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七章 眠りの王子 5


 リリィは、自分は頭が悪いと知っている。
 数は満足に数えられないし、同居人のディーに何かを教えてもらっても、すぐに忘れてしまうし、文字はといえば、ミミズが張ったようななしか書けない。つまり、何にも出来ない赤ん坊と一緒だ。
 物心ついた頃から、親兄弟から、役立たずのうすのろと罵声を浴びせられてきた。
 それでも、痩せっぽっちで、みそっかすな末っ子は、親兄弟の役に立とうと頑張っていたのだけど、 頭も要領も悪い末の妹は兄弟たちにとって、邪魔なだけの存在だったらしく、理由もなく、よく暇つぶしや、八つ当たりのように殴られた。そうやって、毎日、上の兄や姉から殴られたり、蹴られたりしているうちに、元々、賢くはなかった頭がますます悪くなってしまった。
 狭い小屋の中、長兄の肘が当たって、弾き飛ばされた小さなリリィは、机の角に頭をぶつけ、目の前で星が散った。
 三日三晩、高熱を発して、親兄弟に疎まれながらも、何とか寝台から起き上がった時にはもう、リリィは数を数えられなくなっていたし、上手く呂律も回らず、舌っ足らずになっていた。リリィは、それを不幸とは思わなかった。
 兄弟たちにぶたれるのも、お皿の端にちょっぴり盛られた食事を取られてしまうのも、仕方ないことだと受け止めていたからだ。
 そんなリリィの一番古い記憶は、狭い小屋の中に、大勢の兄弟たちがひしめいていた光景だ。
 突風が吹けば大きく揺れて、雨が降れば、天井からポツポツと冷たいものが降るような、粗末なあばら屋の中に、老いた父と、やや疲れた顔の母と、成人した長男と幼い幾人もの兄弟たちが、ぎゅうぎゅうに押し込められていた。家は貧しく、母の針仕事のわずかな賃金だけで、十人もいる兄弟たちを育てていた。
 当然ながら、食卓は貧しく、ひもじさを抱えた痩せっぽっちの子供たちの中でも、みそっかすがリリィだった。
 乱暴な兄弟たちの中では、一番上の姉だけがリリィに優しく、末っ子に無関心な母親の代わりのようなものだった。要領が悪く、よく食事にありつけなかった末妹に、こっそりと食事の皿を分けてくれたのも、彼女だけだ。
 その一番上の姉が嫁いで、しばらく経った頃だったろうか。 親兄弟が急にリリィに優しくなった。あまり、ぶたれたりしなくなったし、食事もきちんと与えてもらえた。
 優しい一番上の姉が家からいなくなったのは、とてもとても悲しかったけれど、 母親がリリィの事を気にかけてくれるようになり、優しく声をかけてくれるのが、とてもとても嬉しかった。
 木枯らしの吹く、冬の日のことだ。
 リリィは家中で一番、あたたかい服を着せられて、年老いた父親に小さな手を引かれると、家から遠く離れた、街の路地裏へと連れてこられた。
 幼いリリィが目を奪われた、きらきら光る菓子屋や、雑貨屋が並んだ表通りの華やかさとは対照的に、太陽の光が差し込まぬ路地裏は、薄暗く、陰気な空気を帯びていた。痩せた孤児たちが身を寄せ合って暮らす、掘っ建て小屋からは据えた悪臭が漂い、うち捨てられたゴミの山には、カラスが群がって、ガアガアッと物悲しい鳴き声を上げていた。
 リリィがやや不安げな表情で、手を繋いだ父親を仰ぎ見ると、父親は微かにうなずくような素振りを見せた。元は黒髪だったのが大半が白くなった父親は、ひどく疲れた目をしており、一気に十以上も老け込んだようだった。
 幼い娘の、無垢な瞳を見た父は、一瞬、胸が詰まったような、何とも言えない顔をした。
 リリィ、とかすれる声で名前を呼ぶ。
 歳月だけの皺が刻まれた、かさついた手が、リリィの蜂蜜色の優しく撫でた。
 父親にそんな風に頭を撫でられたのは、それが最初で最後だった。
「リリィ。後で父さんが迎えに来るから、ここで待っていなさい」
「うん」
「よい子にしているんだぞ」
「うん。お父さん」
 リリィは、素直にうなずいた。
 路地裏に一人取り残されるのは、不安で怖かったけれど、父さんが迎えに来てくれるまでなら、我慢できる気がした。
 痩せた父の背中が、ゆっくりと遠ざかる。リリィの空色の瞳は、じっとそれを見ていた。父の足元の影が見えなくなってからも、ずっとずっと。
 やがて陽が傾き、空が薄紫の黄昏へと染まっていく。
 袖がだぶつくほどに大きい、兄のお下がり、家中に一番、あたたかい服を着せられたリリィでさえ、少し寒くなってきた。そうでなければ、とうに凍えていただろう。
 暗かったし、心細かったけれど、リリィは怖くはなかった。 お父さんと約束したから。此処でよい子で待っていれば、必ず、お父さんが迎えに来てくれる。
「よい子で待っているんだぞ」
 その言葉を守って、打ち捨てられた木箱の上に座り込んだリリィは、顔を伏せて、目をつぶった。とろんとした瞼、眠くなってくる。
 起きれば、父親が迎えに来てくれていると信じて、リリィは夢の世界へと旅立った。
 薄暗い路地裏にも、朝日が差す。
 リリィが、そっと瞼を上げても、そこに父親がいないことに落胆する。
 お父さんは、まだ迎えに来ないんだ。じゃあ、もう少し眠ろうかな……。大丈夫。お父さんは必ず、迎えに来てくれる。 リリィは、信じていた。彼女は、疑うことを知らなかった。
 それが幸いなのか、不幸なのか、わからないけれども。だから、ずっと、昼が過ぎて、再び、夜が巡っても、その場でよい子で待っていた。 まだかな。まだかな。お父さん……
 そうして、疲れと空腹でリリィは倒れ、意識を飛ばした。
 次に目を覚ました時、ひとりぼっちだったはずのリリィは、周りを年上の子供達に囲まれていた。
 男の子が多いが、女の子もいる。
 子供たちは皆、埃で汚れたような黒い顔をしており、目だけが爛々と強い光を放っている。
 彼らを孤児と呼ぶのだと、リリィが知るのは、もう少し後のことだった。
 よくリリィをぶったり蹴ったりしていた、上の兄弟たちとは又違う、彼らは乱暴であったが、殺気立ってはいなかった。
 向けられた敵意に、リリィは怯え、後ずさった。だが、孤児たちは、それを許してくれなかった。リーダーの年嵩の少年がぐいと仲間から一歩、進み出ると、三白眼でリリィを睨む。
「おまえは誰だ?」
「ふぇ……」
 きつい口調に、泣きそうになったリリィにも、少年は容赦なかった。
「おまえも俺らと同じ、親に捨てられたんだな」
「……ちがう。お父さん、リリィのこと迎えに来るって、そう約束した」
 リリィの必死の訴えを、孤児の少年は鼻で笑った。
「でも、迎えに来ないんだろう?それが、捨てられたってことだよ」
 ちがう。約束したもの。約束したもの。リリィは、まるでそれしか言葉を知らないように、何度もそれを繰り返したが、迎えにくるよと頭を撫でてくれた父親が、彼女を迎えにくることは、終ぞなかった。
 行くあてのないリリィは、孤児たちと暮らし始めた。
 一番幼く、身体も小さいリリィは、孤児たちの中でもみそっかす扱いではあったが、リーダーである少年の言うことを守っていれば、理不尽に殴られるようなことはなかった。

 そうして、しばらくした頃、リリィはミカエルと出会った。
 ミカエルもまだ十になったかならないか、幼い少年だった。
 父はおらず、母を亡くした少年は、大家に家を追い出されて、路地裏に迷い込んで来たのだった。
 孤児たちに囲まれたミカエルは、かつてリリィがそうだったように、怯えて、おどおどしていた。
 それでも、気圧されまいとするように、虚勢を張って、孤児のリーダーを睨み返している。
 リリィは、年上の子供たちの背中に隠れるようにして、新入りの少年の顔を見つめる。みすぼらしい服を着ていたけれど、とてもとても綺麗な顔をしていた。
 男とも女ともつかない、中性的な整った顔立ち。
 淡くて、きらきらの金髪、柔らかな水色の瞳。まだお家で暮らしていた頃、一度だけ連れて行かれた神殿の天使さまの象とそっくりだった。
 なんて綺麗なんだろう、リリィは少年に見惚れ、惹かれた。打算も何もなく、ただ純粋に。
「おまえ、名前は?」
「……ミカエル」
 ぐっと汗ばんだ手のひらを、強く握りしめた少年は、リーダーの少年を見据えて、声の震えを悟られまいとするように、気丈に名乗った。
 ほどなく、ミカエルはリリィたち、孤児の仲間となり、路地裏で一緒に生きることとなった。
 ゴミ溜めのような場所にあって、薄汚れた身なりをしていても、そうとわかるほどに綺麗な顔をしたミカエルは、よくからかいの種になっていた。
 娼婦だった彼の母を侮辱し、「お前の母親は、男なら誰でも股を開く淫乱だったんだろう」「そんなお綺麗な面構えで、ほんとに男か?お前が売るなら、買ってやるよ」等々、心無い言葉をぶつけられたこともあったように思う。
 最初はそんなからかいを口にされるたび、顔を赤らめて、憤慨していたミカエルだったが、直に慣れて、母を侮辱されることは眦を吊り上げたものの、自分のことに関しては、上手くやり過ごすようになった。
 それでも、同世代の少年同士の中では浮いた存在らしく、自然とはぐれ者同士、リリィと共に行動するようになった。
 ミカエルも孤児たちの中でも年少で、身体も小さく、要領の悪いリリィを何かと気にかけていて、可愛がり、他の少年たちにからかわれた時には守ってくれて、よくなけなしのパンを分けてくれたりしたものだ。
 淡い金髪と、同じ薄青の瞳を持つリリィとミカエルは、一緒にいると兄妹のように見られた。
 そう、たとえ血の繋がりはなくても、リリィにとってミカエルは優しい、自慢のお兄ちゃんだった。見返りを求めない、庇護するような優しさは、家族の中で唯一、リリィを気にかけてくれた、一番上の姉に似ていた。
 孤児たちは皆が家族のようなものだったが、中でもリリィにとって、ミカエルは特別で、ずっと一緒に居られるような気がしていた。いつか離れる日が来るなんて、想像もしていなかった。
 けれど……
「あ……っ」
 急に視界がぼやけた。
 膝小僧をぶつけた痛みに、リリィはうずくまりかけた。
 薄青の瞳が涙で潤む。
 後ろから、熊のような太い腕が、さながら鎌を振りかざした死神のように迫ってくる。
 ドジを踏んだリリィに、前を逃げるミカエル達の表情が引きつった。
 路地裏で暮らす孤児たちは、食べ物を恵んでくれる神などいるはずもなく、いたとしても薄暗い場所で、ネズミのように息をひそめて生きる孤児など、おそらく気にもとめてくれないだろう。
 スリや食べ物の屋台から盗みを働いて、ようやく命を繋いでいた。
 リリィやミカエルも年上の孤児たちに従って、よく盗みに連れて行かれた。
 ――人の物を盗んではいけないよ、リリィ。我々は皆、神のしもべ。それは、神様の意志に背くことだ。
 貧しい暮らしを呪いながらも、信心深さだけは捨てなかった父親は、背中を丸めて、少しだけ神妙な顔つきで、末娘に語り掛けた。
 盗みは、わるいこと。
 スリに連れて行かれたあと、成功しても失敗しても、リリィの小さな胸は決まって痛んだ。その意味を、彼女はよくわからなかった。
 ただ、盗みを働くごとに、胸の奥に重い何かが積み重なっていく気がした。
 ミカエルはもっと嫌悪感が強いらしく、盗んだパンをいつも不味そうな顔で、仲間から外れた場所で食べていた。
 そんな日々が、永遠に続くかのように思われた時……リリィは、へまをした。
 盗みを働いたあと、転んで逃げ遅れたリリィを、怒り狂った男たちの太い腕が掴んだ。
 ミシッ、と骨が軋む音に、泣きたくなる。
 リーダーの少年が「捕まったら、終わりだぞ!逃げろっ!」 と、声高に叫ぶ。
 振り返るな、逃げろ、とも。
 ミカエルが一瞬、焦った顔で振り返った。盗っ人として捕らえられたリリィを見て、くしゃり、と少年の端整な顔が歪む。逃げる孤児たちの足音が重なり、遠ざかっていく。
「後で必ず、迎えにくるから!」
 足音も意識も遠ざかる中、ミカエルの声だけが、いつまでもリリィの耳に残った。
 盗っ人への罰として、殴られ、蹴られて、ボロ布のようにアザだらけになったリリィは、雨降る路地へと打ち捨てられた。
 全身を痛めつけられて、既に痛覚のなくなったリリィは、ゆるゆると腫れぼったくなったまぶたを上げる。
 視界の先に、目深に黒いフードをかぶった男の姿があった。
 左目を蛇革の眼帯で隠し、晒された右目の美しさに、リリィは息を呑んだ。
 それは、常人にあらざる、まばゆい黄金の、エスティアの歴史上、最も忌むべき存在である凶眼の魔女を思わせるそれは、幼い彼女にとっては富める金貨の、幸福の色だった。
 太陽の色だ。
 なんて綺麗――。
 ミカエルを初めて見た時と、同じ感動を味わう。
 片目から血を流しながら、リリィは眼帯をした隻眼の男に、にこり、何の打算もなく笑いかける。
「お兄ちゃんのおめめは、とっても綺麗……」
 太陽みたいなそれは、幸せの色。
 リリィの言葉に、男は何故だか泣きそうな顔をして、彼女を腕の中に抱き締めた。

 ――それが、ディーとリリィの出会いだった。

 孤児の仲間たちは、結局、彼女を迎えに来なかった。
 成り行きでディーと暮らすようになってからというもの、リリィの生活は以前とは、見違えるように良くなった。
 理不尽に、殴られたり蹴られたりすることもなければ、木箱の影で震えながら、眠ることもない。
 依頼主との契約ごとに、名前を変え、土地から土地を渡り歩くディーと手を繋いでで、さまざまな土地を渡り歩いた。
 それが、幼いリリィにとって負担でなかったといえば嘘になるけれど、それでも、宿屋の暖かい寝床で眠れ、お腹に足りる食事を食べて、盗みを働かなくても、生かしてもらえる。それは、リリィにとって信じられないほど、しあわせだった。
 痩せた身体は少女らしい丸みを帯び、パサパサだった蜂蜜色の髪はしっとりと、青白かった顔には、愛くるしい赤みが差す。
 しかし、見た目が成長しても、リリィの心は赤子のように無垢なままだ。
 ミカエルを兄のように慕い、路地裏で生きていた時と、何も変わらない。疑うことも、裏切ることも、彼女は知らない。
 盗みをしなくてもよくて、隣にディーが居てくれて、独りじゃない。リリィは幸せだ。とても。
 それなのに、ディーはいつも少し不安そうな顔で、リリィに尋ねる。
「リリィ、いま幸せか……?」
「幸せだよ、ディーと一緒に居られるもの。どうして、そんなことを聞くの?」
「……そうか」
 ディーは眼帯をしていない黄金の目を細めて、うなずくと、微かに唇を緩めて、大きな手でリリィの頭を撫でてくれる。――私も幸せだよ、リリィがいてくれるから。
 穏やかで、満ち足りて、幸せな日々のはずなのに、リリィは、ときどき不安になる。
 例えば、ディーがあの人と会う時だ。
 白いお髭の、一見、優しそうなお爺さん。
 宰相閣下と、ディーが呼ぶ、あの人。
 ラザールという老人は、ある日、突然、ディーとリリィの前に現れた。
 穏やかで柔らかな物腰、目を細めて笑う老人は、とても優しげに映った。けれど。
 ――この人は、本当は怖い人だ。
 唇は笑みの形を作っていても、リリィを見下ろす、灰色の瞳はちっとも笑っていなかった。何の感情もなく、地べたにあっても踏んで気にも止めない、虫けらに向けるようなそれだった。
 怖い人だ。この老人はきっと、リリィの命を奪うことに、何の感情も持たないだろう。
 さいしょうかっか。宰相閣下。
 彼の老人は、時折、共もつけずに、ディーのもとを訪れては、何かと頼み事をして去っていく。
 宰相とディーが話す時は、リリィは決まって部屋の外に追い出されてしまうので、二人が部屋の中で何を話しているのか、リリィは知らない。
 ただ、宰相と話した後のディーは決まって、少し疲れた顔をしているので、あまり良くない話なのだとわかる。
「どうしたの、ディー?さいしょうかっか、に何か悪いことを言われたの?」
 仰向いて、問い掛けると、ディーは苦笑を浮かべて、くしゃりとリリィの蜂蜜色の髪を撫でる。
「……何でもないよ。お前は何も心配しなくていいんだ。リリィ」
 大丈夫だから、お前は何も心配しなくていいんだよ。
 ディーがそう言う時、リリィは何も出来ない自分が切なくなる。
 本当はディーが呪術師という、今のお仕事を好きじゃないことを、彼女は知っている。呪いとか、人に悪いことをするのは、悪いことだ。でも、ディーは優しい、ディーは良い人だ。だから、リリィはときどきわからなくなる。
 善い人がよいことをし続けるとは、限らないのだと。
 やめて欲しいけど、他に生きる術はないのだと、ディーはよく言っていた。
「リリィちゃん、ディーさんはいつ帰ってくるの?」
「んー、わからない。たぶん、もうすぐだよ。ディー、夕暮れまでに帰ってくるもの。ヘクターお兄ちゃん……それって、お馬さん?」
 地面に描かれた馬もどきを見て、首を傾げたリリィに、黒翼騎士団の制服を着たヘクターは、ふにゃり、締まりなく笑う。
「いいやー、犬だよー。おかしいなぁ、リリィちゃんの目には、馬に見える?」
 悪びれず、しゃあしゃあというヘクターに、見習いのエリックが、はあ?と抗議の声を上げた。
「ヘクターさん、絵、下手すぎますよっ!馬というか犬というか、この四つ足の謎の生物にしか見えないですって!」
「えーっ?黒翼騎士団の自称・天才画伯の僕に、なんて失礼な事を言うんだい、エリック?」
 酷いよねーリリィちゃん、可哀想な僕をなぐさめてーと、へらへら笑ったヘクターは、リリィに甘える。
 幼女相手にその態度はどうなんだ、この女たらしが、と思わず、毒づきかけたエリックだったが、上司であることを思い出し、辛うじて踏みとどまった。
 リリィはといえば、上機嫌で木の枝を握り、地面に絵を描いている。
 あれ以来、顔見知りとなったリリィとヘクターは、ささやかながら交流を持つようになった。
 ヘクターが見回りの際、決まって、リリィとディーが長逗留している宿屋のそばを通るのだ。
 それに、時折、見習いのエリックが加わることもある。
 生真面目なハロルドなら、警邏中に何を遊んでいるのかと雷を落としたかもしれないし、あるいは市民との交流の為といえば、しぶしぶ許したかもしれない。
「ふふん、ふーん」
 リリィが鼻歌を歌いながら、地面に大きな虹を描いていると、ゆらっと目の前に大きな影が立ちふさがった。
 急に暗くなった視界、顔をあげると、彼女の眼前には、夕日を背にしたディーが立っている。
 その男の姿を確認した途端、リリィの表情がパッと華やいだ。
 湧き上がる感情を隠そうともせず、満面の笑顔で、ディーに抱きつく。
「おかえりなさい!ディー」
「……ただいま。リリィ」
 胸に飛び込んできた少女を、控えめに抱きしめ返し、ディーはヘクターとエリックの方へと向き直る。
「リリィと遊んでくださって、ありがとうございました」
 黄金の眼、隻眼の異形の男は、意外にも穏やかな口調で礼を口にした。
「いやいや、大したことはしてませんので」
 はははっ、と爽やかな騎士の顔で笑うヘクターに、後ろのエリックが、あたたと額に手をあてる。
 ふ、とその時、ディーの右手がヘクターの肩に伸ばされた。
 唐突なそれに、ヘクターは「うん、?」と怪訝な面持ちで、身体をひねる。
 無表情のディーは、それに似合いの淡々とした口調で、ヘクターに尋ねた。
「あなた、最近、何か凶事に巻き込まれましたか?」
 いっそ確信に満ちた口調だった。
 黄金の瞳がすがめられる。
 身に覚えのある指摘に、ヘクターはドキリとする。
 男の言うように、一昨日の晩、夜の警邏中、ヘクターは娼婦が客をナイフで刺すという、人情沙汰に巻き込まれた。
 無論、騎士である彼は、加害者を止める側だったわけだが、愛が変化し、憎しみに澱んだ女の目を見ていると、何とも言えない気持ちになるのは、事実だった。
 噴き出す鮮血が、肩にかかって……
「あなたが、気に病む必要はありませんよ。ただ少し、穢れを背負ってしまっただけだから」
 まるで、その件を見通しているかのように、ディーはヘクターの肩から、何かを払うような仕草をした。
 そうすると、一昨日から何となく重かった肩が、急に軽くなる。まるで、重石が取れたみたいに。
 驚きに目を見張るヘクターに、ディーは半歩、歩み寄り、耳元で囁く。
「私に何かあった時には、どうか、リリィのことよろしくお願いします」
と。

「……リリィ」
「んー。なぁに?ディー」
 宿屋へと戻る道中、手を繋いでいたリリィが、顔を上げる。
 二つに結った蜂蜜色の髪が、夕日にきらめいて、ディーは黄金の目を細めた。
「リリィ、あの人たちのことが好きか?」
「ヘクターお兄ちゃんとエリックお兄ちゃんのこと?うん、好きよ」
「そうか……」
 繋いだ手に、力をこめてディーは尋ねた。
「あの人たちの方へ行きたいか?」
 繋いだ手のひらから、じわりと熱が伝わる。
 リリィはぎゅ、と繋いだ手を握り返した。ディーが独りで、どこか遠くに行ってしまわないように、強く、強く……。
「ディーと一緒にいたいよ。それが、しあわせだよ」
「そうか……ありがとう」
 ディーは心底、信じてもいない、己には欠片の慈悲も与えてくれなかった神に、願った。神よ、この愚かだが、心きよらかな娘に、自分の分も幸いがありますように、と。
 お前の幸せだけが、私の望みだよ。


 同日、ヘクターとエリックの上司である男、ハロルド隊長は非番を利用し、エドウィン公爵家を訪れた。
 最近、過労を極めているらしいルーファスのことが、認めるのはシャクだが、ハロルドは公爵に対し、友情を感じつつあっただけに、心配であった。他にも、幾つか気がかりなことがある。
 公爵家の屋敷に足を踏み入れると、門のところで掃き掃除をしているメリッサと、目が合った。
「あっ」
「あ……」
 メリッサとハロルド、双方から、同じ声が漏れる。
 なんとなく照れくさくなって、彼も彼女も赤らんだ頬を隠そうとするように、わずかに顔を背けた。
 その癖、相手の姿は見たいものだから、ちらちらと目線を送る。
 意識しすぎるほどに、意識しているのが、丸分かりだ。
 お仕着せの、清楚な紺のワンピースに身を包んだメリッサを見つめて、綺麗になった、とハロルドは思う。
 もともと、快活で、愛らしい少女ではあったが、最近、とみに女性らしさが増し、大人っぽくなった。
 一方、メリッサの方も、髭を剃り、身奇麗にしたハロルドにポーッと、見蕩れていた。
 そう、長身のわけではないが、騎士らしく均整の取れた体躯はたくましく、濃い緑の瞳は、穏やかながら、強い意志を宿している。
 照れ臭くて、お互い、まともに目を合わせられない。十代の青い小僧でもなかろうに、とハロルドは己を、恥じた。
 もし、この場にルーファスが居れば、まるで、初恋を覚えたばかりの少年少女のような二人に、苦笑し、呆れ果てただろう。あるいは、もどかしささえ感じたかもしれない。
 しかし、ふたりは真剣そのものだった。
「旦那様に、会いに来られたのですか?」
「あぁ」
 メリッサの問い掛けに、ハロルドは緩慢にうなずく。
 それっきり、言葉に詰まり、気まずい空気が流れた。
 気詰まりをどうにかするように、メリッサはホウキを動かす真似事をするが、あまり効果はないようだった。
 その時、ハロルドが手を伸ばし、ぽんぽんと軽く、メリッサの頭を撫でる。
 恋情よりも、優しさがまさるそれに、少女は瞠目した。
「あー、元気がないようだったから、その、深い意味はない……迷惑だったか?」
 ハッと我に返ったように、赤面し、しどろもどろに言うハロルドに、メリッサもまた赤い顔でうつむいた。
「いいえ……」

 面映くなるような出来事の後、ハロルドはルーファスの書斎へと案内された。
 来客に、久しぶりだな、と口にしたルーファスは、職務に忙殺されているせいか、うっすらと髭が伸び、心なしか、頬のあたりが、痩せたようだった。普段の冷ややかで隙のない、貴公子然とした印象が薄れて、男らしい精悍さを感じさせる。
 やや着崩した襟元からのぞく喉仏、少し気怠げな蒼い瞳が、何とも言えぬ艶を纏っている。
 まったく、どんな姿をしていても、嫌になる位の良い男ぶりだと、ハロルドは舌を巻いた。唯、美丈夫というのではなく、人が惹かれずにいられない雰囲気を持っている。
 容貌では比較にならぬとわかっていても、同じ男として、何とはなしに腹が立つ。
 メリッサはこの秀麗な主人のことを、どう思っているのだろう、そんなことが一瞬、騎士の頭をよぎった。
 この男が奥方を深く深く、半ば執着にも近いほど、愛しているのはよく知っている。それでも、時に、つまらぬ不安に駆られるのが、片思いに身を焦がす男というものだ。
 ルーファスはそんなハロルドの、視線に気づく様子もなく、あるいは気づいたとしても、慣れきっているのか、淡々とハロルドに椅子を勧めた。
「最近、市井の様子はどうだ?」
 ルーファスの問い掛けに、革張りの椅子に腰掛けたハロルドは「変わりない」と答えた。
 そのまま、最近の王都の様子や、騎士団のことについて、幾つか意見を交わす。
 意外ではあるが、そういった時、ルーファスは優れた聞き役であった。
 ハロルドの言葉に、じっくりと耳を傾けて、時折、ぽつりぽつり、と助言めいたことを口にする。それは、的確ではあるが、己の意見を強引に押し付けるようなことはない。
 気安い友人関係というのをのぞいても、貴族でも平民でも、身分の貴賎を問わず、それが人に意見を求める時の、ルーファス=ヴァン=エドウィンという男の姿勢であった。
 公爵という高い身分や、王太子の右腕という立場に驕ることなく、必要とあらば、どんな相手の話も真剣に聞き入り、時には道化の役回りさえ厭わない。
 そんな、ルーファスの政治家としての器量に、普段の付き合いでは、どんなに腹の立つことがあっても、ハロルドは全幅の信頼を置いていた。ルーファス=ヴァン=エドウィンというのは、このエスティアにおいて、欠かさざるべき存在だと。
 なればこそ、最近の覇気のないルーファスを見て、思う。この男は、こんなところで立ち止まって、足踏みをしていて良いわけがない、と。
「そういえば、奥方のご体調はどうだ?」
 会話がひと段落したところで、ハロルドはルーファスに水を向ける。
 屋敷を訪れた際、最近、姿を見せないセラのことが気がかりだった。
「良くはない」
 ルーファスは言葉少なに答えたが、その裏に込められているものは、重かった。
 その後、「愛する者が苦しんでいるのは、辛いものだな。己のことなら、どうとでもなるというのに」と、自嘲気味に続けた。
「太陽も月も、俺はどちらも手放せないし、選べない。己の命でどちらも救えるならば、その対価すら、喜んで払うのに」
 ルーファスにとっての、太陽と月が誰を指しているのか、ハロルドは察した。かの御方と、彼女のことを語る時だけ、青年の氷のような表情は和らいで、声は優しさを帯びる。
 輝ける太陽は、アレン王太子。
 ルーファスが忠誠を捧げる、唯一無二の者。
 愛しい月は、奥方である少女、セラ。
 ルーファスが狂おしいほどに愛し、求めてやまぬ存在。
 己の命と引換えてでも、この二人が幸せになるならば悔いはないと、ルーファスは願う。幼い頃から、様々なものを無くしてきた。父母の愛情も、女達の愛も、自分に咎があることはよくわかっている。
 しかし、それでも、絶対に失えないものはある。――太陽と月の消えた時に、心から愛する者のいない世界に、なんの生きる意味があるのか?
 苦しげな友人の横顔を見つめて、ハロルドは静かに諭した。
「自分の命と引換えても、などと馬鹿なこと言うなよ。ルーファス。貴方も光なんだよ、エドウィン公爵を信じる者にとってはな。失われていいものなんて、本来、ひとつもないんだ」
 ルーファスは黙って、友の言葉に耳を傾けていた。


「ハロルド隊長、お帰りですか?」
 公爵家を辞そうとした時、ハロルドは従者の少年とすれ違った。
 ミカエルという、綺麗な顔をした少年は、少し会わぬうちに、背が伸びたようだった。伸びやかで、若木のようだった手足も筋肉がついて、頬から幼さも抜けてきつつあった。
 やがて、少年の危うい不安定さを超えて、一人前の男になるのだろう。
 それが楽しみであり、ほんの少し、惜しくもある。
 挨拶だけ交わすつもりが、ミカエルが立ち止まったので、反射的にハロルドも足を止めた。
「あの……」
 意を決したような目をした少年は、何かを口にしかけ、でも、躊躇うように言いよどむ。ハロルドは、眉を寄せた。
「あの、」
「何か、相談ごとでもあるのか?」
 目を伏せたミカエルに、ハロルドは優しく促す。
 この年頃の少年は、重要な、己の根幹に関わることほど、なかなか言いたがらないものだ。弟たちもそうだし、己にも覚えがある。
「……いいえ、やっぱり、何でもありません。失礼しました」
 呼び止めてしまったことを、詫びた従者の少年に、ハロルドは「そうか」とうなずいて、それ以上、追求することはしなかった。また、年長者として、深追いはしない方がいいと知っていた。
 じゃあ、とぎこちなく去っていこうとするミカエルの背中に、ハロルドは独り言のように、言葉を投げつける。
「俺には、詩人の兄がいるんだ。あまり、いやまったく、売れていないんだが、その兄がよく言っていた。――悩めよ、青少年。悩んだ分だけ、きっと何かを得る、と」
 はい、と掠れる声が応じた。


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