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七章 眠りの王子 3


 権力、富、名誉、名声、この世で最も美しいもの、あるいは目を背けたくなるほど醜いもの。
 ありとあらゆるものが集う、王宮には、噂をエサとする、無責任な孔雀たちが、何匹も住み着いている。
 貴婦人と呼ばれる彼女たちは、美しい羽を纏い、針のくちばし羽扇で隠し、やれどこぞの侯爵家の醜聞から、どこそこの男爵の痴情のもつれに至るまで、噂話を甘美な菓子のように、熱心に咀嚼している。
 ピーチク、パーチク、時に姦しいほどさえずる王宮の孔雀たち。
 最近の話題は専ら、急に体調を崩し、表に出て来なくなった王太子・アレンのことだった。
 それまで、寝室に籠もりきりの父王の名代として、政務は言わずもがな、宮中行事や、謁見や各所への慰問をも精力的にこなしていただけに、行事の際、ぽっかりと空いた王太子の席がいっそう目立つ。
 また、王族の末とはいえ、宰相の孫であるセシルは王太子のすぐ隣、良い席を与えられていたが、そこもまたアレンが病に倒れたのと同じくして、欠席が目立つようになった。とはいえ、明朗活発、其処にいるだけで光輝くようと称されるアレンとは異なり、常に控えめで、身体の弱いセシルの欠席続きには、そう好奇の目は向けられなかった。
 王太子としては致命的に後ろ盾が弱いとはいえ、輝くような黄金の髪、明るい青と思慮深げな灰のまじった瞳、端整な面立ちと、すらりとした身体つきをしたアレンは、貴族の令嬢たちの憧れの的である。
 氷の公爵と呼ばれるルーファスが、近寄りがたいほどの硬質の美貌で、令嬢たちの頬を染めさせる反面、近寄りがたさを覚えるのに対し、アレンは誰からも慕われる、春の日差しのような穏やかさを持っていた。
 二人が並ぶと、月と太陽のようだった。
 そんなアレンの体調不良に、心を痛ませる乙女は多かったが、それとは別に、王宮内にはひそひそと密談が絶えることはない。
 もし、このまま王太子の病状が悪化し続け、最悪、身罷った場合、次にその椅子に座るのは、一体、誰なのか。
 形なき悪夢に怯え、寝室で亡き王妃の夢想に耽る、国王オズワルトに王太子を決める意志は残っていないだろう。何人かいる庶子は、ただ一人をのぞいて、王太子の位を継ぐには、母親の身分が低すぎる。
 そうして、最も可能性が高いのは、宰相を祖父に持つ、妾腹の王子。
 王太子派の者たちでさえ、はっきりと口には出さずとも、その答えをよく知っていた。
 砂色の瞳を潤ませ、 王宮の片隅で、臆病な野兎のように震える、セシル。
 臆病で、意志薄弱なセシルのことを軽んじ、王者の資質なしと嘲る者さえ少なくないが、それでも、そんな少年がアレンの次に王冠に近いことは、周知の事実である。
 王太子が亡くなれば、その地位は、セシルの手へと転がり込む。
 ――兄が死ねば。
 そうした心無い声から 耳をふさぎ、醜い欲望に満ちた視線から逃れるように、セシルは見舞いと称し、兄の寝室へと通い詰めた。
「兄上……アレン兄上……」
 王宮内のいざこざから遠ざかり、静謐さが守られた、王太子の寝室。
 締め切られているものの、象牙色のカーテンの隙間から、陽光が斜めに差し込んでいる。
 天幕の垂れ下がる寝台の横には、絨毯に膝を折ったセシルが、背を丸め、純白のシーツに顔をうずめていた。薄茶の髪が光を受けて、飴色に輝いている。
 物音ひとつしない室内には、兄上、どうか起きられてください、と応える者なき、かすれた声が響く。
 祖父である宰相や、厳しい世話役たちの目を盗んでは、セシルは足繁く、眠り続ける異母兄の見舞いに訪れている。
 アレンの閉ざされた瞼は上がらず、その蒼灰の双眸は弟を映すことはなく、言葉を交わすことすら叶わないのだが、それでも……。
 セシルはシーツのくぼみに手をつくと、まるで、死んでしまったかのように深く眠る、異母兄の横顔を覗き込んだ。
 枕に流れる黄金の髪、かたく閉ざされた瞼、金の睫は伏せられ、唇は結ばれている。
 白い肌とあいまって、まるで良くできた人形のようだ。
 わずかな色味がさした頬だけが、王太子の地位にある青年が、永遠に眠れる死人ではなく、いまだ命あることを教えてくれる。
 決して、苦悶の表情ではない。されど、安らかな寝顔というには、大切な何かが抜け落ちていた。
 宮廷医師の見立て曰く、身体は極めて正常で、どこも悪くなく、何故、王太子が目覚めぬのか、原因すら、とんとわからぬと。
 また眠り続けているにも関わらず、唇に僅かな水や食べ物を流し込むのみで、生き延びていることは、更に不思議だった。だが、深い皺の刻まれた顔を歪めて、先代の国王に仕えた医師は、こう続けた。長く、このままの状態が続けば、やがては衰弱し、死に至るでしょう……。
 数多くの名医と名高い者たちが呼ばれ、己の手には負えぬと匙を投げ、神官たちは女神に祈りを捧げ、妖しげな占い師は、王太子は呪われているのだと嘯いた。
 綿々と続く、エスティア王家の、英雄王の血脈。あまたの国を滅ぼし、己が欲が為、侵略し続けた……その末裔に呪いがふりかかっているのだと。
 でも、誰も王太子を目覚めさせることは、叶わなかった。
 万策つきたご典医たちの間では、早くも責任のなすりつけあいが始まっており、その醜い争いを思い出したセシルは、ふるりと首を横に振る。
 交代で診察を行う、医師たちがいったん席を外しているせいか、異母兄の寝室は静かだった。
 わずらわしい人の目が無いからこそ、心無い噂に小さな胸を痛める少年王子も、安心して兄に寄り添っていられる。
 カーテンを隔てた向こうには、王妃の部屋でアレンが産声を上げた日から、王太子の傍らに控える乳母が、椅子に腰をおろし、静かに控えている。
 礼儀として、貴人に彼女から声をかけることはない。
 結い上げた金髪に白いものが混じり始めている彼女は、四十近くになるだろうか。されど、瑠璃の色をした瞳は、愛情深く、血の繋がりは全くないにも関わらず、どことなくアレンと雰囲気が似ていた。
 幼くして、生母を亡くしたアレンの母代わりとなり、風邪を引けば、献身的に看病し、時に耳に痛い忠言をし、もてる限りの愛情を注いで、陰日向なく彼の成長を見守ってきた乳母にとって、いかに役目に忠実であろうとも、今の状況は辛く、耐え難いものであろう。
 手塩にかけ、大切に大切に育て上げた、才に溢れ、人柄も備えた王太子殿下――アレン。その即位を、王冠を抱く瞬間を誰よりも楽しみにしていたはずの乳母と、目を合わせることが出来ず、セシルは目を伏せ、睫をふるわせた。
 決して、本人が望んだことではないとはいえ、仇敵である宰相の孫であり、アレンの地位を略奪しようとするセシルは、乳母にとって憎い敵であってもおかしくない。
 しかし、乳母はたびたびアレンの見舞いに訪れているセシルに、厳しい目を向けることなく、穏やかな顔つきで、沈黙を守っている。
 王太子が明日をもしれぬ今、それがどれだけの忍耐を要することか、想像を巡らすだけでも胸が詰まった。
 いや、とセシルはあえかな溜め息をこぼす。
 それは、昨日、今日、いきなり始まったことではない。
 宰相の側近やセシルのそば付きの者たちは、アレンへの敵意を隠そうともせず、時には非礼にあたる振る舞いをも躊躇わなかった。だが、それとは逆に、ルーファスを筆頭に、王太子を支持する者たちが、セシルにきつく接してくることは皆無だった。
 王太子の右腕であるエドウィン公爵ですら、そうなのだ。
 それは、ただセシルが幼い、というだけの理由ではないだろう。
 虚弱で、引っ込み思案な異母弟への、アレンの格別な配慮があればこそだった。
 それは、ある意味では守られているということであり、ある意味では、力がないからこそ、甘やかされているということでもあった。
 柔らかな白い綿でくるんで、金の鳥籠の奥深くに鍵をかけて、閉じ込めて……。
 (くるしい……誰か……)
 自分ではどうにもならぬ現状に、見えない鎖で縛られたような気持ちを味わいながら、セシルは眠れる兄の傍らに跪く。
 言葉を交わすことすら叶わなくても、そうして、異母兄の傍らにある時のみ、彼は己が己らしくあれる気がしていた。
「アレン兄上……」
 呼び声に、アレンは答えない。
 瞼はぴくりとも動かず、唇が開く気配はなかった。
 ――僕は、どうすればいいのですか?
 わからないのです。アレン兄上がいらっしゃらないと、僕は、僕は……。
 病床の兄を想う心に、嘘や偽りはない。ただ、それだけではない勝手な気持ちをも、認めるしかなかった。
 暗闇にひとり放り出されたような気分になって、セシルは兄の掌に手を伸ばした。
 ――それは、唯一つ、光を求める行為にも似ている。
 アレン兄上。どうか、僕を一人ぼっちにしないでください。
 絡めた指先は、じわりとあたたかい。
 指先から伝わる熱に、彼の人の命を感じて、セシルは無性に泣きたくなった。
「アレン兄上、また来ます……」
 名残惜しげに幾度も振り返り、後ろ髪をひかれながらも、セシルは乳母に「異母兄上をよろしく」と頼み、兄の部屋の扉を閉めた。
 部屋を出た瞬間、ふいに冷たい空気が首筋を撫でた気がして、少年はぶるりと身震いする。
 気のせいだと思いつつも、首に手を触れると、ひんやりとしていた。
 異母兄の部屋にいる時は、少しも感じなかったそれ。
 病人の部屋で灯りは抑えられているにも関わらず、アレンの周りは、光に満ちているように感じる。部屋を一歩、出た途端、欲望うずまく王宮の澱みが重く肩にのしかかってきた。
 セシルは小さく息を吐くと、くっきりと光と影の分かたれた回廊を、重苦しい表情で歩き出した。


 そう長くない歩みは、ある部屋の扉の前で止まった。
 扉に獅子のレリーフが刻まれたそこは、普段、王太子の側近たちが詰めている場所だ。しばし、迷い顔で獅子の横顔を仰ぎ見て、セシルはためらいがちに扉を押し上げた。
 ――ギィ。
「……ディオルトか?」
 大理石のテーブルで、黙々と書類に羽ペンを走らせていた青年が、顔も上げず、セシルを確認しようともしないまま尋ねた。
 書面と向き合い、面は深く伏せられ、艶のある黒髪だけが揺れている。
 それでも、気配にはことのほか敏感であり、聡い男だ。
 扉の音がする前から、来訪者の存在には、気がついていたようだった。
 羊皮紙の乾ききっていないインクの流線に、すぅと蒼い双眸をすがめ、ルーファスはようやく首を仰向け、セシルと正面から目線を合わせた。
 海の底を思わせる、深い蒼が刹那、瞬いて、睫毛が揺らいだ。
 セシルを認めた瞳の奥に、一瞬、何がしかの感情がよぎったかのようにも見えたが、異母兄の親友であっても、ルーファスとそれほど親しくない少年には、そこにある気持ちを汲み取るには及ばなかった。いや、彼以外でも難しかっただろう。
 ルーファス=ヴァン=エドウィンという男は、いかなる場合も、他人に本心を読みとられるのを嫌う。
 氷とあだ名される通り、彫像めいた無表情と相まって、感情がないかのように思われがちだ。
 そんな男のわかりくい心を、信じたのがアレンであり、求めたのがセラだった。
「セシル殿下ではありませんか……失礼いたしました」
 非礼を詫びながら、 相も変わらず、流れるような洗練された身のこなしで、ルーファスは立ち上がると、セシルへと歩み寄った。
 蒼い双眸に見据えられた少年は、たじろいた様子で、わずかに後ずさった。
 顔色を悪くし、怯えたととられても仕方なかっただろう。
「あ……エドウィン公爵……」
 ルーファスは、かすかに眉根を寄せた。
「如何、なさいました?」
 光の加減で青紫にも見える、ルーファスの瞳が、セシルは少し苦手だった。
 亡国の貴色とも称されるそれは、美しすぎて、何もかも見通されるような錯覚を起こす。
 強すぎるその目を、セシルは焦がれながらも、恐れている。ただ、目を逸らすことも出来ずに、ただ、その場で立ち尽くした。
 怪訝そうに、セシルを見下ろしていたルーファスの眉間に、皺が寄る。
「セシル殿下……?どうかなさったのですか?」
『どうかしたのか?セシル』
 まったく違う人なのに、どうして、異母兄上の声と重なるのだろう?
「……っ」
 立ち尽くし、黙り込んだ弟殿下に、ルーファスは端整な面に、呆れの色をよぎらせた。
 王太子の補佐役でありながら、王太子が病に伏せる今、その分をも、エドウィン公爵の双肩にかかっている。断じて、暇ではないのだ。そうした態度になるのも、無理からぬことだった。
 執務机に積み上がった書類の山と、うつむき無言のままのセシルを見比べ、ルーファスは嘆息した。
「わたくしに御用がないならば、下がってもよろしいですか?仕事がたまっておりますもので。王太子殿下の分も……」
 ちらり、と裁可を待つ書類の束を見ながら言ったルーファスに、セシルは羞恥心を覚えて、カッと顔を赤くした。
 突き放したわけでも、ましてや、邪魔者扱いされたわけでもない。
 セシル相手だからではなく、エドウィン公爵は、誰に対しても、無駄のない、ともすれば素っ気ない物言いをする男なのだ。
 それを知っていながら、頭に血が上ったのは、おそらく、寝室で眠れる異母兄と、寂しげな乳母の背中を見てしまったからだろう。
 八つ当たりだ。それだけは口に出してはいけないと、頭では重々理解しながら、セシルはそれを口に出す。
「……アレン兄上が、あんな風なのに、ずいぶんと落ち着いているんだね。エドウィン公爵」
 最低の八つ当たりだ。自覚している。
「セシル殿下……」
 一瞬、ルーファスの纏う空気が、そうとわかるほどに変わった。蒼い双眸に、冷ややかな蔑視がよぎる。されど、それは一瞬のことで、男の返事は淡々としたものだった。
「わざわざ、そんなことを言いにいらしたのですか」
 あえて激情を抑えたそれは、冷ややかで、氷の刃の如き鋭さを秘めていた。
 蒼い双眸に射抜くように見据えられたセシルは、蛇に睨まれた蛙のように、身動きひとつ取れなくなる。
 ごくり、唾を呑み込むそれが、やけに大きく感じた。
 青ざめた顔で、セシルはようよう口を開く。
「え、エドウィン公爵……」
 弁明しようとしたそれは、ルーファスの声によって、さえぎられる。
 秀麗な容姿の青年公爵は、薄く口角を上げて、微笑んでみせた。
 瑕ひとつない美貌に、思わず、状況も忘れて、見惚れそうになる。
 艶やかな美声は、されど、毒をはらんでおり、戦慄を覚えずにはいられなかった。
「では、セシル殿下は、わたくしが王太子殿下のおそばで、ただ泣き濡れていれば、それで、ご満足なのですか?国政の滞りにも目を背けて、アレン殿下に託された役目をも忘れて……それはそれは、楽でよろしいですね」
 なめらかに続けられるそれは、セシルへの強烈な嫌みにほかならなかった。
 怒らせたのだと、セシルは子羊のように怯えて、首をすくめる。
 エドウィン公爵という男は、鋼の心臓を持ち合わせていて、己に対する罵詈雑言の類には、びくともしない。
 常に冷静な男が、激高し、我を忘れるとすれば、それは、唯一無二の主たる王太子殿下に関わることのみだ。
 光に寄り添う影のように、ルーファスのアレンに対する忠義は、いかなる時をも揺らがない。
 それを疑われることは、ルーファス=ヴァン=エドウィンという男にとって、許し難い侮辱であった。
 セシルは己が、ふれてはいけない逆鱗に触れたことを、悟らざるをえない。
 そんなことは、そうまでは言っていないと、叫びたかったが、冷ややかな侮蔑の前には、それすら許されなかった。
「エドウィン公爵。気を悪くしたなら、謝る……ごめんなさい」
 いいえ。
 ルーファスは微笑んだまま、ピシャリと、セシルの甘えを切って捨てた。
「セシル殿下が私ごときに、謝罪されるようなことは、何もございません」
 口調こそ柔らかかったが、「自分では何も出来ない子供が、甘えるな」と、男の目がそう言っていた。……その通りだった。
 アレンという庇護者がいない今、セシルはただ、無力なだけの、弱い子供だった。
 王子という身分、権力の中枢に座す宰相の孫に媚びを売り、すり寄りたいと願う者はいても、セシル個人に、すすんで膝を折る者はいない。
 兄上が、アレン兄上が此処にいてくれたらーー。
 そうしたら、そうしたら……そうしたら?
 僕が、こんな目にあわなくてもすむのに。
 刹那、頭によぎった思考に、セシルは掌で口を押さえた。
 身勝手すぎるそれに、我ながら吐き気がする。
 自分はアレン兄上のことを、ただ純粋に、心配していたのではなかったのか?無償の愛情で寄り添った、彼の乳母のように。
 これではまるで、庇護者を失うのを恐れるだけの、幼子のようではないか。
(違う、僕はアレン兄上のことを愛している……)
(……ああ)
 少年の脳裏に、幼き日の記憶がよみがえる。
 誰もいない回廊で、幼いセシルがひとり、心細げな顔ですすり泣いている。
「ははうえー、ははうえー」
 ぐす、ぐずぐず。
 赤くなった鼻をすすり、長い衣を引きずりながら、幼子は母の姿を、探し求める。
「ぐず、ぐず……うぅ、誰かー」
 探すのにも疲れ、セシルが床にうずくまると、ひょいと脇に手を入れて、その身体を抱え上げられた。
 恐る恐る顔を上げると、穏やかな、蒼灰色の瞳と目が合う。
 幼い異母弟に、黄金の髪の少年は、優しく微笑い、名を呼ぶ。
「こんなところに居たのか、セシル。皆、ご母堂もお前のことを、探していたぞ」
 泣きじゃくっていたセシルだが、大好きな兄の顔を見て、ぱっ!と花ひらくような笑顔になる。
「アレン兄上……!」
 行こうか。母上のところに戻ろう。
 己は最愛の母を亡くした身だというのに、アレンはいつも、セシルとセシルの母のことを気遣ってくれた。
 肝心のセシルの母親は、国王の側室として、夜毎、社交に明け暮れるばかりで、我が子にさほどの興味を示さなかったけれども。
 そうだ。セシルはアレンを兄弟として愛し、誰よりも尊敬し、慕っている。それは、嘘ではない。
 けれども、果たして、それが全てだろうか?
 兄の影に隠れることで、楽をしてきた己は、いなかっただろうか。
 王太子という重責を背負う兄が倒れることで、その重荷が己に回ってくることを、忌避してはいなかっただろうか。
 相反する気持ちに、セシルはきつく、唇を噛んだ。
(違う、違う、違う……僕は、僕はただ兄上のことを……っ!)
 くしゃり、顔を歪めたセシルを前に、ルーファスは唇を開いた。
「セシル殿下、御用はそれだけですか?ならば、お引き取りくださいますか……我々には、大切な職務がありますので」
 今度こそ、突き放すようなそれは、弁解めいた言い訳すら、無意味だった。
 己の狡さや甘え、弱さを見透かされたと、セシルは頬を赤く染めた。
 いたたまれなくなって、セシルはくるりとルーファスに背を向けると、乱暴に扉を開け、部屋を飛び出す。
 廊下に、バタバタと慌ただしい足音と、扉を開け放つ音が聞こえた。


「あ、アレン兄上ぇ――」
 舌っ足らずな幼い声が、兄の名を呼ぶ。
 間をおかず、再び、繰り返されたそれに、黄金の髪の少年が振り向く。
 その隣には、端整な顔立ちをした、黒髪の少年が控えている。
 蒼い瞳が、訝しげに細められ、かもしだされる威圧感に、年端もいかないセシルは、ふえぇ……、とたじろぐ。
 そんなセシルに、上から柔らかな声がふった。
「また、ひとりで部屋から出てしまったのか、セシル……周りに心配をかけるものではないぞ」
 叱りながらも、アレンの口調はそうキツくはなく、部屋まで送っていこうと、手を差し出した。
 セシルはおずおずと小さな掌を伸ばし、兄と手を繋ぐ。
 幼いながらも、アレンの手は剣の鍛錬の結果だろう、分厚く、皮がめくれていた。
 指先から伝わってくる体温が、心地よい。
「ではな、ルーファス。近いうちに、また話そう」
 ひらっ、とセシルと繋いでいない方の手を振ったアレンに、ルーファス、と呼ばれた黒髪の少年は、無言で頭を垂れた。
 幼いセシルは、異母兄に手を引かれながら、一度、ルーファスの方を振り返った。
 蒼い瞳と、目線が重なる。
 不思議だった。
 深い海の底の如き色合いから、セシルは炎を連想する。
 瞳の奥に閉じ込めた、情熱、そして、激情。
 揺らぐことなく、その黒髪の少年を、周囲から浮き上がらせ、存在を際立たせるそれは、さながら蒼い焔だった。
 強すぎる。
 触れれば、火傷をしそうなのに、目を逸らすことが出来ない。否応なく、惹きつけられる。
 焔だ。異母兄が光ならば、かの人は、焼き尽くす劫火だ――
 幼子の視線を軽く受け止めて、ルーファスは背を向けた。
「アレン兄上、あの人は……?」
「ん?」
 手を繋いだ異母兄は、優しく目を細めると、どこか誇らしげに言った。
「あれの名を、覚えておくといい、セシル……ルーファス=ヴァン=エドウィン。ルーファスだ。いずれ、この王国を支えることになる男だよ」
 その言葉は、そう遠くない将来を思い描いているようで、迷いのない足取りは、清々しい青嵐のようだった。
 まだアレンもルーファスも、少年であり、伸びゆく若木の時代のことである。
 そんな異母兄たちの背中に、セシルは憧憬を抱き、焦がれていた。狂おしいほどに、憧れていた。


 己の部屋に戻ると、 灯りの落ちたそこに、どうしようもないほどの孤独感を感じて、セシルは小さく肩を震わせた。
 精緻な花模様の壁に拳をぶつけ、下らない、八つ当たりをする。
「仕方ないじゃないか……僕は、お祖父さまや周りに利用されるだけで、何も出来ないんだよ!」
 しゃくりあげ、高まる嗚咽は、誰の耳にも届かず、涙が一滴、床を濡らした。


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