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七章 眠りの王子 1


 ――パンの話をしよう。
 それは、娼婦だった母を亡くしたミカエルが、薄汚い路地裏で、同じような境遇の孤児仲間と、ひっそりと息を潜めるように生きていた頃の話だ。
 己を守ってくれる父母も、暖かい寝床も、穴のあいていない靴も、何も持たない孤児たちは、当然ながら、いつも死にそうに腹を空かせていて、道に落ちたパンの欠片を拾う位に飢えていた。
 もちろん、ようやく十を少し過ぎたばかりのミカエルも、その一人だった。
 崩れかけた壁に背を預け、何も入っていない腹を押さえて、痩せた猫のように丸くなりながら、ごろごろと野菜の入ったシチューや、見たこともないご馳走、砂まみれになっていないパンの夢を見る。
 満腹感と、この上ない幸福に包まれたあと、目を覚ましてみれば、それらは全て願望が見せた幻で、 痩せた腹を抱えた自分が、汚い路地裏でだらしなく転がっているだけだ。
 ……何ともやりきれず、幸せな夢から覚め、待ち受けていた現実への失望から、ミカエルは重いため息を吐くのが常だった。
 店先から売り物をかっぱらい、ぶつかったフリをして、身なりの良さそうな紳士のポケットから、財布を抜き取ったり、生き延びる為ならば、悪事に手を染めた。なればこそ、寒風に吹かれながら、身を寄せ合って暮らす孤児たちには、仲間としての、守らなければならない鉄の掟があった。
 ひとつ、たとえ捕まったとしても、絶対に仲間を売らない。
 ふたつ、ドジ踏んで、とっつかまって、どんな目に遭わされたとしても、己を置いて逃げた仲間を、決して恨まない。
 それを決めたのは、孤児たちのまとめ役のフェンで、腕っ節も立ち、子分たちをよく従え、頭もよく回る奴に逆らうような無謀な真似をする奴は、誰もいなかった。
 フェンは、街の大人たちから見れば、救い難い悪童だっただろうが、寄る辺ない幼い孤児たちにとっては、自分たちを導いてくれる英雄だったのだ。
 何人かで組んで、パン屋の商品を盗んだあと、皆で戦利品を山分けした。
 母親を亡くすまでは、神に背くような真似をしとこなかったミカエルは、盗みの片棒を担いだ後には決まって、チクリと胸に痛みが走ったが、死にそうな空腹感を前にしてみれば、生き延びる為に、それは些細なことに思えた。
 仕方ない。仕方ないことなのだ。だって、神様も誰も、救いの手を差し伸べてはくれないのだから――。
 黄金の髪が埃まみれになっていても、仲間たちには気取られぬよう、天使のような風貌に憂いを宿して、少年は黒ずんだ拳で頬を拭い、空色の瞳を伏せた。
 年長の孤児たちの厳しい監視の元、パンは盗みに加わった者にも、加わらなかったチビどもにも、平等に分配される。
 そうすると、手に残るのは腹の足しにもならなそうなパンのひとかけで、分け前に文句を言った奴は、うるさいとフェンに頭をはたかれた。
 ミカエルは汗でベタついた手のひらを、気持ち悪く思いながら、ようやく手にしたパンの欠片をポケットにしまおうとする。と、その手に小さな手と腕が絡まった。
「おかえりなさい!ミカエル」
「リリィ」
 ミカエルは、苦笑混じりに眦を下げた。
 そうすると、幼い顔が、さらに幼くなる。
 ミカエルに飛びついた幼い少女は、きゃっきゃっ!と嬉しそうに笑うと、兄とも慕う少年の周りをくるくると回る。
 罪を背負ったように、重かった空気が、束の間、やわらぐ。
 蜂蜜色の髪と薄青の瞳のリリィをした、ミカエルとどこか雰囲気が似通っており、そうしていると本当の兄妹のようだった。
 実際は血の繋がりはなく、ただ兄妹ごっこに興じているだけなのだが……。
「ミカエルがいないから、リリィ、ちょっぴり寂しかったの。でも、約束を守って、よい子にしてたのよ」
 頭を撫でてくれるミカエルにじゃれついて、えへんと胸を張るリリィは、お日様のように明るく、無邪気で、孤児たちの抱える不安や孤独とは無縁の存在のようだった。
 生まれつき、知恵の足りぬ娘として、親にも兄弟にも見捨てられ、路地に捨てられたというのに。
 孤児たちの頭であるフェンや己の面倒を見てくれているミカエルが、盗みに手を染めているという事実すら、リリィはよくわかっていないようだった。
 年嵩の孤児から、盗んできた小さなパンの欠片を分け与えられても、それは罪ではなく、彼女にとっては天の恵みのようなものなのだ。
 その証拠に、彼女は薄青の瞳に純粋さだけを宿して、ミカエルを見つめ、にぱあっ、と輝くように笑いかけてくる。
「ミカエルがパンを取ってきてくれたの?ありがとう」
「……うん、そうだよ」
 穢れないリリィの微笑みに、忘れたはずのミカエルの罪悪感が、再び浮き上がってきた。
 さっきシャツの裾で拭ったはずの手のひらに、又じわりと汗がこみ上げてきた気がして、少年はぐっと拳を握りしめる。
「ミカエル、大好き!ずっと、一緒にいてね」
 ――約束だよ。
 笑顔でそう言い、無邪気に手を繋いでくるリリィの、温かな体温は、母親を亡くして以来、家族ののぬくもりに飢えていた少年の心を、慰めてくれる。
 ミカエルはうん、と控えめにうなずいて、小さな妹分に寄り添う。
 頭が足りぬと、家族に見捨てられた、儚く頼りないリリィ……それでも、その存在が胸が痛くなる位に切なくて、いとおしかった。
 決して、嘘をつくつもりはなかったのだ。
 すぐ近くに、繋いだ手を離す未来が待ち受けているなんて、身を寄せ合った幼い二人は、夢にも思っていなかった。
 分け前であるパンを食べようと、二人は並んで、壁際に腰をおろす。
 ぐるぐる鳴る空っ腹に耐えかねて、さっさとパンを食べ終えてしまったミカエルの隣で、食べるのがあまり上手くないリリィは、ただでさえ小さなパンを、ちびちびと千切りながら口に運ぶ。
 もぐもぐ。パンに夢中なリリィの代わりに、涎でベタついた彼女の口元を、ミカエルがシャツの袖で拭ってやっていると、遠くから孤児仲間のひとりが、もじもじとした様子で駆け寄ってくる。
 どうしたんだと、ミカエルはそちらを見、リリィはごくんっと口内のものを飲み込んだ。
 言い辛そうに、もじもじとしていた少年は、リリィの前に駆け寄ると、哀れっぽく言った。
「お願い。リリィ、パンを少し分けてくれないかな?腹ぺこで死にそうなんだ」
 必死に言い募る少年の言い分に、ミカエルは眉をひそめた。
 孤児仲間の懇願に、薄青の瞳を瞬かせ、きょとんとした様子のリリィは、どうして?と首を傾げる。
「どうして?……さっきパンをもらえなかったの?」
「落としちゃったんだ」
 首を横に振り、悲しげに言う孤児仲間に、ミカエルは内心、腹を立て、眦を吊り上げた。
 ――嘘だろう!こんなに腹ぺこだっていうのに、分け前のパンを落とすのろまなんて、居るはずもない!
 無垢で、純粋、人を疑うことを知らないリリィが相手だからこそ、そんな見え透いた嘘を吐くのだろうと思うと、なおのこと苛立つ。
 孤児仲間の中では新入りであり、大人しく、穏やかな性格と言われるミカエルだが、妹のように可愛がる存在が傷つけられそうとあっては、到底、黙っていられず、拳を握り、立ち上がりかけた。けれど。
 リリィが「いいよ、分けてあげる」と笑顔でパンを千切る方が早かった。
「はい」
 小さな手がパンを、分け与える。ただでさえ少なかった分け前は、更に少なくなった。
 それなのに、リリィは微笑う。埃と泥にまみれた、お世辞にも綺麗とは言えない顔を、くしゃりと歪めて。
 生涯、一度も人を疑うことを知らない娘は笑う。己に向けられる悪意も知らず、自分を捨てた父母や兄弟を恨むこともなく、世界はまっしろで綺麗なものだと信じて、幸福そうに笑い続ける。
 ……馬鹿じゃないか。ふいに目頭が熱くなって、ミカエルは涙をこらえた。
 見捨てられた僕らが、人の優しさなんて、そんなもの大事に信じていたって、何にもならないだろう。
 地上に落ちた天使のなりそこないに、慈悲深い神さまは、救いの手を差し伸べたりしてくれないのだから。
 小さく頼りない手のひらから、パンを受け取った時、瞬くような間、少年の顔に喜色が浮かぶのを、ミカエルは複雑な表情で見守った。下種が。
 あふれそうな感情に任せて、そう罵りたくなるのを、隣で屈託なく笑うリリィの笑顔が曇ることを思い、何とか耐える。
 剣呑な目つきになったミカエルに怯えてか、パンを受け取った少年はバツが悪そうに背を向け、そそくさと立ち去った。
「じゃ、じゃあ、ありがとう、リリィ……俺はもう行くよ、ミカエル」
 逃げるように去っていった孤児仲間の背を睨み、ミカエルは嘆息すると、騙されたなどとは夢にも思わず、にこにこしているリリィに向き合う。
「本当に良かったの?リリィ」
「なぁに?ミカエル」
 嘘を信じ込んだリリィは、少しも悪くないのだと、ミカエルだってよくわかっていた。
 それでも、やや責めるような、キツい口調になってしまったのは、理不尽な世の中への怒りがあったからだろう。
「あいつ、嘘をついていたんだよ。パンを落としただなんて、下手な嘘に決まってるだろ」
 珍しく、感情を露わにし、言葉を荒げた兄代わりの少年に、蜂蜜色の髪の少女は、あどけない顔で、 ふわり、変なの、と首を傾げるのみだった。
「……どうして、あの子が嘘をつくの?」
 他人を疑う悲しみも、騙された怒りもなく、ただ不思議そうにリリィは。
「……っ」
 ミカエルは強く唇を噛み、押し黙った。
 決まっている。騙しやすそうな相手だからだ。リリィの立場は、儚く、幼い見た目通りに弱い。
 フェンは良いリーダーだが、隅々まで目が届くわけもなく、 虐げられるのは決まって、身体の弱いリリィのようなちび達だった。
 そんな事情を、彼はよく理解していた。だからこそ、言ったのだ。嘘吐き、と。 でも。騙されたはずのリリィは。
「うそって、なあに?」
 無垢なリリィの微笑みに、ミカエルは、寒い夜、寝台に横たわったきり、二度と目覚めなかった死んだ母親のことを思い出す。
 暇さえあれば、誰彼かまわず、男を引っ張り込んでばかりいた母。
 美人ではあったが、面やつれし、青紫の唇から、いつも悪い咳ばかりをしていた。
 そんな母はたおやかな手で、息子の頭を撫でながら、優しい声で囁いた。
 ――その人が嘘を言っているかどうかなんて、きっと、神さまにしかわからないわ、と。
「リリィは大丈夫だよ、ミカエル」
 家族から捨てられた少女は、それでも、人を信じて、春の陽だまりみたいに笑い続ける。
 それは、果たして、不幸なことであるのか、従者は成長した今でもよくわからない。
 辛そうな顔のミカエルを気遣うように、リリィは背伸びをすると、母親が子に対するように、年上の少年の頭を撫でた。
 彼を見つめるのは、どこまでも澄んだ青。
 世の中の穢れを何も映さないような、映したら、それすら美しいものに変えてしまいそうな、純粋すぎるそれ。……ああ。
 後に、生死すらわからぬままリリィと離れ離れになり、ルーファスという稀有な主人に拾われて、ミカエルが、エドウィン公爵家という分不相応な居場所を得てからのこと。
 彼は、その時のリリィと、とても、よく似た瞳を持つ女性と出会った。セラ、セラフィーネ、奥方様だ。
 あの透き通る翠の双眸を前にして、つまらぬ嘘は通じず、吐こうとすら思えなかった。
 でも、きっとリリィとは異なっていたのだろう。
 奥方様は嘘をわかっていても、儚げに微笑って、人を許すひとだった。受け止めることこそが、強さだった。
 リリィの心は、生まれたての赤子のようなものだ。傷つくことも、多分、許すことも知らない。
「ミカエル?」
「……何でもないよ」
 ミカエルは腕を伸ばし、痩せた小さなリリィを、精一杯、抱き締めた。
 何でもないんだよ、お願い、信じて。


「ミカエル」
 ……懐かしい声がした。
 死んでしまったのだと思って、もう二度と聞けないはずの声だった。
 少年は目線を下げると、切なさといとしさの入り混じった声で、少女の名を呼ぶ。
 柔らかな蜂蜜色の髪から、きらきらとした光が零れていた。
「……リリィ」
 数年ぶりに再会した少女は、昔と変わらず、春の日溜まりみたいに微笑う。
 路地裏で寒さに震えながら、身を寄せ合っていた頃と、公爵家の従者となった自分は、すっかり変わってしまったというのに。ミカエルの心には、何故か暗い影が落ちた。
 否、変わったというなら、リリィもだ。
 元々、愛らしい面立ちではあったが、泥と砂まみれだった時には気付けなかった。
 ミルクのような白い肌は、艶々と血色がよく、頬はふっくらと薔薇色に染まっている。かつて骨と皮ばかりだった身体にも、娘らしい肉がついていた。
 油でべとついていた蜂蜜色の髪には、丁寧に櫛をいれてある。
 栄養のある食事をし、清潔な衣服を着せられているリリィは、地面に落ちたパン屑を拾っていた幼い時とは、まるで別人のようである。
 それが愛情によるものなのか、よい暮らしをさせてもらっているようだ。
 妹ととも思っていた少女が、自分のいないところで生きて、幸せに暮らしていたということに、ミカエルはあまり信じてもいない神に感謝し、同時にほんの少しだけ寂しいと、微かな嫉妬を覚えた。身勝手で、最低な感情だと、自覚していたけど。
 リリィを手酷く裏切った己に、そんなことを言う資格はないと、誰よりも知っているというのに。
「どうしたの?ミカエル。考えごと?」
 急に黙ってしまったミカエルに、リリィは不安そうに尋ねる。
「……何でもないよ、リリィ。ちょっと疲れただけ」
 ミカエルは曖昧に笑うと、首を横に振った。
 二人がいるのは、リリィが泊まっている宿屋の一室だった。
 あの日、大恩ある主人に逆らってまで、行方知れずの奥方様を探しに街に飛び出したミカエルは、かつての妹分であったリリィと再会した。
 ……自分が裏切り、見捨てたはずの彼女と。
 しかし、話してみれば、リリィは以前と変わらず、ミカエルを慕い、許し難い過去を、恨んでいる様子もない。
 ミカエルは複雑なものを感じつつも、リリィにせがまれるままに、宿屋に遊びに来たり、交流を続けていた。誰にと言わず、隠し事をしているような、後ろめたさはあったけれど。
 宿屋の夫婦はよい人で、リリィにもよく気を配り、突然、訪ねてくるようになったミカエルにも、不審がらず、親切に接してくれる。
 仕事に忙殺される主人に隠れて、このような交流を持っていることに、彼とて罪の意識を感じないわけではなかった。でも。
 リリィが生きていてくれた事が幸せで、また会えたことが嬉しくて、何より償いをしなければと思うのだ。たとえ、赦されない罪だとしても。
「ごめんよ、リリィ……そろそろ屋敷に戻らないと、皆に心配をかけちゃうから」
 座っていた寝台から腰を上げ、別れを切り出したミカエルに、蜂蜜色の髪の少女は、束の間、寂しげな目をしたものの、 丸椅子から飛び降りると、笑顔を作り、健気に手を振った。
「また来てね、ミカエル。病気はしないでね、元気でね、約束!」
「うん、リリィ……また」
 扉から出たところで、ミカエルは、部屋の主とかち合った。
 全身、黒い衣服に身を包み、蛇皮の眼帯をつけた異様な風体の男。
 長めの前髪の下からのぞく黄金の眼が、まるで猛禽のような鋭さと、狂気じみたものを感じさせる。
 会釈をしようとしたとろ、スッと目を逸らされて、眼帯の男は、リリィの待つ部屋へと入っていった。
 雨に打たれ、さんざん周りから殴られて、ぼろ布のようになっていたリリィを拾い、家族のように世話をしているという、その男。
 リリィは無邪気に懐いているが、従者の少年は、どこか危険なものを感じずにはいられなかった。
 それは直感というより、確信に近かった。深みにはまりそうで、恐ろしい。
 主人であるルーファスに何も相談しないのは、大変な状況である主人に負担をかけたくないというのは言い訳で、これ以上、リリィを裏切りたくなかったからだ。
 厳しい表情で、ミカエルは宿屋を出て行き、それっきり振り返ろうとすらしなかった。


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