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六章 王女の呪い 10


 時間は少し前にさかのぼり、前夜、主人不在の夕餉の後、屋敷に戻ったミカエルは、灯りもつけぬまま、部屋に閉じ籠もっていた。
 主人に反発し、屋敷を飛び出してから、顔色をなくして戻ってきた年少の従者を案じ、時折、女中頭やその姪っ子が、こんこんと扉を叩いていくのを、寝ているフリでやり過ごす。
 心配の気持ちを無にするようで、心が痛んだが、何時間もの間、身動きもせず、虚ろな表情で、椅子に座っているミカエルは、部屋の扉を開けたところで、普段通りに振る舞う自信など、欠片もなかった。
 窓の外が徐々に暗くなり、漆黒の闇に閉ざされようとも、眠りなど訪れるはずもない。
 目をつぶったところで、従者の頭をよぎるのは、何年かぶりに再会した、蜂蜜色の髪の少女と、蛇皮の眼帯をした、妖しげな黒衣の男のことだけだ。
 ……あの時、幼い彼女は、死んでしまったのだと、ミカエルは思っていた。
 物言わぬ亡骸を見たわけではなかったけれど、雨の中、どんなに探し回っても、少年は彼女を、見つけられなかったから。
 まさか、三年も経った今になって、再会するなんて。
 生きていてくれればと、祈らずにいられなかった。でも、いざ現実となってみると、それは唾棄すべき過去の罪を浮き上がらせ、ミカエルを地獄の淵へと突き落とす。
 底無し沼に沈みこんだ少年の精神を、犯した罪が鎖となって、縛りつけていた。
「リリィ……」
 僕の妹分。
 ぼくが騙し、そのせいで、死なせた彼女。僕が。
「……」
 ミカエルは引き出しから小箱を取り出すと、その中に麻にくるんで、大事にしまい込んでいた御守りを取り出した。
 小さな手彫りの女神像がついた、ブレスレット。
 大したものではない。祭りの屋台で買えるような安物だが、この地方の風習で、 生まれたばかりの赤子に贈る御守りである。
 この子に、女神の祝福がありますように、魔物に悪さをされることなく、健やかに、愛されて育ちますように――と。
 ありふれた御守り。
 しかし、その腕輪は無残にも、半分ほどに千切れていた。
「生きていたんだ、リリィ……」
 嬉しくて、苦しくて、ミカエルは無性に泣きたくなる。
 あの日から、一度だって、忘れたことはなかった。
「ミカエル、ミカエル――」
 いつだって、人懐っこい子犬のように、蜂蜜色の髪を乱しながら、兄貴分のミカエルの後を、ちょこまかと追いかけてきた、リリィ。
 実母や兄弟にいびられ、捨てられて、独りぼっち、路地裏で生きることになったというのに、純粋で無邪気で、世の中の汚らわしいことなんて、何も知らないみたいだった。
 ボロボロの服を着て、靴だって穴が開いていた。
 それなのに、リリィの薄青の瞳は、いつも、きらきらと輝いていた。
 嘘をつくことも、身を守る術も、疑うことも知らなかった。
 ただただ、ミカエルや孤児仲間を慕い、役立たずの罵られながらも、にこにこと笑顔で、それしか知らないように、とことこと後をついて来た。
 ――あの日までは。
 ミカエルたち路地裏で暮らす孤児は、盗みやスリで生計をたて、糊口をしのいでいた。
 盗みを悪だと知らぬわけではなかったが、それ以外、生きる、生き延びる方法がなかった。
 孤児仲間と、ミカエルが共に暮らすようになった頃、最初は盗みに罪悪感を覚え、誰かが罰しに来るのが怖くて夜も眠れず、ガタガタと震えていた。
 でも、仲間たちと何度も盗みを繰り返していると、次第に感覚が麻痺して、罪の意識も薄れていった。
「今だ、横むいたぞ。行け!」
 孤児たちのリーダーだった少年の合図で、仲間たちが店先に置かれていた品々を、かっぱらう。
 罵声と怒声が、奔流のように、耳になだれ込んでくる。
「またやりやがったな!この薄汚ねぇ野良犬どもが!」
 大きなハムを懐に抱えたミカエルは、肉屋の親父の振り回す、丸太のような腕と、脇の下をすり抜け、一目散に仲間の元へとひた走った。
「わああああん!」
 その時、後ろで高い悲鳴が上がった。
 転んだリリィが、怒り狂った店主たちに囲まれていた。腕を捻られ、泣き叫ぶ幼女と、石畳に捨てられたのは、千切られた御守り。
 ミカエルは真っ青な顔で、立ち竦んだ。
 孤児のまとめ役の少年が、「馬鹿っ、早く逃げろ!お前まで捕まるぞ!ミカエル!」と、苛立ったように怒鳴りつけてくる。
 ミカエルは蒼白な顔で、ばたばたと手足を振り回し、泣き叫ぶリリィに呼びかけた。
「後で必ず、迎えに来るから!」
 途端にリリィは、暴れるのを止めて、静かになった。
 薄青の瞳が、ミカエルを見つめる。
 リリィは、疑うことを知らない。待っていろと言われれば、何時間でも何日でも、じっと待っている。
 ミカエルには、嘘をつく気はなかった。
 リリィを見捨てたわけでもなかった。でも、利用した。利用したのだ。
「逃げるぞ!ミカエル」
 ミカエルは仲間たちの背中を追いかけ、そして……
 三年の月日が流れて、十四、もうすぐ十五になろうとする従者は、両手で顔を覆った。
 忘れたことなんて、一度もなかったんだ。
 罪の意識が途絶えたことなんて、あの日から、ただの一度として……。



 従者が尽きぬ過去への後悔に苛まれる、更に数刻前――
 柔らかな、午後の日差し降る、宮殿。
 王太子アレンの部屋も例外ではなく、開け放たれた窓からは、木漏れ日の光が差し込み、花薫る、心地良い風がカーテンを、貴婦人の舞踊のように揺らしていた。
 そんな心地良い陽気の中、日々、欠かすことのない執務を執るため、机に向かっていたアレンは、他者にわからぬところで、尋常ではない眠気に必死で抗い、戦っていた。
 時折、強すぎる睡魔に、がくっと首が折れそうになるが、その度にいかんと頭を振る。
 落ち着きと、聡明さを感じさせる蒼灰の双眸は、今はとろりと眠たげだった。
 何も疲労や怠け心からではなく、鍛えた壮健な肉体を持ち、 きちんと睡眠も取っている王太子が、こんな風な症状に見回れるのは、やはり、普通ではなかった。
 昼夜問わず、眠っても眠っても、意識は暗がりに墜ちるばかりで、夢など見ない。だが、その代わり、まるで蛇が全身を這い回ったような、 なんとも言えぬ不快感が残る。
 見知らぬ誰かに、自分の身体を操られているような、拭いようもない違和感が……。
 それは、最早、誤魔化しようがないところまで来ていた。
「ふぅ……」
 アレンは溜め息をこぼすと、ペンを走らせていた手を休め、濃くいれた紅茶をすすった。
 もしも、彼自身、代わりのきく立場であったなら、休息を己に課しただろう。されども、王太子の代理など居るはずもなく、宰相派の動きも気がかりだ。
 また、それ以外に、抱えている悩みもあった。
 ――異母弟・セシルのことだ。
 いつまでも人に頼りきりでは駄目だと、厳しく言い過ぎて、傷つけてしまったかもしれない。
 あの子が複雑な立場にあることは、兄であるアレンとて、よく理解している。
 それでも、願いうるなら、宰相の傀儡ではなく、一人のセシルという人間として生きてほしい、と王太子は願っていた。
「っ……」
 その時、強烈すぎる眩暈に襲われて、アレンは額を押さえ、よろめいた。
 そばには誰もおらぬのに、耳元で幻聴が聞こえる。
 ――お前の名を知っているぞ。本来、魔女の呪いを、受け継ぐべき者よ。
 ――堕ちたる英雄の子、在るべき報いを、罪の代償を支払うがいい……
 禍々しいそれを、最後まで聞き終えぬうち、頭を割られるような激しい苦痛に、アレンは床に膝をつき、倒れ伏した。
 勢いで文鎮と、インク壺が落ち、はらはらと机上の書類が、風に飛ばされていく。
 こぼれた黒いインクが、大理石の床に広がった。
「兄上……アレン兄上、セシルです。入ってもよろしいですか?さっきのことを、謝りたいんです……」
 扉の外から、幼い声がした。
 兄の返事がないことを、訝ったのだろう。
 セシルは失礼します、と言いながら、そっと扉を押し開けた。
 本当は兄上が怒っているのではないかと、不安そうな顔をした弟王子は、床に伏した兄を目にするなり、驚愕し、血相を変えた。
「アレン兄上……ご無事ですか?」
「っ、来るな……!私に近寄るんじゃない!」
 ひどく動揺し、兄に駆け寄ろうとするセシルを、半身を起こしたアレンは大声で叱りつけ、危険だから近寄るな、と退ける。
 まさか、怒鳴られるとは思っていなかったのか、セシルはたじろぎ、一歩、足を踏み出しかけた姿勢で、固まった。
 そんな異母弟を、アレンは怯えさせないよう、苦しい息の下から、優しい声で語りかける。
「それでいい、それでいいんだ……」
 意識が薄れゆく最中、アレンはかすかに微笑み、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「セシル、もしもの時は、ルーファスを頼れ……あれは、我が友……信頼に足る男だ」
 まるで、遺言のようなそれに、セシルは半泣きで叫んだ。
「兄上、ごめんなさい、ごめんなさい!お祖父さまのせいですか?ぼく、僕、待医を呼んできますから…!」
「いいんだ。セシル……」
 半狂乱のあまり、穏やかでないことを口走り始めた弟に、アレンは手を伸ばした。
「信じているよ……お前は、私とは違う強さを持った子だ……だから、きっと、この国を守る力になるだろう……」
 弱虫なだけじゃないよ。お前が自分自身の強さに、まだ気付けてないだけだから。
 途切れ途切れだった言葉は、やがて小さくなり、唇は閉ざされた。
 目覚めぬ、呪縛のような眠りの中に、アレンは引きずり込まれていく。
 セシルが必死に名を呼ぼうとも、頬や肩に触れようとも、王太子はかたく瞼を閉ざしたままだった。
「しっかりしてください、アレン兄上……!アレン兄上……!」
 置き去りにされた幼い子供のように、セシルは意識を失った異母兄の頭を抱いたまま、途方に暮れたのだった。


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