王国の魔女の地位を、師匠である魔女イーリアより受け継いでから、フィアナの生活は大きく変わった。
今まで五十年もの間、師匠のイーリアと共に王城の離れで静かに暮らしていた娘が、いきなりローズティア王国を守る魔女になったのだ。
その生活の変化に、少しも戸惑わなかったと言ったら、それは嘘になる。
ただ、十代半ばにしか見えない外見の少女の姿をしていても、フィアナは見かけ通りの子供ではない。五十年もの修行を終えた一人前の魔女なのである。
だから、ローズティア王国の王と対面した際にも、フィアナは年頃の娘のように浮かれたり、緊張したりすることはなかった。
王国の魔女。
人々からそう呼ばれるフィアナの役目は、ローズティアの王と契約をし、王国を守ること。
王家とローズティアからさまざまな悪しき災いを退けて、王国の平和を守るというのが、先代の千里眼の魔女イーリアから受け継いだ使命だった。
その王国の魔女の仕事の一つに、ローズティア王家の守護がある。
王冠を持つ国王の守護はもちろんとして、王の血を受け継ぐ王子や姫君も守らなければならない。身の内の病やら体調やらを守るのは、医者や薬師の勤めだが、外敵やら暗殺者から守るのはフィアナの仕事だ。
そういう事情から、フィアナはローズティア王国の魔女になってすぐに、国王を初めとする王家の面々と顔を会わせることになった。
王国付きの魔女として、フィアナはこれより城の中に部屋をもらって、そこで生活するのだ。その意味で、顔合わせということでもあっただろう。
その出会いが、フィアナの運命を大きく変えることになるとは、その時の彼女は想像すらしていなかったのだ。
「――新しき王国の魔女に祝福を。ローズティア王国と王家は、貴女を歓迎しよう」
先代の王国の魔女イーリアより、ローズティアの魔女の地位を正式に継いでから初めて王城を訪れたフィアナに、国王は祝福の言葉を贈る。
フィアナは膝をつき、うやうやしく頭を垂れて、祝福の言葉を受け取った。
「有り難き幸せ。いまだ魔女として至らぬとは思いますが、このフィアナ――ローズティア王家と王国の守護を、魔女の誇りにかけて、お約束いたします。ローズティア王国に、さらなる栄光と永久なる平和が訪れんことを」
鈴を鳴らすような可憐な声と、歌を紡ぐような美しい言葉。
堂々とした新しい魔女の口上に、ローズティアの国王は、うむと満足気にうなずいた。
「ローズティア王国も、力のある魔女を迎えられたことを何よりもうれしく思う。フィアナよ、貴女を王国の魔女として認めよう……その証として、今日よりフィアナ=ローズと名乗るがよかろう」
王国の魔女フィアナ=ローズ。
フィアナは慣れない自分の名前を、口の中で転がし、ふわりと微笑んだ。
これが新しい私の名前。
その花のような微笑みに、国中の美姫を見慣れたはずの国王も、思わず惚けたようになる。
「身に余る光栄でございます。国王陛下」
「……う、うむ。これからの働きに期待しておるぞ。フィアナ=ローズよ……では、そなたが守護することになる余の家族を紹介しよう」
フィアナの美貌に目を奪われていた国王も、やがて我に返ると、自らの家族へと視線を向けた。
国王が手を上げると、それが合図だったかのように、王家の者たちがフィアナの前に並ぶ。
「まずは、王妃アリステラ」
国王が名を呼ぶと、見事な銀の髪を高く結い上げた煌びやかな美女が、スッと前に出る。
やや目尻にシワがあっても、かつて国一番の美女と賞賛された王妃は、フフッと魅惑的な微笑みを見せた。
「これはこれは、新しき王国の魔女は、ずいぶんと美しい……いえ、可愛らしい御方だこと」
そう言った王妃アリステラから、妖艶な流し目を向けられて、フィアナは曖昧に微笑むことしか出来ない。
「うむ。次は王妃アリステラの息子であり、第一王子ステファン」
国王の呼びかけに、それまで王妃の陰に隠れていた銀髪の十歳ほどの少年が、恐る恐る姿を見せた。
「……はい」
容易に聞き取れないほど小さな声で、第一王子ステファンは返事をする。
王妃の息子ステファン。
国王の長男であり、何事もなければローズティアの次代の王位に就くべき者。
王冠の継承者。
しかし、国王となるべき者にしては、ステファンという少年はいささか頼りなさげだった。
母と同じ銀の髪に、薄緑の瞳。
肌は病的に白く、手足はフィアナよりも細いくらいで、心配になるほど痩せている。将来を危ぶまれるほどに病弱だというから、それも仕方ないことかもしれない。視線は落ち着かず、どこか怯えているようでさえあった。病弱な王子。彼を怯えさせているのは、他人の目なのか、それとも自分自身のコンプレックスなのか。
「――最後に、今は亡き側室が生んだ息子。第二王子レオハルトだ」
国王が息子の名を呼ぶのと、五歳ほどの少年が、ダダダッとフィアナに走り寄ってくるのは同時だった。
その手には、幼児の玩具であるニセモノの剣。さして尖ってもいない玩具の剣を、その金髪の幼い王子――レオハルトは、格好だけは勇ましくフィアナに突きつけて叫んだ。
「早く父上から離れろ!このニセモノの魔女めっ!」
その幼い王子の行動に、フィアナは困ったように眉を下げ、国王は悲鳴を上げた。
「レオハルトっ!何をしているんだっ!フィアナは大事な王国の魔女だっ!ニセモノなのではないっ!」
父親の説得にも、幼いレオハルトは不満そうな顔をして、キッとフィアナを睨みつける。
「父上は騙されているのですっ!魔女のことは絵本で読みましたけど、本に出てくる魔女はみんな、腰の曲がった老婆ではないですかっ!“千里眼の魔女”イーリアもそうだったし、こんな若くてお姫様みたいな魔女なんて、いるはずないっ!」
幼い王子レオハルトのあどけない主張に、国王や周囲の者たちは一瞬、呆気にとられ次に笑い出した。
いきなり何を言い出すかと思えば、そんな理由とは。
レオハルト本人はとても真剣なのだが、第二王子の年齢が年齢だけに、周囲の目には微笑ましい行動としか映らない。
フィアナも例外ではなかったので、困ったように微笑みつつも、レオハルトの前に膝をついた。
「お初にお目にかかります。レオハルト殿下。本日より、ローズティア王国の魔女を勤めさせていただくことになりました。フィアナ=ローズと申します」
いまだフィアナを睨んでいたレオハルトだったが、父親である国王の厳しい視線に、しぶしぶ名乗る。
「……ローズティア王国の第二王子レオハルト。お前は、本当に王国の魔女なのか?」
そのレオハルトの問いかけに、フィアナは真紅の瞳で、幼い王子を真っ直ぐに見つめ返した。
レオハルトと名乗った第二王子は、父親である国王にも異母兄であるステファンにも、あまり似ていなかった。
母親から受け継いだのだろう見事な、誇り高き獅子のような金の髪。
幼いながらも凛々しく、それでいて愛らしい顔立ち。
碧玉の、海よりも深く、空よりも透き通ったその瞳――幼いながらも、王者にあるべき勇敢さと高貴さを持った王子だった。
成長すれば、どれほど素晴らしい青年になるのだろうかと、見守る人に期待と羨望を抱かせる幼い王子。
ただ、今は見た目と同じく、その心も幼い。
がるると獣のように唸りながら睨んでくるレオハルトに困りつつも、幼い王子の真っ直ぐさを可愛らしく感じながら、フィアナはうなづいた。
「ええ。私が、ローズティア王国の魔女フィアナです。レオハルト殿下」
「本当に?」
「本当ですよ。王国の魔女の誇りにかけて」
「むぅ……」
王国の魔女の誇りにかけて。
そう誓ったフィアナに、幼い王子レオハルトはようやく警戒を解き、構えていた玩具の剣を下げた。
「――ならば、誓えるか?ローズティア王国を守る魔女であると。この剣にかけて」
レオハルトの言葉に、フィアナはうなづいた。
第二王子付きの侍女が、王子を止めようと走りよって来るのを、フィアナは目で制す。
「ええ……」
フィアナはレオハルトの目線に合わせて、スッと膝をおると、幼い王子が持つ玩具の剣に唇を寄せる。
「――王国の魔女フィアナ=ローズは誓いましょう。この命がある限り、ローズティア王国を守ることを。そうして、王家と貴方に忠誠を。レオハルト殿下」
それは、幼い王子を納得させるための儀式。にも関わらず、誓うフィアナの姿は美しかった。
ゆるやかに波打つ金の髪に、あざやかな真紅の瞳。
白い胸元には、大輪の薔薇のアザ。
まるで天才と言われる人形師が、生涯をかけて作ったかのような、美しい姿。
女というよりは、永遠の少女。人間というよりも、人形のよう。それも当然のことだ。フィアナは人間ではない。魔女なのだから。
その魔女が誓う姿に、レオハルトは見惚れた。
「……レオハルト殿下?」
フィアナに見惚れていレオハルトは、当の本人に話しかけられたことで、ひどく狼狽する。
「……な、何だ?」
「私が本物の魔女だと、信じていただけましたか?」
「……信じよう。剣の誓いに嘘はないと、騎士団長も言っていたからな。疑って悪かった」
やや気まずそうな顔をしつつ、レオハルトはフィアナに謝った。
フィアナはゆるゆると首を横に振る。
「いえ……これから、よろしくお願い致しますね。レオハルト殿下」
フィアナがそう言うと、レオハルトがパッと子供らしい無邪気な笑みを浮かべて、嬉しそうに言った。
「こちらこそ。よろしく頼む!フィアナ!」
――貴方に忠誠を。
それは、幼い王子レオハルトと王国の魔女フィアナのささやかな、戯れのような小さな約束。
ニセモノの玩具の剣に誓った儚い約束。
その誓いが、彼らの、ローズティア王国の運命を大きく動かすことになろうとは、その王城にいた誰もが予想できぬことであった。それが、“王冠の魔女”の六百年に及ぶ誓約の始まりであろうとは、誰一人として。
そうして、運命の輪は巡る。
ローズティアの国王と王妃。
そして、二人の王子ステファンとレオハルト。
彼らを見守る運命を背負った王国の魔女フィアナ。
誰一人として、これから起こる悲劇を知りうることはない。
時は、神聖暦789年。ローズティアで“王冠の魔女”の伝説が広まり、やがて終焉を迎える六百年前のことである。
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