それから、八年もの月日が流れた。
八年前は十歳の少年だったレオハルトは、十八歳の青年へと成長した。
兄王子ステファンは父の国王が二年前に亡くなったことで、二十一歳の若さでローズティアの王位を継いだ。
フィアナは……相変わらず、少女のままだ。八年もの歳月が流れたというのに、フィアナは何も変わらず、成長とも老いとも無縁のままである。時は、絶え間なく流れていくというのに。
「――フィアナ」
書物を呼んでいたフィアナは、聞き慣れた声に顔を上げ、振り返った。
「……あら、レオハルト殿下。どうなさったのですか?」
部屋の扉の前には、いまや十八歳の青年になったレオハルトが立っていた。
フィアナは椅子から立ち上がると、レオハルトに歩み寄る。
大人びた顔つき。
何年も前に追い越された身長と、一回りは大きい背中。
かつては弟のように思っていた黄金の髪の青年に近寄ると、フィアナは時の流れを感じずにはいられない。
八年前には、彼女よりも遥かに小さかったレオハルトだが、その関係が逆転してから、もう何年も経つ。かつては姉と弟のようだったのに、今や見た目の年齢は逆になり、兄と妹に見えるだろう。
レオハルトは成長し、フィアナが年を取らないがために。おそらく月日が流れるほどに、見た目の年齢は離れていくはずだ。
姉と弟が、兄と妹に。やがては、父と娘にしか見えなくなるに違いない。
フィアナが成長を止めてから数十年、それは幾度も経験したことだった。
人の成長は、フィアナにとって眩しく羨ましい。時の流れから見捨てられた身には、それは輝く宝石のようですらある。
「ああ……その、部屋に入っても良いか?フィアナ。話したいことがあるんだ」
何か御用ですか、そう尋ねたフィアナに、レオハルトはいささか堅い表情でうなづいた。珍しく緊張しているようだ。
いつもと違う様子の青年に、フィアナは首をかしげる。
今日は何か特別な日だっただろうか?
「どうぞ。ここで立ち話もなんですから、お入りください。レオハルト殿下」
首をかしげつつも、フィアナはレオハルトを部屋へと招き入れて、彼のために紅茶をいれた。
それは初めて出会った時から、十三年も続けられている儀式のようなもの。
フィアナが紅茶のカップを手渡すと、レオハルトは「……ありがとう」と何処か上の空で礼を言って、緊張した顔で黙りこんだ。
「……」
長い沈黙。
レオハルトは言葉もなく、フィアナを見つめてくる。その長すぎる沈黙に、フィアナが違和感を覚え始めた頃、レオハルトが口を開いた。
「……フィアナ」
「はい。レオハルト殿下」
レオハルトは真摯な声でフィアナの名を呼ぶと、手に持っていた何かを、そっと彼女の手の上にのせた。
「――これを受け取って欲しい。フィアナ」
その言葉と共に、フィアナの手にのせられたのは、蒼い宝石が輝く首飾り。
深い深い蒼色の、まるでレオハルトの瞳のような宝石に、きらきらと金の光を放つ鎖が、夢のように美しい。
精緻な細工が施されたそれは、フィアナによく似合いそうだった。
「これは……まさか、蒼華石ではないですか?レオハルト殿下」
フィアナが驚きながら、尋ねる。
蒼華石。
ローズティア王国でしか採れぬ、深い深い蒼色の宝石。
その神秘的な美しさと、ローズティアにしかない貴重さゆえに、王国の青い薔薇と讃えられているそれ。
その貴重な蒼華石の首飾りが、今フィアナの手の上にある。
「そうだ……この蒼華石の首飾りは、もともと亡くなった母上が大事にしていたものだったんだが、俺が譲り受けた。いずれ大事な人が出来たら贈るようにと、母上が遺してくれたものだ……この首飾りを、お前にもらって欲しい。フィアナ」
「え……そんな大事なものを、いただけませんわ。レオハルト殿下」
レオハルトの言葉に、フィアナは首を横に振る。
レオハルトは幼い時に、国王の側室であった生母を亡くした。
ほとんど一緒に過ごすことが叶わなかった実の母。
でも、レオハルトが母との数少ない思い出をいかに大事にしているか、フィアナは知っていた。だからこそ、この首飾りを受け取ることなど出来るはずはない。
蒼華石は貴重な宝石だ。
売れば幾らの値がつくことか、想像もつかない。だが、それよりもレオハルトにとって母の首飾りは、亡き母との大事な絆のはず。
そんな大事なものを、魔女であるフィアナが受け取れるわけがない。
レオハルト殿下から、この首飾りを受け取る権利があるのは、彼が愛し共に人生を歩むだろう女性だけだ。
これは受け取れるません、とフィアナは蒼華石の首飾りを、レオハルトの手に返す。
「良いんだ。私はフィアナに、この首飾りを贈りたかったんだ。そう、十三年前からずっと……覚えているか?フィアナ」
「何をです?レオハルト殿下」
首をかしげるフィアナに、王子は柔らかく微笑んだ。
「十三年前の今日に、フィアナは新しき王国の魔女として、この王城にやって来たな……私はお前のことをニセモノの魔女かもしれぬなどと疑って、父上から叱られたものだ。懐かしいな」
「レオハルト殿下は、よく覚えていらっしゃいますね。あれからもう、十三年も経つというのに」
過去を思い出し、フィアナは真紅の瞳を細める。
レオハルトも懐かしそうな笑みを浮かべて、うなずいた。
「忘れるものか。あの後、父上からたっぷりと叱られたからな……でも、きっとあの時からだ」
「あの時から……?」
首をかしげるフィアナに、レオハルト王子はちょっと顔を赤く染めて、甘く優しい声で告げた。
「――あの時からずっと、フィアナに恋をしていた。初めて出会った日から、十三年間ずっと……お前のことを愛している。世界中の誰よりも、フィアナが愛しい」
決して、流暢ではない愛の告白。
どちらかといえば、拙い言葉。
でも、それは誰のどんな言葉よりも、フィアナの心を震わせた。
「レオハルト殿下……」
弟のように思っていた王子の突然の告白に、呆然とするフィアナの両頬に、レオハルトはそっと両手を伸ばす。
白磁のなめらかな肌に、剣だこのある大きな手が触れた。そっと、大事なものに触れるように、優しく。
レオハルトの声は、まるで祈りの歌のように優しく救いのように、フィアナの耳に響いた。
「――フィアナ。私が愛したのも必要とするのも、共に生きたいと願うのも、全てお前だけだ」
愛している。
レオハルトのささやきに、フィアナはビクッと身を震わせた。
かつて、師匠である千里眼の魔女イーリアに教えられた言葉が、頭をよぎる。
――魔女は人を羨むべからず。魔女は人になりたいと願わず。魔女は人に恋をすることなかれ。
それは、悠久の時を生きる宿命を背負った魔女が、世界に絶望せずに生きるための教え。
あの時、師匠はこうも言った。
『良いかい?フィアナ。絶対に、人に恋してはいけないよ。もし恋をしてしまったら、アンタも人間の男も、誰も救われない。魔女と人間は、同じ時を過ごすことは出来ない……出口のない迷宮に迷いこむようなものだ。だから、人に恋をしてはいけないよ。アンタのためにも、相手のためにも』
ああ、そうだ。
魔女は人に恋してはならない。
魔女と人は違う存在なのだから。
――魔女は人に恋することなかれ。
私はフィアナである前に、魔女なのだ。ローズティア王国の魔女フィアナ=ローズ。魔女が人間に恋をすることは、許されない。だから、この胸にある想いは恋ではないのだ。永遠に。
「……私は魔女です。レオハルト殿下」
だから、フィアナは拒絶する。その想い、全てを。
「わかっている。それでも愛しい」
「いいえ。貴方は魔女のことを知らないのです。レオハルト殿下……魔女とは哀れな存在です。時の流れから取り残され、愛する人と共に歩むことも叶わない。その意味がわかりますか?レオハルト殿下……貴方が老いても、時が流れ貴方の名が歴史から消えたとしても、私はずっと生きています。このままの姿で」
魔女の運命を語りながら、フィアナの真紅の瞳からは、透明な涙がこぼれ落ちていた。
ぽたり、ぽたり、と床に小さな水たまりが出来る。
ずっと、泣かないようにしていた。
両親に捨てられて、魔女の運命を悟ったあの日から。泣いても、どうにもならぬこと諦めた。絶望を受け入れた。なのに、どうして――私の瞳からは、涙があふれているのだろう?
その答えを、フィアナはわからなかった。
「……フィアナ」
泣きながら震えるフィアナに、レオハルトは腕を伸ばし、抱きしめた。
彼女が傷つくことがないように、優しく。
それでも、離れないように強く。
「ひくっ………」
「もう無理はしなくて良い。一人で生きなくても良い。フィアナの孤独も苦しみも悲しみも、半分は私が背負ってやる。だから――」
レオハルトはそう言うと、腕の中に抱きしめたフィアナに、蒼華石の首飾りを握らせた。
「――この首飾りを受け取ってくれ。これは、私の誓いだ。フィアナ。約束する。絶対に、お前を一人にしない。たとえ死んで魂になったとしても、お前のそばにいる……だから、泣くな。そして、笑え。幸せそうに」
慰めていたはずなのに、レオハルトのその命令のような尊大さがおかしくて、知らず知らずのうちにフィアナの涙は止まっていた。
「……はい」
涙をぬぐって、フィアナは少しだけ微笑む。
そんな彼女の胸元で、蒼華石の首飾りが揺れている。
少しずつ、本当に少しずつ、何かが変わろうとしていたのかもしれなかった。
そうして、春が過ぎ、夏が過ぎ、秋が過ぎてローズティア王国は厳しい冬を迎えようとしていた。
レオハルトの告白から一年が過ぎようとしているが、フィアナと彼の関係は相変わらずだった。
十九歳になろうとするレオハルトは、ローズティア王国の王弟として多忙な日々を送ってはいるが、その合間を縫ってはフィアナに会いにやって来る。
別に、恋人同士というわけでもない。レオハルトがぽつりぽつり、と日常のことを語り、フィアナが紅茶をいれながら時折、彼の話に相づちを打つ。
穏やかで平穏な日々。
ともすれば退屈かもしれないそれに、フィアナもレオハルトも満足していた。
ありふれた幸福。
それは、魔女がフィアナが、何よりも欲するものであったから。そんな魔女の胸に、蒼華石の首飾りが揺れているのを目にしては、レオハルトは幸せそうに微笑んでいる。
ささやかな幸せ。
それはまるで、穏やかな春の日のよう。
しかし、春がいつまでも続くことがないように、フィアナたちの穏やかな日々もいつかは終わりを告げる。
現実と同じように、彼らの日常にも、やがて冬が訪れる。冷たく寒い冬が、ローズティア王国へと――
「――フィアナ!フィアナ!フィアナ!大変だ!」
レオハルトがそう叫びながら、フィアナの部屋に飛びこんできたのは、雪の降る寒い日のことだった。
「どうしたのです?レオハルト殿下……っ!」
尋常ではないレオハルトの慌てぶりに、フィアナは怪訝な顔をして、彼の顔を見た途端に、うっと息をのんだ。
フィアナが絶句するほどに、その時のレオハルトは酷い顔をしていた。
顔面は血の気がなく蒼白で、手はぶるぶると小刻みに震えており、目は感情が存在しないかのように虚ろだった。
そんなレオハルトの表情に、いつもの人を惹きつける明るさは欠片もなく、今にも倒れそうだ。
青を通り越して白くなった顔色は、病人でさえもこれよりはマシだろうと思うほどに、生気というものが感じられない。
「ご気分でも悪いのですか?レオハルト殿下!座っていてください!今すぐに、医者を呼んで参りますから!」
「医者……」
レオハルトは虚ろな声で、フィアナの言葉を反復すると、ゆるゆると首を横に振った。何かを諦めたように。
「いや……医者はいい。彼らもそれどころではないだろう」
「え……」
レオハルトの言葉に不吉なものを感じて、フィアナは凍りついた。
「落ち着いて聞いてくれ。フィアナ……」
レオハルトは目を伏せて、唇を噛みしめながら、残酷な現実を告げる。
「――兄上が、ステファン兄上が、国王陛下が崩御された」
それが、春の終わり。
冬の始まり。
そうして、“王冠の魔女”の伝説が生まれる時が、刻一刻と近づいていた。
同時に、フィアナとレオハルトの別れの時も、すぐそこまで迫っていたのである。
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