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二章 優しすぎた王子 2−2


 幼い頃は、誇りであった父上のことを重荷に感じるようになったのは、いつのことだろうか?今はもう思い出せない。

 エリックの父――レオハルトは、非の打ち所のない国王だった。
 このローズティア王国で暮らす民で、そのことを疑うものは誰もいないだろう。
 優れた政治能力はもちろんのこと、その深い知識は学者すら及ばぬほどであり、軍事においても他国の侵略を許さなかった。その性格においても、聡明で決断力があり、弱い立場の民に対しても配慮を忘れない慈悲深い王であったという。
 まさに完璧な王であった。
 エリックが三歳の時に、病で早すぎる死を遂げた父王レオハルト。
 当然のことながら、たった三歳の幼子だったエリックの生前の父の記憶は曖昧だが、それでも成人してから父が残した文書や大臣たちの話を聞けば、レオハルトがいかに優れた国王だったかわかる。
 黄金の髪に、深い蒼の瞳をしていたという国王レオハルト。
 おそらくはローズティア王国の短くない歴史の中でも、最も優れた国王であっただろうと、息子であるエリックも思う。
 幼い王子を二人のこして、早すぎる死を遂げたということ以外で、父王を非難することは出来ないだろう。
 そう、国王としての父上は生涯に渡り完璧だった。
 そんな父上の王として唯一の失敗は、優れた跡継ぎを残さなかったことだけだろう――エリックはそう思っていた。自分のような無能な世継ぎを。
「――ふぅ」
 ローズティア王国の城の書庫で、書物のページをめくっていたローズティアの若き国王エリックは、ふぅと疲れたような息を吐いた。
 尊敬する父であり、ローズティアの光と称された国王レオハルトの死から、十七年もの月日が流れた。
 決して短くない年月の中で、父王レオハルトが没した時にはまだ三歳の幼子だった第一王子エリックは、二十歳の青年へと成長し、すでにローズティア王国の王位を継いでいる。
 エリックは青年と言える若さでありながら、ローズティア王国の繁栄と衰退に対して、大きな責任と使命を持つ身であった。
 そして、その良き国王にならねばならぬという義務こそが、エリックのため息の理由である。
「――私は父上のような王にはなれない」
 エリックは生前の父――国王レオハルトについての記録を読みながら、己の無力を感じて、深い深いため息をつく。
 黄金の髪に蒼い瞳の国王レオハルト。
 ローズティア王国の光と民から慕われた賢王。
 若き国王エリックにとっては、偉大すぎる父。
 そんな偉大な父王と我が身を比べた時に、エリックの胸によぎるのは子が父に対して抱く憧れと……そして、同じ王としての絶望だった。
 同じローズティア王国の王でありながら、自分は決して父のように、偉大な国王にはなれないだろう。あの賢王レオハルトの息子であるのに。
 自分のように、王に向かぬ息子を世継ぎの王子としたことだけが、父王の唯一の失敗であろう。
 父上のように勇敢でも賢くもなく、気弱で政治にも戦にも才を持たぬ自分。
 偉大すぎる父と自分を比較することが、どんなに愚かしいことか知ってはいても、エリックはいつも言いようのない虚しさを覚える。
 自分には何もないのだ。
 父王レオハルトのような政治の才も人望も、軍を率いる勇敢さも決断力も、何一つとして持っていない。それはエリックにとって、身を切られるより辛いことであったが、目を逸らすことは許されない真実なのだ。
 優しい王子。
 幼い頃から、臣下からも国民からも、エリックはそう呼ばれ続けてきた。誰に対しても優しく、思いやりのある王子だと。
 物心つかぬ頃から、ローズティアの国王として即位するまでずっと、エリックは優しい王子と呼ばれてきた……でも、違うのだ。
 臣下たちに厳しい態度を取ったり、理不尽な命令をしない優しい国王と、皆からそう呼ばれてもエリック自身はそう思わなかった。自分は優しいのではなく、ただ弱いだけなのだと知っていたから。
 エリックは、ただ怖かったのだ。
 父王レオハルトのように、完璧な国王と呼ばれる才が自分にないことは、幼い頃からわかっていた。
 そして、二つ下の優秀な弟――セリウスのように、知恵をもって臣下を率いることも出来ない。
 だから、せめて優しい国王であろうとしたのだ。何も持たぬエリックだからこそ、せめて国民に対して、優しい国王でありたかった。
 そうでなければ、自分が国王である理由が、何もない気がしたから。
 優しさと弱さが、紙一重であることは知ってはいたけど、だからこそ――
「――エリック兄上」
 物思いに沈んでいたエリックを、現実へと呼び戻したのは、書庫に入ってきた青年の声だった。
 エリックは書物から顔を上げると、声の主を確認して、ホッとしたように微笑む。
「……ああ、セリウスか。何か用かい?」
 セリウス――エリックの二つ年下の弟は、兄王の言葉に端正な顔を歪めて、不快そうに眉を寄せた。
 赤みがかった金髪に、深緑の瞳をもつ美しい若者。
 父王レオハルトの死から、十七年もの歳月が流れた今では、幼かった弟王子セリウスも十八才の青年へと成長していた。
 今では、国王エリックのたった一人の弟として、王弟殿下と言われる身である。温厚な性格の兄と比べると、セリウスは明晰な頭脳と苛烈な性格。そして、母譲りの美貌で知られていた。
 兄――エリックの呼びかけに、セリウスは形の良い眉を寄せると、身内に向けるのはいささか冷ややかな声で答える。
「それは、こちらの台詞ですよ。エリック兄上。貴方が書庫にいらっしゃるとは、珍しい……今は忙しい時期でしょうに、こんなところに居らして、よろしいのですか?」
 言葉の端々にトゲを交えながら、セリウスは国王たる兄を非難する。
 国王という身分にありながら、ずいぶんと暇なことだ。
 セリウスは口には決して出さないが、エリックを睨みつけてくる深緑の瞳が、言葉よりも遙かに雄弁にそう語っていた。
 ローズティア王国の王にして、王冠を継いだ者でありながら、その能力のない兄を責めるように。
 ――王に相応しいのは自分の方だ。
 エリックの若草色の瞳よりも、苛烈な光を宿したセリウスの深緑の瞳は、いつだってそう言っていた。
 優しいだけが取り柄の兄よりも、自分の方がずっと、このローズティアの国王に相応しいのだと。
 いつの頃からだろうか、第一王子である兄エリックに対して、セリウスはそういった態度を隠さなくなったのは。
 元から、エリックとセリウスは決して仲の良い兄弟とは言えなかった。王妃を、同じ母を持つたった二人の兄弟とはいえ、彼らの性格は余りにも違いすぎたから。
 温厚で平凡な兄と、切れ者で苛烈な性格の弟。
 性格も考え方も、何もかもが正反対なのだ。気が合うはずがない。幼い頃から、彼らが同じ方向を向くことは、決してなかった。
 兄であるエリックが、王国の魔女フィアナ=ローズを姉のように慕って、弟であるセリウスが魔女を疎んだように。彼ら兄弟の道が、交わることはなかった。
 優しい国王であろうとする兄と、強い国王を求める弟がぶつかるのは、自然の摂理だったのかもしれない。
 ただ、それでもエリックは弟を、セリウスを憎むことなど出来なかった。
 兄弟愛などという麗しい感情だけが、理由ではない。
 争いを嫌うエリックにとっては、同じ血を分けた兄弟を憎むことなど論外だが、それだけでなくセリウスの言葉は正しいのだと、心のどこかで認めていた。
 ――私は王に相応しくない。ただ優しいだけでは、良き王にはなれない。
 弟であるセリウスに指摘されるまでもなく、エリックだってとっくの昔に気づいていたのだ。
 自分が王に向かぬ性格で、父・レオハルトのような賢王になれぬことくらい。優しいだけの男に、国王たる資格がないことなど、わかっていたのだ。
「セリウス……」
 ただ優しいだけで、他には何の取り柄もない兄王を見下したような態度を取る――王弟セリウス。
 それは、身分の差を立場を考えるならば、決して許されることではない。
 このローズティア王国において、王の地位は絶対のものだ。
 いくら同じ血を分けた兄弟といえども、国王であるエリックの怒りをかえば、王弟セリウスといえども無事にはすまないはずだった。処罰を与えることも、王の立場を考えれば、容易いことである。
 だが、エリックはそうしなかった。
 セリウスの気持ちも、その主張の正しさも、よくわかっていたから。
 ――エリック兄上。貴方は王には相応しくない。あの偉大な父王の王冠を継ぐには、余りにも平凡すぎる。
 セリウスはただの一度たりとも、そう口にしなかった。
 ただ、いつだって美しい深緑の瞳で、優しいだけの無能な国王よ、と臣下から侮られる兄を、愚か者を見るように睨んでいた。
 蔑んでいたと言ってもいい。
 それを知りながらも、エリックは弟に向かって、微笑んだ。そうすることしか、彼には出来なかったから。
「――心配をかけてすまなかったね。セリウス……少し調べたいことが、あったものだから。今が大事な時期だということは、僕もよくわかっているさ」
 虚しさを顔に出さぬようにしながら、エリックはうなずいた。
 いっそ、兄と弟が逆であれば良かったのにと、彼は思う。
 もし、セリウスが兄で国王の地位を継いで、自分が王弟であったならと。
 あの偉大な父王の血を引きながら、優しいだけの無能な王よ、と臣下から侮られる自分よりも、聡明で知られる弟が王冠を継いだ方が、このローズティア王国のためであったのではないか。セリウスも、王位を望んでいたのに。
 考えても、仕方のないことと知りつつ、エリックはその考えを消せなかった。
 もし、兄と弟が逆であったなら、セリウスが王位を継いでいたなら、愛しい弟が自分を憎むこともなかっただろう。
「それはそうと、エリック兄上……」
「なんだい?セリウス」
 そんなエリックの夢想を打ち砕くように、セリウスは相変わらず、冷たい声で兄に話しかける。
 その深緑の瞳に、血を分けた兄弟に向ける、親愛の情はない。
「――オルフェリアから、姫君が嫁がれる日付が決まったそうですね。兄上の花嫁が、もうすぐローズティアにいらっしゃるとか」
 そんなセリウスの言葉に、エリックは一瞬だまりこみ、ぎこちない仕草でうなずいた。
 エリックは近いうちに、隣国オルフェリアの姫君を、妻として迎える。
 それは、彼にとって、決して触れられたい事柄ではなかったから。
「ああ。三月後にね……オルフェリアの先王の喪があけてから、姫君がこの国に嫁いでこられて、婚姻を結ぶことになるだろう」
 三月後。
 春の花が花開く頃には、エリックは隣国オルフェリアの姫君と、結婚することが決まっている。
 王族同士の結婚だ。当然ながら、愛などはない。
 それは、このローズティア王国と隣国オルフェリアの利益のための、政略結婚。
 ローズティア王国の利益のために、エリックは会ったことも、言葉を交わしたこともない姫君を妻とするのだ。
 ユリアーナ――オルフェリアの姫君。
 妻となる彼女について、エリックが知っているのは、名前と画家が描いた肖像画と……そして、小鳥のように可憐な歌声の持ち主だという、人の噂だけ。それ以外のことは、何も知らない。
 どんな声をしているのか。
 どんな顔で笑うのか。
 何が好きで、何が嫌いなのか、そんな些細なことさえエリックは何一つ知らない。
 もっとも、それは相手のオルフェリアの姫君――ユリアーナ姫とて、同じこと。
 彼女も、エリックのことを何も知らずに、たった一人で異国へと嫁ぐのだ。それを、哀れと言わず何と言おう。
 だが、それが王族というものだ。
 王族として生まれ、国のために生きることを定められた者が、心のままに生きることなど出来はしない。
 国王となった者が、王冠の継承者が、真に愛する者と添い遂げることなど許されない。そう、父上のように――
「浮かない顔ですね。エリック兄上。もうすぐ花嫁を迎えるというのに」
 セリウスにそう指摘されて、エリックは苦笑しつつ、首を横に振った。
 自ら望んだわけでもない。愛のない政略結婚。
 嬉しいとは言えないが、それを表に出さない分別が、エリックにはあった。
「そんなことはないよ。早く春になって、オルフェリアの姫君を迎えるのを、楽しみにしているさ……それに、この結婚はローズティア王国のためになるだろう?セリウス」
「ええ。隣国オルフェリアとの同盟は、ローズティアにとって、大きな利益になりますから。エリック兄上にも、そのぐらいのことは、おわかりでしょう?」
 そう語るセリウスの、蔑むような視線やトゲのある言葉には、エリックは気づかない振りをした。
 わかっている、と彼は首を縦に振る。
「ああ。わかっている。わかっているよ。セリウス……この婚姻が、ローズティア王国のためになるならば、僕は嬉しいよ。王は民の幸せのために、存在するのだから」
 そう、全ては民のために。
 優しい国王であるために。
 このローズティア王国のためであれ。
 ――泣いている人がいたら、そばにいって涙をぬぐってあげるのが、良い王様です。
 かつて、真紅の瞳の魔女は、エリックにそう教えてくれたのだから。
「――はっ」
 そんなエリックの言葉を、セリウスは鼻で笑った。耐えきれないという風に。
「……セリウス?」
「相変わらず嘘つきですね。エリック兄上」
「……嘘つき?」
「ええ……」
 弟に唐突に鋭い言葉をぶつけられて、エリックは戸惑ったように、顔を歪める。
 そんなエリックを嘲笑うように、セリウスはさらに、残酷な言葉を吐いた。
「――本当は、オルフェリアの姫君と、ユリアーナ姫と結婚なんかしたくないのに嘘つきですよね。本当に。エリック兄上……私は知っていますよ。兄上が本当は、誰を見ていたか。誰を愛しく思っているか。誰を……」
「……っ!セリウスっ!何を言うつもりだっ!」
 責めるようなセリウスの言葉に、エリックは顔を青ざめさせる。
 その先の言葉は、聞きたくなかった。特に、実の弟の口からは。
「――あの真紅の瞳の魔女でしょう?エリック兄上。兄上は昔から、あの王国の魔女しか、フィアナしか見ていなかったから……」
 くくっ、とセリウスは唇を震わせる。兄の愚かさを、嘲笑うために。
「頼む。それ以上は、聞きたくないよ。セリウス」
 呻くように、セリウスは懇願した。
 どうか、どうか、その先は言わないでくれ……。
「エリック兄上」
「……」
「――貴方は、父上と同じだ。あの魔女に囚われている。その心を」
 エリックが決して聞きたくなかった言葉を告げると、気はすんだとばかりに、セリウスは書庫を出ていった。バタンッ、と乱暴な音をさせて、書庫の扉が閉められる。
 刃のような言葉に、顔を蒼白にしたエリックは、そんな弟の背を追いかける気力もなかった。
「――セリウスっ!」
 その呼びかけが、届くことはない。いつかと同じように。
 彼らの父レオハルトと異母兄ステファンのように、エリックとセリウス。彼らの心はすれ違う。それぞれの傷を、心の奥底に抱えたままで。
「……っ!セリウス……フィアナ……」
 若き国王エリックの嘆きも、誰の耳にも届くことはない。そう、真紅の瞳をした王国の魔女――フィアナ=ローズにも。
 そうして、フィアナの知らぬ場所で、再び悲劇の幕が上がろうとしていた。

 ――昔、昔、ローズティアという国に、とても優しい王様がおりました。
 ――その優しい王様には賢い弟がいて、一緒に国を治めておりました。
 ――優しい王様は幸せでした。ずっと、幸せでした……。


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