主人の部屋の扉を前にして、ミカエルは唇を結んだまま、馬鹿みたいに突っ立っていた。
少年自身、間の抜けた眺めだとはわかっている。
ほんの一、二歩、扉に歩み寄り、ノブを回し、ルーファスの書斎に入るだけだというのに、たったそれだけのことだというのに、その勇気がわいてこないのだ。
我ながら、女々しいことだと、ひどい自己嫌悪に陥りそうになる。
ミカエルの両手には、夕食をのせた銀のトレーが捧げ持たれている。
ここ十日ほど、ルーファスは、食堂には姿を見せず、大概、このように従者に自室まで運ばせている。
メニューは、魚介のリゾット、舌平目のムニエル、人参のポタージュなど。
体調が思わしくないわけではないものの、積極的に食事を取ろうとしない主人を、コックのベンが慮ったのだろう。
喉の通りの良さそうなものばかりだった。
最近は、厨房からも火が消えて、ベンも溜め息が増えた。
主人も心配だろうが、いつも幸せそうに食べていた奥方様が居ないことで、張り合いがないらしい。
健啖家でなくとも、 以前の主人は、食を楽しむことを知っていた。
奥方様が嫁して来られてからは、 食卓が賑わうという、喜びを知った。今は……。
ミカエルはうなだれて、冷めかけてしまった、ポタージュの皿を見た。
金の縁取りがされた皿の中、人参のスープに映る己の顔は、いかにも冴えない。
ミカエルは気持ちを固めると、中の主に訪れを知らせる為、一、二度、扉を叩いて、ノブに手をかけると、ぐっ、と力を込めて、それを捻った。
ギィィ、と扉が音を立てて開かれ、覗き込んだそこは、薄暗い。
「旦那様、お夕食をお持ちいたしました」
銀のトレーを手に、ミカエルはそう声を上げた。
蝋燭の灯りのみで照らされた部屋は、薄暗く、書き物机の周りを除いては、暗がりに包まれているようだった。されども、部屋の主はそれを苦にした様子もなく、椅子に腰掛け、机の書類と向き合っているようだった。
カリカリカリ、と羽ペンを走らせる音が響く。
ミカエルは一瞬、目を伏せた。
休みなく、羊皮紙の上を走るペン、時折、インク壺にペン先を浸しては、また紙を流麗な文字が彩っていく。
ルーファス=ヴァン=エドウィンの署名。
旦那様の勤勉さと、責務の重さを示すように、休みなく響くペンの音。
以前は、規則正しい旋律にも似たそれに、背筋が伸びるような気持ちになり、そんな主人に仕える誇りを感じたものだった。
従者の敬愛の思いは変わらないにしろ、今は、その青年の背中に、どこか孤独の影を見るのも事実だった。
「ミカエルか」
暗闇から響いた、低く、重々しく声に、ミカエルは、びくっ、刹那、身を強ばらせた。
丸みを削ぎ落としたように、硬質な、美声と言っていいそれは、いつも威圧じみた空気を漂わせ、従者の心臓を鷲掴みにする。
ミカエルは恐々と、その薄水の瞳を声の方へと滑らせた。
蝋燭の灯りで照らされた暗闇に、蒼い双眸が、鋭い刃のような輝きを放っていた。
「……っ」
獣に射竦められた、獲物のような心地になって、声なく呻きを漏らしたミカエルだったが、段々と闇に目が慣れてくるにつれ、ゆるゆると息を吐いた。
少年の目に映るのは、長い足を組み、椅子に座ったルーファスの姿だった。
息遣いに、蝋燭の焔が揺らいで、顔の右半分だけを照らし、端整なそれを晒している。
闇に浮き上がるその白い貌は、何故か体温が感じられず、よく出来た彫像のようだった。
ミカエルの姿を認めたルーファスは、ついと目線だけを動かすと、ペンを握る手を休めぬまま、「ご苦労、食事はその辺に置いておけ」と、簡潔に言った。
ミカエルは一度は素直に、主人の言葉に従い、円卓の上にトレーを置きかけたものの、気になることがあったのか、動きを止めた。
従者の少年は、物言いたげに、ルーファスの広い背中を見つめ、旦那様、と声をかける。
「どうか、冷める前に召し上がってください」
美味しそうですよ、と言い添えた声は、何とも心もとなく。
既に冷めているポタージュの皿を見つめながら、ミカエルは、余り顔色の優れない主人に、無理だろうと知りながらも、そう嘆願せずにはいられなかった。
「……ああ」
ルーファスは淡々と応じると、手を止めようとも、運ばれた食事に手をつけようともしなかった。
「旦那様……」
「もう下がっていい、ミカエル」
主人の傍から離れようとしない、ミカエルにかけられた、ルーファスのそれは、冷淡だった。
普段から、お世辞にも愛想が良いとは言えぬ青年であるが、それにしても素っ気ない。
暗に出ていけ、という意図を透けているにも関わらず、眉をひそめたミカエルはなおも食い下がった。
「旦那様、夜、きちんと眠っておられますか?お顔の色が、よろしくありませんよ」
主人を案じるが故の忠言だったが、それは些か責めるような、咎めるようなものをはらんでいたかもしれない。
心なしか、ルーファスの纏う空気が変わり、その蒼が極寒の海のような冷たさを帯びる。
ルーファスはうっすらと口角を上げ、身の程を弁えぬ従者の愚かさを、皮肉るように嗤った。
ミカエル。
少年の名を口した声は、いっそあまやかで、されど、ぞっとするほどの酷薄さを秘めている。
「お前は一体、いつから、そんな出過ぎた真似をするようになった」
ルーファスの冷ややかな一瞥に、ミカエルは反論もしなかったが、かといって、背を向けるような、惰弱な真似もしなかった。
普段、優しげに見える空色の瞳が、「旦那様は、それでいいのですか」とでも言いたげに、挑むような光を投げかけている。
いつになく強気な態度で、ぶつかってくる従者に、ルーファスは眉を寄せ、かすかな苛立ちを露わにした。
ミカエル、青年の唇から、言うべきでなかったそれが零れる。
「寄る辺なき孤児だったお前を、拾ったのは、誰だ?」
旦那様です、と反射的に答えかけて、ミカエルは口をつぐんだ。
それは、つまらぬ意地だったのかもしれない。
――何故だろう、昔は何とも思わなかったはずの言葉が、今、こんなにも胸に突き刺さるのは。
――どうしてなのだろう、僕は旦那様に拾われたもの、路地裏で残飯を漁り、生きてきた孤児、こんな風に傷つく必要なんてないはずなのに……。
冷然とした態度、こちらを見下ろす黒髪の青年の周りには、すべてを拒むような壁がある。
――まるで、出会った頃の旦那様に戻ったようだ。
凍てついた眼差しで、周囲を睥睨する、美しい孤高の獣。
雨に打たれた孤児を見下ろす、蒼い双眸は、あの頃の少年にとって、権威と貴族の象徴だった。
もしも、こんな時、奥方様がいらしてくださったら、困ったように眦を下げて、あの柔らかな声音で、旦那様をなだめたことだろう。
虚しいような、悔しいような、そんな複雑な葛藤を抱えて、ミカエルは拳を握った。けれど、面を上げれば、従者は主人の表情の変化に、嫌でも気づかざるを得ない。
(旦那様……?)
少年の目に映ったルーファスは、微かに柳眉を寄せ、何事かに耐えるような、苦しげな表情を浮かべていた。
そんな顔をした旦那様を見るのは、初めてだったので、驚いたミカエルは間抜けにも、ぽかんと口を開けずにいられない。
目を見開いて、まじまじと見つめる少年の耳に、吐息と「すまなかった」という声が届いた。
吐息を吐き出し、軽く頭を振ったルーファスの目には、後悔の感情がよぎっていた。
「心配してくれたお前に、今のは失言だった……」
許せと言わない。ミカエルに対し、そう続けたのは、ルーファスなりの負い目と、償いのつもりだったのだろう。
「いえ、……」
小さく笑って、ミカエルは首を横に振った。
「僕も昔、旦那様に刃を向けましたから、あの時のことを謝っていませんでしたし、これで、おあいこです」
扉に歩み寄ると、ミカエルは「旦那様、きちんと夕餉を召し上がってくださいね」と念を押し、深々と一礼すると、主人の前を辞す。
そうして、扉が閉まるのを、ルーファスは瞬きもせず、見つめていた。
翌日の昼間のことである。
空はこのところの曇天が嘘のように、雲一つない快晴で、爽やかな風が吹いていた。
お屋敷の中も暖かく、ミカエルは太陽の光に照らされた公爵家の廊下を、足早に歩いていた。
そうして、彼が歩いていると、使用人部屋の前で話している、公爵家の女中の声が聞こえてくる。
昼食の皿を片付けた後、この時間は、比較的のんびりしていた。
執事や女中頭がいたとして、多少のお喋りは、咎め立てされるほどではない。
聞き耳を立てるつもりもなかったが、ひそめたつもりも大きい彼女たちの声は、自然と耳に飛び込んでくる。
マーサという、古参の使用人が頬に片手をあて、「不思議なのよねえ」と、こぼしていた。
同じく、先代から仕えているエラという女中が、「何かあったの?」と、尋ねる。
マーサは首をひねりながら、狐につままれたような顔で喋る。
「最近、どうにも腰が痛いって、話していたでしょう?奥方様の前でもって、転んでしまって……そうしたら、二十日位前、使用人部屋の前に、膏薬の壺が置かれていたの……一体、誰がそんなことをしてくれたのかしら?」
よく効くのよ、と言いつつも、マーサは壺を贈ってくれた人間に、心当たりがない様子だった。
あら、あたしもよ、エラは目を丸くする。
「夫の形見の指輪、失くしてしまったと思ったのが、ひょっこり出てきたの」
本当に……不思議なこともあるもねえ、そう声を揃える女中たちに、ミカエルは思わず、叫びたいような気持ちにかられて、口元を押さえた。
(きっと、奥方様だ……!)
それは、セラなりの置き土産のつもりだったのだろう。
奥方様が何故、この屋敷を去ってしまわれたのか、その真相をミカエルは知らない。
でも、たとえ、過ごした歳月が短くとも、奥方様は奥方様なりに、この屋敷を、この公爵家で働く人々を愛していたのだ。
会話が途切れた時、古参の女中のひとり、エラが、ふと何かに気付いたように、辺りを見回した。
「気のせいかしら、最近、屋敷の中、妙に静かね」
ええ、とマーサも調子を合わせる。
「奥方様が療養に出ていらっしゃるからね、きっと。早く戻ってきてくださると、良いわね」
あの調子の外れた歌も、奥方様がいらっしゃらないと、こいしくなるものね。
しぃ、と唇の前に指を立て、ふふふ、と笑いあう女中たちは、奥方様が自ら姿を隠されたことを知らない。
奥方様はわけあって、少し屋敷を離れられているだけだと、疑いもなく信じている。
使用人仲間に黙っていることに、良心の咎めを覚えつつも、ミカエルは唇を引き結ぶと、歩調を早め、そこから遠ざかった。
階段を上がると、奥方様の部屋の掃除をしてきたらしい、ソフィーとすれ違う。
どことなく我慢するような顔をしたミカエルに、何かを察したのだろう、ソフィーは優しく目を細める。
そうやって、ふくよかな手で、なぐさめるように、少年の淡い金の髪を撫でる。
女中頭のあたたかな手のひらに、ミカエルは、幼い時に亡くなった母親を思い出す。
白粉ときつい香水の匂いをまとった、ソフィーとは、さっぱり、似ていない人だったのだけど。
「不思議と思うでしょう、ミカエル」
「え……?」
女中頭の言葉に、ミカエルは首を傾げる。
「奥方様は大人しい方だから、旦那様のように表立って動かれることはなかったけれど、でも、救われたものは確かにあったのよ」
ミカエルは黙って、うつむく。
そんな風にして、ソフィーの言葉の意味を、噛み締めていた。
変わってしまったものも、変わらないものもあった。でも。
僕は。
(奥方様に、戻っていらして欲しいんだ)
だって、あの御方はこのお屋敷に、何より旦那様に必要な人だから。
「ミカエル」
老執事の声に、従者は面を上げた。
廊下の反対側から、 長身の執事が颯爽とした足取りで、歩み寄ってくる。
謹厳を絵に描いたようなスティーブは、にこりともせず、従者に主人からの言伝を告げた。
「旦那様が王宮に向かわれます、供をなさい」
と。
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