――ぶちりっ。
強固かつ念入りに張り巡らされた呪いの糸が、半ば強制的に断ち切られる感覚に、ディーは眼帯の下の、黄金の眼を眇めた。
彼が王太子にかけた呪いが、何者かの手によって、排除されたのだ。
その鮮やかな手並みに、苛立ちと同時に、感嘆をも覚える。
ディーの呪術師としての腕前は、古の魔術師達には及ばずとも、そこいらの呪い師紛いの偽モノたちとは、到底、比較にならない。
この王都に、己と並ぶ腕前の魔術師が居るとは、恐れ入った。
否、正直に言おう。解呪には、かけた術者と同等以上の魔力がいる。それはつまり、呪いを解いた者が、ディーを上回る術師だということだ。それ程の相手ならば、この隠れ屋を知られるのは、時間の問題であろう。
一国の王太子を呪ったのだ。捕らえられれば、待っているのは、処刑のみ。ならば、するべきことは、ひとつ。だが――
「どうしたの？ディー。何かあった？」
寝台の淵に腰を下ろしたリリィが、ディーに向かって腕を伸ばし、首を傾げる。
ふわふわ蜜色の髪が乱れて、薄青の瞳が不安そうに揺らいだ。
いつ見ても、砂糖菓子のような娘だ。
甘く、やわらかで、穢れを知らない少女。
闇に堕ちたディーのようなならず者にも、屈託ない笑顔を向ける。
実の親に捨てられて、孤児として育ち、仲間にも裏切られたはずなのに、リリィの心は憎しみではなく、人への優しさに向けられている。それは、奇跡のようなことだと、ディーは思っていた。
村人たちから悪魔と謗られ、依頼人の求めるままに人を呪い、罪なき人々を手にかけてきた、薄汚れた我が身をかえりみればこそ。だからこそ、いつか、別れの時が来ることはわかっていた。ずっと、共には在れないことも。
闇に身を堕とした自分のようになるのでなく、リリィには、リリィだけには光ある幸福な未来を手にして欲しい。
そこに、己の存在は必要ない。この娘が憂い無く、平穏な日々を過ごせれば、その他には何も望まない。
「何でもないよ。でも、」
ディーは首を横に振り、無造作にリリィの頭を撫でた。
「でも？」
「よく聞け、リリィ。大切なことだ」
少女の華奢な両肩に手を置いて、その顔をのぞき込むと、ディーは真摯な口調で語りかける。
「リリィは、あの騎士団の人たちと仲が良いだろう？」
「……ヘクターお兄ちゃんやエリックお兄ちゃんのこと？う、うん」
何故、急にディーはそんなことを言い出したのだろうと思いながら、リリィは躊躇いがちにうなずく。
「そうか……」
ディーはどこか静かな眼差しで、窓の外を見つめると、衣装箪笥から革袋を取り出す。
そうして、再び、リリィのそばに戻ってくると、その革袋を彼女の手に渡した。
どっしりと重いそれに、リリィの薄青の瞳が見開かれる。
「ディー……？」
不安でたまらないという表情をするリリィに、ディーは彼に出来うる限り、優しく微笑む。
笑顔は苦手だが、出来ないわけじゃない。
肩にのせられた手に、力がこもった。
「これをあげよう、リリィ。銀貨で八十枚ある。これさえあれば、誰もお前を邪険に扱うことはないはずだ」
「ふぇ、何を言っているの？ディー」
銀貨のつまった袋を手に、今にも泣きそうなリリィに、ディーは辛抱強く語り続けた。
「いいから、よく言うことを利くんだ。リリィ、この宿屋を出たら、黒翼騎士団の詰所に向かえ、そこにお前の仲の良いヘクターとやらがいるはずだ。中に入れてもらえたら、すぐに保護を求めるんだ。いいか、こういえば良い。『悪い魔術師に騙されて、各地を連れ回されていた。どうか、助けてください』と……どう、簡単だろう？」
「……そうしたら、ディーはどうするの？」
少女の純粋な問い掛けに、覚悟を決めたはずの男も、刹那、辛そうに顔を歪めた。
「俺は身を隠すことになるから、一緒には行けない。逃亡の旅になるからな」
「いやっ！ディーと離れるなんて、絶対にいや！……リリィも、リリィも一緒に行く！連れて行って！」
抱きついてくる小さな身体を抱きしめ返して、ディーは柔らかな蜂蜜色の髪を撫でながら、まるで聞き分けのない子供を諭すように、言葉を重ねた。
「駄目だよ、リリィ。今まで以上に過酷な旅になる。お前は連れて行けない。それに、」
ディーは胸にこみ上げる感情をこらえて、胸に収まるリリィを、宝物のようにそっと抱きしめた。
ちいさくて、どこまでも優しくて、そして、儚く脆い命。
この娘を守るためならば、己は悪魔にだって、進んでなるだろう。
「お前は、俺のような闇の人間と別れて、普通の人の世界に戻るんだ。その為に、俺の全財産をやる。そうすれば、お前は幸せになれるんだよ、リリィ。お願いだ。――お前は、お前だけは幸せになってくれ。リリィ。ささやかでも、それが俺が踏みにじった、罪のない奴らへの償いだ」
「いや！ディーもリリィのことを置いていくの？そんなの、絶対にいや！」
過去の恐怖が、少女の心を支配する。
家族もミカエルも、彼女を置き去りにしたっきり、二度と戻っては来なかった。
なおも駄々をこねるリリィに、ディーは痛切の表情を浮かべ、首を横に振った。
「いつか、ほとぼりが冷めたら、会いに行くよ。約束だ」
背を向け、扉の方に歩いていこうとするディーの背中に、リリィは「待って……お願いだから、置いていかないで！ディー」と、取りすがった。
しかし、
「――来るなっ！」
かつてない程、強く怒鳴られて、リリィはびくっと身を痙攣させた。
ディーがこんな風に、彼女を拒んだことは、今まで一度もなかったのだ。
「どうか、お前だけは幸せになってくれ、リリィ。それだけが、俺の願いだ」
「ディー、ディー、ディー！」
潤む視界で、前が見えなかった。
幸せな未来も、沢山のお金も、何にもいらない。唯、ディーが傍に居てくれれば、それだけでいいのだ。
拒まれても、拒まれても、リリィは必死にディーに向かって、手を伸ばす。
しかし、その細い指先が、男の黒いローブの袖に届くことはない。
パタリ、と乾いた音をさせて、扉が閉められる。
「う、う、う、ううう……」
閉められた扉を見つめながら、リリィは涙をこぼす。
粗末な床板に、涙のシミが広がった。
泣いても、泣いても、その涙は枯れることがない。
「うわあああん、うああああん！」
いまだ、ぬくもりの残る寝台に、頭をうずめ、リリィは激しく慟哭した。
一方、王宮を辞したルーファスとセラは、馬車で屋敷へと戻ってきていた。
意識は戻ったとはいえ、いまだふらつくセラの身体を、ルーファスが支える。
主人の帰宅を聞きつけた使用人たちが、エプロンで手を拭いたりしながら、慌てて出迎える。
「足元に気を付けろ、セラ」
馬車のタラップを下りながら、差し出された夫の手に、セラは己の手を重ねた。
「うん……ありがとう」
スティーブから云いつけられていた用事の途中で、主人の出迎えに出てきたミカエルも、見るからに血色の悪い顔をしたセラに、心配げな目を向ける。
「ど、どうかなさったんですか？奥方さま」
「……ミカエル」
呪いの糸を手繰り寄せた時、ミカエルの痕跡が残っていたことを、セラは見逃さなかった。それはつまり、呪いをかけた者とミカエルの間に、何らかの交流があるということだ。
大きく、吸い込まれるような、翠の瞳を真っ直ぐに向けられて、ミカエルは刹那、たじろいだ。
その澄んだ湖面のような煌きに、引き込まれる。
目が逸らせない。
睫毛が瞬いて、伏せられた瞼が上がる。
「少し、話があるの。良いかしら？」
ああ、そうか。
いよいよ、来るべき審判の時が来たのだと、ミカエルは思った。
喉が、カラカラに乾いている。
セラと並んで、ルーファスの深い深い蒼の双眸が、己を見つめている。
「……は、い」
ようやく絞り出した声は、酷くかすれていた。
「さて、話を聞こうか。ミカエル」
場所を移して、書斎にて。
所在なさげに、椅子に腰を下ろしたミカエルに、そう切り出したのは、ルーファスだった。
「お前が、最近、外で誰かと会っているらしいというのは、気づいていた。その件について、何か言い訳はあるか？」
尋ねるというより、確信に満ちたルーファスの声音に、ミカエルは誤魔化すことを諦めた。
否、元々、ミカエルにこの主人を欺くような芸当は、到底、不可能だ。
観念して、首を横に振った。
「いいえ、旦那さまの仰る通りです」
「では……、その相手が罪人と関係があると言ったら、どうする？それも、国家を揺るがすような、大罪人だ」
「……っ」
続けられたそれに、ミカエルは息を呑む。
まさか、と言いたいが、リリィと一緒に居たあの男が、堅気の人間ではないことは、一目でわかった。裏社会に生きる者の、特有の臭いと言うべきか、おそらくは人の命を奪ったことも、一度ではあるまい。
しかし、まさか、公爵であるルーファスが調べるような、重要な人物だとは思わなかったのだ。
「単刀直入に言おう。その男の居場所を、俺たちに教えろ。ミカエル。お前がどういう関わりを持ったのかはわからんが、その男は、大罪人で騎士団に捕縛されるべき人間だ」
……騎士団？捕縛？
そんなことになったら、あの男と一緒に居る、リリィはどうなる？
混乱しながら、ミカエルは主人に尋ねる。
「捕縛して、どうなるのです？」
ルーファスの答えは、簡潔だった。
「減刑の余地はない。処刑だろうな」
「そんな、だって……そんなことになったら、リリィが悲しむ……」
ミカエルは呆然と、手のひらを見つめた。
あの明らかに闇を背負った男を、それでも、リリィは心から慕っていた。もし、あの男が騎士団に捕らえられ、処刑をされた時のリリィの苦しみを思うと、胸が張り裂けそうになる。
「ミカエル。お前には悪いが、俺たちには時間がない。あの男の居場所を教えない場合、最悪、お前も共犯者とみなされることになる。それだけは、避けたい」
ルーファスの声は静かだが、抗いがたい響きを持っていた。本気なのだとわかる。
旦那さまは、一度、口にしたことは必ず、実行される御方だと、従者のミカエルはよく知っていた。でも、それでもなお、選べない。だって、もしも、ミカエルがそれを口にしたら、リリィだって無事で済むかどうか、わからない。
「だって、そんな、どうしたらいいんですか……？僕は、僕は、僕は選べない」
泣きそうな顔で、ミカエルは「選べない」と繰り返した。
大恩あるルーファスと、大事な妹のようなリリィ、どちらもミカエルにとっては大切な人だ。
片方の手を取れば、もう片方の手を離すことになる。
それに、ミカエルは一度、リリィの手を放して、裏切ったのだ。彼女が嘘を見抜けないと知っていて、気休めの嘘を吐いた。迎えに行くと言ったのに、守らなかった。それなのに、もう一度、彼女を裏切るのか……無理だ。
自分には出来ない。
「――ミカエル」
うつむいて、心を閉ざした少年に、セラは静かに歩み寄ると、膝を折り、諭すように語りかけた。
「貴方が、いま何を選んだとしても、過去を消すことは出来ないのよ。誰しも、傷は永遠に背負って、痛みを抱えながら、それでも生きていくしかないの」
それは怒鳴られるよりも、ずっと強く、ミカエルの心を揺らがした。
……そうだ。認めよう。自分はズルい人間だと。
リリィに優しく接することで、彼女を裏切った、過去への償いになると思った。いや、叶うならば、あの日のことを、無かったことにしたかったのだ。愚かなことだ。そんなこと、神以外の何者にも出来るはずもないのに。
「僕は、僕は、僕は……」
ミカエルは、嗚咽をこらえるのに必死だった。
反吐が出る。
自分は、こんなに醜い人間だったのかと。
贖罪なんて、とんでもない。ただ、自分が可愛かっただけじゃないかと。
「でもね、ミカエル。それでも、あたしは貴方のことが、とても好き。だって、」
愚かで、罪深く、それでもなお愛しいものを抱きしめるために、セラは手を伸ばし、柔らかく微笑んだ。
「貴方は、ただ過去に留まっているだけじゃない。ルーファスに出会って、新たな絆を築いている。それは、とても凄いことだと思うわ。この屋敷の皆も、皆、貴方のことを認めているの。――貴方は、もう独りじゃないのよ。ミカエル」
柔らかな、少女の腕に抱かれて、ミカエルは目をつぶり、唇を、血が出るほどきつく噛み締めた。
涙は、こぼれない。
泣く資格なんて、もう残されていないことは、十分にわかっていたから。
瞼の裏に、蜂蜜色の髪を揺らして、無邪気に笑う、リリィの面影がよぎった。
『約束よ、ミカエル。必ず、迎えに来てね』
――ごめん、リリィ。僕は、もう一度、君を裏切るんだ。
「教えます。あの男の居る場所は……」
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