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六章 王女の呪い 3


 王宮へと出仕したルーファスは、主君の部屋の前で、小柄な影と正面からぶつかりそうになった。
 脇目もふらず、アレンの部屋から一目散に飛び出してきた少年を、青年は寸でのところで避けたものの、怪訝そうに、形の良い眉を顰めた。
 バンッ、と乱暴に扉を開いたセシルは、ぶつかりかけたルーファスすら、目に留める余裕がなく、拳で目頭を押さえながら、走り去って行った。
 薄茶の頭が、揺れている。
 すれ違っただけながら、弟王子の砂色の瞳は、涙で濡れているようだった。
 その背中が廊下の曲がり角へと消えていき、バタバタバタ、と忙しない足音だけが、残響のように、彼の耳に残った。まるで、周りの何もかも見えていないかのような、不自然なセシルの態度を、ルーファスはいぶかる。
 異母兄であるアレンとは似ず、臆病で、人見知りな性分のセシルであるが、基本的には、温和で礼儀正しい少年だ。
 目立つことを好まず、引っ込み思案で、普段ならば、人前で感情を露にする類の少年ではない。
 しかも、赤く腫れた目元は、泣いているようだった。
 宰相の傀儡であるセシルには、お追従を言う取り巻きはいても、心から信頼できる者は殆どいない。故に、唯一、敬愛する兄・アレンには、絶大ともいえる信頼を寄せていた。兄である王太子も、それによく応え、弟を可愛がるだけでなく、良からぬ輩に利用されぬよう、腐心していた。
 なればこそ、解せない。
 あれほど、兄上、兄上、とアレン殿下を慕っていたセシル殿下が、何故、泣きながら、兄の部屋を飛び出してきたのだ。
 よもや、また祖父のラザールに、良からぬ出来事でも吹き込まれたか……憂慮すべきことだが、その可能性は大いにある。
 ルーファスが考えを巡らせていると、部屋の内側からアレンの、「其処にいるのは、誰か」と誰何の声がした。
「アレン殿下、私です。入ってもよろしいでしょうか?」
 是、という返事に、ルーファスが王太子の部屋に入り、後ろ手で扉を閉めると、苦笑を浮かべたアレン目が合った。
「おかしな場面を、見せてしまったな。ルーファス」
 すまない、と口にした王太子の蒼灰の双眸には、いつになく後悔の色が強い。
「いいえ……」
 ルーファスは首を横に振ると、言葉少なに応じた。普通ならば、話はそこで終わりだ。
 王太子の片腕とも評される青年は、主従の分をわきまえていたし、本来、相手が自ら話さぬことを、無理やりに聞き出すのを好むような、下世話さはない。されど、その時に限って、余計とも言える一言を加えたのは、アレンの表情から、何かを話したがっているような素振りを読み取ったからだ。
「珍しいですね。お二人は、仲睦まじい兄弟でいらっしゃるから……何ぞ、口論でもなさいましたか?」
「……ずいぶんと率直なことを言うな」
 高位貴族の身ながら、歯に衣を着せるという事をしない側近の青年に、アレンは口元の皺を深くした。 その舌鋒の鋭さがばかりが噂になるが、この青年公爵は嘘吐きではなく、物事の本質にずばりと斬り込んでくるが故だ。
「御不快に思われましたなら、ご容赦を」
 アレンは「いいや……」と、否定した。
 ルーファスの言動に、耳が痛いと感じることはあっても、不愉快と思ったことは一度もない。
「お前の正直なところは、気に入っている。問題は……セシルの件だ」
 セシル、と弟の名を口にした王太子のそれは、どこか苦いものを孕んでいた。
「……セシル殿下の?」
 アレンは、ああ、とうなずいた。
「あれも年が明ければ、十三になる。成人の儀を迎えれば、今までのように、私の庇護下に置くわけにもいくまい……否、歳を重ねれば、己の意思で、私の干渉を厭うようになるだろう。それが自然だ」
 むしろ、そうなってもらわねば困るのだと。自身がいまだ十八歳の青年であるにも関わらず、達観した様子で語る、アレンの口ぶりは、大人びている。
「セシル殿下に限って、そのような……あれほど、アレン殿下を尊敬し、慕っておられるではないですか」
 お前の気持ちは嬉しいが、とアレンは王太子としての貌ではなく、弟の将来を案じる兄としての顔で語る。
「何時までも、このままの関係ではいられまい。お前もよく承知の通り、宰相ラザールと私は、核なるところで相容れない。口さがない者たちは、私が兄としての立場を利用して、セシルを懐柔していると取るだろう……それでは、駄目なのだ。あれの為にも、私の為にも、な」
 それを認めることは、アレンにとっても胸の痛みを伴った。
 ルーファスが語るように、幼い弟は純粋に兄として、己を慕っていてくれている。権力欲にまみれた宮廷にあって、セシルの無邪気な笑顔は、一つの救いであった。
 願いうるならば、このまま市井の兄弟のように、お互いの幸せを祈っていければいいが、それは、この身に流れる、王族の血が赦しはしまい。
 私は、とアレンは続けた。
「セシルに自分の意思で、生きてもらいたいのだ。宰相の駒としてでもなく、私の後を追いかけるわけでもなく、あの子の足で進むべき道を、定めてもらいたい」
 そう告げたら、泣かせてしまったが、と王太子は自嘲するように笑った。
 くしゃり、と黄金の髪をかき上げる。
 これからは兄を頼るだけでなく、心から信頼できる家臣を見つけていくように、と助言したら、セシルは呆然とした顔で立ちすくみ、ついで、その砂色の瞳を、うるうると潤ませた。
 実際、弟からすれば、敬愛する兄の発言は、青天の霹靂であったのだろう。歳は六つほどしか変わらぬとはいえ、情薄い両親や祖父の代わり、セシルの面倒を見、ここまで育ててくれたのはアレンだ。
 絶対の庇護者と思い込んでいた人物からのそれは、刃にも等しく、残酷なまでに、少年の胸に突き刺さったに違いない。
 そんなセシルの表情を見て、王太子とて、気が引けぬわけではなかった。けれども、これは必要なことなのだと、己の心を納得させる。
 いつまでも、庇護する者と、庇護される者の関係であってはならない。
 もし、もしも、何らかの事情で、アレンが居なくなったとしても、弟が己の才覚で、宮廷で生き抜いていけるだけの地盤を、今から作らせる必要がある。
 祖父たる宰相の影響力が強いとはいえ、今ならばまだ、セシルの資質を見抜き、味方となってくれる者も、現れるはずだ。アレンが、ルーファスという、生涯の友に出会えたように――。
「何故、今なのですか?」
 ルーファスがぽつりと零した本音を、アレンは微笑のみに留めて、答えなかった。
 その代わり、片腕とも、友とも呼ぶ、公爵の手を取ると、それを固く握りながら、懇願した。
「もしも、私の身に予期せぬ何かが起こった時には、弟の、セシルのことを頼む。あれが恐らく、最も難しい立場に立たされるだろう……嫌でなければ、あれを見守って、支えてやって欲しい」
 まるで、遺言のようなそれに、ルーファスは眉間に皺を寄せ、渋い顔をした。
 これが、宰相ラザールの口から出るならまだしも、二十にもならぬ王太子の言葉としては、違和感がありすぎる。
「ご冗談をおっしゃいますな、縁起でもないことを……よもや、お体の具合でも悪いのですか?アレン殿下」
 目が据わった側近に、アレンはぶんぶんと、派手に首を横に振った。
「い、いや、例のごとく眠気が強いだけで、体調は問題ない。要は、もしもの時の話だぞ。だから、薬湯だけは赦してくれ。お願いだ」
 必死に拒否する王太子に、ルーファスは険を帯びた眦を緩め、仕方ありませんね、と些か残念そうな顔をした。渋々と諦めたルーファスに、主君たる王太子は、ホッ、と胸を撫で下ろしたのである。


 王太子と別れ、ルーファスは従者と待ち合わせの場所へと向かうべく、回廊を歩いていた。
 平民の従者であるミカエルは、王族の居住区には立ち入ることを許されず、大抵、暇を持て余した侯爵夫人のお茶会に付き合わされるか、中庭を散策しているのが、常だった。
 歳の割には、辛抱強い従者は、四、五時間、待たせたところで文句ひとつ言わないが、余り遅くなると、内心、貴婦人たちのお喋りに、辟易しているころだろう。
 緑生い茂る、中庭の前を通ったところで、噴水の音が聞こえた。澄んだ、水ながるるそれ。
 白く淡い香りの花が咲くそこに、ルーファスは此処にはいない、亜麻色の髪の少女の面影を追い、己の愚かというべき業の深さを知った。馬鹿な、己を捨てていった女に、執着を抱いて何になる。こんな想いを飼殺しにしたところで、狂いじみて心を燃やす、性質の悪い焔になるだけだ。
 ――憎んで、焦がれて、忘れえぬ位なら、いっそ、我が物にしてしまえば、良かったのだ。
 羽をもいで、鳥籠に閉じ込めて。
 心の奥まで暴いて、獣のように、食らい尽くしてしまえば、今、このような焦燥に惑わされなかったかもしれぬ。そうしたら、何があろうとも、絶対に、あの手を離すなどということはしなかった。
「あら、あなた」
 柱の陰から、愉快がるような、女の声がかかった。
「久しぶりね、元気にしていて」
 ルーファスが振り返ると、扇で優雅に顔を隠した女が、ドレスの裾を引きながら、歩み寄ってくる。結いあげた黒髪と、誘うように濡れた緑眼が、妖しい魅力を放つ美女である。歳は、三十半ばというところだろうか。
 ブルネット伯の未亡人――リーツィエ。
 嫁いだ時に、既に老境であった夫の遺産で、悠々と暮らす気ままな未亡人であり、付け加えるならば、かつてのルーファスの愛人でもあった。共に配偶者はいなかった時期であっても、恋人という、まっとうな表現はそぐわなかろう。
 夫亡き後、伯夫人は若く、成熟した身体を持て余していたし、まだ十六かそこらだったルーファスは、ルーファスで、余計なことを詮索しない、女の明敏さを好んでいた。といっても、褥で愛を囁き合うような、そんな純粋な関係ではなかったが。
 女の扱い方を教える一方、伯夫人はいつも、優位さを示す如く、ルーファスを綺麗な少年と嘯いて、愛玩物のように振る舞った。そんな年上女の訳知り顔を、少年はいとおしく、どこか滑稽なものとして見ていた。
 結局のところ、お互い様であったのだろう。
「ご無沙汰しております。ブルネット伯夫人、ご健勝のようで何より」
 ますます麗しくなられましたね、と見え透いた世辞を言うと、伯夫人は「貴方は、嫌味が上手くなったわね。ルーファス」と、顔をしかめるフリをしてみせた。
 所詮、怒ったフリである。ころころと鈴を鳴らすように笑うと、夫人は探るような眼を青年に向け、婀娜っぽく唇をつり上げた。
「最近、貴方が素行を改めたと、ご婦人方の噂よ。あれほど、美しい花と浮名を流していたというのに、どういう風の吹き回しかしら?新婚だから、外聞を気にしていらっしゃるの」
「確か、詮索はお嫌いではなかったのですか、リーツィエ」
 ルーファスの咎めるようなそれにも、伯夫人は追及の手を緩めない。残念ながら、相手の方が一枚、上手だったようだ。
「あら、こんなに面白い話に、飛び付かないなんて、理由はないわ。どうせ、退屈を持て余しているだけですもの……それで、本当の理由は何なの?貴方に限って、王女を娶ったからなんて、愁傷な理由かしら」
 並みの人間ならば、即座に切り捨てるそれを、ルーファスは受け流した。伯夫人の人脈は、大したものであり、昔はそれなりの借りがあったからだ。リーツィエ。女の名を呼ぶ声は、睦言めいた甘さを含んでいる。
「私に、いや、俺に近づいてきた目的は、何ですか?大勢の愛人がいらっしゃる貴女だ。そんなに、暇ではないでしょう」
 伯夫人は、相変わらず、怖い子だこと、と困ったように微笑い、人目が無いのを確認して、ルーファスにしなだれかかってきた。女の肌から、強い麝香の香りがくゆり、感覚を狂わせていく。肌はきめ細かく、触れれば吸いつくようで、豊満な肉体は、小娘にはない色香をまとっていた。
 女の紅い舌がちりりと、首筋を撫で、甘く、戯れのように噛まれた。
「私の綺麗なお人形が、これほど、色気のある男に育ったのだもの。チェスや、ポーカー、夜の遊戯も誘いたいと思うのは、貴方にとって、迷惑かしら?」
 ねえ、ルーファスと耳朶に囁かれても、青年の心は動かなかった。伯夫人に言った言葉は、満更、嘘でもない。歳を経るごとに、美貌の伯夫人はますます妖しく、美しく、男を虜にするようなそれは顕在である。
 しかし、昔はわずかながらも、関心を引かれたそれに、今のルーファスは全くと言っていいほど、興味が抱けなかった。その肌を見ても、触れたいとは思わぬ。
 伯夫人が悪いわけではなく、彼自身の変化が、主たる原因であろう。
「残念ですが……別のお相手を、お誘い下さい。リーツィエ、いえ、伯夫人」
 明確に拒まれるとは思っていなかったのだろうか、伯夫人は少しだけ残念そうに、小首を傾げた。
「私のこと、もう嫌いになってしまったかしら?哀しいこと」
 本心からではなく、唯の言葉遊びの延長だったが、続いて、ルーファスが口にしたそれに、伯夫人はあごが落ちそうな衝撃を味わった。
「伯夫人が、悪いわけではありませんよ。己が唯一の花を見つけたら、他の花の蜜に惹かれなくなった、それだけのこと」
 期待より、つまらぬ男で失望されたでしょう。とルーファスは低く笑い、伯夫人が息を呑むような綺麗な顔で、さようなら、と踵を返していった。
 
 再び、廊下を歩き出したルーファスは、遠目に宰相の姿を見かけた。
 光り輝くような白い衣と、白い長髪を引きずる老狐は、ずっと離れた後ろを歩く彼には、気がついていないだろう。いや、あのラザールのことだ。気付いていて、無視しているのかもしれない。
 いずれにせよ、好き好んで、会話を交わしたいわけでもない。
 己から歩み寄る意味を感じず、ルーファスは黙して、さりとて、宰相の影を追い越すこともしなかった。
 案の定、老宰相はこちらを振り返ることもなく、スーっと音もなく、どこぞの部屋の扉に吸い込まれていった。

 しばらくして、ルーファスはミカエルを伴い、馬車で屋敷へと帰りついた。
 自室に戻るなり、青年は疲れたように椅子に背を預け、見慣れた、もはや、見飽きてしまった天井を仰いだ。男の机の上には、何故か、蕾のついた花の鉢植えが置かれている。
 書物やペン、書類など、仕事に必要なものしか存在しない、ひどく殺風景なルーファスの部屋において、それは異質なものだった。青年は、不要だと断ったのだが、妻である少女が頑として譲らなかったのだ。
 女中に任せておけばいいものを、よく手ずから、水を遣っていた。
「鉢植えである必要が、あるのか?しかも、まだ咲いてもいないのに」
 ルーファスが文句じみたそれを口にしても、セラは機嫌を損ねるどころか、にこやかに如雨露を持ち上げるだけだった。――切り花よりも、こっちの方が好きなの。ルーファスは、違ったかしら?
 陽光透かす翠のそれ、いとおしげに蕾をみつめる少女に、ルーファスは押し黙った。腹立たしいことに、図星であったからだ。
 花は、別段、好きでも嫌いでもなかった。けれども、暇を見つけては、鉢植えに水を遣り、ほころびかけた蕾に、喜色を見せる少女の横顔は、何か得難いもののような気もしたので、最後には、好きなようにさせておいた。亜麻色の髪は、陽だまりにあっては、蜜色の輝きを宿していたものだ。
 あの娘は、セラは、ルーファスから見れば下らぬもの、どうでもいいと思えるものを、大切な宝物のように愛していた。さながら、変わりない明日こそが、最大の僥倖だというように。
「――っ」
 ルーファスは、机の上の手紙を破り捨てようとして、最後の最後で思い留まった。
 セラから、彼の主君である、アレン王太子へと宛てられたものだ。
 拙く、綴りも間違えだらけの、たどたどしい筆跡ではあったが、本を片手に必死に書いたのであろう。文字を読むことすら、容易ではなかったセラにしては、努力が滲んでいる手紙であった。

 
 王太子殿下

 唐突に、このような、恥知らずなお手紙をお送りする失礼を、どうか、お赦しください。
 殿下の妹を名乗るのも、おこがましい、卑賤の身ではございますが、陛下の側室の娘、殿下の異母妹セラフィーネでございます。
 今は、エドウィン公爵家に降嫁し、ルーファス=ヴァン=エドウィンの妻となった身で、王女の身分は失いましたが、こうなりましては、王太子殿下の深いご慈悲に、おすがりするほかありません。
 哀れな愚妹の戯言ではございますが、事は殿下の大事な片腕にも、関わることでございます。何卒、寛大なご処置を、お願いいたします。
 この度、私が公爵家を去りましたのは、私一人の意思によるものです。
 詳しくは申し上げられませんが、私は永い間、性質の悪い病を患っており、これ以上、周りに迷惑をかけることに、私自身が耐えきれませんでした。
 ひどく身勝手な、罪人の言い分でございます。けれども、死せる者への慈悲で、ご容赦くださいませ。
 誓いたいのは、誰かに攫われたわけでも、脅されたわけでも、ましてや、そそのかされたわけでもございません。
 夫を始め、公爵家の皆様方には、大変、良くしていただきました。
 嫁してから、辛い思いなど、一つもいたしませんでした。
 この屋敷で過ごした日々で、後悔は一つもありません。皆、私には過ぎたる、輝石でございました。
 ――ただ一つ、心残りがあるとすれば、夫の、ルーファスことでございます。
 私が居なくなったことで、あの人が何らかの責めを負うような事は、どうしても、避けたいのです。わたしくは罪人です。どんな責めも覚悟しております。
 でも、ルーファスは違うのです。
 王太子殿下は、ご存じのことと思います。あの人は、ほんとうは優しい人なのです。ひねくれてみえるかもしれませんけれど、本当は、誰よりも、愛情深い人なんです。
 短い時間ではありましたけど、あの人と共にあれたことを、至上の幸福だと思います。
 けど、付け加えるなら、寂しい人なのです。本当は、ずっと、あの人の名を呼んでいたかったけど、それは叶いません。
 ですから、殿下、どうか、お願いです。一生に一度の、生涯をかけたお願いです。
 どうか、何が起ころうとも、ルーファスを責めないでください。
 そして、なにより、殿下が幸せであってください。それが、きっと、あの人の最大の幸福だと信じます。

 セラフィーネ

 手紙を最後まで読んだルーファスは、文末に至るに連れて、拙く、かすれていく文字と、一点、滲んだような涙の痕を、見逃さなかった。
 あの娘は、一体、どんな気持ちで、この手紙を綴ったのだろうか。
 蝋燭の明かりを頼りに、暗い部屋で、ひとり。
「……馬鹿か」
 思わず、そう罵らずにはいられなかった。
 こんな手紙で、誰が納得するというのだ。児戯にも等しいそれには、公式的には、何の価値も見出せまい。第一、セラの筆跡など、この屋敷に来るまで、誰も知らない。
 セラフィーネの名を疎んでいた少女が、なぜ、そう署名した?
 決まっている、王太子の片腕である、彼の立場を慮ってだ。かすかな肉親の情にも、すがらねばならぬほど、彼女は追い詰められていたのだろう。
 しかも、幸福にだと、どの口で言えたものだ。
 勝手に決めて、勝手に去って、勝手に俺の心に入り込んで、挙句に、この手紙か。
「こんな手紙、王太子殿下に見せられるわけないだろう……」
 その声を聞くべき少女は、今はもう、傍にいない。


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