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二章 優しすぎた王子 2−5


 ――王妃ユリアーナが懐妊した。

 その報せはローズティアの王城において、喜びと共に受け止められた。
 国王という地位にある者にとっては、優れた世継ぎをもうけることも、義務の一つであると言われる。
 年若い国王エリックにとっては初めての子でもあり、人々は優しい国王はどんなに喜んでいらっしゃるだろうかと、微笑みながら噂した。
 若い国王夫妻にとっては、初めての子の誕生は、さぞ待ち遠しいことであろうと。国王に仕える者たちは、ローズティア王国のさらなる繁栄を夢見て、そう噂する。隠された真実と罪を、知ることなく……。
「――ユリアーナ姫が懐妊された?」
 臣下からもらたられた王妃懐妊の報せに、セリウスは眉を寄せた。一瞬、顔を青ざめさせるような素振りも見せたが、それは一瞬のことで、すぐに見慣れた冷たい表情へと戻る。
 彼は冷ややかな声で、王妃ユリアーナ懐妊の報せをもたらした臣下に、それは真実かと問いつめた。
「……間違いないのか?」
「王宮医師の見立てですので、間違いはないかと……三月だそうです」
「そうか……わかった。下がれ」
 間違いないという臣下の言葉に、セリウスはわずかに顔をしかめ、そう命じる。
「はっ」
 臣下が部屋を退出して、一人になったのを見届けて、セリウスは深く息を吐いた。
 兄上の王妃が、ユリアーナ姫が子を身ごもった。すでに三月になるという。
 本来ならば、王妃ユリアーナの懐妊は、ローズティアの王族セリウスにとって、喜ぶべきものであるはずだった。
 国王と王妃の子ということは、その子は生まれながらに王位を継ぐ資格を持ち、いずれローズティアの王冠を抱く者であるのだから。ローズティア王国にとっては、ユリアーナ姫の腹の子が王子であれ姫であれ、未来への希望の光であるはずだった――
「……」
 国王の弟としても王家の一員としても、祝福すべき報せにも関わらず、セリウスの深緑の瞳は苦悩の色が濃い。
 王妃ユリアーナの懐妊は、王宮にとって実に喜ばしいことだ。国王夫妻の長子の誕生は、民や臣下たちから祝福されるはずだ。
 そう、実に喜ばしい。その腹の子の父が、国王エリックであるならば――
「――ユリアーナ姫が孕んだのは、兄上の子か私の子か、どちらなのだろう?」
 誰に聞こえぬのも承知の上で、セリウスは呟く。
 あの春の日から数ヶ月、セリウスは周囲に悟られぬように、密かに王妃ユリアーナと逢瀬を重ねていた。むろん、それが不義密通の罪にあたることは、彼として理解している。
 しかも、兄王の妃と過ちを犯したのだ。これが、罪でなくてなんなのだろう?兄を裏切り、民を裏切ったのだから。
 それでもなお、セリウスは兄に詫びる気にはなれなかった。
 犯した罪の重さも、この罪が明らかになった時に、彼の身に待ち受ける破滅を知りつつも、兄に許しを乞う気にだけは。どうしても。
 ――貴方にだけは、慈悲を乞いたくないエリック兄上。私が欲してやまぬ王位を王冠を、軽んじる貴方にだけは。私が私である誇りをかけて、絶対に……。
 この王弟セリウスと王妃ユリアーナが犯した罪が、人々に明かされることになったならば、処刑……良くても、生涯を幽閉されて過ごすことになるだろう。
 命か、あるいは誇りか、いずれにせよ最も大事なものを奪われるのだ。セリウスが憎む兄王の手によって。
「ユリアーナ姫……」
 あれから王妃の侍女を味方にして、幾度の逢瀬を重ねただろうか。ユリアーナの腹の子の父が、夫である国王でなく王弟セリウスであったとしても、何の不思議もない程に。
 ユリアーナ姫。
 彼女は今、どうしているだろうか?犯した罪の重さに、怯えているだろうか、泣いているだろうか。それとも……。
 亜麻色の髪にスミレ色の瞳をした娘が、泣いている姿を想像し、セリウスはきつく唇を噛んだ。哀れだと、そう感じる。
 ――初めは、ただ利用するだけのつもりだった。
 セリウスがユリアーナ姫に近づいたのは、決して好意からではなく、兄への復讐心ゆえだ。
 幼い頃から、魔女フィアナに報われぬ想いを寄せている兄が、ユリアーナを愛することはなかったが、それでも妹のように大事にしていることは知っていた。だからこそ、セリウスはユリアーナに近づいたのである。そこには愛など何もなく、ただの復讐心があるだけだった。
 そのはずだったのに、なぜ――ユリアーナ姫が苦しんでいるというだけで、こんなに胸が痛むのだろう?
 その感情の名を、セリウスは知らなかった。知ろうとすらしなかった。
「小鳥よ、小鳥。歌っておくれ。
私の想いを届けておくれ。
どうか、愛しい彼の人に――」
 それは小鳥姫の、ユリアーナの歌だ。
 愛でもない。恋でもない。そんな綺麗なものではない。
 ただ、セリウスはユリアーナの歌を聞きたかったのだ。あの哀れな姫が紡ぐ、美しい歌を。
「……っ!私は……」
 こみ上げてくる感情を押さえようと、セリウスは爪をたてたまま、拳を強く握りしめる。血が出るほど、強く。手のひらに赤い血が滲んだ。思うようにならない彼を、嘲笑うかのように。
 ――王妃ユリアーナの腹の子の瞳の色は、何色をしているのだろう?
 国王エリックのような若草色か、母のような淡いスミレ色か、それともセリウスのような深緑の……。
 もし、生まれてくる子が、セリウスに似ていたなら。あるいは彼とユリアーナの罪が、明かされることになったならば、それは破滅を意味する。セリウスにとっても、ユリアーナにとっても。
 国王の命は絶対だ。エリックが命じれば、たとえ王の実の弟であろうとも、処刑を免れはしまい。ならば、ならばいっそのこと――
「――兄上を消せばいいのか」
 そう呟いたセリウスは、すでに苦悩してはいなかった。
 ただ氷のような無表情で、恐るべき計画を練り始めていた。
 ローズティアの国王を、実の兄エリックを殺める策を。

 セリウスが、その毒薬を手に入れたのは、その年の冬のことだった。
 アウセラの毒。
 かすかに赤い色をしたその毒薬は、今までに大陸の王族たちを殺めてきたという、曰くつきのそれ。その毒薬を口にしたものは、無駄に苦しむこともなく、すぐに天に召されるという猛毒だ。
 そのアウセラの毒が入った透明な小瓶は、かすかに赤い色をしている。まるで血を、憎しみを薄めたかのように――
「……さようなら、エリック兄上」
 その小瓶を手にするセリウスに、迷いはなかった。
 暗殺者を雇って、兄の、国王の食卓に毒をもらせた。
 エリックが食する料理に、アウセラの毒を一滴たらして――だが結局は、その暗殺は失敗に終わった。
 スープに入ったアウセラの毒を察して、国王エリックの身を救ったのは、真紅の瞳の魔女フィアナだったという。
「……終わりか」
 暗殺者が捕らえられ、国王暗殺を企んだ罪人として、セリウスの部屋に兵士が踏み込んでくる。国王エリックと真紅の瞳の魔女も。
「――セリウスっ!どうしてっ!」
 その身を兵士に守られながらも、エリックは悲痛な顔で、弟の名を叫んだ。
 セリウスは深緑の瞳で、国王である兄を睨みつけた。同じ血を分けながら、決して互いに理解しあうことのなかった兄を。
 ――どうして、だと?決まっている。私はただ貴方が憎くて、疎ましくて……そして、羨ましかったのだ。
 若草色の瞳をうるませながら、弟を見つめる国王エリック。
 彼の横に立ち、黙って目を伏せる魔女フィアナ。
 そんな彼女の胸元で、蒼華石の首飾りが、ゆらゆらと揺れていた――それが、王族のための牢屋に幽閉されたセリウスが、魔女を目にした最後の記憶だった。

「小鳥よ、小鳥、泣いておくれ。
 愛しき人の悲しみに。冬の嘆きを翼にのせて、あの人へ届けておくれ。
 どうか愛しき彼の人に――」
 そうして、ローズティア王国には、再び冬が訪れようとしていた。全てを終わらせる悲しみの冬が。
「小鳥よ、小鳥。泣いておくれ――」
 王妃ユリアーナの部屋から流れてくる歌声に、フィアナは真紅の瞳を伏せて、哀れみの表情を浮かべた。
 国王暗殺を企んだ罪で、セリウスが牢獄に幽閉された日から、ユリアーナ姫はずっと歌い続けている。朝も昼も夜も、ずっと。狂ったように。
 王妃様は心を病んでおられるのだ。
 昼夜を問わず、ただ不吉な歌詞を歌い続ける王妃ユリアーナに、王宮の者たちは哀れむような蔑むような目を向けた。
 そんな視線に気づいていないのか、ユリアーナは虚ろな瞳をして、ただ歌を歌い続ける。それしか、感情をあらわす方法がないという風に。
 ――お可哀想な王妃様。小鳥のように愛らしい方であったのに、心を病んでしまわれた。
 そう小声でささやく、王宮の者たちは知らないのだ。彼女がなにゆえに狂気に蝕まれたのか。どうして、歌い続けているのか。誰も知ることはない。歌しか知らぬ小鳥の嘆きを、悲しみを。
 狂った王妃。
 哀れな小鳥姫。
 かつて、微笑みながら春の喜びを歌った姫が、今や涙を流しながら冬の絶望を歌っている。
「小鳥よ、小鳥。哀れな小鳥――」
 王妃ユリアーナが歌うその嘆きの歌は、昼夜を問わず、ローズティアの城内に響き渡っていた。国王エリックの耳にも、幽閉されたセリウスの耳にも、この歌声は届いているのだろうか?
「……エリック陛下」
 フィアナは国王の――エリックの私室へと足を踏み入れると、暗い部屋の中央で椅子に座り、顔をおおって苦悩する青年の名を呼んだ。今の彼に話しかける。その残酷さを知りながら。
 フィアナの呼びかけに、若き国王エリックは糸の切れた操り人形のような仕草で、ゆるゆると頭を上げた。
 心なしか、その顔は急に何十歳も老けたようだ。目は虚ろで力はなく、頬はげっそりと痩せこけている。実の弟セリウスに暗殺されかけ、王妃ユリアーナが心を病んだとあっては、それも無理からぬことだ。
 エリックは全てを失ってしまった。大事にしたいと思ったものを、何もかも。彼に残されたのは絶望だけだ。
 そうして、エリックは虚ろに淀んだ若草色の瞳を、フィアナへと向ける――幼い頃、姉のように慕い、愛し続けた魔女へと。
 エリックはしばし無言で、フィアナを見つめ続けた後に、かすれた声で言った。
「……ああ。フィアナか」
 エリックは虚ろな目で、真紅の瞳の魔女の名を呼ぶと、かすかに唇を上げた。
 己の愚かさを自嘲するように、若きローズティアの国王は悲しく笑う。涙を流しながら。
「どうして、こうなってしまったのかな?フィアナ」
「エリック陛下……」
「こんなことを、誰一人として望んでいなかったのに、どうして……僕がもっと強かったなら、父上のように優れた王であったら、こんなことにならなかったのか……もし、そうであったなら、セリウスもユリアーナも失わずにすんだのかな……フィアナ」
「……貴方に罪はありません。エリック陛下。それを言うなら、セリウス殿下を止められなかった私の罪です」
 過ぎ去った過去を悔いるように、静かな涙を流し続けるエリックに、フィアナは慰めの言葉を何一つ持たなかった。
 全てを失った彼に、何の言葉が救いになるというのだろう。何もかも遅すぎるのだ。全てが、もう終わってしまったのだから。
「いや、全ては僕の罪だよ……」
 貴方のせいではない、そう言ったフィアナに、エリックは首を横に振った。悲しげに。
「――僕が全てから逃げていたから。優しい振りをして、誰とも真剣に向かい合おうとしなかったから、弟のセリウスとも妃のユリアーナとも……ただ逃げていただけだ。弱い自分から」
 本当は気づいていたのだ。それが優しさではないことを。
 ただ穏やかに微笑んでいるだけで、誰かが罪を犯しても、怒ろうとも責めようとも思えなかった。たとえ、それが国の民のためと知ってはいても、どうしても。
 そんな自分は、王の器ではないのだろう。わかってはいた。わかってはいた。けれど――
「昔から、わかってはいたんだ。自分が父上のような名君になれないことも、自分に王に向かぬことも、だが……それでも私は……」
 エリックの若草色の瞳から頬へと、つぅと透明な滴が伝う。
 優しく愚かで、孤独な王は泣いていた。
 幼き日、城の中庭で転んだ日と同じように。
 あの時は、フィアナが柔らかい手で、エリックの涙をぬぐってくれたのだ。王の子が、王子が泣き続けるものではないと、そう言って。あの時に真紅の瞳の魔女は微笑みながら、エリックの頭を撫でて、こう教えてくれたのだ。
 ――エリック殿下。立派な王様は、自分とためには泣きません。困っている人の隣に立って、涙をぬぐってあげるのが良い王様です、と。
 それは小さな約束。
 幼い王子と魔女が交わした誓い。
 それでも、それは幼い王子エリックにとっては、守るべき誓いであったのだ。
 ただ叶えたかった。父上のような立派な王になりたかった。ローズティアの民を、母を弟を臣下を……そして、孤独な魔女を幸せにしたかった。ただ、それだけだったのだ。小さくて儚い。それだけの願いだったのだ……。
「――僕は優しい王になりたかったよ。フィアナ……強くて、国と民をを守れて、皆を大事にする。父上のような王に」
 そう、自分と同じように、魔女を愛した父上のように――
「エリック陛下……」
 魔女はもう何も言わず、ただその白い指先で、エリックの頬をつたう透明な涙をぬぐった。あの穏やかな春の日に、幼い王子の涙をぬぐったのと、同じように。
 フィアナの真紅の瞳からも、いつの間にか、透明な滴があふれていた。それが誰のための涙なのか、彼女自身にもわからなかった。優しくあろうとして、道を誤った国王か。王冠を求めて、身を滅ぼした弟王子か。歌うことしか知らず、運命に流された小鳥の王妃か。それとも――
「……」
 唇を閉ざして、透明な涙を流し続けるフィアナの胸元では、蒼華石が美しく輝いていた。あの春の日と、何も変わることなく。

 希代の名君と謳われたレオハルトの息子――ローズティアの十代目の国王エリックは、父親とは異なり、凡庸な国王として歴史書に記された。
 在位期間こそ、若くして亡くなった父より長かったものの、これと言って国王としての優れた業績を残すことなく、七十二歳で生涯を終えたという。
 その少年時代は、優しい穏やかな気質で知られたが、晩年は全てにおいて無気力であったそうだ。その理由を、語る者は誰もいない。
 国王暗殺を企てた罪で幽閉された王弟セリウスは、それから十年後に病に倒れて、高貴な罪人として短い一生を終えた。
 兄王の命を狙った罪人であるセリウスの名は、忌むべきものであるとして、歴史書には記されなかった。ただ、国王を暗殺しようとした王弟がいたという一文のみ。
 誰一人として、彼のことを知ろうとしない。
 王妃ユリアーナ。
 小鳥姫と呼ばれた彼女の罪は、最期まで明らかにされることがなかった。夫であるエリックは、ユリアーナの腹の子の父を知ってはいたが、真実に気づかないふりをした。何の罪もない赤子に、親たちの罪を背負わせる気になれなかったから。
 真実は王と王妃と王弟と、そして魔女の胸だけに秘められた。
 王妃ユリアーナは生涯で、二人の子を生んだという。
 一人目はセリウスの娘――燃えるような深紅の髪に、エメラルドの瞳の姉姫エレーナ。
 二人目はエリックの息子――亜麻色の髪に、若草色の瞳をした弟王子ユーリク。
 ローズティアの長い歴史の中でも、悪名高き流血の薔薇と謳われた女王と、その姉と対で語られる弟王子である。
 歴史書には、どちらも国王エリックと王妃ユリアーナの子であると、そう記されている。書が真実を語ることはない。
 セリウスが幽閉されてから、ユリアーナが正気に戻ることは殆どなく、彼女もまた若くして生涯を終えたという。
 そして、魔女は――
「……」
 魔女フィアナは何も変わることがない。時が流れても、人が歴史を紡いでも、真紅の瞳の魔女はただそこに在り続ける。
 それが愛しさからか、単なる執着なのか、それはフィアナ自身にすらわかりはしない。それでも、彼女はローズティア王国の魔女に在り続けた。
 ――いつの頃からだろうか?
 王宮の人々は、王国の魔女が次代の王を選ぶのだと、噂するようになった。レオハルトもエリックも、魔女に選ばれた王であったのだと。魔女は肯定も否定もせず、ただ微笑んでいるだけ。
 ――そうして、ローズティアに新たな伝説が生まれる。“王冠の魔女”の伝説が。
 そして、歴史は再び、次の世代の時を刻もうとしていた。愛憎の末に生まれた二人の姉弟――エレーナとユーリクと、そして魔女の物語を。

 昔、昔、ローズティアという国に、とても優しい王様がいました。
 その優しい王様のそばには、小鳥のような王妃様と賢い弟と……そして、真紅の瞳の美しい魔女がおりました。
 心から彼らを愛していた王様は、とても幸せでした。ずっと、幸せでした……。


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