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二章 優しすぎた王子 2−3


 そして、ローズティア王国に再び春の季節が訪れる。レオハルト殿下が愛した春が。
「フィアナ……フィアナ……」
 城の中庭の花畑。
 柔らかな春の木漏れ日と、優しい花の香りに包まれながら、フィアナは心地よい眠りに身を任せていた。
 彼女がもたれかかった木の上では、小鳥たちが長い冬を越えて、春を迎えたことを祝福するかのように、ピチュンピチュンと愛らしくさえずっている。地上の花畑では、色あざやかな春の花々が、待ちかねたように蕾をほころばせて、美しい羽の蝶たちが蜜を求めて花畑を飛び回る。
 生命の芽吹く春。
 色あざやかで、美しい季節。
 かつて、黄金の髪に蒼い瞳の王子が愛して、魔女と共に在りたいと願った季節だ。
 ゆるやかに波打つ金の髪を、暖かな春の風に遊ばせて、フィアナは幸福な夢の世界にいた。
 かつて、幼いエリック殿下と共に過ごした日と同じように――あの春の日から、十年以上の歳月が流れたが、時の流れから外れた魔女は、何も変わることがない。あの日と同じ、少女の姿のままで。
「フィアナ……フィアナ……」
 誰かが自分の名を呼んでいる。
 優しく肩を揺する大きな手と、自分の名を呼ぶ穏やかな声に、フィアナはゆっくりと目を覚ました。
 ゆるゆるとまぶたを上げると、その真紅の瞳に眼前に立つ人の姿を映して、まだ夢うつつのような表情で首をかしげる。
「……エリック陛下?」
 そんなフィアナの呼びかけに、赤髪の青年は――ローズティアの若き国王は、穏やかな表情で微笑んだ。
「おはよう。フィアナ」
 穏やかな声と、優しい春の木漏れ日のような微笑み。
 柔らかい表情を見せるエリックに、フィアナは少し眩しげな顔をして、真紅の瞳を細める。
 いつの間に、こんなに大人びた表情を見せるようになったのだろうか?
 エリック陛下がまだ王子だった頃、この花畑で駆け回っていた時から、まだ十数年しか過ぎていないというのに。
 だが、悠久の時を生きる魔女にとっては、瞬きするような十数年の短い歳月は、人の子が成長するには十分すぎる時間なのだろう。レオハルト殿下が、そうであったように。
「おはようございます。エリック陛下」
 フィアナは立ち上がると、ローズティアの若き国王と向き合った。
 長身の青年を見上げるように、フィアナは顔を上向ける。
 赤髪に若草色の瞳の優しげな容姿の青年が王になってから、すでに二年の歳月が流れようとしている。
 かつて、花畑で転んでワンワンと泣いていた幼い王子の姿が、王国の魔女フィアナにはつい昨日のことのようにさえ思えるのに、エリックの背丈は数年も前に彼女を追い越した。いまや、フィアナは背伸びをしなければ、エリックと視線を合わせることが叶わない。
 かつて、フィアナが膝にのせて、絵本を読み聞かせていた幼い王子。まるで、姉と弟のように。
 十数年の時が流れた今、彼らの見た目は逆転していた。
 波打つ金の髪に、真紅の瞳――それに、胸元に薔薇のアザをもつ娘。
 年を取らぬ不老不死の魔女。
 時の流れから取り残されて、数十年も少女の姿のまま生きるフィアナと、青年へと成長したエリックを見比べて、フィアナの方が年上だとわかる人間は一人もいないだろう。悠久の時を生きる魔女と、短い生を生きる人間の関係は、そういうものだ。
 魔女は時の流れから拒まれた呪われた存在。
 人として生きることも、人と共に生きることも叶わない。
 その呪いから解放されるのは、魔女が人から必要とされなくなり、その身が砂となって消え去る時なのだから――
「起こしてしまって、すまなかったね。フィアナ……少し、話をしたかったものだから」
 すまないと謝るエリックに、フィアナはゆるやかに首を横に振った。
「いいえ……何か御用でしょうか?エリック陛下」
「いや、用事というわけではないけど、ただ懐かしくなってね……覚えている?フィアナ」
「何をです?」
 首をかしげたフィアナに、エリックは微笑んだ。過去を懐かしむように。
「――昔、ここの花畑で転んで、フィアナに薬をもらったよね?あの頃は、いつも一緒に遊んでもらっていた気がするな。絵本を読んでもらったり、花を編んで冠を作ったりしたっけ。楽しかったな……あの時のことを、フィアナは覚えてる?」
 楽しい日々だったと。
 幸福だった子供時代を懐かしむように、エリックは語る。今にして思えば、エリックの子供時代は本当に幸せなものだった。
 王位を継いでからのように、偉大すぎる父の影に絶望することも、弟・セリウスとの確執に悩むこともなかった。自分の子供時代は、本当に恵まれたものであったのだと、王位を継いだ今になって、エリックは思う。
 父・レオハルトを早く亡くしてはいたが、ローズティアの第一王子――王冠を継ぐ者として、エリックは何不自由なく育てられた。
 彼のそばには、芸術を愛する母と賢く大事な弟と……そして、真紅の瞳の優しい魔女がいた。幸せだった。ただ幸せだった。
『フィアナ――?どこにいるの――?』
 幼い頃、エリックは本当の姉のように、フィアナのことを慕っていた。
 王城の中庭で、春の花が咲き誇る花畑を駆け抜けながら、真紅の瞳の魔女を探す。
『フィアナ――?返事をしてよ』
 そうして、遊び相手の魔女を探す時間すら、幼い王子には楽しいものだった。
 暖かな春風と、かぐわしい花の香りを感じながら、中庭を野兎の子ように駆け回る。
 そして、遠くに立ち上がる魔女の姿を見つけて、エリックは唇をほころばせる。
『――フィアナっ!』
 波打つ金の髪をやわらかな春風になびかせて、真紅の瞳の魔女は優しく微笑みながら、エリックに手を振ってくれる。
 それが嬉しくて、幼い王子は太陽のような笑顔で、真紅の瞳の魔女へと抱きついた。
『フィアナっ!』
 抱きつくと、ふわりっと花の香りがした。
 エリックの行動に、フィアナはちょっと驚いた顔をしつつも、その白い手で彼の頭を撫でてくれる。少し、ぎこちない仕草で。
 その白く柔らかい手が、何より愛おしかった。
 エリックは幼い頃からずっと、王国の魔女のことが、フィアナのことが好きだった。ローズティアの王妃――後に女王になった母が、フィアナを嫌っていることはエリックも知っていた。その母の意に従う弟・セリウスも。
 ――あの魔女が居たから、レオハルト陛下が、私を見てくださらなかったのだ。あの真紅の瞳の魔女さえ、居なければと。
 父が亡き後も、恨めしげに言う母の姿を見てはいても、幼いエリックがその言葉の意味を真に理解することはなかった。いや、考えようとすらしなかった。
 彼は何も知らなかったのだ。
 父・レオハルトが魔女フィアナを愛していたことも、政略結婚で嫁いできた母を、父は王妃として大事にしても、決して愛しはしなかったことも。
 何も知らなかった。父王の届かぬ想いも、王妃の母の嘆きも、魔女の重い宿命も何一つとして。
『エリック殿下』
 ただ、彼の名を呼ぶ魔女の声が、何よりも愛おしかった。
 波打つ金の髪も真紅の瞳も、絵本を読み聞かせてくれる声も、花を摘む白い指も。その全てが、何よりも誰よりも、彼には愛おしい。
 その想いが、亡き父や母や弟に向ける愛情と、別のものだと気づいたのはいつのことだろう。そして、父が魔女を愛していたのだと、自分と同じ想いを抱えていたのだと、エリックが気づいたのは。
 ――あの春の日を覚えている?フィアナ。
 あの春の日から月日が流れて、ローズティアの国王となったエリックの問いかけに、フィアナは「ええ」とうなずいた。
「……ええ。もちろん覚えていますわ。エリック陛下」
 うなづく真紅の瞳の魔女に、エリックはふっと微笑んで、言葉を続ける。
「そう……それなら、一つ尋ねたいことがあるんだけど、聞いても良いかい?フィアナ」
「はい。何なりと」
「もし……」
 ――もし、私が父上のレオハルトの息子でなかったら、それでも貴女はそばに居てくれましたか?
「エリック陛下―?どちらにいらっしゃるのですか?」
 エリックが、魔女にそう尋ねようとした瞬間だった。国王の名を呼ぶ声がしたのは。
「エリック陛下―?」
 それは年若い娘のもの。
 まるで、さえずる小鳥のような愛らしい声に、エリックは声の主を悟った。
「……ユリアーナ姫?」
 それは、隣国オルフェリアから嫁いできたばかりの、エリックの王妃の名だ。
 城の中庭で王の名を呼ぶユリアーナ姫は、どうやら夫であるエリックを探しているらしい。
 自分の名を呼ぶ妃の声に、エリックは迷うように声の方角と、眼前に立つフィアナを見比べた。
「ユリアーナ姫が、陛下を呼んでいらっしゃいますよ。エリック陛下。私の方は、急ぎの用でないのでしたら……」
「……そうだね。すまない。フィアナ」
 フィアナに促されて、エリックは魔女に背を向けると、声の方角へと歩み寄る。
 ユリアーナ姫がいるはずの場所からは、いつの間にやら、軽やかな歌声が響いてきた。さえずる小鳥のような愛らしく、美しい歌声が。
「小鳥よ、小鳥。歌っておくれ。
 私の声を届けておくれ。
 春の風を翼にのせて、あの人まで届けておくれ。
 あの人がさびしくないように――」
 その美しい歌声に引き寄せられるように、エリックは声の場所へと近づいた。
 そして、白薔薇の花壇のそばで歌う一人の少女を見つけて、まだ馴染まないその名を控えめに呼ぶ。
「ユリアーナ姫?」
 エリックの呼びかけに、「小鳥よ、小鳥……」と歌っていた少女は振り返ると彼の顔を見て、花が咲くように愛らしい微笑みを浮かべた。そう、花のように愛らしく、小さな子供のように無垢な微笑みを。
「――エリック陛下!」
 そう彼の名を呼んだのは、隣国オルフェリアの姫であり、今はローズティアの王妃――ユリアーナ姫だった。
 ユリアーナ姫は嬉しそうに微笑むと、子供のように無邪気に、エリックへと駆け寄る。そして、その勢いで、夫である国王へと抱きついた。
 ローズティアの王妃ユリアーナ。
 高く結い上げた亜麻色の髪に、淡いスミレ色の瞳の娘。
 ほっそりした少女の体つきに、薄紫のドレスがよく似合う。
 どちらかといえば、美しさよりも愛らしさが目立つ姫だった。
 当年十六才になるユリアーナだが、その容姿も行動も、実年齢よりもずっと幼く見える。全てが、大人になっていない少女のようだ。そして、その心も見た目と同じように幼いことを、夫である国王エリックは知っていた。
 無垢にして、無邪気。
 まるで、鳥かごでさえずる小鳥のような娘だと。
「どうかしましたか?ユリアーナ姫」
 エリックの問いかけに、ユリアーナはふふと無邪気に笑うと、手にした花を彼に差し出した。紫色の小さな花を。
「ええ。とても綺麗な花を見つけたものだから、エリック陛下に差し上げたかったの……綺麗でしょう?」
「ああ、本当だ。綺麗な花ですね。ありがとう。ユリアーナ姫」
「ふふ」
 エリックが礼を言うと、ユリアーナは無邪気に微笑む。彼女が国王である夫に向ける瞳は、まるで子供のように無垢だ。
 ユリアーナが他愛もないことを楽しげに喋り、エリックがそれに、優しく微笑みながら相づちを打つ。そんな若き国王夫妻の姿は、夫婦というよりも兄妹のようだった。そして、実際に一国の王妃というには、ユリアーナは余りにも幼すぎた。
 隣国オルフェリアの末姫として、周囲から愛されて愛されて、甘やかされて何不自由なく育てられた姫君。
 絹のドレスと宝石に囲まれて、ふわふわの砂糖菓子を食べて生きてきた娘。
 この世に戦争や悲劇があることなど、想像することさえしない無邪気なユリアーナ。
 人は彼女のことを、小鳥姫とそう呼んだ。可憐で愛らしく、その唇で美しい歌を紡ぐ、まるで小鳥のような姫君だと。
 その通りだと、エリックも思う。
 ユリアーナ姫は小鳥だ。
 無垢で無邪気で純粋で、主の加護がなければ生きられない繊細で、可憐な小鳥。
 隣国オルフェリアの王宮で、銀の鳥かごにいれられて、宝石をついばんで育った小鳥である。
 そんなユリアーナのことを、嫁いでから少しの時間しか共にいないとはいえ、エリックは大事にしていた。妃というよりは、妹のように。恋心ではないが、暖かな愛情をエリックはユリアーナに向けていた。王妃に対して、優しい国王で在りたかった。この小鳥のような姫君を、守らねばならないと思っていた。彼にはそれしか出来なかったから。
 ――これは、恋心でないとわかっていた。エリックの心はとっくの昔に、真紅の瞳の魔女を選んでいた。父と同じように。
 だが、それを告げることは、決して許されぬと知っていた。
 魔女を強く憎む母を裏切ることも、ユリア―ナを裏切ることも出来なかった。父上の想いも、母上の想いも知ればこそ、この恋心は口にしてはならぬものなのだと。
 それは、裏切りだ。
 母に対してもセリウスに対しても、ユリアーナに対しても……そして、今は亡き父上に対する裏切りなのだ。そんな卑怯な真似が、出来るわけもない。
 だから、エリックは柔らかな笑みを浮かべて、ユリアーナに手を差し伸べた。小鳥のように、無邪気で可憐な姫君に。彼が愛すべき王妃に。
「――ユリアーナ姫。貴女さえ良ければ、少し中庭を散歩しませんか?今は春の花が美しいですよ」
 エリックの誘いに、ユリアーナは少し恥じらうように頬を染めて、おずおずと夫の手を握った。ほんの少し照れたような顔で、幸せそうに。
 そうして、手を繋ぐと、ユリアーナはエリックを見上げて微笑んだ。
「ええ。喜んで。エリック陛下」
 優しい王様と、小鳥のような王妃様。
 エリックとユリアーナ。
 ローズティアの若き国王夫妻は、仲睦まじげに手を繋ぎながら、春の花が咲き誇る庭園へと歩いていく。そんな彼らの背中を、じっと睨みつける深緑の瞳には気づかぬままで。
「――エリック兄上」
 赤のまじった金髪に、深緑の瞳をした青年――王弟セリウスは、仲睦まじい国王と王妃の姿を、じっと睨んでいた。その瞳に、兄への憎しみを宿して。


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