BACK NEXT TOP


六章 王女の呪い 2


 主人の部屋の扉を前にして、ミカエルは唇を結んだまま、馬鹿みたいに突っ立っていた。
 少年自身、間の抜けた眺めだとはわかっている。
 ほんの一、二歩、扉に歩み寄り、ノブを回し、ルーファスの書斎に入るだけだというのに、たったそれだけのことだというのに、その勇気がわいてこないのだ。
 我ながら、女々しいことだと、ひどい自己嫌悪に陥りそうになる。
 ミカエルの両手には、夕食をのせた銀のトレーが捧げ持たれている。
 ここ十日ほど、ルーファスは、食堂には姿を見せず、大概、このように従者に自室まで運ばせている。
 メニューは、魚介のリゾット、舌平目のムニエル、人参のポタージュなど。
 体調が思わしくないわけではないものの、積極的に食事を取ろうとしない主人を、コックのベンが慮ったのだろう。
 喉の通りの良さそうなものばかりだった。
 最近は、厨房からも火が消えて、ベンも溜め息が増えた。
 主人も心配だろうが、いつも幸せそうに食べていた奥方様が居ないことで、張り合いがないらしい。
 健啖家でなくとも、 以前の主人は、食を楽しむことを知っていた。
 奥方様が嫁して来られてからは、 食卓が賑わうという、喜びを知った。今は……。
 ミカエルはうなだれて、冷めかけてしまった、ポタージュの皿を見た。
 金の縁取りがされた皿の中、人参のスープに映る己の顔は、いかにも冴えない。
 ミカエルは気持ちを固めると、中の主に訪れを知らせる為、一、二度、扉を叩いて、ノブに手をかけると、ぐっ、と力を込めて、それを捻った。
 ギィィ、と扉が音を立てて開かれ、覗き込んだそこは、薄暗い。
「旦那様、お夕食をお持ちいたしました」
 銀のトレーを手に、ミカエルはそう声を上げた。
 蝋燭の灯りのみで照らされた部屋は、薄暗く、書き物机の周りを除いては、暗がりに包まれているようだった。されども、部屋の主はそれを苦にした様子もなく、椅子に腰掛け、机の書類と向き合っているようだった。
 カリカリカリ、と羽ペンを走らせる音が響く。
 ミカエルは一瞬、目を伏せた。
 休みなく、羊皮紙の上を走るペン、時折、インク壺にペン先を浸しては、また紙を流麗な文字が彩っていく。
 ルーファス=ヴァン=エドウィンの署名。
 旦那様の勤勉さと、責務の重さを示すように、休みなく響くペンの音。
 以前は、規則正しい旋律にも似たそれに、背筋が伸びるような気持ちになり、そんな主人に仕える誇りを感じたものだった。
 従者の敬愛の思いは変わらないにしろ、今は、その青年の背中に、どこか孤独の影を見るのも事実だった。
「ミカエルか」
 暗闇から響いた、低く、重々しく声に、ミカエルは、びくっ、刹那、身を強ばらせた。
 丸みを削ぎ落としたように、硬質な、美声と言っていいそれは、いつも威圧じみた空気を漂わせ、従者の心臓を鷲掴みにする。
 ミカエルは恐々と、その薄水の瞳を声の方へと滑らせた。
 蝋燭の灯りで照らされた暗闇に、蒼い双眸が、鋭い刃のような輝きを放っていた。
「……っ」
 獣に射竦められた、獲物のような心地になって、声なく呻きを漏らしたミカエルだったが、段々と闇に目が慣れてくるにつれ、ゆるゆると息を吐いた。
 少年の目に映るのは、長い足を組み、椅子に座ったルーファスの姿だった。
 息遣いに、蝋燭の焔が揺らいで、顔の右半分だけを照らし、端整なそれを晒している。
 闇に浮き上がるその白い貌は、何故か体温が感じられず、よく出来た彫像のようだった。
 ミカエルの姿を認めたルーファスは、ついと目線だけを動かすと、ペンを握る手を休めぬまま、「ご苦労、食事はその辺に置いておけ」と、簡潔に言った。
 ミカエルは一度は素直に、主人の言葉に従い、円卓の上にトレーを置きかけたものの、気になることがあったのか、動きを止めた。
 従者の少年は、物言いたげに、ルーファスの広い背中を見つめ、旦那様、と声をかける。
「どうか、冷める前に召し上がってください」
 美味しそうですよ、と言い添えた声は、何とも心もとなく。
 既に冷めているポタージュの皿を見つめながら、ミカエルは、余り顔色の優れない主人に、無理だろうと知りながらも、そう嘆願せずにはいられなかった。
「……ああ」
 ルーファスは淡々と応じると、手を止めようとも、運ばれた食事に手をつけようともしなかった。
「旦那様……」
「もう下がっていい、ミカエル」
 主人の傍から離れようとしない、ミカエルにかけられた、ルーファスのそれは、冷淡だった。
 普段から、お世辞にも愛想が良いとは言えぬ青年であるが、それにしても素っ気ない。
 暗に出ていけ、という意図を透けているにも関わらず、眉をひそめたミカエルはなおも食い下がった。
「旦那様、夜、きちんと眠っておられますか?お顔の色が、よろしくありませんよ」
 主人を案じるが故の忠言だったが、それは些か責めるような、咎めるようなものをはらんでいたかもしれない。
 心なしか、ルーファスの纏う空気が変わり、その蒼が極寒の海のような冷たさを帯びる。
 ルーファスはうっすらと口角を上げ、身の程を弁えぬ従者の愚かさを、皮肉るように嗤った。
 ミカエル。
 少年の名を口した声は、いっそあまやかで、されど、ぞっとするほどの酷薄さを秘めている。
「お前は一体、いつから、そんな出過ぎた真似をするようになった」
 ルーファスの冷ややかな一瞥に、ミカエルは反論もしなかったが、かといって、背を向けるような、惰弱な真似もしなかった。
 普段、優しげに見える空色の瞳が、「旦那様は、それでいいのですか」とでも言いたげに、挑むような光を投げかけている。
 いつになく強気な態度で、ぶつかってくる従者に、ルーファスは眉を寄せ、かすかな苛立ちを露わにした。
 ミカエル、青年の唇から、言うべきでなかったそれが零れる。
「寄る辺なき孤児だったお前を、拾ったのは、誰だ?」
 旦那様です、と反射的に答えかけて、ミカエルは口をつぐんだ。
 それは、つまらぬ意地だったのかもしれない。
 ――何故だろう、昔は何とも思わなかったはずの言葉が、今、こんなにも胸に突き刺さるのは。
 ――どうしてなのだろう、僕は旦那様に拾われたもの、路地裏で残飯を漁り、生きてきた孤児、こんな風に傷つく必要なんてないはずなのに……。
 冷然とした態度、こちらを見下ろす黒髪の青年の周りには、すべてを拒むような壁がある。
 ――まるで、出会った頃の旦那様に戻ったようだ。
 凍てついた眼差しで、周囲を睥睨する、美しい孤高の獣。
 雨に打たれた孤児を見下ろす、蒼い双眸は、あの頃の少年にとって、権威と貴族の象徴だった。
 もしも、こんな時、奥方様がいらしてくださったら、困ったように眦を下げて、あの柔らかな声音で、旦那様をなだめたことだろう。
 虚しいような、悔しいような、そんな複雑な葛藤を抱えて、ミカエルは拳を握った。けれど、面を上げれば、従者は主人の表情の変化に、嫌でも気づかざるを得ない。
(旦那様……?)
 少年の目に映ったルーファスは、微かに柳眉を寄せ、何事かに耐えるような、苦しげな表情を浮かべていた。
 そんな顔をした旦那様を見るのは、初めてだったので、驚いたミカエルは間抜けにも、ぽかんと口を開けずにいられない。
 目を見開いて、まじまじと見つめる少年の耳に、吐息と「すまなかった」という声が届いた。
 吐息を吐き出し、軽く頭を振ったルーファスの目には、後悔の感情がよぎっていた。
「心配してくれたお前に、今のは失言だった……」
 許せと言わない。ミカエルに対し、そう続けたのは、ルーファスなりの負い目と、償いのつもりだったのだろう。
「いえ、……」
 小さく笑って、ミカエルは首を横に振った。
「僕も昔、旦那様に刃を向けましたから、あの時のことを謝っていませんでしたし、これで、おあいこです」
 扉に歩み寄ると、ミカエルは「旦那様、きちんと夕餉を召し上がってくださいね」と念を押し、深々と一礼すると、主人の前を辞す。
 そうして、扉が閉まるのを、ルーファスは瞬きもせず、見つめていた。


 翌日の昼間のことである。
 空はこのところの曇天が嘘のように、雲一つない快晴で、爽やかな風が吹いていた。
 お屋敷の中も暖かく、ミカエルは太陽の光に照らされた公爵家の廊下を、足早に歩いていた。
 そうして、彼が歩いていると、使用人部屋の前で話している、公爵家の女中の声が聞こえてくる。
 昼食の皿を片付けた後、この時間は、比較的のんびりしていた。
 執事や女中頭がいたとして、多少のお喋りは、咎め立てされるほどではない。
 聞き耳を立てるつもりもなかったが、ひそめたつもりも大きい彼女たちの声は、自然と耳に飛び込んでくる。
 マーサという、古参の使用人が頬に片手をあて、「不思議なのよねえ」と、こぼしていた。
 同じく、先代から仕えているエラという女中が、「何かあったの?」と、尋ねる。
 マーサは首をひねりながら、狐につままれたような顔で喋る。
「最近、どうにも腰が痛いって、話していたでしょう?奥方様の前でもって、転んでしまって……そうしたら、二十日位前、使用人部屋の前に、膏薬の壺が置かれていたの……一体、誰がそんなことをしてくれたのかしら?」
 よく効くのよ、と言いつつも、マーサは壺を贈ってくれた人間に、心当たりがない様子だった。
 あら、あたしもよ、エラは目を丸くする。
「夫の形見の指輪、失くしてしまったと思ったのが、ひょっこり出てきたの」
 本当に……不思議なこともあるもねえ、そう声を揃える女中たちに、ミカエルは思わず、叫びたいような気持ちにかられて、口元を押さえた。
 (きっと、奥方様だ……!)
 それは、セラなりの置き土産のつもりだったのだろう。
 奥方様が何故、この屋敷を去ってしまわれたのか、その真相をミカエルは知らない。
 でも、たとえ、過ごした歳月が短くとも、奥方様は奥方様なりに、この屋敷を、この公爵家で働く人々を愛していたのだ。
 会話が途切れた時、古参の女中のひとり、エラが、ふと何かに気付いたように、辺りを見回した。
「気のせいかしら、最近、屋敷の中、妙に静かね」
 ええ、とマーサも調子を合わせる。
「奥方様が療養に出ていらっしゃるからね、きっと。早く戻ってきてくださると、良いわね」
 あの調子の外れた歌も、奥方様がいらっしゃらないと、こいしくなるものね。
 しぃ、と唇の前に指を立て、ふふふ、と笑いあう女中たちは、奥方様が自ら姿を隠されたことを知らない。
 奥方様はわけあって、少し屋敷を離れられているだけだと、疑いもなく信じている。
 使用人仲間に黙っていることに、良心の咎めを覚えつつも、ミカエルは唇を引き結ぶと、歩調を早め、そこから遠ざかった。
 階段を上がると、奥方様の部屋の掃除をしてきたらしい、ソフィーとすれ違う。
 どことなく我慢するような顔をしたミカエルに、何かを察したのだろう、ソフィーは優しく目を細める。
 そうやって、ふくよかな手で、なぐさめるように、少年の淡い金の髪を撫でる。
 女中頭のあたたかな手のひらに、ミカエルは、幼い時に亡くなった母親を思い出す。
 白粉ときつい香水の匂いをまとった、ソフィーとは、さっぱり、似ていない人だったのだけど。
「不思議と思うでしょう、ミカエル」
「え……?」
 女中頭の言葉に、ミカエルは首を傾げる。
「奥方様は大人しい方だから、旦那様のように表立って動かれることはなかったけれど、でも、救われたものは確かにあったのよ」
 ミカエルは黙って、うつむく。
 そんな風にして、ソフィーの言葉の意味を、噛み締めていた。
 変わってしまったものも、変わらないものもあった。でも。
 僕は。
 (奥方様に、戻っていらして欲しいんだ)
 だって、あの御方はこのお屋敷に、何より旦那様に必要な人だから。
「ミカエル」
 老執事の声に、従者は面を上げた。
 廊下の反対側から、 長身の執事が颯爽とした足取りで、歩み寄ってくる。
 謹厳を絵に描いたようなスティーブは、にこりともせず、従者に主人からの言伝を告げた。
「旦那様が王宮に向かわれます、供をなさい」
と。


BACK NEXT TOP


Copyright(c) 2013 Mimori Asaha all rights reserved.

-Powered by HTML DWARF-