――真実、愛を知らない者は不幸だと、どこぞ名もなき詩人とやらが嘯いた。
愛情という形なきものに執着し、至上の価値を見いだす輩を、ルーファスは哀れとは思いこそすれ、愛の奴隷と化した者たちを、愚かと謗る気にはなれない。
かつて、妻を娶る前の彼ならば、心臓が氷で出来ていると評されて、誰も愛さなかった頃のルーファスならば、何の迷いもなく、そうしただろう。
言い訳はすまい。そうやって失ってしまったものも、踏みにじってしまったものも、多くあっただろう。
セラとの出逢いが、誰も愛さなかったルーファスに愛を教え、生きる喜びを与え、同時におかしくなりそうなほどの切なさと、狂おしい絶望を与えた。
なればこそ、ルーファスは思う。愛を知らない者と、愛を知るが故に絶望する者、どちらがより救い難く、愚かなのであろうか……。
おそらくは、生涯、わかり得ない、答えの出ない問いだった。
エドウィン公爵の屋敷。
当主のルーファスは、病に伏せる王太子アレンの穴を埋めようとするように、東西を奔走し、自邸と王宮を行き来しながら、精力的に政務をこなしていたが、そんな夫君とは対照的に、奥方であるセラは、外へ出ようとはせず、部屋に籠もる日々を過ごしていた。
執事のスティーブや女中頭のソフィーが 、そんな奥方の様子に不審を感じていないはずもないが、齢と経験を重ねた使用人らしく、表面上は粛々と己が職務をこなしている。
ようやく足の怪我が治りつつあるメリッサはといえば、セラの寝室に食事の膳を運ぶたびに、心配しながら、ああだこうだと話し掛けようとするのだけれど、奥方の例のごとく、やわく儚い微笑みで、
「ありがとう、でも、今はひとりでいたいの」
と、優しく追い払われてしまう。
メリッサが馬車の事故にあって以来、セラは彼女のことを腫れ物に触るように、やんわりと避けるようになった。
まるで、共にあることで、何か悪いことがを起きるのを恐れるように……。
檸檬水をいれた銀の水差しや、麦粥や小さく切った果実をのせたトレーを、寝台の脇の小卓に置いて、去り際、寝室の入り口で目を合わせる時、メリッサを映す、セラの透徹とした翠の瞳には、決まって、怯えにも似たものがよぎる。
その理由が侍女にはどうしてもわからず、胸の奥がざわざわと、不協和音を奏でるのであった。
常日頃から少食で、最近、ますます食が細くなってしまった女主人が、申し訳程度に手をつけた粥の深皿を見て、女中の少女は深いため息を吐き、ほとんど手がつけられないままに戻される皿を見ては、料理長のベンも、コック帽をぬぐと、弱ったように頭をかいて、重苦しいため息をつく……その繰り返しであった。
それでも、食欲がわかない中、食事を残すことを、心から申し訳無さそうに詫びる奥方の表情を思うと、眉をひそめる気にはなれない。
もどかしいような、歯痒いような、誰もが己の無力さを噛み締めていた。
一方、主人の従者のミカエルも、どこか上の空というか、ぼんやりとした様子だった。
真面目で、主人に忠実な少年には珍しく、ルーファスの予定を忘れて、執事のスティーブにお小言を食らったり、運んでいた花瓶を床に落としたり、普段やらないようなドジを踏んで、古参の女中のエラからたしなめられたりした。
些細なミスを咎められたり、女中頭や執事から注意されるたび、元来、真面目な性格のミカエルは、反省した風にうなだれるのだが……かといって、ミスの数はあまり減らなかった。
きちんとしなければ、しっかりしなければと意識すればするほど、空回りから失敗を繰り返す。
どこか、歯車が狂ってしまったようだった。
「もういい、今日は疲れているんだろう……ミカエル。少し休んでいなさい」
今日も今日とて、些細な失敗を重ねた従者に、老執事はそう言葉をかけた。
ミカエルは「……はい」と、悔しそうに唇を噛みしめると、薄水の瞳に後悔の色を宿して、うなだれた。
そうして、スティーブに詫びると、重い足取りで、とぼとぼと部屋に戻っていく。
窓越しの光を受けた、痩せた背中は、されど、若木のようにしなやかで、少年が成長の過程にあることを思わせた。
これから、駆け足で少年から青年への階段を、駆け上がろうとしているようだ。
そんな彼の成長を見守ることに、かつて我が子を失ったスティーブは、青嵐が吹き抜けるような、爽やかさを覚える。
三年ほど前、路地裏で孤児として生きていたミカエルを、旦那様が気まぐれに拾い上げてきた。
最初にスティーブが顔を合わせた時、ミカエルはひどく痩せた、それこそ骨と皮ばかりの子供で、美しい金髪や水色の瞳に目がいかないほど、全身が傷だらけで、みすぼらしかった。
「きみ、名前は?」
「……っ、ミカエル」
旦那様の蒼い双眸に睨まれて、ついで振りかざされた拳に、渋々といった風に名乗った孤児は、お世辞にも愛らしいとは言えず、大きな瞳だけが、飢えた獣のようにぎらついていた。ただし、磨けば光る、原石ではあった。それも一級の。
それからの日々は、瞬く間に過ぎ去り、年若いミカエルは若木が水を吸うように、使用人としての心得を吸収し、いまや旦那様にとって、否、エドウィン公爵家にとっても、なくてはならない存在になった。
天使のように愛らしい顔から、幼さを削ぎ落とし、凛とした横顔を備えつつある彼を、大人になったのだと、したり顔で語る古参の使用人もいる。
はたまた、心ここにあらずという、らしからぬ振る舞いの数々に、奥方様のことを案じているのだ、忠義なことよと褒める者も、若者らしく、はしかのような恋に、うつつを抜かしているのだと、おもしろ半分にひやかす者もいる。
その無責任な憶測の、どれも見当違いであると、スティーブは思っている。
ミカエルは悩み、迷っている。深く、深く。
そして、その悩みはきっと、旦那様、スティーブらソフィー、親代わりの使用人らにも相談できないことなのだ。
「あなたは私のかわいい子、
緑の絨毯、春の日だまりのヴェール、シロツメクサの花冠を抱いて眠りなさい。
ひかりに包まれ、微睡むように、しあわせでありますように……」
やわらかな歌声。
決して、巧みな歌い手とは言えないが、優しい澄んだ歌声は、聞く者の心を穏やかにする。
それは、ルーファスが最もいとおしく思うものの、ひとつだ。
隠れるつもりはなかったが、ルーファスは寝室の、わずかに開きかけた扉の前に立ち、少女の歌声に聞き入る。
心、癒すような響きは、いつまでも聞いていたいと思った。
――パタパタッ。
吹き抜ける風が、目の前の扉を揺らす。 窓辺に垂れ下がり咲く、白い花。
甘い香りでしられるティンダリアの薫りが、鼻先でくゆる。
セラ以外、誰もいないはずの寝室から、 何故だか話し声がした。
「かわいいこね……でも、此処にはあまり近づいては駄目よ」
チチチッ。
小鳥の軽やかなさえずりが聞こえる。
ルーファスの目に映ったのは、窓枠にもたれかかるようにして、指の先に小鳥をとまらせた妻の姿だった。
開け放たれた窓からは、やわらかな日差しが慈雨のように降り注ぎ、少女の横顔を白く照らしている。
窓辺に咲く、ティンダリアの花を巻き込んで、ふわりふわりとレースのカーテンが揺れていた。
セラはミルク色の寝衣を着て、楽そうに、真っ白な細い足を寝台に投げ出している。
爪先だけが、ほのりと紅を塗ったようにあかい。
亜麻色の髪は、ゆるやかに背に流されて、蜜のようなきらめきを放っている。
懐いた様子で、指先に小鳥をとまらせる少女の横顔は清廉で、犯し難いものに思え、さながら一幅の絵画のようだった。
シーツに零れる、光と影。
犯しがたい清らかさと、触れたい、この腕の中に閉じ込めて、己のものだと証を、その身体の芯まで刻み込んで、自分だけしか見えないようにしてしまいたい。
相反する渇望が、狂おしいほどの激情と熱となって、ルーファスの胸を支配する。
一幅の絵画のような風景を壊すのを、惜しく思い、ルーファスが一歩、踏み出せずにいると、セラがふわ、と微笑みながら、指先の小鳥に語り掛けた。
「あたしの傍にいるとね、何か悪いことが起きてしまうから……」
まるで、幸せになることを諦めたような、その言葉は、セラのような若い娘の口から出るには、似つかわしくないものだった。
耳を塞ぎたくなる。
ひやりと冷たい手で、心臓を撫でられたような心地がして、 ルーファスは眉をひそめ、唇を噛み締める。
たとえ、本心だとしても、愛する妻の口から聞きたい言葉ではなかった。
「セラ……」
ルーファスがたまらず声をかけると、窓辺に向けられていた少女の横顔が、ゆるりと振り返る。
透ける翠のそれが、切なげに揺らぐ。
真っ白な夜着と、襟ぐりからのぞく、やわらかなミルク色の肌、何もかも白を連想させる少女の中で、ひだまりの色をうつした頬だけが、ほのりと朱に色づいていた。
「ルーファス……」
振り向いたセラは、困ったように眉を下げて、それでも、少しだけ嬉しそうに微笑んだ。
喜びと困惑と、揺れる彼女の心境が透けて見えて、ルーファスも切なくなる。
「今日も来てくれたの」
ありがとう、と儚く微笑うセラは、同時に来てしまったの、と聞き分けのない子供をあやす母親のような顔をしていて、夫であるルーファスは渋い顔になる。
三つも年下のくせにとは思うが、根本的に女の胎から生まれ出るしかない男は、 女には勝てない生き物なのかもしれぬ。
いつもそうだった。病に伏せる王太子アレンの分まで、政務を背負い込み、側近のディオルトらと共に仕事に忙殺されるルーファスには今、休みというものが存在しない。部下を働かせて、公爵位にあるものが休んでいるわけにはいかぬ、と平然としているルーファスはともかく、ディオルトを筆頭に、周りで働く者たちは、ろくに休息も睡眠も取っていない様子の彼に、頼むから休んでくれと心配顔だ。そんな中にあっても、わずかな暇をぬっては、ルーファスはセラの寝室へ顔を出す。
王宮に上がる前の慌ただしい朝や、深夜、眠りに落ちる前、ひとこと、ふたことしか言葉を交わせずとも、必ず……。
時には王宮に泊まり込みで、慌ただしく、夜更けに屋敷に着替えだけを取りに来て、その際にセラの寝室に立ち寄り、起こすことも、声をかけることすらせず、そっと寝顔だけ見て去っていく。そんな日もあった。
ルーファスが訪ねると、セラは決まって嬉しそうに、そして、少し困ったように、くしゃり顔を崩して微笑う。
あたしに近づかない方がいいのに、そんな目をして。
その顔を目にするたびに、ルーファスは胸が締め付けられると同時に、ほんの一瞬でも良いから、叶う限り、セラの傍にいたいと願う。
王宮で政務に打ち込んではいても、寝室でたったひとり、孤独に過ごしているであろう少女のことを思うと、すぐにでも屋敷に戻りたくなる衝動を抑えるのが、鉄壁の理性を誇り、氷の公爵とうたわれる男であっても、容易ではなかった。されど、それは眠れる王太子アレンのいちの腹心という立場を省みても、あるいはルーファス=ヴァン=エドウィンという男の性分からしても、許されることではなかった。否、他の誰が許したとしても、彼自身がそれをよしとしなかったであろう。
いつだって為すべきことと、情の狭間で揺れていた。
失踪のあと、屋敷に戻ってきてからというもの、セラは体調を崩しがちになり、寝室で伏せっていることが増えた。
元々、肌は透けるように白く、痩せており、身体が丈夫とは言えぬ娘であったが、近頃は、肌の色はますます白くなり、 今にも消え入りそうな儚さを見せている。
外へ出ないというのは、具合が悪いということもあったが、それ以上に、セラは周りを傷つけるのが怖かったし、己の呪いが引き起こす災いを、心底、恐れていた。
誰とも触れ合わなければ、もうこれ以上、己の呪いに巻き込む人を増やさずにすむ。
自ら命を絶ったところで、凶眼の魔女の呪いが次世代に受け継がれるだけだと知っている彼女としては、最早、呪いの広がりを食い止めるのに、それ以外の策がなかった。
たとえ、呪いを解かない限り、ずるずると深みにはまっていくのだと知ってはいても……。
故に、心を許しており、友とも呼べるメリッサにも、否、だからこそ、食事を運んでもらう時ですら 、あまり目を合わさず、親しげに会話を交わすことすら避けていた。
パンや果実を乗せたトレイを置くと、扉の前でもの言いたげに振り返り、すがるような目で見てくるメリッサに、セラが胸を痛めなかったと言えば嘘になる。
それでも、ようやく得た、数少ない友と呼べる少女を傷つけることだけは、絶対に許されない。
翠の瞳に薄く膜が張り、セラは目尻ににじんだそれを隠すように、頭からシーツをかぶった。
(だって、あたしのせいだもの……あたしの呪いのせいで、みんなみんな、不幸になった……)
(お母さんも、ジェイクおじさんも、あたしが死なせたようなものだもの……フレッドやユーナだって……)
(解呪の魔女だなんて呼ばれたって、守るべき大切な人たちを、やさしかった人たちを、あたしは一人も救えてない……)
思考がどこか暗く、深い場所に堕ちていきそうになり、セラは小さく肩を震わせた。痛い、痛い、痛い。
背中が焼けるように痛んだ。
セラは苦痛に耐えるように、微かに眉根を寄せる。
白く、なめらかな肌、少女の腕や背中だけが、まるで火傷を負ったがごとく、黒く染まっていた。
幼い頃からずっと、セラを苦しめ、その身体を蝕んできた魔女の呪いが、進行しているのだ。
黒く染まった肌を、愛する男の目に晒したくなくて、少女は背中を隠すように、白いシーツにくるまった。
「……見ないで」
頭から身体まで、ルーファスの目から隠れるよう、すっぽりとシーツに隠れた彼女は、いやいやとかぶりを振った。
ルーファスは吐息をはくと、蒼い目を細め、「セラ……」と名を呼びながら、シーツに手を伸ばす。
さながら花嫁のヴェールにも似た、白い布は、男の骨ばった手にあらがうことなく、するりと寝台へとすべり落ちた。
はらりと零れ落ちたシーツの下、白くひらけた額と、はらりと流れる亜麻色の髪、潤んだ翠の瞳が揺れていた。
ひっく……っ、と引きつったような嗚咽と、ぼろぼろと零れ落ちる涙が、頬を濡らしている。
取り繕うこともなく、くしゃり歪んだ泣き顔は、いとけなくて、みっともなくて、そして、目を逸らせなくなるほどに愛おしいと、ルーファスは感じる。
涙で濡れて、赤くなった目元を拳でぬぐい、セラは夫である青年に謝った。
「ごめんなさい、ごめんなさい。迷惑をかけて、ごめんなさい……っ、背中、醜いものをみせて、ごめんなさい」
「……セラ」
ルーファスは腕を回すと、少女の華奢な身体を胸の内に抱え込むようにして、抱き締めた。
体格差ゆえに、彼女の身体はすっぽりと、彼の腕の中に隠れてしまう。
黒く染まった背中ごと、身を蝕む呪いすら含めて、セラの全てを受け入れるように。
大切な、何より大切なものを抱くように、腕の中に閉じ込めると、ルーファスは兎みたいに赤くなった少女の目元に、にじんだ涙の痕に口づけた。
唇を寄せると、亜麻色の髪と漆黒のそれが重なり、絡み合う。
花びらのような唇に、小鳥のついばみにも似た接吻が、幾度も落とされる。
「泣くな、なぞ言わん。俺の前ならば我慢せず、好きなだけ泣け」
己だけが知る、甘く優しい青年のそれに、セラは小さく肩を震わせた。
さらりさらり、と指通りのよい、かすかに日だまりの香りがする、亜麻色の髪を、長い指先、骨ばった男の手がすく。
疵一つない、美丈夫とうたわれるルーファスの指は長くはあるが、幼少期から剣の修練を積み重ね、学問や政務に没頭し、嫌というほどペンを握ってきたためか、大きく、節くれだっており、細かい傷もある。
時には、荒々しく剣を振るう男の手が、いまはこれ以上ないほど繊細な手つきで、いとおしむように、妻の髪をとかしている。
その甲斐甲斐しい様子は、かつてルーファスを心臓が氷で出来ていると評し、誰も愛さない、愛せないのだと嘆いた女たちから見れば、目を疑うようなそれであっただろう。
「何か……して欲しいことはあるか?」
髪を撫でながらのルーファスの問いに、 セラは睫毛を伏せると、男のたくましい胸に頬を寄せ、その体温に安らぎを求めるように、すがりついた。
「……少しだけでいいの、このままでいていい?」
――それは泣きたくなる位、ささやかな我が儘だった。
疲れたのだろう。ことん、と肩にのしかかってきた微かな重みと、とろり蕩けたような翠の双眸を認めて、睡魔の訪れを察したルーファスは、少し眠るようにセラを促した。
羽枕に少女は顔をうずめ、繋ぎ、絡めた男と女の指先が、名残惜しげに離れた。
「また来る」
「ん……ありがとぅ……」
長く居ると離れがたくなりそうで、言葉少なに告げたルーファスに、セラは半分、夢の世界に誘われながら応じる。
もう一度、名残惜しげに振り返り、眠る妻の横顔に険しい眉間を緩めると、ルーファスはセラの寝室を離れた。
一端、書斎に向かったルーファスは、王宮から持ち帰った仕事、うんざりするような書類の山に、顔色ひとつ変えず、向き合い始めた。
カリカリと羽ペンを走らせる音だけが、静かな書斎を支配する。
真新しいインクの匂いが、薫る。
書類の山に記された案件の数々に、妥協なく向き合い、許可できるものには適切な指示を、突っぱねるものには、ディオルトら側近たちに後のフォローを頼んでおく。
それらの仕事の分には、本来、王太子アレンのものであった分が多々含まれるが、主君が原因不明の病に伏せる今、右腕のルーファスに課せられた責任は、軽くはない。
ルーファスが書類の山と格闘し、着実にそれを崩しつつあるところで、書斎の扉が叩かれた。
「誰だ?」
「旦那様、失礼します。ミカエルです。王宮より届けられた資料を、お持ちしました」
その言葉と共に、頭よりも高い紙の山を抱えた従者の少年が、えっちらおっちら、覚束ない足取りで入ってきた。
落としそうになるのを根性でこらえ、よろよろした足取りの ミカエルは、ずっしりと重い紙の山を、 どこにおくかというように、主人に目で問い掛けた。
少年の主は、無造作に艶やかな黒髪をかきあげると、書類から目を離さずに、机の横をコツコツと小指で叩く。
「ご苦労。此処においておいてくれ」
はい、とミカエルはうなずくと、机の脇に運んできた書類の束をのせる。
集中している主人の邪魔をしないよう、少年は「また何か御用がありましたら、お呼びください」と言い、控えめな態度で部屋を辞そうとする。
その時、ルーファスが唇を開くと、さも何でもないことのように言った。
「最近、よくどこかに出掛けているそうだな……ミカエル?スティーブから聞いた」
「は……」
後ろめたい何かを知られた気がして、ミカエルは直立不動の姿勢で言葉を失い、凍りついた。
「そ、うでしょうか?」
我ながら、ようやく絞り出した声は震えていただろう。
リリィのことが気になり、ミカエルは暇を見つけては、よく屋敷の外に出ていた。
ルーファスの指摘は、それを咎めてのことだろう。
己の素行の不審さに、執事のスティーブや女中頭のソフィーが気づいていないと思った浅はかさを、ミカエルは恥じ、頬を赤らめる。
ルーファスの声は穏やかで、何ら悪事は犯していないというのに、主人に嘘を吐いたような後ろめたさが、居心地の悪さとなって、従者の胸に突き刺さった。
「あぁ、勘違いするな。別に、責めているわけじゃない……」
ルーファスは、淡々と言葉を重ねる。
ミカエルは、恐る恐る面を上げた。
こちらを見る、蒼い双眸はどこまでも深く、相変わらず、怖いくらいに美しかった。
「……ついていくに値しない主と思えば、いつでも、俺を裏切れ。いやいや仕えられるなんぞ、下らんことだ」
俺が嫌になった時には、いつでも去ればいい。その方が、お互いの為だと。
ともすれば突き放したようなそれに、ミカエルは途方に暮れたような顔で、黙り込んだ。
そうだ。彼が従者となった日にも、主人は同じことを告げた。
ルーファス=ヴァン=エドウィンという人は、生まれながらの支配者であり、覇者の威厳を持つ人であるが、決して、理不尽に人を縛ることはない。いつだって、国と責任を背負って、毅然と、されど、どこまでも自由な魂を持つ人だった。
「僕は……」
ぼくは。
ふ、とルーファスが小さく微笑する気配がした。
めったにないそれに、ミカエルは瞠目する。
「ただ、俺がお前を信じていたいだけだ。ミカエル」
「っ」
白い頬を紅潮させたミカエルとは対照的に、ルーファスは半ば自嘲するように、独りごちる。
「情なんぞ、何の保証もないものを信じるとは、俺も弱くなったな……あれのせいか」
弱くなった、ルーファスは繰り返す。
ミカエルは下ろした拳を握り、唇を噛み締めた。
「旦那様……」
信じるとは、愛するとは、そこまで脆い力だろうか?
――炎だ。
村が燃えている。
「悪魔の子!私たちに近寄るな!」
「醜い怪物め!すぐに村から去れ!」
「死ぬ、いますぐに死んでしまえ!」
まだ子供だった時分、雨あられのように浴びせられる罵倒と、背中にぶつけられる石礫、目や胸に押し付けられた火かき棒や、悪鬼のように歪んだ村人たちの表情を、両手以上の仮の名を持ち、今はディーと名乗る呪術師は、鮮明に覚えている。
黄金の瞳は、悪魔からの授かり物。
生まれ落ちた、その瞬間から、身も知らぬ大人から殴られ、蹴られ、罵倒され、地面を這いずり、泥水をすすって生き延びるしかない。
ディーを産み落とした実母とやらは、ようやく腹から出てきた己の息子の、黄金の眼の見た時に発狂し、自ら命を絶ったという。
赤ん坊だったディーの記憶にはないが、その時から、実母殺しの汚名を背負うこととなった。
その後、火のついたように泣き叫んでいた赤ん坊を拾ってくれた、慈悲深いが、頭の弱かった婦人、ディーの育て親は、飢饉の折に、村の複数の男たちから殴られ、犯され、嬲りものにされて、苦しみ抜いて死んだ。ディーを哀れんだがために……殺された。
まだ年端もいかなかったディー、当時は違う名で呼ばれていた子供は、生まれ故郷を追われ、放浪の旅に出た。
もう、十余年も昔の記憶だ。
あぁ、燃えている。
故郷の村が焼き尽くされて、真っ赤に染まっていた。
眼球が飛び出し、腐りかけた肉を引きずり、ディーへと手を伸ばしてくるのは、 はたして、生みの母か育ての母か。
「ディー……ディー、起きて」
蛇革の眼帯をしていない方の瞼を上げると、ディーの黄金の目に、長い滞在で見慣れた、宿屋の古びた天井が目に映る。
夢だったのか。
そして、心配そうにこちらをのぞき込んでくる、無垢な淡青の瞳。
視界の端で、蜂蜜色の髪が揺れる。
リリィ。
「ディー、だいじょうぶ?こわい夢をみたの、苦しそうだったよ」
悪夢にうなされていたディーを、心配したのだろう。
年よりも遥かに幼い、舌っ足らずな喋り方をするリリィだったが、その顔つきには純粋な心配が浮かんでいた。
冷たく凍えたディーの手を、小さな少女の両手が包み込み、ぬくもりを分け与える。
その見返りを求めない優しさが、いとおしくもあり、切なくもあった。
「……リリィ」
ディーは少女の名を呼び、うなだれた。
誰からも忌まれる呪術師であるディーは、拾った娘であるリリィに対し、強い罪悪感めいたものを抱いている。
生みの母も、育ての親も不幸にし、呪術という暗い道を歩んできた己が、この綺麗な生き物と共にいることなど、本来は到底、許されないことなのだ。
リリィは誰よりも、綺麗な魂の持ち主で、清らかな娘だ。
この汚れた、救いがたい世界で、彼女だけが純粋で生きる意味を持つ。
時間を戻せるなら、ディーはリリィを捨てた親や、孤児だった彼女を殴り、理不尽な傷を負わせた者たちを、呪い殺してやりたいと思う。
しかし、どこまでも優しいリリィが、そんなことを望まないということも、ディーは誰よりもよくわかっていた。
そっと、小さな手がディーの背中に伸ばされて、体が半分ほどの大きさのリリィに、ぎゅっと抱き締められる。
「だいじょうぶ、こわくないよ。ディーのことは、リリィが守るから」
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