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一章 魔女に選ばれた王 1−5


 国王の崩御。
 ローズティアの国王にして、異母兄であったステファンの死去は、弟王子レオハルトにとっては大きな衝撃だった。
 第一王子ステファンと、第二王子レオハルト。
 病弱で誰からも期待されなかった兄王子。快活で誰からも愛された弟王子。
 ローズティア王国の光りと影と言われた二人。ローズティアの王位を継ぐ資格を持つ、異なる母から生まれた二人の王子。
魔女であるフィアナの目から見ても、レオハルトとステファンは、決して仲が良い兄弟ではなかった。
 むしろ、兄ステファンは弟レオハルトのことを、憎んでいた。増悪とさえ言えるほどに、強く。
 常に優秀な弟と比較され続けて、病弱で内気というだけで、失望され蔑まれた兄。何もせずとも人に好かれて、太陽の下を歩み続けた弟に、嫉妬と憎しみを感じたのも人として無理からぬことだ。
「――レオハルト。お前がいる限り、誰も私を見ない。誰も私を愛さない」
 かつて、フィアナの前でステファン殿下が、レオハルトに憎しみを持って伝えた言葉。
 あれは、誰からも望まれることなかった兄王子の静かな、だが必死の叫びだったのかもしれない。銀の髪に薄緑の瞳をした青年の痩せた横顔が、フィアナの脳裏に浮かんだ。
「――その意味は、貴女ならばわかるだろう……王国の魔女フィアナ=ローズ」
 そう自嘲するように言ったステファン殿下は、もう死んでしまった。
 何でも胸を押さえて急に倒れ、そのまま亡くなってしまったのだと、フィアナはレオハルトから教えられた。
 幼い頃から、さまざまな持病を抱えていた人だ。今までに何度も生と死の境を、さまよったことがあったという。それでも、その若すぎる死に、フィアナは悲しみを感じずにはいられない。
 その兄が倒れた場に居たレオハルトは、必死に助けようとしたが、何も出来なかったと拳を震わせながら語った。
 腹違いとはいえ、国王を父とするたった二人の兄弟だったのに、最期の最期まで歩み寄れなかったと。
 兄上には憎まれていたけど、決して憎みたかったわけじゃないと呟いて、レオハルトはフィアナの前で涙をこらえるようにして、嗚咽の声をもらした。
「――お前は、私の手から王冠を奪うだろう」
 王位に執着し、誰よりもローズティアの王冠を望んだ兄王子ステファン。
 彼は最期まで、弟王子の想いを理解することは出来なかった。
 レオハルトが真に手にしたいと望んだのは、ローズティアの王冠などではないというのに。レオハルトはただ、心から愛した女がそばにいれば、それだけで満足だったのに。
「――私は、本当に王位など望んでいなかった。王族として、ローズティアを愛してはいた……でも、ステファン兄上を傷つけてまで、王位を望んだことなど一度もなかったというのに!なぜ、それをわかってくれなかったんだっ!ステファン兄上ぇ!」
 国王ステファンの葬儀の後で、王弟としての最後の仕事を終えたレオハルトは、フィアナの前ではただの青年へと戻って慟哭した。
 宰相や大臣の前では、たとえ身を引き裂かれそうな悲しみの中にあっても、毅然と誇り高く振る舞わなければならない。ローズティアの王族として、レオハルトはそう育てられた。
 その仮面を外せるのは、フィアナの前だけだ。
 フィアナと自分の二人だけの今だけ、レオハルトは王子でも王弟でもない自分の素顔をさらけ出せる。
 だから、今だけは兄を亡くした弟として、泣かせて欲しかった。
「レオハルト殿下……」
 静かに涙を流すレオハルトの背を、フィアナは後ろから手を回して、そっと抱きしめる。
 どうか、レオハルトの傷が少しでも早く癒えるようにと願いながら。
 深い悲しみと同時に、レオハルトの胸には決して消えぬ後悔がある。今更、何を叫ぼうとも、亡き兄の魂は救われまい。この想いは、ステファンが生きているうちに伝えなければ、意味がなかったのだ。
 今や、その兄と言葉を交わす機会は、永遠に失われた。
「――私は王になれない!王位を継ぐ資格などない!そうだろう?フィアナ。たった一人の兄さえ不幸においやり、孤独なまま死なせた私が、民を幸せに導く王になどなれるはずもない!」
 レオハルトの悲壮な叫びに、フィアナは血が滲むほどに唇を噛み締めて、それでも首を横に振る。
 その行為が、レオハルトの逆鱗に触れて、彼を絶望の淵に突き落とすと知っていながら。
「――それでも、貴方は王にならねばなりません。レオハルト殿下」
 本人が望むと望むまいと、レオハルトはローズティア王国の次の王となる。
 それは、すでに決まっている未来。
 若くして死んだ兄ステファンには、王位を継がせるべき子供がいなかった。つまり、亡き王ステファンの弟であるレオハルトが、ローズティアの王位を継ぐことになるのだ。
 それは必ず訪れる、覆しようのない未来。
 たとえレオハルトが王位を望んでいなくとも、ローズティアの王冠は彼の頭上に輝く。それはもう、決まっている。
「お前まで、私にローズティアの王位に就けと国王になれというのかっ!私は王になどなりたくないんだっ!私はただ、お前と……フィアナと共に生きれれば良かったのにっ!」
 それは、王位を継ぐべき者として、決して言ってはならぬ言葉であった。
 ローズティア王国の玉座に就くよりも、ただの魔女と共に生きたいなどとは。
「レオハルト殿下……」
 それは、許されぬ願いだった。
 王国の魔女は、王を守る者。王と共に生きる者ではないのだから。
 それが許されるのは、レオハルトと同じ人間の女だけだ。いつか彼が愛し、妻に迎えるだろう王妃。
 国王の妻となる人だ。きっと美しく聡明で、レオハルトを幸福にするだろう。
 それは魔女には、決して出来ぬこと。魔女フィアナに許されたのは、それを見守ることだけ。
 ――魔女は人を羨むべからず。魔女は人になりたいと願わず。人に恋することなかれ。
 魔女と人間は違う。
 決して、共に生きることは出来ない。それは、フィアナがずっと言い続けたこと。そして、魔女と王も共に生きることは、叶わない。
 ましてや、王子が王冠よりも魔女を選ぶなど、誰も許しはしない。
「――もし、私が魔女ではなく人間の娘であったならば、たとえ全てを失うことになっても貴方の手を取りたいと願ったでしょう。レオハルト殿下」
 だから、フィアナは微笑んだ。今までで一番、綺麗で優しい微笑み。
 あでやかで悲しい。散る寸前の薔薇のように。
 その恋に終焉を告げるため。
「フィアナ……?」
 今まで見たことのないフィアナの表情に、レオハルトは目を見張る。その声は、不安そうに震えていた。
「――この蒼華石の首飾りは、お返し致します。これは、貴方の王妃となる女性にこそ、相応しいもの……魔女には過ぎたるものです」
 カチャリ、とフィアナは金の鎖をいじり、胸元から蒼華石の首飾りを外すと、レオハルトへと手渡した。
 本来ならば、もっと早く、こうしなければならなかった。ただ、彼と共に在る幸福に、魔女としての自分を見失っていた。
 魔女と王子の恋など、許されるはずもなかったのに。
「何を……何を言っているんだ?フィアナ!まるで、別れの挨拶みたいに……」
 レオハルトの表情が、不安に歪む。フィアナは憂いに満ちた表情でそっと目を伏せて、うなづいた。
「ええ。私は魔女なのです。レオハルト殿下……私は貴方のことを愛していました。でも、魔女と人間が結ばれることは、決してない。結ばれてはいけない……だから、私は貴方の前から去ります」
 魔女と人間の恋は、出口のない迷路のようなもの。
 その恋の終着点には、絶望しかない。
 だから、フィアナが全てを終わらせるのだ。レオハルトが破滅の道に進む前に、この恋を。
「フィアナ!そんなことは、許さないっ!兄上に続いてお前まで、私の前から去るのかっ!」
 レオハルトは、悲痛な声で叫んだ。
 十三年もの間、恋をしていた女。
 苦しい恋だった。
 希望のない恋だった。
 それでも、こんな結末は認められない。王位より王冠よりも、大事だった女を失って、それで玉座についたところで何の意味があるのだ。
「本当に申し訳ありません。レオハルト殿下。魔女の身には過ぎたる幸福を、殿下からたくさんいただいたのに、何もお返しできず……」
「もう言うなっ!私はお前に、何かを返して欲しかったわけではないっ!ただ、お前に笑って欲しかったんだ。フィアナ……ただ、それだけだったんだ」
「レオハルト殿下……」
 肩を震わせる王子に何も言えず、フィアナは黙って頭を垂れた。
「――どうか、良き王になってくださいませ。レオハルト殿下。この麗しきローズティア王国を、お守りください。国王陛下……陛下の御代が光に満ち、王国が平和であることは、魔女フィアナ=ローズの名において、お約束いたします。どうか、良き王に。レオハルト陛下…」
 その言葉を最後に、王国の魔女フィアナは、レオハルトの前から姿を消した。

 ローズティアの第八代国王レオハルト。
 ローズティアの長い歴史において、その名は賢王として知られた。
 決して長くはない治世ではあったが、国政において多くの優れた改革を成し遂げ、また軍事にも才能を発揮し、生涯にわたり敗北を知らず、ローズティアの国土を広げたという。
 後に、大陸でも有数の繁栄を誇ったとされる、ローズティア王国。
 その繁栄の礎を築いたのは、国王レオハルトの功績だとされる。彼の死後に、その子孫たちが六百年に渡りローズティア王家の歴史を紡ぐこになるが、レオハルト以上の評価をされた王は存在しない。
 黄金の髪と、海よりも深く空よりも透き通った蒼い瞳。
 そんな国王レオハルトは、ローズティア王国に比類なき繁栄をもたらした。
 後世の歴史家たちは、国王レオハルトの類い希なる功績を讃えて、彼のことを――“光の王”とそう呼んだという。
 しかし、王のことを語る者が誰一人として、真実を知ることない。
 彼が本当は何を望んで、何を欲していたのか。
 その真実を知るのは、魔女と王だけである。

 王国の魔女フィアナ=ローズが王城から姿を消してから、十五年もの月日が流れた。
 今となっては、城で働く人々の口から、王国の魔女の名が出ることはない。
 魔女フィアナが城から姿を消しても、ローズティアは王国は平和であった。
 在位十五年を数えるレオハルトは、善政を行い良き王として、国民から慕われている。
 ローズティア王国の今まで歴史を紐解いてみても、国王レオハルトの治世は、平穏で優れたものであった。不作の年はほとんどなく作物はよく実り、飢えや流行病に悩まされることもなく、他国から侵略されそうになった時も勝利し、災害に襲われることもなかった。
 出来すぎたほどに、幸福な王国。
 ローズティアの民たちは、それを神の加護と思い感謝の祈りを捧げたが、レオハルトだけは王国の繁栄を守っている者の名を知っていた。
 ――陛下の御代が光に満ち、王国が平和であることは、魔女フィアナ=ローズの名において、お約束いたします。どうか、良き王に……。
 王国の魔女はフィアナは、レオハルトにそう誓った。
 だから、レオハルトの前から姿を消しても、その誓いを守りローズティアを守護しているに違いない。あれは、そういう女だ。
 そんなレオハルトの奇跡のような治世に、小さなヒビが入ったのは、彼が即位十五年を迎えた年の秋のことだった。
 国王レオハルトが、原因不明の病に倒れたのだ。
 医師たちの必死の治療にも関わらず、国王レオハルトの病は瞬く間に悪化し、ついには死期が近いと囁かれるようになった。
 ――レオハルト陛下は、もうすぐ亡くなられるだろう。
 ――国王が崩御されたなら、次代の王位は誰が継ぐ?陛下のお子たちは、まだ幼いぞ。
 ――大変だ。ああ、大変だ……。
 レオハルトは死の床にあって、そんな重臣たちの慌ただしい会話に、耳を傾けていた。
 ガヤガヤと騒がしいことだ。
 誰も彼もが、病に倒れたレオハルトを見放し、次代の王位の行方にしか興味がない。
 それも、仕方のないことだ。ふっ、と自嘲気味に笑って、レオハルトは痩せて枯れ木のようになった己の手を見つめた。かつて、剣を振るっていたその手。
 しかし、病に蝕まれた今は、女のように痩せてしまった。この変化を見れば、自分に死期が迫っていることを、嫌でも感じざるおえない。
 こうして寝台に横たわっていてさえ、体は岩や鉛のように重く、時折、意識は朦朧とする。
 体がひどく熱い。焼けるようだ。
 今や水を飲むことさえも、容易ではない。
 今日か明日か明後日か、己は近いうちに死ぬだろう。
 己に迫りくる運命を、レオハルトは諦めと共に受け入れていた。
 自分は近いうちに死ぬだろう。ただ、その前にしなければならないことがある。もう一度だけ、もう一度だけ、あの魔女にフィアナに会わなければならない。
 その時、寝台の横に人の気配を感じて、レオハルトは閉じていた瞼を開ける。
 そうして、魔女と別れてから十五年ぶりに、心から幸福そうな微笑みを浮かべた。
「――ああ……やっと来たか。フィアナ」
 レオハルトの蒼い瞳に映ったのは、十五年前と何も変わらぬ魔女の姿。
 波打つ金の髪に、ガーネットのような真紅の瞳。
 胸元に薔薇のアザを持つ、不老不死の娘が――フィアナが、そこに立っていた。
 夢にまで見たその姿に、レオハルトは一瞬、体を蝕む痛みも苦しみも全てを忘れて、幸せそうに笑う。かつて、フィアナと初めて出会った時と同じように、無邪気とすら言える表情で。
 レオハルトの前に、十五年ぶりに姿を表した王国の魔女フィアナは、寝台に横たわる王を痛ましげに見つめた後、スッと頭を垂れた。
「ご無沙汰しておりました。レオハルト殿下……いえ、レオハルト陛下」
 少しだけ言いにくそうに、陛下、と慣れない言葉を口にするフィアナに、レオハルトはふっと自然に微笑んだ。
 ああ、こんな風に笑うのは、何年ぶりのことだろう?ずっと、笑うということを、忘れていた気がする……。
「いや、レオハルト殿下でいい。フィアナに陛下と呼ばれると、何となく照れくさい気がするからな……息災だったか?」
「はい」
「それは何よりだ。……ああ、それとフィアナには礼を言わねばならないな。私がローズティアの王になってから、よく国を守ってくれたな。フィアナ……ありがとう」
 レオハルトの前からは姿を消した王国の魔女。
 しかし、フィアナはローズティア王国を見捨てたわけではなかった。
 飢饉や災害。流行病。十五年の治世の中で、さまざま危機に見舞われるたびに、レオハルトは見えない力に助けられた。いつからか気づいた。それは幸運でも奇跡でもなく、魔女の力なのだと。
「いえ、王国の魔女としては当然のことです……あの、レオハルト陛……いえ、殿下」
 フィアナは首を横に振ると、不安そうな表情で、殿下と呼びかけた。
「何だ?フィアナ」
「――私のことを、恨んでいらっしゃるのではないですか?」
 尋ねながら、フィアナはレオハルトの顔を真っ直ぐに見られず、顔を伏せる。なんと罵られても仕方ない。自分は、それだけのことをした。
「……最初の五年は探していた。次の五年は恨んでいた。最後の五年は、夢でも良いから会いたかった……不思議だな。今は恨みも怒りも悲しみも、何もない。これが、死なのか……」
「レオハルト殿下……」
「隠さなくていい。私はもうすぐ死ぬのだろう?魔女の中には、未来を予知する者もいるという……だからこそ、お前がやって来たのだろう?フィアナ。王国の魔女としての役目を果たすために」
「――はい」
 レオハルトの問いに、フィアナはうなづいた。
 王国の魔女――それは、国の王と魔女の契約である。
 国と王を守る代わりに、王は魔女の望む報酬を支払う。それは、魔女の掟。
 この、ローズティア王国においても、それは例外ではない。
 王の死期が近いからこそ、フィアナはレオハルトに再び会いに来ることを、許されたのだ。
 ――魔女は人を羨むべからず。魔女は人になりたいと願わず。魔女は人に恋することなかれ。
 もう、それが破られることはない。
 最後の最後の一瞬だけ、フィアナは魔女ではなくただのフィアナとして、レオハルトの前に立てた。
 それが救いなのか、フィアナにはわからなかったけれども。
「フィアナ。そのことなんだが、一つ頼みがあるんだが……」
「頼み……?」
「ああ。王国の魔女の契約を、永遠のものにして欲しい……たとえ、私の血筋が絶えたとしても、このローズティアという国が滅びるまで……」
「……」
 ローズティア王国が滅びるまで、フィアナは王国と運命を共にしなければならない。悠久に近い時を生きる魔女でさえ、決して短くはない歳月になるだろう。でも――
「――貴方が、レオハルト殿下がそれを望むなら、私は王国の魔女で在り続けましょう。このローズティアの国が終焉を迎える、その日まで」
 それでも、フィアナはレオハルトの願いを受け入れた。
 レオハルトの想いを、知っていたから。
 ――貴方のことを守ります。レオハルト殿下……そして、貴方の子供も子孫たちも、ずっと見守っていきます。そうしたら、きっと寂しくない。
 ずっと前に、フィアナはレオハルトにそう言ったことがある。
 フィアナはずっと、家族が欲しかった。一人ぼっちになりたくなかった。誰かに必要とされたかった。
 だから、これはそういう意味だろう。
 長すぎる時を生きるフィアナに、居場所と見守るべき人々を。ローズティア王国の行く末を見守れと。貴方のいないこの場所で。
 それは、新たな苦しみの始まりかも知れない。このローズティア王国の魔女である限り、フィアナがレオハルトのことを忘れることは、たとえ何百年の歳月が過ぎ去ったとしてもないだろう。
 でも、そうすることだけが、フィアナがレオハルトのために出来る唯一のことなのかもしれない。
「ありがとう。フィアナ……それから、約束を守れなくてすまなかった……ずっと、そばにいると誓ったのに」
 レオハルトは悲しげに微笑むと、震える手をフィアナへと伸ばした。
「レオハルト殿下」
 波打つ金の髪を、痩せ細った指が、愛おしげに撫でる。
 その感触を、胸に焼き付けるように。
「フィアナ。最後に、二つ頼みがあるんだが……叶えてもらえるか?」
「……はい」
「一つは、これからローズティアの王冠を継ぐ者たちの、相談相手になってやってくれ。玉座とは孤独なものだ。どうか、ステファン兄上のようにはならないで欲しい。それと……」
 レオハルトは首から下げていた金の鎖を取ると、フィアナに手渡した。
 それは、蒼華石の首飾り。
 もとは、レオハルトの母の形見であり、一時はフィアナのものでもあったそれ。
「――これを、受け取ってくれ。フィアナ。生まれてから、この首飾りは、ずっと私と共にあった。もう一つの魂というべき存在だ……どうか、これをお前に持っていて欲しい。私が死んでも、魂だけはお前のそばに」
 時折、苦しげな息づかいをしながら、レオハルトは絞り出すように言った。
「レオハルト殿下……」
 フィアナの真紅の瞳から、涙があふれ出る。
 ぽろぽろ、とその透明な雫は、止まることがない。
 胸が熱くなって、何も言うことが出来なかった。
「首飾りを、つけさせてくれないか?フィアナ」
「……はい」
 レオハルトが痩せた指先で、金の鎖をフィアナの首に回す。
 薔薇のアザが咲き誇る胸元で、蒼華石が輝いていた。
 曇りのない深い蒼――レオハルトの瞳の色だ。
「ああ……」
 レオハルトは嬉しそうに、微笑む。
「――あの時も思ったけど、よく似合うな。フィアナ。真紅の瞳とは逆の色だが、どちらも美しい」
「ありがとうございます。レオハルト殿下」
「本当によく似合う……」
 満足そうに言うと、レオハルトは疲れたように瞳を閉じて、再び寝台へと横たわった。
「レオハルト殿下?」
「すまない……フィアナ……少し横になっていいか?眠くて……」
「医師をお呼びしましょうか?レオハルト殿下」
 辛そうなレオハルトの様子に、フィアナは寝室の外へ出て、医師を呼びにいこうとした。
「いや、いい……ただ目が覚めるまで、そばにいてくれ。昔のように」
 祈るように、レオハルトはかすれる声で言うと、蒼華石の瞳を閉じる。
 レオハルトが幼い頃、もう数十年も前の話だが、幼い王子がフィアナの部屋で遊び疲れて寝てしまったことがあった。あの時も、フィアナは王子が、レオハルトが目を覚ますまで待ったのだ。
「……フィアナ」
「はい。何ですか?レオハルト殿下」
「――最近、よく夢を見るんだ。金髪の小さな男の子が、真紅の瞳の女の子に、嬉しそうについて歩いている夢を……女の子はちょっと迷惑そうなんだが、最後には足を止めて手を繋いでくれる……幸せな夢だった」
「そうですか……」
 フィアナは目をうるませながら、それでも微笑むと、レオハルトの手を握った。夢の続きのように。
 目を覚ました時に、レオハルトが幸せで、フィアナが幸せでいられるように。
「……幸せな夢でしたね」
「本当に、幸せな夢だったなぁ……お前にも見せたかったよ。フィアナ」
 それが、フィアナが耳にしたレオハルトの最後の言葉になった。
 それから二日後に、ローズティアの国王レオハルトは、三十三歳の若さで死去する。ローズティア王国にかつてない繁栄をもたらした偉大な国王は、こうして病によって、早すぎる死を遂げた。
 ローズティアの民は、名君と讃えられた若き王の死に悲嘆にくれたが、それでも時は歴史は、止まることなく刻まれていく――光の王と呼ばれたレオハルトの跡を継いだのは、レオハルトが王妃との間にもうけた息子――赤髪に若草色を持つ、エリック王子である。

「エリック殿下?どちらにいらっしゃるのですか?」
「ここにいるよ!フィアナ!」

 そうして、魔女と王は再び、新しい物語を紡ぎ出す。王国と王子と王冠と、そして、魔女の物語を。


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