あれから、どれほどの月日が流れたのだろうか。
この美しいローズティア王国に、幾度の喜びの春が訪れ、幾度の悲しみの冬が過ぎ去ったのだろう。
それでも、悠久の時を生きる王冠の魔女は、ただ王国の行く末を見守り続ける。
かつて、魔女を愛した王が望んだように。この王国が終焉を迎える日まで――
ローズティア王国の国王エリックには、姉姫と弟王子の二人の子がいる。
燃えるような深紅の髪に、エメラルドの瞳を持つ姉姫――エレーナ。
亜麻色の髪に、若草色の瞳を持つ弟王子――ユーリク。
異なる父を持つ、彼ら姉弟の真実を、民が知り得ることはない。
隠された真実を知る者たちは、一様に口を閉ざし、そして平和な王国と幸福な王家の物語が語られる。
愛らしい姫と王子と、小鳥のような王妃様と暮らす、幸せな王様と。
王城を仰ぎ見る民は誰一人として、その幸福な王家の物語を、疑うことはない。全てを知るは、王家を見守る魔女フィアナただ一人だ。
「待ってよー!エレーナ姉上!」
王城の中庭。
草花の間を一人の幼い少年が、息を切らせながら駆けている。
柔らかな亜麻色の髪に、優しげな若草色の瞳。
紅潮したほおは、丸みをおびていて愛らしい。
年は八つぐらいだろうか。その顔つきは、彼の父――国王エリックによく似ていた。
ローズティアの弟王子ユーリク。
草花の間を必死に駆ける幼い王子は、「エレーナ姉上!」と名を呼びながら、前を駆ける少女を追いかけていた。
「こっちだぞ!ユーリク!」
そんなユーリクの呼びかけに、前を駆けていた少女はチラッと振り返り、からかうように笑った。
「遅いぞ。ユーリク。王子とあろう者が情けない」
そう言って、冗談めかしてケラケラと笑うのは、十歳ほどの少女だった。
赤いドレスを着た幼い姫君。
燃える炎のような深紅の髪に、エメラルドの瞳を持つ娘――ローズティアの姉姫エレーナだ。
幼いながらも整った顔立ちと、エメラルドの賢そうな瞳は、国王エリックにも王妃ユリアーナにも、どちらにも余り似ていなかった。どちらかといえば、叔父であるセリウスに似ていると思う者もいたが、それを口に出すような愚か者はいなかった。
誰が口に出せるというのだろう。
国王暗殺という大罪を犯した王弟と、国王の長女が似ているなどと。もし、下手なことを口に出せば、自分の首が飛ぶかもしれないのだから。
そうして、命が大事な者たちは口をつぐみ、誰もエレーナの本当の父のことを、語ろうとはしない。
そんな王宮の人々の思惑を、知ってか知らずか、王女と王子――エレーナとユーリクの姉弟は、王宮の庭を無邪気に駆け、クスクスと笑いながら戯れていた。
「待ってよぉ!エレーナ姉上」
ユーリクは姉の名を呼びながら、その小さな手を、姉の背に向かって必死に伸ばす。
「くすくす……あっ!フィアナ!」
弟の先を走っていた姉姫エレーナは、その視界の先に波打つ黄金の髪を見つけ、魔女の名を呼んだ。
そうして、王家の姉弟たちは、中庭の片隅。
小さな薬草園に立つ魔女――フィアナに向かって、駆け寄った。
そんな姫の呼びかけに、しゃがんで薬草を摘んでいたフィアナは立ち上がり、姉と弟の方に向き直り、深々と頭を垂れる。
「あらあら、エレーナ姫様。ユーリク殿下。そんなに走ると危ないですよ。私に何か御用でございますか?」
フィアナの問いかけに、エレーナは首を横に振り、逆に問い返した。「別に。フィアナは?薬草を摘んでいたのか?」
「ええ。そうです。エレーナ姫様」
魔女は手にした籐のかごに、摘んだ薬草をつめると、真紅の瞳を伏せて、少し憂いをおびた表情でうなずいた。
魔女フィアナが薬草で作る薬。
それは、長く心を閉ざしている王妃のために使われる。そう、エレーナとユーリクの母である、王妃ユリアーナのために。
「フィアナ。母上の具合は、相変わらずなのか?」
そんなフィアナの表情から、母の病状を察して、エレーナが問う。
十歳という年齢に見合わぬほどに、彼女は賢い姫であった。少し恐ろしいほどに。
そのエメラルドの瞳は、嘘も誤魔化しも許しはしない。
「王妃様は……」
そんなエレーナをよく知る魔女は、嘘をつくことも出来ず、ただ沈黙した。
魔女は嘘をつくことがない。
嘘をつく必要もないからだ。だが、今ばかりは、嘘をつけぬ我が身を、フィアナは恨めしく思った。
そんな魔女の沈黙から、母の具合が良くないことを悟って、エレーナは「ハァ」と深いため息をつく。
そうして、諦めたように言った。
「もういい。母上の病状はいっこうに良くならぬな。相変わらず、夢の世界で歌っておられるのか」
狂った王妃。
エリックの妻であり、エレーナとユーリクの母である王妃ユリアーナが、王宮の者たちからそう呼ばれるようになって、もう十年もの月日が流れようとしている。
隣国オルフェリアから嫁いできた無邪気な姫。
鈴を鳴らすような可憐な歌声と、愛らしい容姿から、小鳥姫と呼ばれたユリアーナ。
だが、それも昔のこと。
十年ほど前から、彼女は心を病んでいて、正気に戻ることは殆どないと言っていい。王妃としてエリックの横に立つことはなく、ユリアーナは毎日毎日、昼夜を問わず、王妃の自室で歌を紡いでいるだけだ。「小鳥よ、小鳥。歌っておくれ――」と。
誰に向けたものなのか、虚ろな目をして、嘆きの歌を歌い続けているだけ。この十年もの間、ずっとそれは変わることがない。
十年前に、長女であるエレーナを。八年前に、世継ぎの王子であるユーリクを生んだあとも、それは変わらない。
どうして、小鳥のようと言われた王妃が、心を閉ざしてしまったのか、その理由を誰も語ることはない。ただ、魔女は真実を知っている。
王弟セリウスが、兄王エリックの暗殺を企み、牢獄に幽閉された日から、王妃ユリアーナは心を閉ざしたのだと。
そう、セリウスが、エレーナの父が幽閉された日から――
「エレーナ姫様」
「何だ?フィアナ」
「――この薬草でつくった薬と一緒に、王妃様のお部屋に、花をお持ちしようと思うのです。エレーナ様も、一緒に摘んでくださいませんか?」
フィアナは籐のかごを示すと、その方が王妃様もお喜びになるでしょう、と言葉を続ける。
王宮の中庭に咲く花から、王妃様の部屋に届ける花を、選んでくださいませんかと。
そんな魔女の提案に、姉姫エレーナよりも先に飛びついたのは、弟王子ユーリクだった。
「摘みたい!母上のために、綺麗な花冠を作ってあげる!ね?エレーナ姉上」
ユーリクが無邪気に、若草色の瞳を輝かせる。
まだ幼い王子には、王家の抱える事情は、まだ良くわかっていないらしかった。
ただ滅多に会えぬ母に、喜んでもらいたい一心で、ユーリクは姉の手を引っ張る。
「わかった。綺麗な花冠を作ろう。ユーリク」
「うん!」
姉の返事に、ユーリクは嬉しそうにうなづき、フィアナの方を向いた。
「ねぇ、フィアナも手伝って?せっかくだから、父上の分も作ってあげよう!きっと父上も喜ぶよね」
国王として多忙な日々を過ごすために、たまにか会えない父を喜ばそうと、ユーリクは提案する。
たとえ高貴な生まれであろうとも、父や母を恋しく思う気持ちは、平民の子も王族の子も何ら違いはない。
そんなユーリクを優しい目で見つめ、フィアナは微笑んだ。
「ええ。喜んで。エリック陛下も、きっとお喜びになりますよ」
「うん!フィアナにも作ってあげるよ。綺麗な花冠を!」
「ありがとうございます。ユーリク殿下」
ユーリクはえへへ、と照れたように微笑むと、地面にしゃがんで花を選ぶ。
綺麗な花を選ぶのだ。
父王や母上や魔女や、そして大好きな姉上が――エレーナが喜んでくれるようにと。
王宮の闇も知らず、ユーリクはただ一途に、姉のことを慕っていた。
彼は父王のことも母上のことも、魔女のことも好きだったが、その中の誰よりも姉が好きだった。
炎のような深紅の髪に、エメラルドの瞳を持つ姉姫。
美しくて賢くて、そして強い姉のことを、ユーリクは王宮の誰よりも尊敬していた。誰よりも誰よりも、姉が一番だった。
幼い頃からずっと、ユーリクの前に立ち、彼を導いてくれた優秀な姉姫エレーナ。
この姉と共に、ローズティア王国を平和に治めていくのだと、この時のユーリクは疑っていなかった。
姉の炎のような深紅の髪と、エメラルドの瞳に魅せられていた。
これからも、ずっと一緒に。
その未来を当然のことだと、幼い王子は思っていた。これから待ち受ける、残酷な未来を知りもせず。
「……」
王城の中庭で、仲良く花を摘んで、父や母に贈る花冠を作る姉姫と弟王子に、フィアナは祈るような眼差しを向けた。
――どうか、この二人に残酷な未来が訪れませんように、と。
仲むつまじい姉弟。
それは、彼らの祖父レオハルトが、そして彼らの父エリックが望み、叶えられなかった願いだ。
彼らは同じ血を分けた兄弟を愛しながら、その想いが伝わることはなく、結果として憎まれることになった。レオハルトもエリックも、そんなことは少しも望んでいなかったのに。
誰もが、彼らに流れる王家の血ゆえに、彼らの頭上に輝く王冠ゆえに苦しんだ。そんな運命は、ここで断ち切らなければ――
「どうか、このままで」
そんな暗い歴史を、王家を見守ってきた魔女だからこそ、フィアナは祈る。
愛憎の末に生まれた異父姉弟――エレーナとユーリク。
彼らの背負う宿命は重くとも、どうかこのまま、憎しみあうことなく過ごしてほしいと。父たちのように、道を違えることなく、成長してほしいと。
それが、どれほど難しいことか知りつつも、魔女はそう願わずにはいられなかった。どうか、このまま平穏な時が続きますように。
「――どうか、見守っていてくださいませ。レオハルト殿下」
彼の孫を見守るフィアナの胸では、蒼華石の首飾りが、昔と同じように輝いていた。
その日の深夜のこと。
侍女たちの目を誤魔化し、ひそかに部屋を抜け出したエレーナは、王宮の敷地内のある塔の前に立っていた。そんな彼女の横には、屈強な体格をした実直そうな男――王家に仕える騎士レスタードの姿がある。
空は曇り、月明かりすらない夜。
周囲の風景は真っ暗な闇に包まれて、騎士レスタードの持つ燭台の灯りだけだというのに、十歳のエレーナ姫に怯えた様子は欠片もない。
堂々と背筋を伸ばし、凜とした王家の者らしい顔つきで、真っ直ぐに眼前の塔を見つめている。
そのエメラルドの瞳に映るのは、灰色の高い塔であった。
数代前のローズティアの国王が建てたとされる、高貴な罪人を幽閉するための、高い高い塔。
逃げ出すことも、人と会話することも叶わぬゆえに、王城の者たちから《嘆きの塔》――と呼ばれるそこ。
王族の亡霊が出ると噂のそこを、エレーナは恐れなど微塵もなく、うっすらと微笑んで見つめていた。
彼女は唇を開くと、隣に立つ、騎士レスタードに尋ねる。
「あれが、《嘆きの塔》か?レスタード」
エレーナの問いに、レスタードは震えながら答える。
「は、はい。さようでございます。エレーナ姫様」
騎士が震えているのは、寒さゆえではない。
騎士レスタードは滑稽なことに、十歳になったばかりの幼い王女を、心から恐れていた。冗談ではなく、この深紅の髪をした王女の一挙一動に、大の男が怯えているのである。
これは、レスタードが臆病者だからではない。相応の理由があってのことだった。
王宮の誰も、信じはしないだろう。
この幼い王女が、全てを支配し、食らいつくす獣のような心を持っているとは――
「ふむ。では、行くか。レスタード?嘆きの塔を登りきり、私は夜明けまでに部屋に戻らねば、侍女たちに怪しまれる……それは避けねばならん。行くぞ」
エレーナの命令に対し、レスタードは狼狽したように、首を横に振った。
王女が嘆きの塔に登る。
ローズティア王家に仕える騎士として、それだけは認めるわけにはいかなかった。
「お、お待ちになってください。エレーナ姫様。王の許可なく、《嘆きの塔》に立ち入るは、重罪でございます……もし、これが明らかになれば、私の首は胴より離れます。どうか、どうか、思いとどまって下さいませ。姫様!」
騎士の必死の懇願にも、エレーナは冷たい目で、ふんっと鼻を鳴らしただけだった。
そんなことで止めるようなら、そもそも彼女はこの場にいない。
「往生際が悪いぞ。レスタード。いまさら怖じ気づくな」
「で、ですが、この塔には王の命を狙った大罪人――セリウス王弟殿下がいるのですぞ!危険です!」
騎士は必死の思いで、声を張り上げた。
セリウス王弟殿下。
優雅な美貌と、洗練された物腰。聡明な頭脳で知られたが、十年前に王の命を狙ったゆえに、《嘆きの塔》に幽閉された高貴なる罪人。
王の命を狙った理由は、王位を望んだからとも、兄への嫉妬ゆえだとも言われているが、いずれにせよ大罪人を王女に会わせるわけにはいかない。
そんなレスタードの説得に、エレーナはふぅ、と呆れたような息を吐いた。
「レスタード」
「はっ」
「――お前には確か、五歳になる娘がいると言ったな。母を早くに亡くした不憫な子だとか」
真っ赤な唇をつり上げて、エレーナはクスクスと、残酷に笑う。
たらり、とレスタードの背を冷や汗が流れた。先ほどから、体の震えが止まらない。
「おやめください。エレーナ姫様。娘には、娘にだけはどうか……」
「可哀想になあ。そう思わぬか?レスタード。母を亡くし、父も消えれば、娘は一人ぼっちだな。不憫なことよ」
命令を断れば、命の保証はしない。
エレーナの脅迫に、レスタードは膝まづき、地面に頭をこすりつけんばかりにして、残酷な姫の慈悲を乞うた。
「ご慈悲を。どうか、娘にだけは手をださないで下さいませ。何でも致しますから、どうか。エレーナ姫様!」
「良かろう。その言葉に二言がなければ、立つが良い。レスタード……《嘆きの塔》を登って、王の命を狙った大罪人に、会いに行こうではないか?」
エレーナはそう言うと、実の父によく似た、冷たくも美しい微笑みを浮かべた。
その残酷な微笑みに、レスタードは目を奪われる。
月光の下で、なおも輝く深紅の髪と、エメラルドの瞳。
残酷で獣のような心の持ち主ではあったが、それでもなお人を惹きつける何かを、エレーナは持っていた。怖いもの見たさとでも言おうか、この王女に従えば、間違えなく破滅の道に向かうとわかってはいるのに、なぜか逆らうことが出来ない。
その先に待つのが、無限の地獄と知っていても。
例えるならば、羽虫が炎に引き寄せられるようなものだ。その炎に、身を焼かれることは、考えずともわかるのに。
その深紅の炎に、魅せられる――
「――私は王冠を手に入れる。そのためならば、たとえ、この手を血に染めてもかまわない」
実の父が幽閉された塔の階段に、片足をかけて、エレーナは宣言した。
それは誓い。
彼女は王位が欲しかった。何を犠牲にしても、どれほどの血を流そうとも。そのためならば、弟を犠牲にすることすら、ためらいはしない。
そうして、再び罪の扉は開かれるのだ。
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