BACK NEXT TOP


六章 王女の呪い 6


 机上に転がった空のグラスと、室内を漂う酒気に、ハロルドは知らず、眉を顰めた。
 酒は嫌いな性質ではないが、真っ昼間の書斎で、好んで嗅ぎたい類の匂いでもない。
 それに、どこか退廃的なその光景は、騎士の目には、部屋の主である青年に、どうにも不似合いなように映ったのだ。
 カラン、とグラスの氷が鳴った。
 琥珀色の液体がボトルより注がれて、赤い舌が、それを舐めとる。
 虚ろな、どろり曇ったような眼差しで、空のグラスと、部屋に入ってきたハロルドを見つめるルーファスに普段の、冴え冴えとした怜悧さはない。
 椅子の肘にもたれ、気怠げな様子からは、覇気を感じるのも難しい。
 二つ釦を外し、酒精に蕩けたような蒼い双眸が、美男だけにある種の艶を纏っていたが、ハロルドは不快感を覚えただけだった。
 チッ、と行儀悪く舌を打つ。
 時には、鼻につくことはあっても、いつも堂々と自信にあふれたこの男の、こんな情けない姿は見たくなかったというのが本音だ。
 ふん、と鼻息も荒く、赤髪の騎士は腕組みしたまま、怒気を孕んだように吐き捨てた。
「あまり、美味そうな酒じゃないな、ルーファス。憂さ晴らしか?」
 棘のある言い回しにも、ルーファスは機嫌損ねた様子もなく、彫像めいた無表情のまま、「飲むか?ハロルド」と空いたグラスを騎士に差し出した。
「……不味い酒だ。どうせ酔えない」
 黒髪の青年は、つまらなそうに言い、ハロルドの一月分の給与に匹敵する酒のボトルを乱雑な手つきで転がした。その様は、美酒を楽しむというより、酒に溺れることを、嫌悪しているようですらある。
 それを見た騎士が顔を歪め、眉間に寄った皺を、さらに深くしたことは言うまでもない。
 しばらく会わぬうちに、一体、何がルーファスの心をここまで荒ませたというのか……?ハロルドには、解せなかった。
 メリッサが憂い顔をして、「旦那様のことを頼みます」と口にしたのも、今ならば、うなずける。
 押しつけられた酒のグラスを、無理に押し返し、ハロルドは先から気になっていた事を尋ねた。
「今日、奥方は……?姿を見かけなかったが、外出中か?」
 普段なら、微笑んで挨拶し、迎えてくれる奥方の姿が視界にないことに、騎士は理由もなく不安をあおられた。
 いや、それよりも、あの儚げながらも、 しなやかな芯を持つ少女が、この状態の男を放っておくとは考え難い。
 ハロルドの問いに、ルーファスは自嘲するように低く笑い、唇を歪めた。どろりと昏い瞳は、その実、ここに在らぬ人を映しているようだ。
「あれならば、出て行った」
「は……?」
 意味がわからぬ、と怪訝な表情を浮かべた騎士に、屋敷の主たる青年は、同じ言葉を繰り返した。
「聞こえなかったか?セラならば、この屋敷から出ていった」
 夫である男の口から、あっけなく告げられた、衝撃的な事実に、ハロルドはしばし絶句した後、なんとか喉の奥から声を絞り出した。
「夫婦喧嘩か、それとも、何かあったのか?」
 家庭の事情に踏み込むのは気が引けたが、思わず、そう尋ねずにはいられなかった。
 ルーファスは、いいや、と相変わらず、感情の読めない顔をして、首を横振る。
「俺に、これ以上の迷惑をかけたくないと、自分から出ていった」
「詳しい事情は、よくわからんが……奥方のことを、探しにいかないのか?」
 ハロルドは、困惑気味に尋ねる。
 この屋敷の奥方が、少々、不思議な御仁なのは、また常人にあらざる稀有な力を持っていることも、例の化物の事件の時に、ハロルドは知ってしまった。魔女、であるということ。
 迷惑という言葉が、何を差しているのかはわからないが、それ絡みの可能性は、考えられる。
 ただ、それを置いておくにしても、ルーファスの言いようは、奥方が望んで屋敷を出たという感じを受けぬ。
 探しにいかないのか、というハロルドの声に、ルーファスは端整な顔をしかめ、解せぬと首を傾げた。
「何故?あれが自分から、この屋敷を出ていったというのに……」
 ハロルドは片方の眉を上げると、だが、と静かな声音で反論した。
「だが、その言いようだと……まるで、奥方が周りに迷惑をかけない為に、泣く泣く此処から出て行ったように聞こえるぞ」
 ルーファスは微かに片眉を上げたのみで、答えなかった。
 ハロルドが何か言おうとした瞬間、扉の向こうから、バタバタと慌ただしい足音がして、「旦那様……!」という声と共に、息を切らせた少年が、部屋に飛び込んでくる。
 白い頬を上気させ、 薄水の瞳を熱で潤ませたミカエルは、ぽかんと大口を開けたハロルドも目に入らない様子で、切羽詰まったように叫んだ。
「旦那様。奥方様を探しに行きましょう。僕も、僕も手伝いますから……っ!」
 その従者の瞳は、唯一人、己の主人である青年へと向けられている。
 ミカエルのそれは、激しく、感情的なものではあっただろう。受け止めた側のルーファスは、皮肉気に口角を吊り上げたのみで、「断る」と冷淡だった。
「行きたければ、お前ひとりで行け。ミカエル」
 あんまりといえば、あんまりな台詞に、気色ばんだミカエルは、ルーファスを睨み、唇を噛み締めた。
 真っ赤になった顔とは対照的に、噛みしめすぎた唇は、色をなくしている。
「何で……」
 強く握りしめた、少年の拳は、わなわなと小刻みに震えている。
 未だにセラを探しに行かない、積極的に行こうという素振りも見せない、ルーファスのことが、ミカエルには信じられないようだった。
 従者の彼にとって、主人に真っ向から意見することは、大きな勇気を伴うことであっただろう。けれども、胸に渦巻く想いがそれを上回ったのだ。
「何で、奥方様のことを探しに行ってあげないんですか……?家族じゃないんですか!」
 肩をいからせ、憤りを隠そうともしないミカエルを、椅子に腰をおろしたルーファスは、静かな眼差しで見下ろしていた。
 寄る辺なき孤児であった、従者の少年にとって、家族という言葉が、特別な意味を持つことは知っていた。
 持たざるミカエルにとって、大切なものを腕に抱きながら、躊躇なくそれを手放そうとする主人の選択は、許し難いものなのだろう。
 真面目で、お人好しと言われる従者が、こんな風に感情をむき出しにするのは、少年が屋敷に引き取られる以前、出会った頃以来のことだった。薄青の瞳の奥に、激しいものが燃えている。
「……失礼します」
 快い返事のない主人に嘆息し、肩を落としたミカエルは一礼すると、踵を返して走り去った。
「……追いかけなくていいのか?」
 荒々しい足取りで駆けていく背中を見送り、すっかり傍観者となりかけていたハロルドは、そうルーファスに尋ねた。
 強い口調ではなかったが、それの意味するところは、火を見るより明らかだった。
 問われた男は唇を閉ざしたまま、無言であったが、騎士は辛抱強く言葉を重ねる。
「奥方のこと、彼に任せっきりだったら、きっと後で後悔するぞ。ルーファス」
 親身な説得であったが、それを解するには今のルーファスの心は荒み、ひどく頑なであった。
 黒髪の青年は、手元の書類に、目を落とすフリをして、億劫そうに言い放つ。
「別に……あれだけが、特別な女だったわけじゃない」
 セラが屋敷から居なくなったからといって、何故、俺がそんな風に責め立てられる由縁がある。
 ハロルドはぴくりと頬を引き攣らせると、歪んだものを見るような、軽蔑した目でルーファスを見下ろす。
 ついで、吐き出された騎士の声は、かつてないほど冷ややかだ。
「最低だな」
 振り上げたハロルドの拳が、空を切った。
 殴られそうになったルーファスは、強者だけが持ちうる俊敏さで、鍛え上げられたら騎士の拳を、難なく避ける。
 もう一度しても、結果は同じだった。
 涼しい顔で、腕を組んだルーファスに、 ハロルドは「まったく……大人しく、殴られる位の可愛げがないのか」と、苛立ったように言う。
「俺に可愛げがあったら、気色が悪かろう」
 淡々と応じたルーファスに、赤髪の騎士は「は……、」と乾いた笑いを漏らし、振り上げた拳を下ろした。
 そうして、どこか寂しげな目をして、いいんだな?と念を押した。
「本当に、それで貴方は後悔しないんだな?」
「……」
 燃える焔の髪色とは対象的に、ルーファスを映す瞳は、穏やかな森の翠をしている。
「ルーファス=ヴァン=エドウィンともあろう男が、あんまり情けない真似をしてくれるなよ」
 ハロルドの声に、返事はなかった。
 険しい表情をしたその男が、自ら泥寧に身を浸しているように、騎士には思える。自力で這い上がることは容易であるのに、そこで拒まれ、永久に失うことを恐れているかの如く。
 正直、腹の立つところもないではない、むしろ多々ある男だが、それは輝石を屑石に変えるような行為だと、ハロルドは思う。
 このルーファス=ヴァン=エドウィンという男が持つ光は、こんなところで失われていいものでは、ないはずだった。
 ――あの時、無実の罪で囚われた牢獄で、この男の背に一筋の光明を見出したのは、きっと、過ちではないはずだ。
 この程度で終わってしまう男ならば、それは己の見込み違いだったということだ。見届けてやろうではないか。
 ハロルドは心中でそう呟くと、足早に踵を返し、扉に手をかけた。
「今回ばかりは、手は貸さんぞ。自分の惚れた女くらい、地面を這ってでも、泥にまみれようが、自分の足で迎えに行け」
 扉を閉めた後、その救済とも突き放しともとれる言葉を受けたルーファスが、どんな表情を浮かべたものか、騎士には確かめる術がなかった。



 一方、感情の高ぶるままに、主人の部屋を、公爵家の屋敷を飛び出したミカエルは、あてもないまま街中を走っていた。
 勢いこんで、ルーファスに意見したものの、従者の少年には、奥方の所在など、わかりえるはずもない。
 食堂の呼び込みやら、肉串を焼く露店やらで賑わう街中で、脇目もふらず、ただ走る少年は悪目立ちするらしく、時折、すれ違った人々が怪訝な顔をする。
 おいっ、と誰とも知れぬ相手に、呼び止められそうになったが、足を止め、振り返る余裕はミカエルにはなかった。
 仮に、それほど遠くに行っていなかったとしても、この人、人、人であふれた王都でたった一人を見つけるなど、広大な砂漠から、たった一つの宝石を拾い上げるのに等しい。
「は、あ」
 走って、走って、息が切れるまで走って、額に汗の粒を浮かばせたミカエルは、力尽きたように、壁に手をついて、うつむく。
 孤独と焦りだけが、少年の胸を支配していた。
「ミカエル、そこに居るのは、ミカエルでしょ……!」
 急に名前を呼ばれ、ミカエルは弾かれたように、面を上げる。
 少し高く、人懐っこい少女の声は、かつて誰よりも身近なものだった。
 あの雨の日、ミカエルがその小さな手を離し、卑怯にも見捨て、陥れて死なせた、聞くはずのない声だった。
 ――リリィ。
 ミカエルが殺したはずの、彼女。
 まるで、亡霊に出くわしたような蒼白な顔色で、従者の少年は、記憶に深く刻まれた少女の名を呼んだ。
「リリィ……?」
 蜂蜜色の髪をした少女が、満面の笑みを浮かべて、躊躇なくミカエルの胸に飛び込んでくる。
 彼の記憶にある姿よりも、離れていた歳月、成長したリリィがそこにいた。
 その胸に、かつて喪ったはずの温かな熱を抱きながら、ミカエルは喜びとも困惑ともつかぬ表情で、ただただ呆然と立ち尽くす。
 そんな少年と少女の背中では、片目に眼帯をした黒衣の男が、無邪気に笑声を上げるリリィを見守っていた。


BACK NEXT TOP


Copyright(c) 2013 Mimori Asaha all rights reserved.

-Powered by HTML DWARF-