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二章 優しすぎた王子 2−1


 昔、昔、ローズティアという国に、とても優しい王様がいました。
 その優しい王様のそばには、小鳥のような王妃様と賢い弟と……そして、真紅の瞳の美しい魔女がおりました。
 心から彼らを愛していた王様は、とても幸せでした。ずっと、幸せでした……。

 レオハルト国王が世を去ってから、四年もの月日が流れた。
 それでも、ローズティア王国の城には、真紅の瞳の魔女がいる。薔薇のアザを持つ、不老不死の麗しき魔女が。
「フィアナ――っ!どこにいるの?」
 それは、春のうららかな日のこと。
 王城の中庭。
 大樹にもたれかかり、咲き乱れる花の香りに包まれて、フィアナはまどろんでいた。しかし、自分の名を呼ぶ幼い子供の声に、そっと目を開ける。
「フィアナ――?いるなら返事してよぅ」
 魔女の名を呼ぶ声が止むことはない。
 フィアナはもたれかかっていた木から立ち上がると、広い中庭を見回して、幼い声の主を探した。
 王城の中庭は、人を見つけるのに大変なほど広い。赤い薔薇。白いマーガレット。薄紅のデージー。紫の……。王城の庭にはありとあらゆる花々が美しく咲き誇り、春という季節を謳歌しているように、フィアナの目には映った。庭師が手を入れすぎず、自然のままを残した中庭は、先王レオハルトがことのほか愛したという。
 その理由が、フィアナにはわかる気がした。レオハルト殿下は、優しく自然を愛する人であったから。
「フィアナ――!いないのかなぁ?」
 フィアナの名を呼びながら、七歳くらいの小さな男の子が、野兎のように花畑を駆け回っている。
 その様子が可愛らしくて、フィアナは唇をほころばせた。かつて、幼き日のレオハルト殿下も、ああやって花畑を走り回っていたものだ。今はもう、遠い過去のことだが。
 フィアナは木の陰から出ると、花畑を駆け回る幼い少年の名を呼んだ。先王レオハルトの息子――エリックの名を。
「――私はここにいます。エリック殿下」
 エリック殿下。
 その呼びかけに、花畑を駆け回っていた幼い少年――エリックは立ち止まると、きょろきょろとフィアナの姿を探す。
 ようやく、探していた魔女の姿を見つけると、エリックはパッと輝くような満面の笑みを浮かべた。
「あっ!フィアナ!」
 やっと見つけた。
 嬉しそうにそう言うと、エリックは小さな足で一生懸命に走って、フィアナに駆け寄ってくる。
 そんな風に、息を切らせながら駆けてくる幼い少年に、フィアナはちょっと心配そうな顔をした。
「エリック殿下。そんなに走ると危ないですよ」
 フィアナが、そう忠告した矢先のことだった。エリックが、足元の小石につまづいたのは。
「うわっ!」
 前だけを見て走っていたエリックは、足元の小石につまづいて、ドテッと豪快に転んだ。
 とっさに手をついたので、顔から転ぶことはまぬがれたものの、膝小僧は擦りむき血が流れている。
 エリックはしばらく倒れていたものの、よろよろと立ち上がると、うわーん!と大きな声で泣き出した。痛いよ痛いよと、すりむいた膝小僧を押さえながら、その泣き声は止まることがない。
 フィアナは慌てて、泣き叫ぶエリックへと駆け寄った。
「うわああん!痛いよ!フィアナ!」
「あらあら……エリック殿下」
 すりむいて、赤くなった膝小僧。
 泣き叫ぶエリックに、魔女フィアナは眉を寄せて、パチンッと指を鳴らす。
 そうすると、どこからともなく彼女の手のひらの中に、丸い薬入れが現れた。
 そう“魔法”だ。
 フィアナは薬入れを開けると、緑色をした塗り薬を取り出して、少年の小さな膝小僧に塗りつける。
「ひっく……ひっく……フィアナぁ」
 なおも泣きやまないエリックの頭を、フィアナは姉のような仕草で撫でながら、優しい声で言い聞かせた。
「少し染みるでしょうけど、我慢なさってくださいね。エリック殿下。これは、魔女に伝わる塗り薬で、よく効きます……さぁ、泣きやんでください。もう痛くないでしょう?王子が泣き続けるものでは、ありませんよ」
 フィアナの言葉に、泣き続けていたエリックはひっくと涙を止めると、舌っ足らずな声で尋ねた。
「ひっく…………王子は泣いてばっかりじゃ、いけないの?フィアナ」
「ええ、そうですよ。エリック殿下……」
 フィアナは膝をつくと、幼いエリックの赤髪を撫でながら、うなづいた。
 エリックの若草色の澄んだ瞳は、真っ直ぐにフィアナへと向けられている。
「――エリック殿下。立派な王様は、自分のためには泣きません。困っている人の隣に立って、涙をぬぐってあげるのが、良い王様です……エリック殿下の父上は、レオハルト陛下は、そういうお方でしたよ」
 レオハルトの息子――エリックに、フィアナはそう言い聞かせた。かつて、レオハルトにそうしたように。
「うー。困っている人の涙をぬぐってあげるのが、良い王様なの?フィアナ」
 エリックはうーと唸って、難しいと呟く。
「ええ、そうですよ。人の上に立つ者は、誰よりも優しくなければなりませんよ。エリック殿下……貴方は、ローズティアの王冠を継ぐべきお方なのですから」
 先王レオハルトの息子であるエリックは、未来の国王というフィアナの言葉に、ちょっと不安そうな顔をした。
「……優しい王様?僕がなれるかなぁ?フィアナ」
「ええ。エリック殿下は、心の優しい方ですから、頑張ればきっとなれますよ。優しい王様に」
「うん……」
 フィアナの励ましに、不安そうな顔をしていたエリックも微笑んだ。
「――頑張るよ。フィアナ。僕は優しい王様になる。誰よりも誰よりも」
 幼いながらも、真剣な顔でエリックは言う。
 その純粋な眼差しは、どこか彼の父・レオハルトに似ていた。
 そんな幼い王子の決意に、フィアナは唇をほころばせる。それで良いのだという風に。
「――ええ。エリック殿下なら、きっと優しい王様になれます」
 それは、優しい約束。
 幼い王子と王国の魔女が交わした小さな約束。
 それでも、それは何よりも望むべき未来なのだ。

 今から四年前に、ローズティア王国の国王レオハルトは、病で世を去った。
 賢王と讃えられたレオハルトの死は、ローズティア王国にとって大きな痛手であった。同時に、王国の魔女フィアナ=ローズにとっても、かけがいのない人を失ったのだ。
 レオハルトを失ってから、フィアナの心には、ぽっかりと空洞が出来たような気がした。妻ではない。恋人でもない。友人と呼ぶことさえ、身分の差を考えれば、許されることではない。それでも、レオハルト殿下は、フィアナにとって大事な人であった。誰よりも。
 黄金の髪に、海よりも蒼い瞳をした王子。
 レオハルトはフィアナに、どんな宝石よりも大切な言葉をくれた。
 ――ずっと、そばにいるよ。フィアナを一人にはしない。
 それは、決して叶わない願いだった。誰よりも誰よりも、フィアナ自身がそのことを知っていた。
 魔女は時の流れから見捨てられた存在。人のように年を取らず、老いて死ぬこともなく……愛しい人と、共に生きることも叶わない。魔女がその呪いから解放されるのは、王国が魔女を必要しなくなり、その身が砂となって消え去る時なのだから。
 その宿命を、フィアナは誰よりも理解していた。それでも、レオハルトの言葉は、フィアナの救いであった。
 暗闇の中の唯一の光。
 輝かしすぎて、魔女である自分が手を伸ばすことなど叶わない。太陽のようなものだ。
 それを知りつつも、その光はフィアナにとって、何よりも愛しい……。
 国王レオハルトが世を去ってから、フィアナはその唯一の光を失ったのだと悟った。
 ――ずっと、そばにいるよ。
 フィアナにそう言ってくれた王子は、黄金の髪に蒼い瞳をした若者は、もう何処にもいない。王国の魔女フィアナ=ローズではなく、フィアナ自身を見てくれる人は、もう何処にもいないのだと。
 レオハルト殿下は、黄泉の国へと旅だってしまった。フィアナに二つの願いと……そして、彼の瞳と同じ色の、蒼華石の首飾りだけを遺して。
 ――ローズティア王国の行く末を、見守ってやってくれ。
 ――王冠を継ぐ者が孤独でないように、支えであってくれ。
 レオハルト殿下と交わした最後の約束。
 それを叶えることこそが、フィアナの生きるための光であった。決して孤独ではないのだ。この光がある限り……。
「――昔、昔、このローズティア王国には優しい王様がおりました……」
 王城の中庭。
 涼しい風の吹く東屋で、フィアナはエリック殿下を膝にのせて、絵本を読み聞かせていた。
 優しい王様と美しい王妃様の。
 めでたし、めでたしで終わる夢のようなおとぎ話。
「――そうして、優しい王様と美しい王妃様は、ずっとずっと幸せに暮らしました……」
 先王レオハルトが崩御してから、ローズティアの王宮は混乱した。
 賢王と讃えられた若き王の早すぎる死に、宰相や重臣たちは慌てながらも、次なる王を選ばなければならなかった。だが、レオハルト国王が死去した時、彼の遺した二人の息子は余りにも幼すぎた。上の息子であるエリックでも、三歳。下の息子セリウスにいたっては、一歳の誕生日を迎えたばかりだったのだから。
 いくら宰相や重臣たちが支えるにしても、ローズティアの王位を継ぐには、レオハルトの息子たちは余りにも幼かった。
 それゆえに、レオハルトの妻であり二人の息子の母であるエリーゼが、息子たちがしかるべき年齢になるまでという条件で、仮の王位に就いた。それが、四年前のこと。
 仮の玉座についたエリーゼ女王は、芸術や音楽には優れた才を示したが、王妃時代から政治には興味のない女性だった。
 それゆえに、今のローズティア王国の政治を動かしているのは王ではなく、宰相や大臣たちである。
 しかし、それも長く続くことはないはずだ。
 レオハルトの息子エリックが、父のような優れた国王になれば、このローズティアは在るべき姿を取り戻すだろう。
「――そうして、優しい王様と美しい王妃様は平和な王国で、末永く幸せに暮らしました。めでたし、めでたし……これで物語はおしまいですわ。エリック殿下」
 ――そうして、王様と王妃様はずっと幸せに暮らしました。めでたし、めでたし……。
 おとぎ話の決まり文句と共に、フィアナはエリックに読み聞かせていた絵本を、パタンッと閉じた。
 終わってしまった物語に、エリックは名残り惜しげに、絵本の表紙を見つめていたが、やがて思いついたように顔をあげる。
「ねぇねぇ、フィアナ」
「何ですか?エリック殿下」
 ねぇねぇと自分の袖を引っ張ってくるエリックに、フィアナは愛おしげな目を向けた。
 綺麗な赤髪に、柔らかな若草色の瞳を持つ、第一王子エリック。
 心優しく純粋で、少し泣き虫な少年。
 いずれローズティア王国の王冠を受け継ぐ王子。
 その容姿も性格も、父であるレオハルトとは余り似ていないが、フィアナはこの優しい王子のことを心から守りたいと思っていた。
 レオハルト殿下の息子だからというのはもちろんだが、そうでなくても人から愛される優しい気質が、エリックにはあった。
「――ねぇ、フィアナ。この物語に魔女は出てこないの?」
 エリックは若草色の瞳で、真っ直ぐに魔女の真紅の瞳を見つめながら、そう尋ねた。
「魔女?魔女ですか?」
 エリックの質問に、フィアナは首を傾げた。
 読み聞かせていた絵本に、魔女は出てこない。それなのに、なぜ?
「うん。だって、優しい王様も美しい王妃様も、みんな幸せになったんでしょう?だけど、魔女は出てこなかったよ。そうしたら……」
「そうしたら?」
「――そうしたら、魔女はどうやって幸せになるの?」
 エリックの無邪気な質問に、王国の魔女フィアナは一瞬、何も答えることが出来なかった。
 幸せ?
 魔女が幸せになる方法など、この世界にあるのだろうか?
「それは……」
 フィアナが何か答えようとした瞬間、遠くの方からエリックの名を呼ぶ声がした。
「エリック兄上っ!」
 エリック兄上。
 そう呼びかけながら、侍女に連れられてフィアナたちの前にやってきたのは、エリックよりも少し幼い男の子だった。
 セリウス殿下。
 エリックの二つ違いの弟だ。
「セリウス!お前もこっちにおいで。一緒にフィアナに絵本を読んでもらおう」
 幼いながらも、兄として弟を可愛がっているエリックは、嬉しそうに弟・セリウスに声をかけた。
「嫌だ」
 しかし、セリウスは険しい顔で、首を横に振る。
「どうして?セリウス」
 エリックが不思議そうに問う。
 エリックとセリウスは、同じ母を持つ兄弟ながら、あまり似ていない。
 赤みがかった金髪に、エメラルドのような深緑の瞳を持つ第二王子――セリウス。
 幼いながらも整った顔立ちは、父であるレオハルトによく似ていたが、その深緑の瞳には父や兄と異なり、どこか人に冷たい印象を与えた。
 王となるには優しすぎると言われる兄に比べて、聡明と臣下から評判の良い王子ではあるのだが。
 セリウスは不機嫌そうに眉を寄せると、深緑の瞳でフィアナをきつく睨みつけた。
 そして、幼い顔に似合わぬ冷たい声を、魔女にぶつける。
「嫌だよ。僕は魔女は嫌いだ……母上もそう言ってたよ。エリック兄上」
 そんなセリウス――弟の言葉に、エリックが顔色を変えて叫ぶ。
「セリウスっ!そんなこと言っちゃいけないよっ!」
 エリックに叱られても、セリウスはぎゅっと唇を噛みしめ、首を横に振る。
「だって、母上がそう言っていたよ。魔女が嫌いだって……魔女なんかいるから、父上が母上のことを見てくれなかったって、怒ってた……だから、僕も魔女が嫌い」
「セリウスっ!それ以上、言うんじゃない!」
「エリック兄上も魔女と仲良くしてると、母上に怒られるよ」
「セリウスっ!」
 温厚なエリックが珍しく声を荒げると、セリウスはぷぃと不機嫌そうに顔を背け、フィアナたちの前から歩き去った。
「……ごめん。フィアナ。セリウスも、悪気はなかったと思うんだけど……」
 エリックは悲しそうな顔をして、フィアナに謝った。フィアナはいいえ、と緩やかに首を横に振る。
「いいえ。セリウス殿下が、おっしゃる通りです……レオハルト陛下が亡くなってからも、私が身分もわきまえず、図々しく王城に居座っているのですから。女王陛下が、エリーゼ様がご不快に思われるのも、もっともなこと……心より、申し訳なく思っております」
 レオハルトの妻であり、エリックとセリウスの母であるエリーゼが、自分のことを疎ましく思っていることは、フィアナはずっと前から知っていた。
 それも当然のことだ。
 ローズティア王国を守護する、王国の魔女という身分でありながら、フィアナは何年も王の前から姿を消して、レオハルトの死の間際にいきなり戻ってきたのだから。
 王城の人々から、憎まれても疎まれても仕方ないと覚悟していた。
「そんなことないよ!フィアナ」
 どこか諦めたようなフィアナの言葉を、エリックは否定する。
「僕はフィアナが居てくれて、一緒に過ごしてくれるのが、すごく楽しいよ!母上やセリウスと同じように、フィアナのことも好きなんだ!だから、王城から出ていったりしないで!」
「エリック殿下……」
「セリウスだって、いつか必ずわかってくれるよ。僕よりもずっと頭の良い子だから!」
 だから出ていかないで、と。
 祈るように言いながら、エリックはフィアナに抱きついた。
 大好きな姉のような魔女と、これからもずっと一緒に居たかった。絵本を読んでもらったり、勉強を教わったり、花を摘んだり……。これからも、ずっと一緒に。
「ええ。すぐに王城から出て行くつもりはありませんから、安心してください。エリック殿下。私は王国の魔女ですし、それに……」
 幼い王子の赤髪を優しく撫でながら、フィアナは出ていくことはないと約束する。
 そう、王国の魔女が王城を去ることはない。
 ――ローズティア王国の行く末を、見守ってやってくれ。
 ――王冠を継ぐ者が孤独でないように、支えであってくれ。
 レオハルト殿下と交わした二つの誓い。
 その約束が終わりを迎えるその日まで、フィアナはローズティア王国の魔女で在り続ける。そう、魔女が必要とされない時代になり、フィアナの身が砂となって消える時か、ローズティア王国の歴史に終焉が訪れる日まで。
 だから、フィアナは薔薇のように微笑む。それだけが、魔女の誇りであるかのように。
「――魔女に出来るのは、見守ることだけですから」
 歴史を紡いでいくのは、人のみに許されたこと。魔女に出来るのは、それを見守ることだけ。
 そう言って、フィアナは目を閉じて、祈るように胸元の蒼華石を握りしめた。彼の人を想うように。
「……フィアナ?」
 エリックは不思議そうな顔で、そんなフィアナを見つめた。
 蒼い。蒼い。どこまでも深い蒼をした蒼華石の首飾り。魔女の胸元で、きらきらと陽光に輝くそれに、エリックは目を奪われる。
 その蒼華石の贈り主を、彼はまだ知らない。


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