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二章 優しすぎた王子 2−4


 ――兄の持っているものは、いつだって羨ましく輝いて見えた。王冠はその最たるものだった。

 セリウスは、国王レオハルトの二番目の息子として、ローズティア王国の第二王子として生まれた。
 彼が生まれた時すでに、彼の上には兄がいた。
 セリウスよりも二つ年上である第一王子エリック。赤髪に若草色の瞳をした兄が。
 エリックとセリウス。
 たった二つしか年の違わない兄弟にも関わらず、ただ兄より遅く生まれたというだけで、彼ら兄弟の立場は全く違うものであった。つまり、王冠を継ぐ者と、その代用品として。言うまでもないが、王冠を継ぐ者がエリックであり、セリウスは兄の代用品に過ぎない。第二王子というのは、王位継承者に万が一のことがあった場合の、単なる代わりでしかないのだ。
 わずか二歳の差。
 たった二年だけ生まれる年が早かったというだけで、エリックは何の苦労もなしに、全ての権利を手にしたのだ。ローズティアの王冠も、偉大なる父王の後継者という立場も……そして、王国の魔女の庇護も。
 どれもこれも、兄エリックが自分で何かを成し遂げたわけでもないというのに、ただ先に生まれたというだけで、彼の手へと転がり込んだ。地位も名誉も愛情も全て。
 セリウスが必死に努力して、得ようとした信頼も栄誉も、第一王子である兄は生まれながらに手にしていた。
 そして、それを幸福とも思っておらず、当たり前のように受け止めていた。選ばれなかった者の嘆きを、王の代用品に過ぎぬ者の嘆きを、知ることもなく。
 許せるだろうか?セリウスは許せなかった。
 何も知らない兄を憎んだ。優しいフリをして、卑怯な兄を憎んだ。本当は王位など望んでいないくせに。ローズティアの王冠を受け継ぐ資格などないくせに。なぜ兄上は玉座に座っているのだと。
 そう考えるたびに、王弟セリウスの心には、決して消すことの出来ない憎しみの炎がともった。
 第一王子であったエリックは知らぬだろうが、母や重臣たちから、セリウスは言い聞かされてきたのだ。
 毎日、毎日、物心ついた頃からは日常のように。
 ――兄上の、エリック陛下の支えであれ。王位への野心を持ってはならぬ。
 その言葉の意味を、幼いセリウスは正確に理解した。
 お前は兄王子の代用品に過ぎないのだと。玉座を、王位を望みことは許されないのだと。
 王冠を継ぐ者として生まれた兄と、第二王子である自分では同じ王の子でも、その立場は天と地ほど違うのだと悟るしかなかった。
 ――お前の兄は優しい子。どうか、兄の支えでありなさい。セリウス。
 自分によく似た美しい母が、優しい声で諭すように、幼い息子セリウスに語りかける。白く柔らかい手で、弟王子の頭を撫でながら。
 それは、彼にとって呪いにも等しいものだった。
 王宮の誰もが、セリウスが王位へ妙な野心を持つことなく、兄王の影となり支えていくことを望んでいた。影となる王弟の気持ちを、誰も尋ねることなく。
 ――違う!私は王になりたいのだ!
 なぜ後に生まれたというだけで、そんな理不尽な扱いを受けねばならないのだ?
 セリウスの胸に芽生えた疑問が、やがて兄王子エリックへの憎しみへと姿を変えるのに、さほど長い時間はかからなかった。
 エリック。
 赤髪に若草色の瞳をした兄を、同じ王の血を引く男を、セリウスは誰よりも強く憎んだ。本当は王位に執着などないくせに、優しい王でありたいなどと、きれい事ばかり言う兄王が疎ましかった。
 もしも、エリックが優れた王であれば、セリウスがここまで兄を憎むこともなかったかもしれない。父・レオハルトのように、優れた王であればと。
 だが、現実は違った。
 優しいといえば聞こえがよいが、厳しい態度も政策も取れない兄王は、今や宰相や臣下たちからすら軽んじられる存在だ。父レオハルトのような才能も持たず、かといってそれを悔いることもなく、ただ安穏とした日々を過ごしているように、エリックの姿はセリウスの目にそう映った。
 ただ優しいだけの男が、本当に王に相応しいだろうか?このローズティアの国王に。
 そう考えるセリウスには、自分は王位につけば、兄より優れた国王になれるのではないかという野心があった。
 少なくとも、優しいだけが取り柄の無能な兄よりは、マシな国王になれるはずだ。その方が、ローズティア王国のためにも、良いのではないかと。
「――兄上」
 あるいは血の繋がった兄弟でなければ、セリウスがエリックのことを、ここまで強く憎むことはなかったかもしれない。
 同じ王と王妃の息子でありながら、兄がローズティア王国の王位を継いで全てを手にしたのに対し、セリウスには何もなかった。学問も政治の才も、セリウスが兄エリックに劣るところなど、何一つありはしないのに。
 ただ兄より遅く生まれたというだけで、セリウスは兄よりも優れた政治の才を持ちながら、王になれないのだ。
 ――それは果たして、正しいことなのだろうか?
 幼い頃から、セリウスの胸に宿り続けた疑問。
 それが、全ての悲劇の元凶だったのかもしれない。
「――セリウス殿下」
 あの春の日のことだ。
 王宮の中庭の花畑を、手を繋いで仲睦まじく歩く国王夫妻の後ろ姿を、深緑の瞳で睨んでいたセリウスの後ろから、そう耳慣れた声がかけられたのは。
「……フィアナか」
 振り返った彼の目に映ったのは、真紅の瞳の魔女の姿だった。
 今まで何の気配もなかった場所から、いきなり現れたが、それがフィアナであるなら驚くには値しない。なぜなら、彼女は人ではなく、“魔女”なのだから。それを知るセリウスは驚きはしないが、いささか不快そうに、きつく眉を寄せた。
 セリウスは魔女が嫌いだった。
 嫌う理由の一つには、父王レオハルトの妃であった母の影響も、当然ながらあるだろう。
 ――あの魔女さえ居なければ、レオハルト陛下は私のことを、見てくれたのに。
 セリウスが物心つく前から、彼が成人するまで、母は習慣のようにそう我が子に愚痴り続けた。
 父王が亡くなってから、もう何年もの月日が流れているというのに、母の魔女へと恨みは消え去ることがなかった。それはきっと、王妃を大事にしながらも、決して母を愛することはなかった父王レオハルトへの愛憎ゆえだったではないか。
 そんな母の恨みを、幼い頃から聞き続けたせいもあるだろう。セリウスは魔女が嫌いだった。
 しかし、彼が真紅の魔女を嫌う理由は、それだけではない。
「私に何か用か?魔女殿」
 セリウスは冷ややかな声で、フィアナにそう問いかけると、深緑の瞳で魔女を睨みつけた。
 相変わらず、不気味な女だとセリウスは思う。
 初めて出会った日から、二十年近い歳月が流れているというのに、この魔女は何も変わらない。
 赤子だったセリウスが成人するほどの時間が、人の身に流れているというのに、フィアナはずっと少女の姿をしている。それが、魔女の証なのかもしれないが、セリウスは言いようのない不快感を感じた。
 人とは違う異端の存在――王国の魔女フィアナ=ローズ。
 ゆるやかに波打つ金の髪も、ガーネットのような真紅の瞳もなめらかな白磁の肌も、あの時と何も変わっていない。昔のままだ。
 おそらく、セリウスが老いて死を迎える時ですらも、魔女はこの姿のままで生きているのだろう。人とは違う。それが魔女なのだ。
 それなのに、なぜ愛せるのだろう?人とは違う存在なのに。その想いが実ったとしても、その後は破滅しか待っていないというのに。
 父上も兄上も、なぜ魔女のことを愛せたのだろう――セリウスには決してわからない。わかりたいとも思わない。
 何か用か、セリウスが険しい顔で問うと、真紅の瞳の魔女はそっと目を伏せて言った。
「セリウス殿下。差し出がましいこととは存じますが……」
「何だ?」
「無礼を承知で申し上げます……」
 セリウスが先を促すと、フィアナはスッと顔を上げた。
 磨き抜かれた宝石のよう。
 そう讃えられる真紅の瞳が、セリウスの深緑の瞳と重なる――
「――王冠というものは、手の届かぬ遠くにあるからこそ、輝かしく美しく見えるものなのです。どうか、それをお忘れなきよう。セリウス殿下」
 それは魔女の忠告だった。
 王位を望まぬからこそ、王弟なのだと。
 妙な野心を持つなという。その意味を正確に理解しながらも、セリウスはフィアナの言葉を無視した。
「……どういう意味だ?魔女殿」
「聡明で名高きセリウス殿下なら、みなまで言わずとも、お分かりかと……失礼なことを申し上げました。お許しくださいませ」
「……魔女が。人の心を読んだつもりか」
「……」
 セリウスが吐き捨てるように言うと、フィアナは何の弁解もせず、黙って頭を垂れた。もう何も言うことはないという風に。
 そんな彼女をつまらなそうに一瞥すると、セリウスは中庭と反対の方角――兄王と王妃の歩みとは、逆へと歩きだした。そんなセリウスの胸のうちは相変わらず、兄エリックへの増悪に満ちていた。
 ――ねぇ、エリック兄上?
 ――私たちは似ていないように見えて、実はとても似ていますね。決して、手に入らぬものを求め続けるあたりが、特に。
 ――だからこそ、兄上が憎い。王冠の価値を認めぬ貴方が。それならば、私が兄上から全てを奪ってやる。

「小鳥よ、小鳥、歌っておくれ。
 春の風を翼にのせて、あの人まで届けておくれ。
 どうか、愛しき彼の人に伝えておくれ――」
 それは、隣国オルフェリアの恋歌だった。
 異国へと旅した男が、故郷の恋人を想ったものだという。
「小鳥よ、小鳥――」
 王城の中庭。
 白薔薇に囲まれた東屋で、可憐な歌声が響いていた。
 小鳥がさえずるような愛らしい歌声。それを紡いでいるのも、その歌声に負けず、愛らしい小鳥のような姫であった。
 真珠の髪飾りでとめた亜麻色の髪に、淡いスミレ色の瞳の少女――ローズティアの王妃ユリアーナだ。
 母国オルフェリアだけでなく、嫁ぎ先のローズティアにおいても、小鳥姫と称される程にユリアーナの歌声は愛らしく、また突出した歌い手でもあった。
 隣国オルフェリアで年老いた父王の末の姫君として、何不自由なく甘やかされて育ったユリアーナは、自分では何も出来ぬ娘であったが、その歌声は本当に素晴らしいものだった。オルフェリアでもローズティア王国でも、ユリアーナが歌を歌ったならば、誰もが聞き惚れた程に。
 だから、ユリアーナは歌い続ける。
 それしか、彼女は知らなかったから。
 王宮の中で愛されて甘やかされて育った姫は、戦も飢えも憎しみも知らぬままに、ただ歌い続ける。
 ――銀の鳥かごの中で、さえずる小鳥のように。
 無垢で無邪気で、この世に悪意があることなど想像もしない小鳥姫。
「小鳥よ、小鳥――」
 そんな風にユリアーナが歌っていた時、パチパチという拍手の音が、城の中庭に響いた。
 ユリアーナはきょとんとした顔つきで、淡いスミレ色の瞳で、周囲を見回す。
「……誰?誰かいるのかしら?」
 その時だった。
 近くの茂みがガサガサと揺れて、そこから長身の青年が姿を現したのは。
「噂には聞いていましたが、素晴らしい歌声ですね。ユリアーナ姫」
赤のまじった金髪に、エメラルドのような深緑の瞳をした美しい青年は、そう言って微笑んだ。
「貴方は……セリウス殿下」
 美貌の青年の微笑みに、少しぼぅとなりながら、ユリアーナは彼の名を呼んだ。
 久しぶりに会ったが、この青年は確か国王の、彼女の夫の弟であったはず。
「ええ。それにしても、素晴らしい歌声ですね。ユリアーナ姫……さすがは、小鳥姫と呼ばれる方だ。兄上が羨ましい」
「そんな……」
 美貌の王弟セリウスは、彼らしくもない優しげな微笑みを浮かべて、アリアーナの歌を褒めた。そんな彼の言葉に、アリアーナは恥じらうように頬を染めて、淡いスミレ色の瞳をうるませる。
 そんなアリアーナを、セリウスは熱のこもった瞳で見つめた。
 いつだって、兄の手にしているものはセリウスには手が届かず、輝いて見えた。王冠も王位も何もかも。
 王弟である彼には、決して手が届かないものだからこそ、どんな卑劣な手を使っても手にしたかったのだ。
 優しいだけの愚かな兄王。
 その兄のものだというだけで、奪い取る価値があると。
 そうして、セリウスは心を隠し、美しい微笑みを浮かべると、ユリアーナの耳元へ唇を寄せた。小鳥姫の耳元に、そっと。
「良ければ、もう一曲だけ歌っていただけませんか?ユリアーナ姫。貴女の声が聞きたい」
 セリウスの頼みに、ユリアーナは小さくうなずいた。
「……はい」
 それが、悲劇の序曲であったのかもしれない。
 国王であるエリックの知らぬところで、王妃ユリアーナと王弟セリウスは親密な関係になり、そして――罪は犯される。
 王妃ユリアーナが懐妊したと、ローズティアの王宮に広まったのは、その年の秋のことだった。
 その腹の子の本当の父は誰なのか、誰も知らない。


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