家の中に入ると、ルーファスはその存在を確かめるように、セラの頬に触れた。
生活の気配が乏しい、がらんとした室内、か細い蝋燭の炎に、男女の影が浮かび上がる。
青年の手が、少女の細い首筋をなぞり、おとがいに触れ、愛おしむように、やわい頬を撫でた。
ただ、それだけのことであるのに、セラは男の目を直視出来ず、緩く目を伏せた。翠の瞳に蝋燭の炎が揺れ、睫毛に影が落ちる。
ひやりとした男の手に、なすがままにされながら、セラは激しく泣きたいような、いつまでもこうしていたいような、その手の優しさに溺れて、微睡んでいたいような、例えようもない気分だった。
ルーファスもセラも唇を開くことはなく、微かな息遣い以外に、音はなかった。
離れていた時間は、わずかだ。だが、共にあふれ出そうな感情を制御しかねたように、喋ることなく、ただ触れ合うことを優先しているように見える。
指先に触れるもの、それが何より、愛おしいのだと。
「……少し会わぬうちに、また痩せたな」
ろくに食事も取っていないのだろう。
セラの頬を撫でながら、よりいっそう肉の落ちた鎖骨を目に留め、ルーファスは苦い口調で言った。
屋敷を出て行くまでに、誰に何も相談しなかったことへの怒りがないわけでも、他に言ってやりたいことも山ほどあった。何故、頼ってくれなかったのかと。
しかし、最後に見た時より、さらに痩せて、儚げなセラを目にした時、ルーファスの心に沸き上がったのは、強い後悔の感情だった。
もっと……、もっと早く、見つけてやれば、良かったな。
「ルーファスも、少し痩せた?」
セラは眉を寄せると、ルーファスに手を伸ばしかけ、けれども、躊躇うように下ろした。
そうして、取り繕うように、弱々しく微笑う。
自ら公爵家の屋敷を去った己に、彼に触れる資格はないと、思い込んでいるのだろう。
その遠慮がちな態度が、まどろっこしいと、ルーファスは思った。
沈黙は重く、時が経つごとに、何かを削っていくようだった。
手に触れるぬくもりは断ちがたく、思い煩うことなく、彼女の全てを、腕の中に抱き込んでしまいたい気持ちはあれど、 ルーファスは息を吐くと、静かに尋ねる。
「どうして、此処に隠れ住んでいたんだ?」
セラはため息にも似た吐息を零して、言葉を選ぶように、訥々と答えた。
「子供の頃に、母さんとこの家で暮らしていたの」
頼る者のいないセラたち母子に親切にしてくれた、ジェイクおじさんが、不幸な事故で亡くなった後のことだ。
一時、周囲の目や、王宮の追っ手から逃げるようにして、ひっそりと隠れ住んでいた。
薄暗い室内、埃をかぶった家具から、おおよそのことは察せたものの、セラは余り語りたがらなかった。それより。
「どうして、あたしに会いに来たの。ルーファス」
小さな肩を震わせ、セラはどこか責めるように、言う。
めずらしく、その声音からは、怒りじみたものが透けていた。
与えられた厚意に対して、身勝手な言い分だとは、わかっている。
どんな状況であれ、ルーファスと再び会えたことに、心は嬉しいのだと歓喜している。それでも、尚、セラにとっては怒りの感情が上回った。
正直に、言おう。ルーファスに、此処に来て欲しくなかった。
嫌われても、罵られても、死ぬほど辛いが、忘れられてもいい。
何故、来てしまったのか。
「貴女の抱えるものを、魔術師に聞いたからだ」
「ラーグが……」
ルーファスの返事に、魔術師の弟子である少女は唇を噛んだ。
人を食った性格ではあっても、根は優しく、弟子思いのラーグのことだ。頼まれれば、拒みきれなかったのだろう。
苦い溜め息が、もれた。
「魔術師を、責めるなよ。俺が望んだことだ」
先手を打つように、ルーファスが言う。
堂々としたそれは、自らが全ての責任を負うという決意であり、男の潔さゆえでもあったが、その時ほど、セラの心を逆撫でしたことはなかった。
何で。どうして。そう叫びたくて、仕方ない。
セラは拳を握りしめ、喉の奥から、やっと声を絞り出した。
「どうして、来てしまったの、ルーファス?ラーグに全部、聞いたんでしょう!」
あたしが、災厄を呼ぶ、呪われた娘だって。
共にいれば、必ず不幸になるって。逃げ場なんて、救いなんて、何処にもないって……知っているんでしょう?
お願いだから、こっちを見ないで。
もうこれ以上、惨めにさせないで!もう誰も、犠牲にしたくないの……。
追い詰められた顔をしたセラは、感情を爆発させたように、ルーファスにそれをぶつけた。
耐えていたものが、あふれたのだろう。半ば八つ当たりとわかっていても、言わずにはいられなかった。
理不尽とも言うべき 少女のそれを、ルーファスは黙って、凪いだ瞳で受け入れる。
その蒼の深さと、静寂に、セラはひっく……と、しゃくりあげ、幼い子供のような頼りなげな声で、訴えた。
「酷いことを言って、ごめんなさい。でも、叶うなら、来ないでくれたら良かった……貴方は、呪われたあたしとは、違うのに。望めば、きっと幸せになれる人なのに」
ルーファスが、決して楽とは言えない道のりを、歩んできたのをセラは知っている。
愚痴も弱音も吐かぬど、その身に多くの枷を背負って、大切な人々を守る為に、 心を殺して生きてきたことを知っている。
聖人君子ではなく、様々な疵を背負って、それでも尚、歩みを止めない男だ。そんな彼に、セラはいつしか惹かれていた。自分にはない強さが、国を導く信念が、眩しかった。
だからこそ、ルーファスには幸せになって欲しかった。否、幸せでなければならないと思っていた。
彼がいつか、心安らかに微笑う日が来たらいい。
そこに、自分がいなくてもいいのだ。ただ、彼が愛し、愛してくれる人々がいればいいと思っていた。
――お前は呪いを背負って、不幸になる為だけに、生まれてきたんだよ。
魔女の声が、聞こえる。
少女の瞳が、潤む。
自分が哀れなわけでも、悲しいわけでもない。ただ悔しい。
最初で最後、愛した男の一人ぐらい、幸せにしたかった。
セラの言葉を聞いたルーファスは、何故?と首を傾げ、心底、不思議そうに問う。
「何故、俺の幸せを貴女が決めるんだ?」
それは、貴女が決めることじゃないだろうと諭されて、セラは言葉を失う。
確かに、己が思う幸福と、ルーファスのそれは違うのかもしれなかった。自分は……間違えていたのだろうか。
うつむいてしまったセラを、ルーファスは、腕の中に抱き込んだ。
繊細で、儚い生き物を抱くように、その鼓動を肌で感じると、青年は少女の耳に唇を寄せ、囁く。
「俺が選びうるならば、貴女のいない幸福よりも、貴女のいる絶望のがいい」
亜麻色の髪を指先に絡め、濡れた瞼に、誓いにも似た口付けを落とす。
愛している、だから。
「もう無理をして微笑わなくて、いいんだ。貴女の抱えるものを、俺の命が続く限り、共に背負おう」
泣いてもいい、とかつて、セラは言った。ならば、ルーファスはあえて言おう。
「ルー……」
名前を呼びかけたそれは、言葉にならなかった。
セラは泣くのを厭うように、いやいやと頭を振ると、彼の胸に顔をうずめる。
ルーファスは幼子をあやすように、その背を撫でると、優しい声で言った。
「疲れただろう、少し眠れ。傍にいるから」
その言葉を境に、セラの意識は、ふつりと深い泥寧の中に、沈んでいった。
背を撫でる手、腕の中にある安心感はまるで、幼子が母に抱かれているようだった。
「やっと、目が覚めたか……?」
軽く揺すられて、セラはのろのろと、うずめていた頭を上げた。
こちらを見下ろしていたルーファスと、間近で目が合い、思わず、ぎょっと身を引いてしまう。
大分、見慣れてきたとはいえ、整い過ぎていて、寝起きに見るには、些か心臓に悪い顔だ。
起きる早々、なぜだか百面相をするセラに、ルーファスは呆れ気味に言う。
「まさか、本気で朝まで、ぐっすり寝るとはな。信じられん」
言葉の端々に、若干のトゲを感じるのは、おそらく気のせいではあるまい。
「あ、朝……まさかっ!?」
少女は素っ頓狂な悲鳴を上げると、ばっちり見開いた翠の瞳で、窓を仰いだ。
窓からは、燦々と朝の光が差し込み、鳥の鳴き声が響いている。
座り込んでいたセラは恐る恐る、首を仰向け、ルーファスに尋ねた。
「あの、あたし、あれから一度も……?」
ん。と男はもったいぶるように、頷いた。
「ああ、ぐっすり……揺すっても、なかなか起きなかったな。人を、枕代わりにして」
「ひいいいい!ご、ごめんなさいい!」
叫びながら、顔が青くなったり、赤くなったり、忙しいセラの身体を、ルーファスは軽く抱え上げるように、抱き起こすと、眠たげに赤い目を擦った。
一晩中、のん気に寝こけていた罪悪感もあり、彼女は遠慮がちに聞く。
「寝てないの?」
「……この状態で、寝れると思うか」
ぎろりと睨まれる。 ほんの少し離れていただけなのに、いつかしたようなやり取りが、なんだか懐かしくて、セラは小さく笑う。
好きな女が無防備に、一晩中、腕の中にいるという状態で、 余人には推し量れぬ忍耐を強いられた青年は、低く唸った。
「我慢ばかりは、性に合わんな。我ながら、よく耐えた方だと思うが」
「……ルーファス、あの、怒ってない?」
含みのある彼の言動に、セラは早くも及び腰だった。
ルーファスはいや、と首を振ると、セラの首根っこを捕まえ、再び、腕の中に閉じこめると、甘く、どこか逆らいがたい声で囁いた。
「次は、一晩中、寝かさんからな。覚悟しておくといい」
「う……お手柔らかに」
朝の光の下、やわらかな沈黙が降り、ルーファスが口を開いた。
「屋敷に戻ったら、これからの事を決めねばならんな」
「……うん」
セラは、素直に頷く。
しかし、差し出された彼の手を、彼女はすぐに握り返すことが出来なかった。
一度、逃げてしまった自分が、再び、離した手を繋ぐことは許されるのだろうか。
ルーファスが許してくれたとして、自分が、自分自身を許せるだろうか。
「本当に、いいの?呪われたあたしが、もう一度、貴方の手を取っても」
何を今更と、ルーファスは苦笑を浮かべる。
「何度でも。貴女が手を離すなら、俺は何度だって、手を差し出すだろう」
その言葉で、セラはようやく、ルーファスの手を握り返すことが出来た。
手を繋ぐ、もう離れないために。
帰ろう、と青年は少女の手を引いた。
「帰るぞ。あの屋敷は、貴女の家でもあるんだ」
「お帰りなさいませ。ご無事のお戻り、何よりでございます。旦那様、奥方様」
公爵家に戻ると、 やや疲れた様子の老執事が、出迎えてくれた。
その背筋は、いつも通り、凛と伸びているが、主人を案じるあまり、一睡もしていなかったのか、その声には疲労が滲んでいる。
この真面目で優しい人に、どれほどの心配をかけたのだろうと、セラの胸は痛んだ。
「スティーブさん、ごめんなさ……」
彼女の謝罪を、スティーブは途中で遮った。
「違いますよ、奥方様。聞きたいのは、私たちが欲しているのは、そのお言葉ではないのです」
齢を重ねた、思慮深い瞳が、セラを映す。
その口元は、わずかに綻んでいた。
「ただいま以外の言葉は、いらないのですよ。ここは、奥方様の家なのですから」
そうですよ!と、執事の言葉に、同意の声がかかる。
廊下から、駆け寄ってきたのは、メリッサとソフィーだった。
「おかえりなさいませ、旦那様。奥方様」
「外は冷えたでしょう?さあさあ、ミルクでも温めてきましょうね」
泣き笑いような顔をしたメリッサが、セラの肩に毛布をかけると、ソフィーは腕まくりをして、ホットミルクを用意しに、厨房へと歩いていく。
黙って、屋敷を出ていったことへの、非難の気持ちもあろう。何故、どうして、と問い詰めたい気持ちは、女中頭や、その姪っ子にもあるはずだ。
それなのに、あたたかく笑って、おかえりなさい、と迎えてくれる。セラの目頭は熱くなった。
「まったく……この屋敷の住人は、軒並み、貴女に甘いな」
やれやれとため息を吐くルーファスに、メリッサが「旦那様にだけは、言われたくないですけど。ね、スティーブさん」とすましてみせた。 然り、と神妙に答える執事が、笑いを耐え、肩を震わす光景など、めったに見られるものではない。
――もう嘆くのは、終わりにしようと、セラは誓った。
呪われた身だから、幸せになれるはずもないと、いつしか、大切なものを得ることを諦めていた。
いつか手放すなら、呪いに引き裂かれるなら、誰も愛さないと、傷つくのが怖くて、傷つけるのが怖くて、逃げていた。そう、逃げていたのだ。
でも、もう悩むまい。
絶望し、生きることを諦めることもしまい。呪いは何も解決していないけれど、
「ルーファス」
「何だ?セラ」
「もう一度、手、繋いでくれる?」
この繋いだ手のぬくもりがある限り、魔女の呪いに、負けはしない。
不幸にもさせない、戦っていける。愛していける。
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