにいられないような、存在感があったわけじゃない。旦那様の隣で、柔らかく微笑んでおられるような、控えめな方だったのに)
 (まるで、この屋敷から、光が消えてしまったみたいだ……)
 ミカエル。
 彼は、名を呼んでくれた、やわらかな声の主を思い出す。
 翠の瞳。
 セラのそれは、柔らかで、透明で、やや儚い印象を抱くような声だった。
 湿っぽい感傷に囚われそうになり、ミカエルは、肩に重くのし掛かってくる、それを振り切るように、無理やりに一歩、前へと踏み出した。
 心配なのは……奥方様が居なくなられたことで、あるべき明るさを失ってしまったのは、スティーブやソフィーだけではない。
 日夜、奥方様のお世話をし、その良き友のようであったメリッサこそ、此度のことで、一体、どれ程の衝撃を受けているのか、想像に難くなかった。
 意気消沈しているであろう、女中の少女を案じながら、ミカエルは階段を上がる。
 その先には、奥方様の、セラの部屋があった。


「メリッサ……?入るよ」
 ノックをしても返事がなかったので、ミカエルは真鍮のノブを捻ると、室内に足を踏み入れた。
 ……まぶしい。
 扉を開けるなり、少年の、淡い青の瞳がすがめられる。
 南向きの、陽当たりの良い室内は、光にあふれていた。
 窓から射し込むそれが、机上に飾られた花瓶や、陶器の踊り子に、あわい陰影を落としている。
 わかっていたことながら、その部屋に居るべき女主人の姿は、部屋の何処にもなかった。
 セラフィーネが出ていった時と、寸分も変わらず、塵ひとつない部屋の中はきちんと片付けられていた。
 ――ルーファスへ。
 たどたどしい、間違い綴りだらけ手紙を一通、机の上に残して、屋敷を去った奥方様。
 主の居なくなった部屋は、きちんと整頓されていて、何もかもが元通り、在るべきものが在るべき場所に戻されていた。
 クローゼットのドレスは全てそのままに、大層、見事な宝石箱の中身は、開けた気配すらなかった。
 他にも、普段使いにしていた品々でさえ、丁寧に磨かれて、元の場所に戻してあった。
 宝石一つ、指輪一つ、部屋にあるものを持ち出せば、向こう数年、生活に困らない位の値がついだろう。
 しかし、奥方様と呼ばれる少女は、そうしなかった。いや、そもそも、そんな事は考えなかったのかもしれない。
 ミカエルが知る限り、この部屋から持ち出された品はたった二つ、メリッサが編んだ膝掛けと、旦那様が気まぐれに奥方様に贈った、硝子細工の鳩だった。
 奥方様は、そういう方だった。そういう方だったのだ。
 宝石箱にあふれる、眩しいほどの輝きよりも、木漏れ日に透ける硝子を好んだ。
「ねぇ、見て。綺麗でしょう?」
 旦那様が贈った、小さな硝子の鳩を手のひらにのせて、奥方様は楽しそうに微笑っていた。
 如何なる宝石よりも、大切なものを自慢するように。
「こうするとね、光が透けて、虹色に見えるの」
 綺麗でしょう。ミカエル……
 何だか無性に切なくなって、従者の少年は、それ以上、過去を振り返るのを止めた。
 ここで積み重ねた時間を、思い出せば、思い出すほどに、奥方様のいない部屋に、虚しさを覚えずにはいられないからだ。
 綺麗に片付けられた其処は、奥方様らしくもあったけれど、どこか寂しいものを感じさせた。
 奥方様にとって、この部屋は借り物であって、いつかはきちんと元の主人に返すべきものだったのだと、そう思わされるからだ。
「……メリッサ」
 ミカエルが声をかけると、寝台のシーツを代えていたメリッサが、彼の方に首を向ける。
 刹那、その碧眼に落胆めいた色がよぎり、睫毛が伏せられたのを、従者の少年は見逃さなかった。
 その理由を、ミカエルは知っていた。
 セラが居るときも、居なくなってからも、奥方様付きの少女の習慣は少しも変わらなかった。
 毎朝、主人のいない部屋を居心地良く整えて、いつ戻ってきてもいいようにしていた。その無為さを、よく知りながら。
 奥方様がいらした時と、少しも変わらない部屋を見れば、メリッサがいかに女主人を大切に想い、大事にしていたのかよくわかった。
「どうしたのよ?ミカエル坊や。あたしに、何か用事?」
 メリッサは無理したように笑うと、わざとだろう。少しおどけたように言った。空元気がかえって、痛々しかった。
 表面は平気そうに見える彼女の、実際の意気消沈ぶりを知るだけに、坊や、と呼ばれたミカエルは腹を立てることもなく、「ソフィーさんが手が空いたら、手伝って欲しい、って言っていたよ」と、言うのみに留めた。
「……そう」
 快活な性格をしていたはずのメリッサは、力なく首を縦に振り、ぽんぽんと綺麗にしたばかりの枕を叩いた。
 主、不在の其処には、どこか物悲しさが漂う。
 ぼぉ、と窓辺に佇んだまま、一向に階下に降りる気配のないメリッサに、ミカエルは「行かないの?」と、声をかけた。
 日頃、少年の姉のように振る舞う女中の少女は、「行くわよ、行くけど……」と、いつになく煮え切らない返事をする。
 言葉を返すことさえ、心ここに在らずというか、上の空のようだった。
 ミカエルは仕方ないとでも言いたげな顔で、はあ、と嘆息し、メリッサらしくないね、と呟いた。
「……どういう意味よ?ミカエル」
 少女の顔に、訝しげなものがよぎる。
 やや緊張感を孕んだ空気の中、従者の少年はいつになく鋭い目をして、唇を尖らせた。ともすれば、少女めいた優しげな面立ちが、そうすると男のものへと変化する。
 少年の頬はかすかに紅潮して、何かに耐えているようだった。
「奥方様が屋敷から居なくなられた時、僕はメリッサならば、すぐ探しに行こうって言うと思っていた。たとえ、旦那様に止められたって、絶対に行くだろう、って……黙って、待っているなんて、メリッサらしくないじゃないか」
 何故かはわからぬが、少年の目には険があり、声には苛立ちめいたものが透けていた。
 沸き上がる何かに我慢出来ず、無理矢理に、溢れる感情を押さえ込んでいるような。
 ほんの二つ、三つの差とはいえ、姉貴分として、年齢の割に、しっかりしているようで、実は意外と押しに弱いミカエルの性格を掴んでいるメリッサは、いつになく攻撃的に噛みついてくる少年に、目を丸くした。
 切り揃えた金髪の下、のぞく薄水の瞳は、憤りにも似た激しいものを宿している。
 己の正しさを、微塵も疑っていない者の目だった。
 幼いが故の、感情の発露。
 メリッサにも、よく覚えのある感覚だった。
 ああ。
 自ら動こうとしない屋敷の者たちに、内心、憤るように、きっと面を上げたミカエルを見て、メリッサは、その振る舞いや立場から、年相応に見られることが少ない少年が、まだ十四、己の弟よりも下であることを思い出す。
 旦那様の従者としての勤めを果たし、その能力を認められていても、しなやかに伸び、天を仰ぐ若木のような、まだ少年の域を出ていない存在なのだ。
 その青い真っ直ぐさを、未熟ゆえの愚かと嘲笑うことは、彼女には出来ない。――それが、いずれ遠くない日に、失われてしまうものだとしても。
「わかってないわね、ミカエル……それじゃあ、駄目なのよ」
 メリッサは、寂しげな苦笑を浮かべた。
 それでは、意味がないのだ。自分がいかにセラ様のことを慕い、心配し、心から案じているとしても、それでは足りないのだ。奥方様のお心を救い、迎えに行くことを許されているのは、最初から、たった一人だけなのだ。
 ミカエルだって、きっと気付く。遅いか早いか、所詮、それだけの違いだ。
「何でさ?意味がわからないよ」
 少年は、納得いかないようだった。
 ミカエルだって、承知している。
 もしも、屋敷を出て行った奥方様が、危険な目に合っているようなら、旦那様はどんな手を使っても探し出すし、窮地から助け出すことだろう。そこで、下手に迷ったり、臆したりということは、あの御方に限ってはあり得ない。ルーファス=ヴァン=エドウィンという貴人は、そういう方なのだ。
 そうしないということは、奥方様の居るであろう場所に、ある程度の心当たりがあり、差し迫った命の危険はないと、心得ているからだろう。
 二十日の月日が流れようとも、迎えに行く様子がないのは、おそらく、旦那様のお心の問題なのだ。
 しかし、それはそれとして、旦那様の指示を待つばかりで、一向に行動に出ようとしないスティーブや、事情を知りながら、黙認しているソフィーに、ミカエルは苛立ち、歯痒いものを感じていた。
 忠実なる老執事は、賢明な沈黙を守り、一人で勝手な真似をしないよう、年若い従者に釘をさしている。
 まさか、あの奥方様に執心しているソフィーまでもが、大人しく、それに従い、じっとしているとは思わなかった。
 そう、ぼやいたミカエルに、だって、無理だもの、と返した少女のそれは、意外にも穏やかだった。
「奥方様の気が変わって、帰ってきてくださるなら、それでいいの。でも、迎えに行くのならば、あたし達じゃ無理なのよ。それを出来るのは、あたしやあんたじゃないの……本当は、もうわかっているんじゃないの?ねえ、ミカエル」
 凪いだ碧眼で、此方を見つめてくるメリッサに、ミカエルは、う……っ、と口ごもった。自棄気味に、
「わかっているよ。僕だって、旦那様の一の従者だもの。ずっと、旦那様や奥方様のことを、おふたりのことを見てきたんだよ」
と、本音を口にする。
 唇を尖らせた少年の顔は、少し悔しげだ。
 誰に言われるまでもなく、誰も奥方様の代わりも、旦那様の代わりが勤まらないことを、ミカエルだって知っているのだ。
 秘された王女と蔑まれていたセラと、氷と恐れられたルーファスが、少しずつ、少しずつ、ぎこちなくも心を通わせていくのを、傍で見ていた。
 頑なな心の糸が、ゆるやかにほどけ、結ばれていく。緩やかな変化の兆しが、あたたかくも、優しかった。
「奥方様が居なくなられてから、仕事に没頭されるばかりで、ろくな食事も取られないし、いつか……旦那様が倒れるんじゃないかと心配なんだよ」
 杞憂であればいい、と願いながら、ミカエルは目を伏せた。
 セラが居なくなってからというもの、ルーファスの生活は、ひどく簡素なものになっていった。
 その日の朝こそ、忙しなかった旦那様は半日もすると落ち着いて、冷静に、的確に、普段通りの有能さをもって、本来の勤めを果たしていた。
 王太子の求るままに、執務の補佐をしながら、王宮と公爵家の屋敷を往復し、深夜まで部屋に籠り、書類の整理をしていた。
 三度の食事も、ミカエルに運ばせては、己の部屋で取り、使用人の手すらわずらわせようとしない。
 役目を放棄するような真似は、死んでもせず、むしろ、仕事の効率は上がっただろうが、それを喜ばしいと思う者は、ミカエルやメリッサも含め、屋敷の使用人の中にはいなかっただろう。
 元々、勤勉で仕事熱心な性質だとしても、今のルーファスのそれは度を越しており、まるで、職務に没頭することで、何かを忘れようとしているようだった。去った存在を、厭わしいと思い、忘れようとすうとすればするほど、湧き上がってくる想いに、身を焦がすような恋情に、懊悩し、無茶とも言える仕事量をこなす。深い蒼の双眸は、沈んでいた。
 日に日に鋭く、研ぎ澄まされていく視線は、まるで、昔の主人を見ているようで、従者の胸は痛む。
「僕は、何か出来るのかな……」
 手のひらを見つめ、それを握りしめた少年に、メリッサは労わるような眼差しを注いだ。
 特別なことは、必要ないのよ。
「あんたに出来ることは、ただ旦那様のお傍にいて差し上げる事、それだけでも十分よ。ミカエル……それしか、出来ないもの」
 重ねられた少女の手を、振り払おうとは思わず、ミカエルは心の中で、彼の人に呼びかけた。
 ――奥方様、今、どちらにいらっしゃるのですか?
 どうか、戻っていらしてください……どんなに願っても、僕らだけじゃ、駄目なんです。
 貴女がいらっしゃらないと、旦那様は、真実の意味では、救われないんです。
 片翼の鳥が、決して、碧空に羽ばたけないように……貴女は、違うのですか?奥方様。

 その祈りが、亜麻色の髪をした少女に届くようにと、かつてないほど真剣に、ミカエルは願ったのだった。


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