王太子アレンが原因不明の病によって、目覚めぬ眠りについてから、はやひと月近くが過ぎようとしている。
事態が判明した当初こそ、王太子の病を治さんと、典医のみならず、国内外から優秀な医者がかき集められ、果ては、魔術を厭う国家の誇りすら捨てて、怪しげな祈祷師の類さえ呼んだが、アレンの病状は一向に快方へと向かわなかった。
毒を盛られた風でもなく、ただ静かに眠り続ける奇病は、エスティアの歴史にあっても初めてのことで、病名すらわからぬそれは、医者たちの眉をひそめさせた。
名医で知られる医者が、ひとり、ふたり、己の手には負えぬと首を横に振り、差し障りのない言い訳を並べ立てて、去っていく。
それでも、次から次へと、医者がかき集められたのは、アレンの王太子という身分故だ。もし、市井の民であれば、とっくの昔に匙を投げられていただろう。
一方、王太子が眠り続ける間、王宮はさながら暗い濃霧に包まれたように、混迷を極めていた。
寝室に籠もりきりで、重臣たちが集う議会にすら顔を見せぬ父王の名代として、議会の一翼を担っていたアレンの抜けた穴は大きく、宰相ラザールを筆頭とする一派が発言権を増した。否、ほぼ独占したと言っていい。
必然的に、王太子アレンを仰ぐルーファスらの肩身は狭くなり、以前よりいっそう通りづらくなった意見書に、側近であるディオルトは、苛立たしげに爪を噛んだ。
王太子が快方に向かわぬことに、強い焦りを覚えつつも、何も出来ぬ王太子派を尻目に、宰相派の者たちは我が物顔で振る舞い、宰相ラザールの命じるがままに、議会を進めていく。
その、かたよった判断や公正たるべき議会を、私物化するかのような愚行に耐えかねた大臣が、意を決し、異議あり!と声を張り上げようとも、一見、好々爺然とした宰相の柔和な笑みひとつで、口をつぐみ、黙り込む羽目になった。
「……何か?エンザ伯」
「……いや、」
床に滴る滝のような白髪と、聖者のように柔和な笑み、純白の衣は神に仕える司祭すら連想させる。だが、そのやわらかく細められた双眸の奥に眠る、恐ろしいほどの残酷さを知る者にとって、それは畏怖と恐怖の対象でしかない。
異を唱えようとしたエンザ伯爵、勇敢な人格者で知られる元武官は、背中に冷や汗をかきつつ、臆病な野兎のように身体を丸めて、椅子に座り込んだ。
それを目にした宰相の腰巾着たちは、ますます勢いづいて、万が一、王太子アレンの病状が回復せず、身罷った場合に備えて、宰相の血筋であるセシルを擁立しようとする動きまである程だ。
卑しくも王家に忠誠を誓ったはずの者たちのいやらしい打算に、アレンを慕い、その目覚めを信じる者たちは心中、腸が煮えくり返る思いだった。
宰相派の言動にいちいち腹を立て、過敏に反応するディオルトなど、歯を食い縛りすぎてか、常に頬がぴくぴくと引きつった状態だ。
元々、王太子派と宰相派の対立によって、真っ二つに割れていた議会であるが、それでも、今までは、宰相ラザールの老獪な政治手腕と、温厚篤実で知られるアレンの性格故に、辛うじて、ぎりぎりの均衡を保っていた。
しかしながら、アレンが姿を消したことで、議会の平穏は失われた。
このような事態にあっても、当代のエスティア国王オズワルトは、表に出てこず、議会で重臣たちに意向を伝えることすらなく、宰相の口を通じて、任せる、よきに計らえと告げるだけ。
それすらも、議会の者たちにとっては予想できたことであり、失望や落胆の声も、既に絶えて久しかった。
国を動かすべき議会は、ドロドロとして権力闘争の場となり、セシルを担ぐべしという声は日に日に大きくなる。
そんな大人たちの心無い態度に、小さな胸を痛めてか、セシルはふさぎ込み、部屋に籠もることが多い。
あれほど慕っていた異母兄の見舞いにすら、周囲に阻まれる形で、なかなか行けぬというのは、ルーファスらの耳にまで届いていた。
一歩、間違えれば爆発しそうな、ギスギスした空気を孕んだまま、大臣、司教、上位文官、武官を召集した議会は進行していく。
本日の議長を任されているのは、ワードワース子爵、真面目で穏和な気質の文官畑の男であるが、ピリピリと肌を刺すような空気に、内心、胃を痛めているのは、容易に想像がついた。
事務能力と、宰相派とも王太子派とも言えぬ中立な立場を買われて、議長に指名されたものの、実に気の毒なことである。
ぱりっとした衣服に身を包み、小太りな身体を揺らしながら、時折、落ち着かなげに空咳をしたり、曇ってもいない眼鏡を熱心に拭いているあたり、この役目を重荷に感じていることが見て取れる。
「……それでは、この提案は却下ということで」
こほっ、と咳払いをした議長のそれに、異議なしとの唱和が響く。
「異議なし」
「同じく。異議なし」
ディオルトの提出した案件は、民の生活に配慮した、革新的なものだったにも関わらず、熱心に討論されることもなく、ただ敵対感情だけを理由に、宰相派の者たちに却下された。
半ば覚悟していた結果とはいえ、意気消沈気味にうなだれたディオルトを横目に、くすくすと忍び笑いを浴びせるような、ひどい輩もいる。
そんな側近を、宰相ラザールはたしなめるでもなく、ゆったりとした鷹揚な笑みを浮かべ、なすがままにさせている。
理性故に激昂することこそないものの、内心、屈辱に打ち震えるディオルトは、憤懣やるかたない様子で、隣席のルーファスを見つめた。
味方と言える人間が、やりこめられているにも関わらず、ルーファスは静かだった。
情けないから、助けてくれとは言わないが、口添え位はあっても、罰は当たらないのではなかろうか?
今日の議会が始まってからというもの、採決を求められた時以外、ルーファスは書類に目を落とし、時折、ペンを走らせるほかは、いっそ不気味なほどに沈黙を守っている。
長い睫は床を向いて、上げられる素振りもない。
否、王太子不在の議会となってからというもの、その片腕である青年公爵は、無言であってもにじみ出る存在感を抑えるように、沈黙を常とするようになった。
宰相派の者たち、特に氷の公爵と称される男の、鋭い舌鋒にやりこめられていた彼らたちは、その静けさに胡散臭いものを覚えつつ、いつ、ルーファスが冷ややかに唇を開くのかと、戦々恐々としている。
そう、積極的に発言するでもなく、決して、表立った動きを見せていないのに、 議会の視線は、眠れる王太子の意向を代弁しているであろう、黒髪の青年へと集中していた。
それを察しているだろう、ルーファスは無言で議会の進行を見守り、涼しい顔だ。怖いほどに整った美貌に加え、その立ち居振る舞いには、一部の隙も見受けられない。
同じく、王太子の側近である者たちですら、気軽に声をかけづらい雰囲気を醸し出している。
相も変わらず、男も見惚れるようなよい男ぶりで、心なしか、少しやつれたような頬が、かえって、えもいわれぬ男の色気があった。
妾腹の王女を妻としてから、やや近寄りがたさが薄れたと、やっかみ混じりの噂が流れていたものだが、いま、議会でのルーファスはいつも以上に、冷ややかで事務的な空気を纏っていた。
議会において、そんな黒髪の青年を特別視することなく、また威圧感に気圧されることもないのは、ただ一人、深紅の絨毯をしいた、不在の玉座の傍らに、我が物顔で寄り添う老宰相だけである。
議場には、立場の異なる多くの者がいるのに、そこに埋没することなく、二人だけが浮き上がっているようだ。
ワードワース子爵は、額に浮かんだ汗をあせあせとハンカチで拭きながら、宰相派と、旗頭を欠いた王太子派、真っ二つに別れた議会を、なんとか舵取りをしながら、つつがなく進めていく。
それでも、積み上がった案件は淡々と片付けられて、やれやれと胸をなで下ろしかけた、その時だった。
「さて、次の議題ですが……」
議案書をめくった、ワードワース子爵の顔が刹那、傍目にもわかるほどに歪んだ。
それは、ルーファス、エドウィン公爵が中心となり、提出してきた議題であり、宰相派の反発は目に見えている。
議長である子爵は、一瞬、これから起こるであろう修羅場を予期したように、前列に腰を据えた青年公爵の顔色を伺う。
ルーファスはといえば、子爵の視線をさらりと受け流し、悠然と長い足を組んでいた。
ワードワース子爵は遅ればせながら、つとめて平静を装い、 議案書を読み上げる。
案の定、反発心からか、宰相派の者たちからすぐに、否定の声が上がった。あまりにも露骨なそれに、それまで耐えていた王太子派の者たちも、眦を吊り上げ、一触即発の空気すらただよう。
そんな血気盛んな者たちを、議長の威厳でなだめ、人生経験豊かな子爵は、穏やかな目をして、ルーファスを正面から見つめた。
「いかがですかな?エドウィン公爵、何か申されたいことはおありか?」
議長の声に反応して、宰相派の敵意に満ちた目線が、王太子派の期待に満ちた眼差しが、ルーファス、ただ一人に注がれる。
隣席のディオルトは、王太子の片腕である青年の動きを、固唾を呑んで見守った。
それまで沈黙を守っていた、ルーファス。だが、ただ、やりこめられるだけをよしとしない男であることは、王太子の陣営にいる者たちにとっては、今更、言うまでもないことだ。
切れ者で知られる頭脳、筋の通った雄弁さに、ディオルトらは大きな期待を寄せた。だが。
「いいえ、何もありません」
議長の問い掛けに、ルーファスはゆるり首を横に振り、異存はないと示した。
「本当に?」
「ええ」
子爵の再度の問い掛けに、氷の公爵との異名にそぐわぬほど穏やかに、ルーファスはうなずいた。
議場に、落胆と安堵が入り混じったような複雑なため息が広がる。
ワードワース子爵はどこか拍子抜けしたような表情で、
「エドウィン公爵のは、取り下げということで、宜しいですかな?」
と、小さく息を吐くと、再び、やや疲れた声音で、残りの議案書を読み上げ始めた。
長く、息詰まるような議会が終わりを告げる。
ルーファスはディオルトにだけ簡単に挨拶すると、足早に議場を後にし、従者のミカエルを待たせている控えの間へと向かおうとする。
しなやかな獣を思わせる、優雅な歩み。
その高く、無駄なく筋肉のついた広い背中に、後ろから声を掛ける者がいた。
「エドウィン公爵!」
背後からかけられた声に、靴音が止む。
ルーファスは、ゆるり声の方を振り向く。
陽光差し込む窓を背に、片頬に淡い影が差し、煩わしげに上げた額には艶やかな黒髪が一筋、はらりとこぼれ、鋭い蒼の双眸がこちらを見据えている。
エドウィン公爵、と呼びかけた男は、ルーファスの倍以上の歳月を生きているにも関わらず、う、と息を呑んで、その場に立ち尽くした。
人は本能的に、絶対に適わないものを見た時、嫉妬や羨望など覚えない。
ただ、胸を鷲掴みにされるような息苦しさと、畏怖に近しいそれを抱くだけだ。
光の屈折によって、紫がかって見える蒼い瞳。
温かみは欠片もなく、こちらを見下すような、冷ややかなものを宿している。
全く寒くないのに、ゾッと背筋が凍えた。
こいつは、何だ?――化け物じゃないか。
「……何か?」
問い掛けてくる公爵のそれは、硬質で、されど怖いくらいの美声だった。
呼び止めた貴族の男は、震えそうになる足を叱咤し、精一杯の威厳を装う。
何のことはない。男は、普段、頭でも口でもルーファスに及ぶすべもなく、弱っているここぞとばかりに嫌みを言いたいだけの、小物だからだ。
「いや、なに、今日は随分、大人しかったではないかね?エドウィン公爵……やはり、王太子殿下がおられぬと、調子が出ないと見える」
何を言いたいのかよくわからぬ嫌みを、ルーファスは不快げにするでもなく、無言で聞き流していた。
優しさからではなく、ただ相手にするに値しない相手だから、そうしてだけなのだが、それがかえって 、小物の小物らしい、貧相な神経を逆撫でしたらしく、男はムキになって言い募った。
「まあ、君が王太子殿下のご威光を借りていられるのも、あと少しかもしれないがね……眠れる王子は、玉座に相応しくはな……」
男が、その言葉を最後まで喋ることは叶わなかった。
蒼い双眸が刃の如き冷厳さをたたえて、男を射抜く。
ルーファスの鋭いひと睨みに、男はひ……っ!とたじろいで、脱力したように、へなへなと座り込んだ。
青年公爵は、そんな情けない醜態を晒した男に顔を寄せると、鳥肌が立つような、美しい笑みを浮かべて言い放った。
甘く、優しくさえ聞こえるそれは、へたり込んだ男の耳には、死の宣告にも等しく響く。
「恥を知れ、痴れ者が。王者の資質を語れるは、王のみだ。貴様ごときに、あの御方を穢すことは、断じて赦されない」
価値ないものを見る目で男を見下ろすと、ルーファスは興味を失ったように、足早に去った。
「あ、あ、あ……」
いまだにへたり込んだままの男の頭上に、すっと影が差した。
金糸の刺繍を縫い込んだ白い袖が、深い皺のきざまれた掌が、助けようとするように、男の前へと差し出される。
「大丈夫ですか?」
「さ、さ、宰相閣下……」
動揺のあまり、口をパクパクとさせる男に、宰相ラザールは銀にも見える灰眼を細め、労るように肩を抱いた。
「おぉ、可哀想に。あなたは、なにも悪くない」
その声は、不自然なほどに優しい。
表向きは、慈悲深い賢人として振る舞う老宰相は、一瞬、そのような仮面をかなぐり捨て、悪鬼のような表情で言った。
「あの鼻持ちならぬ公爵は、必ず、報いを受けることになるでしょう。穢らわしい血族の末に、災いよあれ」
――かの者の血を継ぐ者に災いあれ、未来永劫、絶えることのない呪いを。
それは奇しくも、エスティア建国のむかし、最愛の恋人に殺された金眼の魔女が願ったこと。
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