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七章 眠りの王子 8


 ガチャン、と手にしていたグラスが床に落ち、砕け散った。
「どういうこと……?」
 その王子の言葉に、宰相ラザールの取り巻きである、二人の大臣はハッと背後を振り返り、息を呑む。
 彼らの表情には、純粋な驚きと、不味いことを聞かれたというのが、はっきりと滲んでいる。
 どうにか絞り出された声は、ひどく固かった。
「セシル殿下……い、今の話を、聞いておられたのですか?」
 うん、とセシルは頷くと、相手と同じように、否、それ以上に固い声で問い詰める。
「お願いだよ、きちんと説明して。今の話は本当なの?」
 出来れば、嘘だと信じたかった。


「はっ、は、はあ……」
 息を弾ませ、顎を上げながら、セシルは王宮の廊下を全力で走っていった。
 日頃、目立たず、己の部屋に篭もりがちな、末の王子らしからぬ行動に、すれ違った女官たちが、一様に驚き、大きく目を見張る。一声かけ、引き止めようとする者もいた。けれど、今の彼には、そんなことを気にかけている余裕などなかった。
 会わなければ……。
 お祖父さまに、宰相ラザールに会わなければ!
 脇目もふらず、セシルは宰相の執務室まで駆けた。
 しかし、その重厚な扉を前にした途端、急に気弱な心がうずいて、少年の足が止まる。
「は、はあ……」
 息が荒い。
 喉が、カラカラに乾いている。
 水が欲しい。たった一杯でいい。贅沢は言わない。グラス一杯の水がもらえれば、それでいい。
 足が鉛のように重かった。
 先程、聞いた話が、どうか嘘であって欲しかった。
 それを耳にした瞬間、セシルは全ての希望が潰えたような、酷く絶望的な気持ちになったのだから。
 嘘だ。あんなことが、真実であってはならない。
 そわそわと、落ち着かなげに、宰相の部屋の前を行き来していると、扉がゆっくりと開いた。
「おや、セシル。そんなところに居たのですか」
 扉を開けたのは、宰相ラザール、その人であった。
 例の、底の見えない好々爺然とした微笑みを浮かべ、背の低いセシルを見下ろしている。
 そうして、孫を見て目を細める姿は、傍からみれば、このエスティアを牛耳る宰相というより、王子であり孫でもあるセシルを、溺愛してはばからぬようにも映るのだろう。
 実際、周囲はそう見ており、宰相の取り巻きたちは、事あるごとに孫のセシルを持ち上げ、王太子であるアレンを、非もなく貶めようとする。
 しかし、セシルは、セシルだけは気づいていた。
 己を見下ろす、宰相の灰の瞳は、ひどく冷ややかで、愛情など微塵も宿っていないことを。
「……お祖父様」
 祖父の目を見た途端、怯えにも似た気持ちが頭をもたげたが、セシルは決意を込めて、一歩、祖父へと歩み寄った。
「大切なお話があるのです。どうか、お部屋に入れてください」
 宰相は、長い白髭を撫でさすると、灰色の目を細める。
「セシル殿下から、そのようなことを言うのは、珍しいですね。どうぞ」
 執務室に入ると、宰相は手近な来客用の椅子に、セシルを腰掛けさせて、自らは異国から仕入れたばかりの珈琲を作る道具を使い、部屋中にふくみのある香りを振りまいた。
「それで、大切な話とは……?」
 孫の前に、湯気立つ珈琲のカップを置きながら、老宰相は尋ねる。
 セシルは膝の上に置いた拳を、掌に爪を立て、固く握り締めると、「さっき、偶然、聞いてしまったんです」と、切り出した。
「このまま、兄上の、アレン殿下の容態が好転しない時は、現王太子を廃し、僕を王太子を推すつもりだと……嘘ですよね?お祖父さま」
 どうか、嘘だと言って欲しい。
 しかし、その願いは虚しくも届かなった。
「今更、その話ですか。もう、とうの昔に、セシル殿下のお耳に入っているものと思いましたが……ええ、真実ですよ」
「そんな……!」
 セシルは机を叩いて、椅子から立ち上がり、思わず、声を荒げた。
「馬鹿な。そんなこと、父上が、陛下がお許しになるはずもないでしょう!長男である兄上を、これといった非もなく廃して、僕を王太子にするなんて、議会も貴族も、絶対に納得するはずもないっ!」
 気弱な王子とは思えない激昂ぶりだったが、宰相ラザールは、眉ひとつ動かさなかった。
 その落ち着きぶりは、いっそ不気味なほどだ。
「座りなさい。セシル」
 その口調は命令にも似た、逆らい難い響きを帯びていた。
 セシルは肩を落とし、糸の切れた人形のように、背もたれに身を沈める。
「勿論、陛下も納得しておられる……王太子殿下の御容態は、一向に回復の兆しもなく、延々に眠っておられる。あのままでは、王太子としての役目を果たすなど、到底、不可能なのだから、次の話が出るのは、当然のことでしょう」
 宰相の声は、セシルの心に何ら慰めももたらさず、むしろ重石を増やしただけだった。
 ――自分が、アレン兄上に成り代わり、王太子になる?そんな大それたことを考えたことも、ましてや望んだことなど、一度もないと誓える。
 幼い頃から、完璧な王太子である異母兄の背中を、セシルは見つめ続けてきたのだ。
 アレン兄上は聡明で、公平かつ柔軟な考えを持ち、周囲を惹きつけて止まない、光のような存在だった。重苦しい牢獄のような宮廷にあって、幾度、その存在に心慰められたかわからない。
 母を異とする兄弟でありながら、アレンはセシルにいつも優しく、時に厳しく接してくれた。
 兄であると同時に、師のような憧憬の対象でもあったのだ。
 そんなアレン兄上が、病で臥せっているのを幸いと、蹴落とし、自らが王太子となるなんて、絶対に嫌だ。
「嫌だ。嫌です。僕は、そんなことを微塵も望んでいません。王位に相応しいのは、誰がどうみても、アレン兄上の方だ……僕は、その治世の邪魔にならぬよう、陰ながら兄上をお支え出来たら、それで満足なんです」
「セシル」
 不味いと感じても、一度、堰を切ってしまったそれは、止まらなかった。
 こみ上げてくる嗚咽を堪えながら、セシルは必死に訴える。
「お祖父さまは、いつもそうだ。誰かを利用してでも、自分の望みを叶えようとする。そんなの、間違っている」
「……セシル」
「僕は、僕は――お祖父さまの駒じゃないっ!」
 魂を込めた叫びだった。
 それは、少年の心にずっと巣食っていた疑念だ。
 祖父が孫である自分を、王位につけようとしているのは、残念ながら理解していた。でも、それはせめて、自らの血族に対する愛情であって欲しかった。
 だって、そうでなければ、僕は……
「お前は小心者で、意気地なしですな。セシル……あの男にそっくりだ」
 しかし、セシルの魂の慟哭ともいうべきそれは、宰相の瞳に、微塵の波風も立たせなかった。
 その声音には、どこか憐憫の響きさえある。
「あの男……、父上のことですか?」
「いいえ」
 セシルの問い掛けに、ラザールはゆるり首を横に振ると、いつになく優しく、孫に微笑みかけた。
「お前の母親の愛人だった男に、ですよ」
 その瞬間、セシルの世界が、音を立てて崩れ去った。
 母上の、愛人?
 それに、そっくりだという言葉の意味は、つまり……
「お、お祖父さま……それじゃあ、僕は……」
 震えるセシルに、宰相はにこりと微笑みかけると、その肩を抱く。
「お前は、愚かな子ですね。セシル……よく考えてごらんなさい。お前の髪も目も、顔立ちも、陛下に似たところは一つもない。死んだあの男も、愚か者だった。小心者で気弱な学者で……まあ、私の娘はそんなところを、物好きにも気に入っていたようだけど、血は争えないのですね」
 いやいやと、セシルは激しく頭を振る。
「う、嘘です。だって、アレン兄上は何も……」
「あれは、あの陛下のお子とは思えないほど、聡い。おそらく、亡き王妃に似たのでしょう。お前のことも、薄々、気づきそうにはなっていましたよ。お前とは、一滴足りとも、血の繋がりがないことにね」
 嘘だ。うそだ。嘘だ!
 セシルは、混乱の極地に居た。
 自分が、母上とその愛人との子だなんて、信じたくない。
 それが真実ならば、己はエスティア王家の血は、ただの一滴も入っていないことになる。無論、王位どころか、殿下と呼ばれる資格もない。民を騙した、大罪人だ。
 それに、もし、そのことに気づいていたのなら、アレン兄上はどうして、あそこまで自分を大切に、辛抱強く、愛情をもって接してくれたのだろう。
 わからない。わかりたくない。何もわからない!
 全てが、悪夢のようだ。
「で、では、お祖父さまは、僕に王家の血が流れていないのを御存知で、王位に就けようとなさっているのですか?そんなこと、神に……」
 到底、許されるはずもない、という台詞を、セシルは喉の奥で飲み込んだ。
「我々が黙っていれば、問題ないでしょう。真実を知るのは、最早、わたくしとお前の母と、そして、お前のみ。貴方が王となるのを、妨げるものは何もない」
「そんな……そんなことをして許されると、お祖父さまはお思いなのですかっ!」
 エスティアの国民全てを騙し、神に背くようなまねを、彼は許容できない。
 セシルの叫びに、宰相は「では。」と目を眇めた。
「お前に、私や自分の母を告発して、真実を明るみにする度胸がありますか?気弱で、兄の背中に隠れてばかりのお前に?もし、そうしたなら、貴方は破滅し、全てを失うのですよ。王子としての地位も、暮らしも何もかも、偽の王子として……私も身の破滅ですが、セシル殿下、貴方も無事では済まない。最悪、国家反逆罪として、命を落とすハメになる」
「それは……」
 力なく、セシルはうなだれた。 
 祖父の言うとおりだ。大義の為とはいえ、自分に身内を告発する度胸はない。ましてや、己の祖父を、産みの母を……
 母は社交にばかり精を出し、自分の教育は、乳母に任せきりだった。それでも、血の繋がった肉親だ。情がないはずはない。
 いや、それだけではない。真実が明るみになれば、セシルは本当に全てを失い、奈落の底に突き落とされる。王の妃でありながら、不義密通を働いた女の息子として、国中の民から、白い目で見られることだろう。取り巻きたちは離れていき、彼はひとりぼっちになる。
 でも、それよりも、アレン兄上はどう思うのか。
 王宮で唯ひとり、自分を愛し、優しく、時に厳しく、自分に接してくれたアレンを、兄と呼ぶことも出来なくなる。それに、自分は耐え切れるだろうか。
「よく覚えておきなさい、セシル」
 呆然と立ち尽くすセシルの耳元に、宰相は囁いた。
「これは、復讐なのです。英雄王オーウェンに殺された、凶眼の魔女のね。――お前が王位を継いで、あの男の血統を絶やすことで、数百年もの我らの悲願、それがようやく成就するのだ」
と。



 幼い頃は、神さまの存在を信じていた。
 陰謀渦巻く宮廷で、決して、あたたかいとは言えない環境だったけれど、どこかに救いがあると信じていた。
 最悪のことは起こらないと、セシルがそう無邪気に信じていられたのは、きっと、アレン兄上の存在があったからだ。
「セシル……そんな場所で、どうしたんだ?」
 王宮の片隅で、幼いセシルが膝を抱えて、うずくまっていると、いつも見つけてくれるのは、アレンだった。
 太陽の光が黄金の髪を、きらきらと照らす。
 たった数歳しか年が違わぬのに、兄はずいぶんと大人に見えた。
 蒼灰の瞳が、柔らかな光をたたえて、セシルを見つめている。
「アレン、兄上……」
「そんなところにいては、皆も心配するだろう?一緒に行こう。ほら」
 差し出された手を、セシルはおずおずと握り返す。
 兄と弟の手が、重なった。
 先陣を切って、歩きだしたアレンの後ろを、セシルは追いかける。
 そうして、はにかむように微笑んだ。
 幸福な記憶だ。
 自分と、アレン兄上の間に、確かな絆があると信じていられた頃の。
「兄上……どうか、眼を覚ましてください……」
 アレンの寝台の枕元に膝まずきながら、セシルは掌を組み、女神に祈りを捧げた。
 神さま。神さま。どうか、お願いです。アレン兄上を、助けてあげてください。僕は、どうなっても構いませんから、どうか……。
 少年の必死の祈りも虚しく、アレンの睫毛には深い影がかかったまま、その瞼が開けられることはなかった。
 天窓から差し込む光で、アレンの鼻筋には陰影が落ちている。
 医師は身体には何ら異常がなく、ただ眠っているだけだと説明していたが、その頬は面やつれし、眉間には深い皺が寄っていた。
 こんな状態が、いつまでも持つはずがないのは、火を見るより明らかだ。
 けれど、どうすればいいのかわからなくて、セシルはシーツの端をきつく掴んで、拳を震わせた。
「アレン兄上……早く起きてください。僕と違って、兄上の存在は、皆を導くんですから……エドウィン公爵もディオルトも、皆、待っていますよ」
 少年は鼻水を流し、ぐずぐずと嗚咽する。
 ぽたぽたと頬を伝った涙が、よく磨き上げられた床に、水溜りを作る。
「どうした?セシル」
 もし、寝台の主であるアレンが目覚めたなら、嗚咽する異母弟に、そう優しい声をかけてやっただろう。だが、その気配はなかった。
 代わりに、扉を叩く音がする。
「誰……?」
 セシルは涙の痕を指でこすりながら、扉に向かって、問いかけた。
 眠り続ける王太子の部屋へ、出入りが許されているのは、王とセシル、医師や警護の衛兵など、ほんのひと握りだ。
「セシル殿下、ルーファス=ヴァン=エドウィン公爵がおいでです。お通ししてよろしいでしょうか?」
 衛兵の声に、セシルは「わかった」と応じる。
 ほどなく、衛兵の手によって、重厚な扉が左右に開かれた。
「あっ……」
 扉の外に立っていたのは、すらりと背の高い、黒髪の青年。
 怖いほどに整った容貌は、間違えようもない、エドウィン公爵だ。
 深海の底のような双眸と、目線が重なる。
 青年の傍らに寄り添うのは、対照的に、小柄な少女だった。
 柔らかな亜麻色の髪と、澄んだ翠の瞳。
 どこか儚げな雰囲気を纏った、その女性をセシルは見知っていた。
「……セラフィーネ異母姉さま」
 セシルの呼びかけに、セラは翠の瞳を細め、やわく笑んだ。
 その微笑みは、記憶にあるものと、寸分、違わない。
 まだ彼女が王宮にいる時、数度、遠目にその姿を見かけたことがあった。アレンに手を引かれた、幼いセシルと目が合うと、セラは少し儚げな微笑を浮かべていたのを、今も覚えている。
 あの時と同じだ。
 若草色のドレスの裾をあげ、軽く膝を折る。
 それは、王族からエドウィン公爵家に降嫁した少女の、臣下の妻としての礼だった。
「お久しゅうございます。セシル殿下」
「エドウィン公爵と一緒に、アレン兄上のお見舞いに来られたのですか?」
 セシルが尋ねると、セラはゆるりと首を横に振った。
「いいえ、わたくしは、王太子殿下にどうしてもお伝えしたいことがあって、王宮に舞い戻ってきました」
「お伝えしたいこと……?でも、アレン兄上は眠っておられますよ」
 セシルは首を傾げたが、セラはただ微笑むだけだった。
 少女の白い指が、少年の頬に伸ばされて、その涙をすくいとった。
「泣いておられたのですか?セシル殿下」
 大丈夫ですよ、とセラは言う。
 あたしは、その為にここに戻っていたのですから、と。
 そうして、両手で包み込むように、セシルの頬をくるんだ。
「王太子殿下は、必ず目を覚まされます。セシル殿下が、ルーファスが、国を愛する数え切れない大勢の人々が、それを強く待ち望んでいるのですもの……だから、その為に、しばらくの間、わたくしと王太子殿下を二人きりにしてくださいませんか?すこしだけ、治療の心得があるのです」
 セラの頼みに、セシルはちらりとルーファスを仰ぎ見た。
 ルーファスは躊躇なく、頷く。
「妻の頼みを、叶えて頂けませんか?アレン殿下は、必ずやお目覚めになられる。私はそれを信じています……責任は、全て私が取ります」
「……わかりました。エドウィン公爵がそう言うならば」
 少年は知っていた。ルーファスがアレンの害になることを、許すはずないと。彼の言葉なら、信頼出来る。
 医師でも何でもないセラのことを、何故か、信じてみようと思った。ただの勘でしかないけれど、奇跡が起こるならば……。
 セシルは立ち上がると、よろよろと扉の側に向かう。
 衛兵が扉を閉める寸前、彼は一度、振り返り、その唇が、ねえさま、と音を紡いだ。
「アレン兄上のことを、助けてあげて。お願い……」
「ええ、お約束しますわ」
 セラは、かすかに唇の端を緩めた。
 その微笑が、アレンの面影と重なった。
 衛兵の手によって、扉が閉ざされる。
 ルーファスはセラの肩を抱いて、一度、その白いこめかみに、ついばむような口づけを落とすと、足早に扉を出て行く。
 部屋の中には、寝台で眠れる王太子と、セラだけが残された。
「セシル殿下は、素直で良い子ですね。王太子殿下、貴方がいままで大切に、慈しんで来られたのが、よくわかります」
 セラは寝台の横の椅子に腰を下ろすと、返事がないのを承知で、眠るアレンに語りかける。
 間近で見るアレンの顔は端整で、半分とはいえ、己と血が繋がっているとは思えなかった。
 成り立たない会話は、不思議と退屈ではない。
 むしろ、ずっと、この時を待ち望んでいた気がする。
 ――自分の運命が、凶眼の魔女に呪われたものであると知った、あの日から。
「王太子殿下。あたしは、ずっと……貴方のことを好きではありませんでした。いいえ、心の奥底では、強く憎んですらいたと思います」
 それは、ずっと、ひた隠しにしていた、セラの醜い部分だ。しかし今、それをさらけ出すことを、恥とは思わない。
「あたしと貴方は、鏡のような存在。貴方が光ならば、あたしは影だった。貴方が生きて輝き続ける限り、あたしは永遠に幸せになれないと、わかっていたから」
「貴方の生は、あたしの死と、隣り合わせだったから……でも、」
 語るセラの頬を、透明な雫がつたう。
 少女は涙を零しながら、微笑んでいた。
「貴方は、救われるべき人です。アレン殿下。ルーファスだけじゃない、国中の人がそれを望んでいる。今のエスティアを建て直せるのは、貴方しかいない」
 腐敗した国や貴族の中にあって、民にとって一筋の希望は、聡明かつ、公正なアレンの即位である。それが崩れれば、エスティアの民は希望を失い、国は荒廃の一途を辿るだろう。
 そうして、その傍らにあって、新王となったアレンを支えるのは、エドウィン公爵と呼ばれる青年、ルーファスのはずだ。
 夢を見た。民が飢えず、苦しまず、互いに支え合って生きる、楽園のような国。
 それを、実現できるのは、アレンとルーファスの二人だけだ。
 どうか、このエスティアを変えてください。英雄王の御世より、偽りの歴史を重ね、凶眼の魔女の呪いに蝕まれた、この王国を――
「貴方に課せられた呪いを、あたしが解きます。《解呪の魔女》の名にかけて」
 セラはアレンの胸に手を置くと、呪い痕跡を辿り始めた。
 複雑に絡まった魔術の糸を、慎重に解きほぐしていく。
 かなりの腕の呪術師だろう。
 王太子にかけられた呪いは、強力かつ、極めて複雑なものだった。
 見えない呪いの糸に触れた瞬間、少女の指の先に細かい亀裂が走り、指先に血がにじんだ。
 びりびりと痺れるような痛みに、セラは「痛っ」と顔を歪める。
 赤い血が、床に滴った。
 そうやって複雑な呪いを解く作業をしていると、暑くもないのに、額に玉の汗が流れる。まるで、強力な呪いに、体中の魔力を吸い取られていくようだ。
 彼の金色の魔術師なら、ずいぶん胸糞の悪い呪いだね、と評しただろう。
 翠の瞳に、緊張の色がよぎる。
 王太子殿下の命がかかっているのだ。万が一にも、失敗は許されない。
 呪いを解く、少女の掌から、じわりと白い光が広がった。
 やがて、アレンの身体が、純白のまばゆい光に包まれる。
「……解けた」
 その言葉と同時に、セラの身体がかしいで、力尽きたように床に倒れ込む。
 意識を失う寸前、彼女の華奢な体を、力強い男の腕が支えた。
 最後に見たのが、心配そうな深い蒼の瞳だったので、セラは安心して意識を飛ばしかけた。
「ルーファス……王太子殿下に医師を、お願い……」
 抱き込んだ逞しい腕が、優しく亜麻色の髪を撫でる。無茶をするな、という男の渋い声を聞いたセラは、ああ、あたし今、すごく幸せだなぁ、と思いながら、その瞳を閉じた。


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