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六章 王女の呪い 4


 感情の昂ぶるままに、泣きながら、兄の部屋を飛び出したものの、しばらく王宮の廊下を無茶苦茶に走り回ったところで、息が途切れ途切れになり、セシルは柱に片手をついた。
「はあ……っ。はあっ……」
 日頃、鍛練を積むこともなく、ひ弱な王子の足は、情けないことに、すぐに悲鳴を上げた。
 激しい運動をすることは、祖父である宰相に禁じられている。というのは言い訳にならない、例え、剣の稽古をしようとなど思い立てば、侍医がすっ飛んで止めに来るといっても、それを選ばなかったのは、己自身なのだから。
 同じ王の子という立場にあっても、騎士団の者にも劣らぬ剣士であるアレン兄上と比すれば、なんと情けないことだろうか。
 その程度のことで根を上げてしまう、己が情けなくて、情けなくて、セシルの砂色の瞳には涙が滲んだ。ぽたぽたと頬を伝う涙は、唇を舐めると、塩の味がする。
 柱の影に隠れるようにして、少年は、ひっくひっく、と肩を震わせて、低い嗚咽を漏らした。
 こんな風に泣いている姿を、宮廷の誰にも、殊更にアレン兄上には、兄上にだけは見咎められたくなかったからだ。
 あの優しい兄は、仕方ないことと知りつつも、セシルのことで胸を痛めるであろうから。
 ――兄上と喧嘩をした。
 いや、実際のところ、あれは兄弟喧嘩などと言えるものではなかった。
 セシルが我が儘を口にし、幼い子供のように聞き分けがなく、兄上を困らせていただけだ。
 穏やかに、だが、強い意志を宿した蒼灰の瞳が、弟を見下ろす。
 その瞳は物心ついた頃から、いつも優しく、時に厳しく、セシルを見守っていてくれていた。
 父も母も、己のことで忙しく、彼のことを顧みる余裕はなかった。祖父は孫を、便利な道具としてしか見ておらず、逆らえば、酷い折檻が待っていることがわかっていた。
 そんな中、兄だけが違っていたのだ。
 兄だけがセシルをセシルとして見、彼の言葉を聞き、弟として大事にしてくれた。
 甘えだった。
 馬鹿馬鹿しいほどの甘えだった。
 そんな日々が、いつまでも続くと思うなど。
 王太子としての重責を背負い、寝室に籠りきりの父王に代わり、執務の半分以上を引き受け、その合間を縫って、市井の視察や、国内外の動向にも目を配っている。
 いくら、エドウィン公爵のような優秀な片腕がいても、楽を出来るような立場ではない。
 かつて、圧倒的な軍事力で領土を広大した、大国エスティアは、長引く平和によって、内側から衰退の道を歩んでいる。
 貴族や高位の役人たちの中には、職権を振りかざし、私腹を肥やす者も少なくない。
 役人による不正を明らかにし、庶民の暮らしぶりを案ずるアレンの姿を、セシルは幾度となく目にしていた。
 昼夜を問わず、兄はいつだって、王太子に相応しい者であるように、努力を怠らなかった。
 聡明で公正な人柄と讃えられるアレンとて、それらの期待が、負担でなかったわけではないだろう。王妃の死後、全てを放棄した父王の代わりに、長子のアレンには、エスティアの将来が託されていた。
 妾妃や側女、王の子は数いれど、その役目に耐えうるのは、アレン兄上だけだったから。セシルと同じ歳には、兄は既に王太子として、立派にその任を果たしていた。
 本当は、セシルの面倒を見るような、そんな義理はなかったはずなのだ。ましてや、セシルは宰相の孫、王太子と敵対し、隙あらば、その地位から追い落とそうとする一派の、まさに中心なのだから。
 ……甘えていたのだ。兄の、アレン兄上の優しさに付け込んで。兄は、自分を決して拒まないと、知っていた。
 だから、天罰が下ったのだ。セシルは現状を憂うばかりで、責務というあまたの鎖で縛られたアレンを助けようとも、己自身を変えようという努力もしなかった。ただ、怯えて、兄の影に隠れていただけだ。
 今日、いつものように、祖父ラザールの取り巻きたちに囲まれ、愛想笑いを浮かべるのにも疲れ、兄の部屋を訪ねた。
 さる侯爵から、祖父への進言を求められたものの、セシルはしどろもどろになるばかりで、その案が良い事なのか悪い事なのかも、判断がつかなかったからだ。
 いつもながら、要領を得ない弟の話に、アレンは口を挟むこともせず、辛抱強く聞いてくれていた。
 いつだって、そうだった。セシルがどんなに言葉に詰まっても、愚かなことを口にしても、兄はそれを正面から受け止め、進むべき、正しい道を教えてくれた。導いて、セシルが迷いなく、少しずつでも歩めるようにしてくれた。
 でも。
 今日は、今日だけは。
 アレンは、自信なさげに俯いた弟の肩に手をおくと、「セシル」といつになく強い調子で、彼の名を呼んだ。
「お前も、あと一年ばかりで成人の儀だ。いつまでも、私だけに頼ってばかりではいけない。自分の――己の意志で、選ぶんだ」
 セシルは兄の言葉に、瞠目した。
 まさか、そんなことを言われるとは、思ってもいなかったのだ。
 甘えるにも程があるが、アレン兄上は何時だって、セシルの弱い部分も情けない部分も責めず、拒まなかったから、それが未来永劫、続くような気がしていた。
 ――幻想だった。
 今ならわかる。それが、どんなに愚かな、救い難いほどに、愚かなことだったのか。
「……どうしてですか?どうして、急にそんなことを仰るのですか、兄上」
 震えるセシルの唇が、そう言葉を紡ぐと、アレンは「セシル」と困った顔で首を横に振り、諭すように続けた。
「私がいつまでも、深窓の姫君のように、お前を守ってやるわけにはいかない。それに、セシル、お前は父上の子、エスティアの王の血脈を支える者だ。――真なる王は、民を救い、また民によって生かされる。それに相応しい者でなければ、ならないのだよ」
 アレンの声は穏やかだったが、同時に、無視できぬ何かを備えていた。
 セシルが「アレン兄上……」と呼びかけかけたにも関わらず、唇を閉ざしてしまう程には。
 彼にだって、本当はわかっていた。兄は決して、自分を責めているわけでも、役に立たぬ弟を見捨てようとしているわけでもない。唯、セシルに、自分の足で立つことを、王族として、己に出来る事を見つけるように求めている。
 早くはないのだろう、むしろ遅すぎた位だ。
 兄にそうまで言わせてしまったのは、全て、セシルの不甲斐なさと、臆病な逃げ故なのだから。
 理性は冷静に判断しているのが、少年の感情はそれに追いつかなかった。でも、という言葉が、セシルの口をつく。でも。でも。でも。
「……僕には、無理です。兄上」
「セシル」
 薄茶の髪の少年は、面を上げると、敬愛して止まぬ兄を睨んだ。気弱で温和な弟殿下とは思えぬ、ぎらぎらとした鋭い眼つきだった。淡い色の瞳には、涙がたまっている。
 非礼は承知で、セシルは感情の赴くままに、吠えた。
「兄上は特別な人だから、周りに利用されるだけの、僕の気持ちなんて、一生、わからないんです!」
 涙で滲んだ視界で、セシルは見た。兄が一瞬、眉を曇らせ、とても、とても悲しそうな顔をしたことを。
 みじめなような情けないような、それは、最も近しい弟の彼ですら、初めて目にするものだった。肩を落とした兄はいつもよりずっと小さく、普段の威風堂々とした王太子の面影はなく、凛々しさも威厳も抜け落ちた、空っぽの顔だった。虚しい、とそう表現すれば似合いだろうか。
 馬鹿な。アレン兄上は自分とは、まったく違う存在なのだ。強く、賢く、思いやりがあり、いかなる時も妥協や逃げを選ばない。
 であるはずなのに、刹那、完璧であるはずの兄が、セシルと同じ、迷い子のようにも思えた。
 セシル、と兄が手を差し伸べてくる気配を察して、目尻にたまった涙をぬぐったセシルは、強引にアレンの手を振り払い、兄の部屋を飛び出したのだった。
 もちろん、尊敬する兄に対し、そんな真似をしたのは、生まれてこの方、初めてだった。
「僕は……」
 しゃくりあげながら、セシルは軽く咳き込んだ。
 えぐ、と吐き気を覚える。
 此処に、鏡がないのは幸いだった。おそらく、見るに耐えない顔をしているだろう。
「兄上……」
 アレン兄上の仰ることは、的を得ている。でも、無理なのだ。
 僕は兄のように、特別な才能のある人間じゃない。王族にふさわしい品格も、強く、しなやかな精神も、難事に立ち向かう強靭さも、欠片として持っていない。
 ただただ、祖父の、宰相の傀儡であることしか望まれていないのだ。
 ……そのように、考えること自体が、兄に対する裏切りであることはわかっていた。
 アレンは、セシルの意志を尊重してくれていた。他人がどう評価しようとも、セシルが何かを頑張れば褒めてくれ、認めてくれた。愛する、自慢の弟だと胸を張っていた。そんな兄を、自分は真っ向から否定し、怒鳴りつけたのだ。
 兄はさぞや落胆し、怒っていることだろう。今度こそ、不出来な弟を見限り、もっと役に立つ者を探すかもしれない。
「えっぐ、」
 兄に失望されたと思うと、いっそ、消えてしまいたくなった。
「セシル殿下――ちょうど良い所で、今、お探していたところだったのですよ」
 背中からかかったそれに、セシルは柱に押し付けていた顔を上げ、泣き腫らした赤い目を声の側に向けた。
「お祖父さま……」
 そこに立っていたのは、柔和に微笑む、白尽くめの老人と、それとは対照的に、黒衣に身を包んだ男だ。
 宰相は孫の泣き顔に、刹那、灰の目をすがめたものの、表向きは、何も言わなかった。
 それきり、何でもないような自然さで、セシルに親しみのこもった声をかける。
「今から、この者と、陛下のお見舞いに伺うところです。セシル殿下も、共に参りましょうぞ。――もちろん、お父上に会いたいでしょう?」
 ねえ、と続けられたそれは、実のところ、有無を言わさぬそれだ。
 セシルはうな垂れ、力なく首を縦に振った。
「……はい。お祖父さま」
「では、共に参りましょう。セシル殿下。お心の優れぬ陛下を、お待たせしてはなりませんよ」
 父王を労わっているはずのそれは、セシルの耳にぞくりとするような冷ややさを、押し付けただけだった。
 祖父の白い裾裳の、細長い影を追いかけると、歩く道すがら、宰相が思い出したように、「ああ……」と隣の男を示した。
 王族の御前だというのに、飾り気のない質素な黒衣を纏った若い男は、それまで、口を開くことはおろか、頬の筋肉すら、わずかにも歪めようとしなかった。
 片目に蛇皮の眼帯をしており、前髪の下からのぞく隻眼は、金を帯びた、どろり蜜の色をしている。
 顔の片側には、引き攣り、焼け爛れたような跡があった。
「セシル殿下にご紹介がまだでしたな。この者は、ディー。陛下の治療に雇っている、まあ、薬師のようなものです」
 含みのある紹介に、ディーと呼ばれた男が、くく……、とくぐもった嗤いをもらした。
 蛇皮の眼帯に隠された目は、果たして、どんな色をなしているのか。
 怯えるセシルに、ディーは意外にも、ごく普通の態度で接した。
「ディーと申します。尊き御方」
「僕は、セシルです……ディー」
「セシル殿下ですね。宰相殿から、お話しは伺っております。異国生まれの不調法者ゆえ、失礼もあろうとは思いますが、寛大な御心でお許しくださいませ」
 慇懃ではあったが、ディーの台詞の端々には、どこか相手を見下すような、蔑むような、冷徹なものが感じられた。
 それは、セシルへ向けられたものというよりも、もっと大きな対象に向けられたもののようでもあったが……。
 明らかに貴族とは異なる風体のディーに、祖父が平民と関わらないことを知っているセシルは、不審の念を抱いた。
 薬師といっても、黒衣の男が纏う雰囲気は、どこか、ひりりと肌に痛いような、殺伐としたものだった。人を救う者とは、真逆をゆくような。
 あまり親しみを持てないのは、異国の者だからだろうか、それとも……偏見は良くないと、セシルは微かに頭を振った。
 第一、父王の容態が芳しくないのは事実とはいえ、典医がいるというのに、わざわざ外から呼び寄せるなど……。
 そんなセシルを、金色の隻眼で見つめ、ディーは口を開いた。
「あまり、王太子殿下とは似ておられないのですね」
 何気ない風を装ったそれは、先程の件と相まって、セシルの胸を深く抉った。
 ぐ、と言葉に詰まる。
「あ、アレン兄上とは、腹違いだから……」
 不敬とも取れるディーのそれを、宰相は何故か鷹揚に笑うだけで、咎めなかった。
 国王の寝室へと足を踏み入れると、天幕に閉ざされた向こうから、うううう……、と父の呻き声がした。
 苦しげな、すすり泣きにも似たそれ。
 陛下、と優しい声で語りかけると、宰相は天幕を持ち上げ、その中へと入っていった。黒衣の男も、それに続く。
 祖父とディーの背中が、天幕の内側に消えていくのを見送り、セシルはぶるりと身震いをした。
 おじいさま。
「お祖父さま……貴方は一体、何を企んでいらっしゃるのですか?」


 数刻後、見上げた空は、赤紫の色に染まっていた。
 日没も近い、夕暮れ時、夕焼けで雲までも赤い。
 一瞬、上向いたディーは顔を覆う黒いフードを深くかぶり直し、足早に宿屋への道筋を歩んだ。
 ディー、エラ、ガラン、イルマリオン、皆、彼の名である。
 名は、心を縛る鎖だ。
 相手の名と血を得ることは、ありとあらゆる呪に通ずる。
 呪術を生業とする青年は、それ故、保身の為にと幾つもの名を使い分けていた。 いつしか、どれが自分が名乗るべきものなのか、己自身、よくわからなくなってしまったが。
 ここ最近は、ディーという名で、落ち着いている。
 予期せずして出来た同居人が、彼をそう呼ぶからだ。
 王都の中心からやや離れた、あまり目立たぬ宿屋の前で、ディーは立ち止まった。
 老夫婦がひっそりと営むそこは、清潔で、余計な詮索をされないのが気に入っている。
 普段は静かな宿屋の前で、明るい少女の笑い声が聞こえた。ふわふわと蜂蜜色の髪が踊っている。
 少女は彼の姿を認めると、ぱああっ、と顔を輝かせて、子犬のように駆け寄ってきた。
「お帰りなさい、ディー」
「ただいま。リリィ」
 ディーは胸に飛び込んできた、少女の、リリィの身体を抱きとめた。
 最近、少し肉がついてきたとはいえ、以前はがりがりに痩せて、骨と皮のようだった少女の身体は、今でも、ひどく軽い。
 彼が帰ってきた事が嬉しいのか、リリィは甘えるように、ディーに身をすり寄せ、離れようとしない。
妖しげな黒衣の青年と、年端もいかぬ少女、見ようによっては非難されそうな眺めだが、リリィにそんな意図は微塵もないのは、誰よりも彼がよく知っていた。
「あのー、リリィちゃんの保護者の方ですか?」
 ようやく、じゃれ足りないリリィを地面に下ろしたディーに、横から声がかかった。
 にこやかに話しかけてきたのは、背の高い、爽やかな印象の若い男だった。
 黒翼騎士団の制服に身を包み、帯剣しているものの、威圧感は感じられず、のんびりした話し方と、へらりとした笑いは、ディーの鋭い警戒心を解くに足りた。
 愛想が良く、卒がなく、人の心にすんなりと入り込む、そういう人種がいるのだと、彼は知っている。大概、女子供に受けがいい。
「この子が、リリィが何か?」
 ディーが言葉少なに問うと、騎士はへら、と嫌みのない、愛想笑いを浮かべて、こちらのお姫さま、市場で迷子になっていたんですよ。
「物珍しかったんでしょうね。うろうろ見て回っているうちに、宿屋の場所がわからなくなったらしくて、八百屋の女将さんが、騎士団に連れてきてくれたんですよ」
 なるほど、とうなずくと、ディーは「駄目じゃないか」と、リリィを叱った。
 自分の仕事中に退屈なのは理解できるが、勝手に宿屋から出られては、危なっかしくて仕方ない。
 リリィの心は実際の年齢よりも、遥かに幼い。迂闊に目を離せば、良からぬ輩に利用されぬとも限らなかった。
「ごめんなさい、ディー」
 青年の勘気を恐れたように、こわごわ首をすくめた少女に、ディーはため息を吐いて、怒っているわけじゃない、とその蜂蜜色の髪を指で梳いてやる。
「リリィが面倒をかけた。礼を言わせて欲しい」
 怪しげな外見が反して、丁重に礼を言ったディーに、背の高い騎士は「いやいや、こっちは仕事ですから」と、軽く流した。
「お礼なら、八百屋の女将さんに伝えてあげてください。ちょっとばかし旦那の浮気にゃあ厳しいが、気のいい人ですよ」
 それでは、と騎士は踵を返し、待っていた従者の方に歩み寄っていこうとしたものの、振り返ると、ひらひらとリリィに手を振った。
「じゃあね、リリィちゃん。今度は、迷子になっちゃ駄目だよ」
 リリィは、うん、とうなずいて、手を振り返した。
「うん、またね。ヘクターお兄ちゃん」
 騎士は笑い、夕焼けにマントの影をひるがえし、去っていく。
 待っていたらしい従者が、ヘクターと並ぶと、文句を言った。
「あんな年端もいかない子を……ヘクターさんのタラシ」
「えー、こんな善良な男に、何、人聞きの悪いことを言うのかなあ、エリック。もしかして、嫉妬?お兄さん、モテすぎて困っちゃう」
「誰がですか!」
 軽口を叩きながら、通りを歩いていく二人の背中を見送り、ディーはリリィの手を引くと、宿屋に入ろうと促した。
 騎士たちに助けてもらったのが、よほど嬉しかったのだろう。
 リリィはディーと繋いだ手を、高く掲げ、上機嫌で言った。
「ねー、ディー。ヘクターお兄ちゃんとエリック君に、いっしょに遊んでもらったの。とっても楽しかったわ!」
「……そうか」
 ディーが寡黙であっても、リリィは気にせず、にこにこと喋り続ける。
「ヘクターお兄ちゃんは優しくって、エリック君は面白いことを言うの。ヘクターさんはスケコマシだから、大人になっても、近づかない方がいいですよー、って。スケコマシ、って、どういう意味なの?」
「いや……リリィが、知らなくてもいいことかな」
「ふぅん……ディーがそう言うなら」
 頭から黒いフードをかぶった、異国人風の男と、幼い少女の組み合わせは、親子にも兄妹にも見えず、さぞや奇妙であることだろう。
 宿屋の老夫妻は善良で働き者だが、客に立ち入ったことを訪ねてこない性質なのが、助かっていた。
 リリィの事情もくんで、他の客と衝突しないように、目を配ってくれている。
 お腹が空いた、と声を張り上げた少女の為に、ディーたちは宿の食堂へと向った。
 ホロホロ鳥の蒸し焼きと、レンズ豆のスープ、黒パン、木の実のパイ。
 時間が早いせいか、食堂の客はまばらだった。
 店主の妻が作った料理に、リリィは淡青の瞳をきらきらと輝かせ、はふはふ、と舌を火傷させながら、それにかぶりついた。
 ナイフもフォークも使わず、手づかみだ。頬から肉汁がしたたるのを見かねて、ディーはハンカチで、口元をぬぐってやる。
 手がべたべたになるのかも構わず、リリィは料理に夢中だ。
「リリィ、こっち向いて」
「ん」
 かいがいしくリリィの世話を焼くディーは、宰相と共にいる時の冷酷な姿とは、似ても似つかなかった。
「ふかふかー!」
 部屋に入るなり、蜂蜜色の髪の少女は、寝台へと飛び乗る。ごろんごろんと転がる様は、実に幸せそうだ。
 毎日、毎日、飽きもせずに繰り返されるそれに、眼帯の男は隻眼を細め、苦笑した。
 心ない者に、片目を潰されたというのに、ディーを慕うリリィは、無邪気そのものだ。少女は人を疑う事をしらない、恨むという感情を知らない、赤子のように無垢なままだ。あの時、幼い彼女は抵抗する術もなく、ただ背を丸め、大人の男たちに殴られ蹴られ、頭から血を流していた。
 ――リリィ。
 ディーは寝台の上で飛び跳ねる少女を呼ぶと、丁寧に櫛で、蜜色の髪を梳いてやる。普段は、髪で隠している、少女の潰された片目が露わになって、ディーは痛ましさから、眉を顰めた。
 リリィは不思議そうに、小首を傾げ、淡青の瞳で彼を見上げてくる。
 ――ディー?
 なんでもないよ、リリィ。本当に……何でもないんだよ。
 哀しいのだと言っても、きっと、リリィには伝わるまい。彼女は自分を不幸と思っていない、殴られても、痣だらけにされても、そういうものだと思っている。痛いはわかっても、理不尽という言葉はわからない。

 リリィと出会った日のことを、ディーはよく覚えている。
 呪術を生業とし、異相である彼は一所に長く居つくことが出来ず、大陸の東から、エスティアに流れてきたところだった。魔術に対する嫌悪感が、根強い国土だとは耳にしていたが、故に、それを求める者にとっては、高い利用価値があるのもわかっていた。
 灰色の空から、冷たい雨が降りそそいでいた。
 雨避けを求めて、路地に入り込んだディーは、肉屋の裏で、うずくまっている小さな影に気づいた。雨に打たれていたのは、小さな子供だった。
 薄汚れた身なりで、靴は履いていなかった。孤児かもしれない。
 子供の周りを、殺気立った男たちが取り囲んでいる。ならず者といった風でなく、麺棒や調理器具を手にしている者もいた。
 エプロンをつけた彼らは、近隣の店の者のようだ。
 ディーが助けることもなく、そこに佇んでいると、舌打ちした男のひとりが、ぐったりとした子供の口に、無理やり靴の先を押し込んだ。幼い顔が、苦しさに歪み、白目を剥く。
「これでも食ってろ、盗人が……!何度も何度も、うちの商品を盗みやがって」
「仲間は薄情だな、お前さんひとり、見捨ててくなんざ」
「殺さないだけ、感謝するんだな」
 よほど腹に据えかねていたのだろう。
 隣にいた男が、ビクビクビクと痙攣する子供の腹を踏みつけ、男たちは立ち去って行った。――どうやら報復は、終わったようだ。
 雨に打たれ、血を流していた子供は、やがて、ぴくりとも動かなくなった。
 死んだだろうか、と冷やかな思いを抱きながら、ディーが近づくと、うずくまっていた小さな影が、微かに身を起こした。
「……」
 頭から血を流し、虚ろな淡青の瞳が、ディーを映した。
 そこに宿るのは、嫌悪か恐怖であろうと、男はわかっていた。己の見た目が、人に受け入れられないのは、よく理解している。
 焼け爛れた半身、金色の隻眼、異形なる見た目を、受けいられてもらおうなどと、願いを捨てて等しい。だというのに。
 片目から血を流した子供は、ディーと目が合うと、それまでの苦しげな様子が嘘のように、嬉しそうに笑った。
 まるで、宝物を見つけたように。
「お兄さんのおめめ、太陽みたいで、とっても綺麗ね」
 屈託のない、無邪気な笑み。
 それは、男が未だかつて、向けられたことのないものだった。
 金色の瞳は、強い魔術の素養を持つ証。
 それに怯えた近隣の者たちは、母を殴打し、少年だった彼の目に、燃えたぎる松明を突きつけた。――化け物。化け物。忌まわしい化け物め。その目を、抉ればいいのか。あああアアァァァ。
 過去に囚われそうになった男の頬に、傷だらけの小さな手が、押し付けられた。
 ぺたぺたぺた。
 男の目を覗き込み、自身の方がよほど傷だらけの子供は、心配そうに尋ねる。地面を這いつくばり、手を伸ばす。
「だいじょうぶ?お兄さん、怪我しているの」
 ディーは、何とも言えない衝動に突き動かされるまま、その傷だらけの子供を抱きしめた。呪の穢れを背負った己が、この小さな生き物を、救えるはずもないと知っていたのに。
「私の名はディーだ。お前の名前は?」
「……リリィ」
 自分を抱きしめ、肩を震わせる男の頭を、傷だらけの子供――リリィは、小さな手で撫で続けた。
 まだ冷たい雨は止まない。

 それから、幾つかの季節がめぐった。
 男が女かもわからないほど衰弱していた少女、リリィは十分な食事と、あたたかい寝床を得て、今では街の子供たちと大差ないほど、健康で、愛らしい姿を取り戻している。
 だからこそ、ディーはいつも心配になり、問いかけずにいられない。
「リリィ、私といて嫌じゃないか」
 呪術を用いて、人を殺める。
 常に、暗い闇に閉ざされた、危険な橋を渡っている自覚はあった。いつ死ぬともわからぬ身で、この少女と手を繋いでいるのはよろしくない。
 本当は、もっと光のあたる場所で暮らしていけるよう、手を離すべきなのだ。
 そう告げると、リリィは決まって、首を傾げ、不思議そうな顔をする。
「何で、ディーのことを嫌いになるの?ディーの目は、金色でとっても綺麗、大好きよ」
「……そうか」
 ディーはうなずくと、おやすみと、部屋の隅の長椅子に横たわり、少女に背を向けた。
「おやすみなさい、ディー」


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