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三章 玉座を望んだ姫君 3−3


 姉は炎のような人だった。
 漆黒の闇夜の中で、燃え盛る赤い炎のような。
 その深紅の炎の美しさに、人は惹きつけられるのだろう。それが、どんなに愚かなことか理解していても――

 ユーリクがそれを見たのは、今からもう、十年ほど前のことだと思う。
 彼がまだ八歳で、姉のエレーナが十歳だったはずだ。
 ある闇夜の晩のこと、なかなか寝付けなかったユーリクは、コツコツと廊下を歩く足音を聞きつけた。
 深夜の足音を不思議に感じて、ユーリクはこっそりと寝台を抜け出すと、廊下をのぞきこんだ。それは、ほんのちょっとした好奇心だったのだ。それが、あんなに恐ろしいことになるなんて、その時の彼は想像すらしなかった。
 ゆらゆら、と赤い炎が揺れる。
 暗い廊下で揺れる炎に、ユーリクは目をこらした。
 揺れているのは炎ではない。燭台だ。
 ロウソクを持った人が、暗い廊下を一歩、一歩、ゆっくりと歩んでいる。ゆらり、ゆらり、と赤い炎が。
 その燭台の炎に惹きつけられるように、ユーリクは扉を半開きにし、燭台を持つ人の顔を確認した。暗い暗い廊下で、燭台に照らされたのは、ユーリクと変わらない低い背丈と、あざやかな深紅の髪――燃える炎のような。
 その深紅の髪の持ち主を、ユーリクはよく知っていた。
「……エレーナ姉上?」
 こんな深夜にまさか、と思いつつも、ユーリクが姉姫を見間違えるはずもない。
 何より、暗い闇の中でさえ、その深紅の髪は目立つ。
 燭台を持つ姉の横顔は、うっすらと微笑んでいた。
 ――綺麗で、怖い。
 そのエレーナの微笑みに、ユーリクはわけもなく恐怖を抱く。
 姉のことを怖いと感じたのは、生まれてから初めてだった。
 ユーリクにとって、最も身近な存在である姉――エレーナ。
 父・エリックはローズティア王国の王としての政務に忙しく、母・ユリアーナは歌にしか興味を示さない。ユーリクは両親よりも、乳母と“王冠の魔女”フィアナに育てられたようなものだ。王族として当たり前のこととはいえ、それを孤独に思わないわけがない。そんなユーリクにとって、唯一つの救いとも呼べるのが、二つ年上の姉――エレーナだった。
 燃えるような深紅の髪に、意思の強いエメラルドの瞳。見る者に、あざやかな赤を想わせる姉。
 柔らかな亜麻色の髪に、淡い若草色の瞳を持つユーリクとは、全くと言っていいほどに似ていないが、彼にとっては唯一人の姉弟と言える存在である。
 幼い頃から、文でも武でも優れた才を発揮した姉は、ユーリクの目標であった。学問の師にも剣の師にも、称賛される優秀なエレーナ。二つ年下の弟王子にとって、そんな姉姫は誰よりも憧れ、追いつこうとする人だった。そう、誰よりも――
 そんな姉が深夜、暗い廊下を燭台を持って、足音を殺して歩いている。
 何かあるのか、とユーリクが訝しがったのも、当然のことだ。
 ユーリクはふらふらと引き寄せられるように、そっと息を殺して、姉の後をついて歩きだした。
 その行動に、何か意味があったわけではない。ただ、知りたかったのだ。姉がどこに行こうとしているのか、何をしようとしているのか。だが、それは間違っていたと、後になればわかる。
 もし、ここで姉の歩みを止めていれば、彼らの運命は変わっていたのかもしれないと――
「――エレーナ姫様」
 その時だった。
 柱の陰から、声と共に一人の男が姿を現したのは。
 姫と同じように、燭台を手にしたその男に、エレーナは話しかける。
「待たせたな。レスタード。首尾はどうだ?」
 姿を現したのは、屈強な体格を持つ、実直そうな男だった。
 近衛隊の騎士レスタード。
 祖父の代から、ローズティア王家に仕える騎士であり、ユーリクもよく見知った男だった。
 思いがけない人物の登場に、ユーリクは声を上げそうになったが、慌てて口元を押さえる。声を出したなら、こっそりつけてきたのが水の泡だ。姉に気付かれたなら、自分の部屋に追い返されるのは、目に見えている。
 姉の目的を知りたければ、黙ってついて行くしかない。
 柱の陰に隠れたユーリクに気付いていないのか、「首尾はどうだ?」というエレーナの問いに、騎士――レスタードは苦悶の表情を浮かべた。
「……見張り番の騎士には、眠り薬を盛っておきました。本当に、行かれるのですか?エレーナ姫様」
 見張り番の騎士には眠り薬を盛ったと、不穏な台詞を言ったレスタードは、いかにも辛そうに顔を歪める。望まないことを無理にしているような、そんな表情だ。
 苦悩する騎士の問いかけに、冷やかに笑う。
「今更だな。私は行かねばならん。あの≪嘆きの塔≫へ」
 嘆きの塔。
 エレーナの口から出た言葉に、ユーリクは息をのんだ。
 高貴な罪人を幽閉するために、灰色の塔。幽閉された者は、生涯そこを出ることが叶わず、嘆くしかないゆえに――≪嘆きの塔≫と、そう呼ばれているのだという。
 一般の兵士や役人はもちろん、王子や王女でさえ、王の許可なく≪嘆きの塔≫に近づくことは堅く禁じられていた。それは、許されざる罪だ。
 その罪の重さを十分に知りながら、姉は≪嘆きの塔≫に向かうというのか――
「エレーナ姉上……」
 何ということを、姉はしようとしているのか……。
 ユーリクの口から、かすかな呟きがもれる。
 その小さな声を聞きつけて、エレーナは振り返った。
「……レスタード」
 年に似合わぬ艶然とした微笑みを浮かべると、エレーナは隣に立つ騎士の名を呼ぶ。
「はっ!」
「何やらネズミがいるようだぞ?」
「ネズミ……?」
 怪訝な顔をする騎士をよそに、エレーナは軽やかな足取りで、ユーリクの隠れた柱へと近づいて来る。一歩、一歩、コツコツという足音を奏でながら。
「ユーリク……お前か」
 いつもと同じ、穏やかな姉の声に、ユーリクは伏せていた顔を上げた。
 深紅の髪に、エメラルドの瞳。
 自分ともちっとも似ていないのに、どこか似た雰囲気を持つ姉の視線に、ユーリクは逃げられないと悟る。すぅ、と息を吐くと、姉の名を呼んだ。
「――エレーナ姉上」
 窓から、一筋の月光が差しこむ。
 輝く銀の月が、彼ら姉弟を照らしている。
 淡い月光に輝く深紅の髪と、深い深いエメラルドの色をした瞳。その唇もまた赤く、三日月のように微笑んでいる。
 あざやかな深紅の髪が、闇夜によく映えていた。
 ――まるで、炎のように。
 夢か、現か。
 姉の白い手が、自分に伸ばされるのを、ユーリクは呆然と見ていた。白いエレーナの手が、ユーリクの亜麻色の髪を撫でる。サラサラ、と優しく。
「ユーリク。どこまで聞いた?」
「……」
 無言で目を伏せるユーリクに、エレーナの笑みが深くなる。
「答えよ」
「……最初から。姉上たちが≪嘆きの塔≫に行くと、言ったところまで」
 姉の冷やかな声が怖くて、ユーリクは正直に答えた。
「そうか……」
「やめようよっ!エレーナ姉上っ!≪嘆きの塔≫に近づいちゃいけないって、父上も言っていたよっ!今なら、誰にも言わないって、約束するからっ!」
「ふふ……」
 必死に言葉を重ねるユーリクを、なぜか微笑ましいものを見るかのような表情で、エレーナは笑う。愚かな弟を、憐れむように。
「――お前は良い子だ。ユーリク。私の愛しい弟よ……お前はいつだって姉想いで優しくて、父上によく似ている。だからこそ、お前が愛おしくて憎いよ。己の出生に、何の疑問も持たぬ、お前が」
 エレーナの言葉に、ユーリクは表情を凍らせる。
 己の出生?
 姉は何を言っているのだろうか――
「エレーナ姉上……?」
 絶望を知らず、曇りのない瞳を向けてくる弟に、エレーナは「ふふふ」と鈴を鳴らすように笑った。ああ、おかしい!この哀れで愚かな弟は何も知らない!≪嘆きの塔≫に幽閉された囚人のことも、父が隠す秘密も、王妃が狂った理由も、魔女の沈黙も何一つ――
 自分たちの父が異なるということさえ、この弟は知らないのだ。ああ、おかしい!おかしい!何と滑稽なる悲劇だろうかっ!
「――お前はそれでいい。ユーリク。哀れで、愚かな弟よ……真実を知らぬままに、偽りに幸福を抱えて、つまらぬ生を送るといい。父上と同じように……だが、忘れるな」
 後年、流血の薔薇と謳われることになる王女は、エメラルドの瞳で弟を睨みつけた。同じ母を持ち、異なる父を持つ弟を。
「エレーナ……姉上……」
 ユーリクが呻くように言う。
 この少女は危険だと、本能がささやいているのに、なぜか足は動かない。逃げることも叶わない。姉の過ちを知りながら、なぜか逆らえない。離れられない。
 その深紅の炎に、囚われたように――
「――お前が王家の光ならば、私は王家の闇。光のない場所に、闇が存在しないように、闇のない場所に光も存在しない。真実を知ろうが知るまいが、お前は私から離れられないのだよ。ユーリク」
 いつもと態度を豹変させた姉を、ユーリクは呆然と見つめる。どうして、なぜ、真実とは何か、いろいろと問いたいことは山ほどあるのに、なぜか言葉にならない。
 呆然と立ち尽くす弟に、エレーナは優しげな微笑みを向けると、「レスタード」と傍らに立つ騎士に声をかける。
 それが合図だったかのように、騎士の手刀が、ユーリクの首筋へと振り下ろされた。その事実に気づかぬうちに、幼い王子の意識は闇へと落ちる。
 そうして、次の目覚めた時、ユーリクは自室の寝台に横たわっていた。まるで、全てが夢だったかのように。
 首に残るアザだけが、昨夜の出来事が夢でなかったことを、彼に教えてくれた。
 ――お前が愛おしく、憎いよ。己の出生に、何の疑問も持たぬ、お前が。
 その言葉は、薔薇のトゲのように、幼い彼の心を突き刺す。血こそ流れなくとも、その傷が癒えることはない――それが、今から十年も前のことだ。

「――ユーリク。起きろ、ユーリク」
 自分の名を呼ぶ声に、ユーリクは十年前の悪夢から目を覚まし、ゆるゆると瞼を上げた。
 その父から受け継いだ若草色の瞳に映るのは、あざやかな深紅の髪。まだ焦点の定まらない目をしながら、ユーリクは眼前に立つ人の名を呼んだ――十年前のあの夜から、自分に消えぬ疑問を与えた姉を。
「……エレーナ姉上」
 ユーリクの呼びかけに、姉姫は微笑んだ。
 そして、からかうような口調で言う。
「――どうした?顔色が悪いな。悪夢でも見たような顔をしている」
 あの夜から、十年の月日が過ぎた。
 少年だったユーリクは十八歳の青年になり、少女だった二つ年上の姉エレーナは、深紅の髪にエメラルドの瞳の女に成長した。あの夜の記憶は今では、遠い過去のことだ。時折、ユーリクは全てが夢だったのではないかと、思えることすらある。だが――
 ――お前が愛おしく、憎いよ。己の出生に、何の疑問も持たぬ、お前が。
 あの夜、エレーナのいった言葉が、どうしても耳から離れない。あれからもう、十年も経つというのに。
 ――お前が王家の光ならば、私は王家の闇。光のない場所に、闇が存在しないように、闇のない場所に光も存在しない。真実を知ろうが知るまいが、お前は私から離れられないのだよ。ユーリク。
 隠された真実。
 ≪嘆きの塔≫。
 父の後悔。母の狂気。姉の憎しみ。そして、“王冠の魔女“の沈黙――
 それが、何を意味するのか、ユーリクにはわからない。だが、知ってはいけない気がした。隠された真実が明らかになる時には、何かが崩壊する気がする。ローズティア王家の闇を、明らかにしてはならない。何も知らなかった幼き日に、彼はそう決めたのだから。
 時は流れていく。
 歴史は刻まれていく。
 だが、どうかこのままで――
「……夢は夢ですよ。エレーナ姉上。時が流れれば、忘れてしまう」
 ユーリクの答えに、今や美しい女に成長した姉は、つまらなそうに眉を寄せた。期待はずれの答えだという風に。
「ふん……相変わらず、つまらぬ男だな。ユーリク。優しくて穏やかだが、面白味がない……父上によく似ている。顔も気性も」
「……」
 蔑むように言う姉に、弟は沈黙した。
 随分と前から、エレーナは父王・エリックのことを、疎んでいた。憎んでいたと言ってもいい。いや、むしろ憐れんでいたかもしれない。
 優しい王。
 父・エリックが、そう呼ばれていたというのは、今や随分と昔の話。彼ら姉弟が幼い時に母が――王妃ユリアーナが病死してから、父は変わってしまった。国政に対する興味は薄れ、大事な決断は宰相や大臣に任せて、自分では何もしようとはしない。その結果、王宮には奸臣がはびこり、ローズティア王国の政治は乱れかけている。
 それも当然のことだろう。
 弱い王には誰もついてこない。
 王とは強く、道を間違えぬ者でなければ、許されないのだから。
 名君と謳われたレオハルトを父に持つというのに、ユーリクの父はひどく凡庸な王だった。
 いや、凡庸なだけならいい。父はひどく臆病な男だった。自分が動くことで、何かが変わってしまうことを、いつも恐れていた――息子と同じように。
 ――父上によく似ている。
 幼い頃から、ユーリクはそう言われ続けた。確かに、髪の色こそ母譲りなものの、彼と父はよく似ていた。若草色の瞳も、優しげな顔立ちも声も、その性格までも。ああ、そうだ。姉の言う通りだ。自分は父とよく似ている。真実と向き合えない弱さも、決して届かないものだとわかっていながら、手を伸ばしてしまう脆さも。
 ああ、そうだ。姉はいつだって強くて、迷いがない。
 父とも自分とも母とも似ていない。一体、誰に似たのだろうか。
 この炎のような姉は――
「なぁ、ユーリク」
 ふふふ、と微笑みながら話しかけてくる姉に、ユーリクは不吉な予感を覚えた。
「……何ですか?エレーナ姉上」
「父上のお体の具合が悪いのは、お前とて知っているだろう?ここ数年、なんとか誤魔化してきたが、もう限界だ。今の父上の体は、国王の激務には耐えられまいよ……その証拠に、今の王宮には奸臣ばかりが、大きな顔をしてはびこっている。父上が無関心なのを、良いことにな」
 忌々しいことよ、と舌打ちする姉の言いたいことは、ユーリクにはよくわかった。
 言いたいことは一つだけ。
 弱い王はいらぬということだ。
「――父王が退位される、ということですか」
 感情の宿らぬ声で、ユーリクは姉の意を受け止める。
 いつか、こういう日が来るとわかっていた。むしろ、遅すぎたくらいかもしれない。
 国王エリックの二人の子――エレーナとユーリクは成人した今、数年前から体調を崩している父王がいつ退位されても、早すぎるということはないのだから。
 そう父王が退位されたら、あいた玉座は――
「ああ。父王が退位されたら……」
 エレーナは愉しげな口調で言うと、白くほっそりとした指を、ユーリクの首筋へと伸ばした。
 そして、笑う。
 あの闇夜の晩と同じように。
「――私がお前か、玉座につくのは、どちらだろうな?」
 そうして、やがて一つの時代の終焉が訪れる。


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