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六章 王女の呪い 7


「今回ばかりは、手は貸さんぞ。自分の惚れた女くらい、地面を這ってでも、泥にまみれようが、自分の足で迎えに行け」
 そう、突き放しとも、あるいは精一杯の慈悲とも受け取れる言葉を残して、ハロルドはルーファスの前から立ち去った。
 従者のミカエルはとうの昔に部屋を飛び出しており、ルーファスはただ一人、孤独な態で部屋に取り残された。
 ルーファスは机上に転がった酒瓶に、胡乱げな目を向け、鈍く痛む眉間を押さえ、秀麗な面を歪め、頭を振る。ロクな酒ではなかった。天国どころか、地獄を見ただけだ。
 我ながら、酷い醜態過ぎて、いつもの自嘲めいた笑みさえ浮かばぬ。
「何で、奥方様のことを探しに行ってあげないんですか……?家族じゃないんですか!」
 真っ赤な顔で、主人に楯突くことも辞さず、半ば噛みつくように叫んだ、ミカエル。
「ルーファス=ヴァン=エドウィンともあろう男が、あんまり情けない真似をしてくれるなよ」
 あの人の良い赤毛の騎士にしては珍しく、苦々しい顔で、キツいものを孕んだそれは、殊の外、耳に痛かった。
 呆れたように、突き放すようにしながら、その実、あの男たちはルーファスが、己が立ち上がるのを信じ、そして、待っていた。
 有り体に言えば、救い難い馬鹿だ。そこまでしたところで、貴奴らが得るものなど、何もないというのに……。
 しかし、それこそが、ルーファスがかつて欲しながら、決して得れなかったものでもあった。
 愛など愚か者の幻想だと、嘲笑っていた。 束の間の情を交わした相手から、氷の心臓と詰られても、何ら心は揺らがなかった。王太子にとって、役に立つ己であれば、愛など、愛する者など必要ないと思い込もうとしていた。
 それなのに、ルーファスは苦笑いにも似て、浅く息を吐く。
 気がつけば、自分の周りには様々な人間の輪が出来、その腕には、目に見えぬ、多くの糸が絡み合い、繋がっていた。
 時に煩わしくも 思えるそれが、けれども、堕ちかけた己をつなぎ止めていることも事実だ。
 その最たるものが、彼の少女である。
 ルーファスの腕に糸を絡め、様々な立場の者たちとの縁という糸を繋ぎ、思いもよらなかった感情を芽生えさせながら、自分から糸を断ち切った、あの娘。
 目を伏せた、黒髪の青年の脳裏には、亜麻色の髪をした少女の面影がよぎる。
 緑樹差す光をとろかしたような翠の瞳が、彼を映していた。
 ――ルーファス。
 姿を消したセラの存在を、考える。
 理由も告げずに、勝手に屋敷を去った女。
 強くもないのに、独りでも強くあろうとする、愚かな娘。だが、しかし、憎もうにも忘れようにも、もう手遅れだった。
「見て、ルーファス!虹が出てる」
 いつの日か見た、雨上がりの空。
 カーテンを開け、書き物机に座った夫を振り返り、空にかかる七色の橋を背に、セラは得意げに破顔した。
 灰の世界が、少しずつ、だが、鮮やかに色づいていく。
 たった一人の存在で、あれのせいで、世界はこんなにも色を変えてしまった。
 愚かなことだ。唯一を手にしない限り、この乾きは、永遠に癒えない。
 己がどうするべきなのか、その答えは、既に出ていた。


 ルーファスがセラを伴わず、貧民街に赴くのは、例のアンジェリカの一件以来のことである。
 夕刻を前にして、彼がそうした理由は、唯一つ、彼女の師である魔術師に会うためだ。
 ラーグの住処は、貧民街の中でも、さらに奥まった区画にある。
 ふと何気なく天を仰げば、空は夕焼けの真朱に染まっていた。
 地上にあるもの全てを朱に染め上げるような、目を焼く残照の輝きだ。
 黄昏の空に流るる、赤紫の雲。
 ルーファスは眩しげに、蒼い瞳をすがめると、廃屋にも見える蔦の張った家屋の前で足を止める。
 そこに、目当ての人物が、立って居たからだ。
 まばゆい黄金の髪、夕焼けを見上げる琥珀の瞳は、残照の輝きを内包し、金色にも見える。
 純白のローブをなびかせ、触れるのを躊躇うような静寂を纏い、さながら祈りを捧げる祭祀のように、黄昏の空を仰ぎ見るラーグの姿は、人に非ず、何か別の生き物のように見えた。
 子供特有の高い、されど、囁くような掠れた歌声が、立ち尽くす、黒髪の青年の耳へと届いた。
「かくして、王は魔女を殺し、魔女は王を呪うた。凶眼の娘は、今際に願う。この男の血が絶えるまで、その穢れなき血統が、未来永劫、永久に呪われるよう……」
 かつて、金色の魔術師と呼ばれた少年は、古めかしい韻を踏みながら、囁くように歌う。
 彼の弟子は歌を好んだが、ラーグが歌っているのを目にするのは、記憶にある限り、初めてだった。
 哀切な響きを帯びた歌詞は、悲劇の気配を漂わせている。
 刹那、ラーグの身に起こった変化に、ルーファスは目を見張り、息を呑んだ。
 ラーグに代わり、痩身の若い男が長い金髪を風に遊ばせ、そこに立っていた。
 ありふれた面立ちながら、金をとろかしたような琥珀の双眸が、夕陽に煌めくそれが、男の存在を特別なものにしていた。
 金色の魔術師。
 残照の光を、従える者。
 一瞬、ルーファスと目があうと、その青年は琥珀の光を細め、微かに笑うような気配があった。
 強い風が白いローブをあおり、幻は一瞬でかき消えた。
「……魔術師?」
 ルーファスが、瞠目する。
 そこに在ったのは、普段と同じ、金色の子供、ラーグの姿だ。
 先程の、同じ黄金の髪と、琥珀の瞳を持つ男は、一体……?
 ただの幻だったのだろうか。
 疑う暇すら与えず、 ラーグはルーファスに、にこりと屈託なく笑いかけると、どの口か、いけしゃあしゃあと言ってのけた。
「やあ、久しぶりだね……何かお探しかな?公爵」
 当然ながら、ルーファスの探し物に、心当たりがあっての台詞である。
 わかっていて、すっとぼけているのだ。
 人を食ったようなそれは、ルーファスならずとも、眉間に皺を寄せることだろう。
 肝心なことには触れず、涼しい態度を崩さない魔術師に、ルーファスは低く唸った。
「……相変わらず、貴様は性根がねじ曲がっているな。魔術師」
「お互い様だろう?」
 ラーグは口角をつり上げると、愉快そうに、くすり、と笑う。
 入れとも、入るなとも言わぬまま、ラーグは扉を開けると、ルーファスを隠れ家の中へと招き入れた。
 椅子に腰をおろすなり、背を向け、香茶の支度をしようとする魔術師を制し、黒髪の青年は唇を開く。
「お互い、暇なわけじゃないんだ。本題からいくぞ」
 相変わらずせっかちな男だねぇ。
 猫のように琥珀の目をくりくりと、苦笑を浮かべるラーグを、当然のごとく無視をして、ルーファスは核心ともいうべき言葉を吐く。
 その横顔には、臆する気配も、躊躇いも見受けられない。
「――セラはどこにいる?」
 ルーファスの問いに、ラーグは薄く冷ややかに笑う。
「あの子が自分の意志で君から去ったなら、僕がそれを、素直に教えるわけないよね?」
と。
「愚問だな」
 魔術師の皮肉を、ルーファスは鼻で笑い飛ばした。
「こちらは教えてもらえるのを、待っているわけじゃない。教えてもらえないならば、無理にでも聞き出すまでだ」
 強引極まりない論法に、机に頬杖をついたラーグは、些か呆れた目をする。
「……諦めるって、選択肢は?」
 ルーファスの唇から、馬鹿なことをと失笑が漏れた。
「その程度なら、ここまで来たりせん」
 ほんと強引だね。
 半ば本気で、呆れ返りながら、ラーグはいままで幾度も浮かんだ、疑問を口にする。
「君がそうまでして、あの子に、セラに拘る理由って、何なの?」
 君も気づいているだろうけど、可愛い僕の弟子は、強いくせに弱くて、弱いくせに強くて、何かと面倒な子だよ。
 弟子への愛情がありながら、いや、愛情があるが故に、少女を評するラーグの口調は辛かった。
 英雄王の血を継ぐ、妾腹の王女にして、呪いを解く魔女。
 一筋縄ではいかぬ事情を、抱えている。
 多くの犠牲を払いながらも、君がセラを欲する理由は、どこにあるんだい?
 答えてよ、ルーファス=ヴァン=エドウィン。
「それは……」
 普段の飄々とした態度はなりをひそめ、いつになく真摯に問うてくる魔術師に、ルーファスは不愉快そうに眉をひそめ、唇を曲げた。
「……不公平だろうが」
「不公平……?何がだい?」
 どういう意味かと、琥珀の目を丸くする魔術師に、ルーファスは本意ではないが、と前置きし、渋々といった風に白状する。
「あれのもたらしたもので、俺の心は満たされているというのに、セラに何もないのは許せまい?あれの心の一片に至るまで、俺の与えるもので満たさねば、気がすまん」
「うわー…」
 強い執着とも、熱烈な告白とも取れるそれに、ラーグは、げっ、と心底、嫌そうな顔をする。
「男の惚気なんか、僕、聞きたくないよー。いっそ、塵芥になって、目の前から永遠に消えてくれればいいのに」
 半分は、本気の恨み節だった。
「何とでも言え。セラをこの腕に取り戻せるなら、貴様に何と言われようと、一向に構わん」
 ぐおおおっ、その余裕が、とてつもなく腹立つ!
 大切な愛弟子を、横から気に食わない男に掻っ攫われたような気分になって、ラーグは「ぐるぐるぐる……!」と獅子の子のように唸ると、たてがみのような黄金の髪をかきむしった。
 ごろんごろんと苛立ち紛れに、机に頭を転がしていた魔術師だったが、俺だけじゃない、とルーファスの漏らした呟きに、大人しくなった。
「俺だけじゃない。セラの厄介な面も、弱い部分を知った上で、あれを信じて、その帰りを待っている者たちがいる。だから、迎えに来たんだ」
 ルーファスの言葉に、ラーグは暴れるのを止め、椅子に座り直すと、嘘のように静かになった。
 ふー、と深く嘆息すると、「君に、話さなきゃいけない時が来たのかな……」と、諦めたような、寂しげな声音で語り出した。
「公爵。君は、凶眼の魔女を知っているかい?」
 ラーグの問いかけに、ルーファスは何を当然なことを、と言いたげな表情で頷いた。
 エスティア建国の祖・英雄王オーウェンと、彼が聖剣で退治した凶眼の魔女の話は、あまりにも有名だ。
 この国の民なら誰もが知る、英雄譚である。
「無論、知っている。英雄王に弑された魔女だろう?聖剣ランドルフに、心臓を貫かれた」
「そう……」
 ラーグは頷いて、微かに目を伏せた。
 悪い魔女を倒し、英雄王とお優しい王妃様は、王子をもうけ、いつまでも幸せに暮らしました。めでたし、めでたし……英雄譚には、語られなかった続きがあった。
 英雄王の末裔、エスティア王家が三百年の長きに渡り、秘とし続けた闇が。
 それは、英雄王の生涯の側近・隻眼のヴィルフリートを先祖に持つ、ルーファスでさえ知らぬことだ。
「凶眼の魔女は死の直前、自身の全ての魔力を使って、英雄王に、彼の血に連なる者たちに呪いをかけた。『エスティアの王族。その最初に生まれる子に、魔女の呪いをかけよう。その子はいるだけで周囲に災厄を集めて、王国に不幸をもたらし、やがては最も愛する者を手にかけ、死に至る。――貴方の子も、その子の子も呪われる。災厄を集め、愛する者も道連れにして、そして呪いは続く。永遠に』と」
 魔術師の言葉が意図し、もたらした微妙な齟齬に、ルーファスはその時点では気付けなかった。
 それは、幸福なことであったのか、あるいは不幸だったのか……。
 ラーグは淡々と、あえて感情を削ぎ落としたような無機質さで、言葉を紡ぐ。
「凶眼の魔女の呪いは、強すぎて、誰も解けない。三百年もの間、いかなる魔術師も、無理だった」
 それは、不世出の天才魔術師と謳われた彼ですら、例外ではなく。その語り口は、どろりと澱んだ蜜のように、自嘲を宿していた。
 呪いを受け継いだ災厄の子は、周りを皆、不幸にする。災いを呼び寄せ、時に死神を招く。
 ラーグの語るそれに、ルーファスはようやく、セラの抱えるものの一端を悟った。
 重すぎるその宿命は、あの儚げな娘には、荷が勝ちたるものであっただろう。
 潤んだ翠の瞳、心配ないのと強がり、儚げに微笑んだ口元、 彼女はいつも声なき慟哭を、心の奥底にひた隠しにして。
「……だから、あの子は去ったんだ。魔女の呪いを背負った身で、君を、大切なものを犠牲にしない為に」
 本来、呪いを背負うべきは、あの子じゃなかったとラーグは言った。
 侍女の腹から産まれた、妾腹の王女、セラフィーネ。
 その誕生は、祝福されるものではなかった。全ては、魔女の呪いを背負う、贄を用意するため。
 金色の魔術師は残酷に、憐れむように、告げる。
「セラはね、誰かの代わりに不幸になって、死ぬ為だけに生まれてきたんだよ」


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