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三章 玉座を望んだ姫君 3−4


 私は父のようにはならない。
 王位を巡る争いに敗れて、幽閉されて死んだ父のようには。
 私は玉座についてみせる。たとえ、この手を血に染めたとしても……。
 それは、王女エレーナの揺らぐことなき誓いである――

 第一王女エレーナが、≪嘆きの塔≫に幽閉された高貴なる罪人の話を耳にしたのは、今より十数年も前のこと。
 彼女がまだ少女と呼ばれていたころの話だ。
 ――≪嘆きの塔≫には罪人が住む。国王エリックが愛し憎み、それでも殺せぬ罪人が。
 エレーナの前で、その罪人の話をもらしたのは、王女付きの侍女の一人だったろうか。今はもう、その侍女の名前すら思い出せないが、その女のもらした一言が、王女エレーナの運命を変えたのだ。
『――あの灰色の塔には誰が住んでいる?』
 陰気な灰色の塔――≪嘆きの塔≫を、エメラルドの瞳に映し、幼い王女は塔を指差す。
 幼き日、無邪気にそう尋ねた姫に、侍女は顔を凍りつかせて、震える唇で答えたものだった。
『あの灰色の……≪嘆きの塔≫には、罪人がいるのです。名を奪われた高貴なる罪人が』
 ――その名は忌むべきもの。玉座を巡る争いに敗れた者の名は、誰の記憶にも残らぬ。
 良いですか、姫様。
 元は、小鳥の王妃と呼ばれた母に仕えていた侍女は、声をひそめてエレーナに告げる。決して、あの≪嘆きの塔≫に近づいてはなりません。その名を口に出してはいけません。その名を呼ぶことは許されません。決して、決して。特に国王陛下の前では――
 罪人の名を口に出してはなりません。
 おわかりですか?エレーナ姫様。
 顔を強張らせながら、幾度も幾度もそう念を押す侍女に、エレーナは大人しくうなづいた。だが、彼女の心の中では、その≪嘆きの塔≫に住む罪人への興味が尽きることはなかった。あの≪嘆きの塔≫の罪人とは誰なのか、と。幾年もの月日が過ぎようとも、その疑問は薄れることなく、心の奥底にあり続けた。
 忌むべき名。
 許されぬ罪。
 狂った王妃。
 そして、高貴なる罪人――
 全てがあの、灰色の塔に≪嘆きの塔≫に繋がっていたのだから、エレーナが塔の真実を知ろうとしたのも、当然の成り行きであった。後で考えてみれば、全ての闇は≪嘆きの塔≫へと隠されていたのだから。
 決して、≪嘆きの塔≫へと足を運ばぬ父王エリック。その灰色の塔に向って、「小鳥よ、小鳥……」と歌い続ける王妃ユリアーナ。自分と少しも似ていない弟王子ユーリク。そして、“王冠の魔女”フィアナは真紅の瞳を伏せて、ただ沈黙を続ける。誰も彼も、真実を語ろうとはしない。ローズティア王国の玉座を守るために。
 ――≪嘆きの塔≫には罪人がいる。玉座を望み、その争いに敗れたものが。
 だから、彼女は灰色の塔へと足を踏み入れたのだ。王家に仕える騎士レスタードと共に。
 隠された真実を知るために。そして、己の野望を叶えるために。
 ――私は王となるのだ。そのために何を犠牲にしようとも、必ず……。
 それは、王家に生まれた者の宿命であったのかもしれない。
 王冠の魔力に引き寄せられるように、運命の糸に踊らされるように、真の父であるセリウスと同じく、エレーナもまた王位を望んだのだ。
 何を犠牲にしても、彼女は玉座につきたかった。その争いに敗れて、名も無き罪人にはなりたくなかった。自分か、弟のユーリクか、王と呼ばれるのは一人だけなのだから。その願いが同じであるならば、自分と半分の血を分けた弟は憎しみ合うより他にないのだ。
 歩みゆく道の先が、破滅と知っていようとも。それが、運命であるならば。
 そう、全てが遠い日々になった今、彼女は思う。
 もし、≪嘆きの塔≫に住む罪人のことを知らなければ――と。
 それが、きっと運命の分かれ道であったのだ。
「――お前は誰だ?」
 塔を上ってきた王女に、罪人はそう問いかけた。
 天高くそびえ立つ、灰色の≪嘆きの塔≫。
 王家に仕える騎士レスタードと共に、石段を息を切らせながら上ってきたエレーナを出迎えたのは、低く冷やかな声だった。その声に引き寄せられるように、王女は鉄格子を中をのぞきこむ。
 灰色の壁。
 黒い鉄格子。
 ひんやりとした空気がただようそこには、高貴なる罪人が居た。国王エリックと同じ血を分け、大罪を犯した弟が。
 その罪人は鎖に繋がれてはいなかった。鉄格子で閉じ込められているとはいえ、牢の中は清潔に整えられており、ここが高貴なる罪人を幽閉するための場所であることを、否応なしに感じさせる。
 エレーナが鉄格子に顔を近づけると、その罪人は寝台から身を起こした。
 そうして、ゆったりとした足取りで、深紅の髪の王女へと歩み寄った。罪人が近づいてきても、王女は目を逸らすことはしない。
 鉄格子の中にいたのは、赤みがかった金髪に、エメラルドのような深緑の瞳をした男だった。
 かつて、王弟殿下と呼ばれていた罪人である。
 その端正で、どこか冷たい面差しは、エレーナとよく似ていた。その赤き炎を想わせる髪も、エメラルドのような深緑の瞳も、彼ら二人の血の濃さを象徴するようだった。
 その事実に気付きながらも、エレーナは微笑みすら浮かべて、己の名を名乗る。玉座を欲し、その争いに敗れた真の父に。
「――ローズティアの第一王女エレーナ。国王エリックと王妃ユリアーナの娘だ。貴方は?≪嘆きの塔≫に幽閉されし、罪人よ」
 王女エレーナの言葉に、その高貴なる罪人は一瞬、呆けたような顔で幼い少女の顔を見つめて、そして狂ったように笑いだした。運命のおかしさと皮肉さを、噛みしめるように。いつまでも、いつまでも、男の笑い声は牢獄の中に響く。
 ――あはははははははっ!お前があの時の娘か。
 無邪気で、どこかネジの外れたような笑い。その笑い声の不快さに、王女のかたわらに立つ騎士は眉をひそめる。
 しばらく笑い続けていた罪人は、ようやく笑うのをやめると、そのエメラルドのような瞳で、静かにエレーナを見つめた。
 その血の繋がりを、過去の罪を思い出すように。
 そうして、歴史に名を残さぬ王子は、消されたはずの己の名を名乗った。
「――私の名は、セリウス」
 かくして、禁忌の扉が開かれる時、再び悲劇の幕は上がる。

 その部屋から流れてくる歌声に、“王冠の魔女”フィアナは足を止めて、部屋の扉に手をかけた。
 ギィ、という音と共に、重厚な扉が開かれる。
 先々代の国王レオハルトの肖像画が飾られ、その蒼華石の瞳が見守る部屋で、深紅の髪の王女が歌っていた。母には及ばないものの、美しい歌声を持つエレーナが。
 あの日から十年もの時が過ぎて、少女から女へと姿を変えた王女が、母と同じ歌を紡いでいる。
「小鳥よ、小鳥、泣いておくれ。
 愛しき人の悲しみに。冬の嘆きを翼にのせて、あの人へ届けておくれ。
 どうか愛しき彼の人に――」
 それは、今は亡き王妃ユリアーナが好んだ歌だ。
 美しく、どこか物悲しい旋律。
 在りし日に小鳥姫と呼ばれた王妃が、歌い続けた哀歌。
「小鳥よ、小鳥。哀れな小鳥――」
 その物悲しい歌声を聞きながら、フィアナは目を閉じた。
 悲しみの冬を歌う声は、喜びの春と悲しみの冬を繰り返した、ローズティア王国の歴史を想わせる。そして、それは王国と共に数百年の時を過ごした魔女の、記憶そのものでもあった。
 ああ、とフィアナはため息をもらした。
「小鳥よ、小鳥。哀れな小鳥――」
 ――真に哀れなのは、誰なのだろう?
 ささやかな望みを抱きながら、王位につくしかなかったレオハルト殿下か。
 王位につきながら、優秀な弟の影に怯え続けたステファン殿下か。
 優しい心を持ちながら、苦しみに満ちた生涯を送ることになったエリック陛下か。
 届かぬ玉座を欲し、多くの罪を重ねてしまった哀れなセリウス殿下なのか。
 小鳥姫と呼ばれた悲しい王妃ユリアーナだろうか。
 あるいは王家の愛と憎しみを、受け継ぐしかなかった二人の子。エレーナとユーリクなのか。
 それとも、幾度も繰り返される悲劇を、見守り続けるしかなかった“王冠の魔女”フィアナ=ローズなのだろうか――
「――エレーナ姫様」
 窓辺に立ち、歌い続ける王女の背に、フィアナはそう声をかけた。「小鳥よ、小鳥。哀れな小鳥……」と、歌っていたエレーナは、魔女の声に振りかえった。ふわり、と炎を想わせる深紅の髪が、風に吹かれて揺れる。
「フィアナか……何か用か?」
 そう尋ねてくるエレーナに、フィアナは目を伏せた。
 魔女は膝を折り、恭しく頭を垂れると、国王エリックからの言葉を告げる。
 王位を継ぎうる王女と王子。その片割れへと。
「――エリック陛下が、退位を決断なさいました」
 真紅の瞳の魔女が告げる。国王の交代劇。
 ――国王の退位。
 フィアナの知らせを、エレーナはそう動揺もなく受け止め、「そうか」と言っただけであった。いずれ、こんな日が来ることはわかっていたから。父王エリックは、数年前から体調を崩し、政務を取るのも困難な有様だった。だから、国王の退位が、早すぎるということはない。むしろ、遅すぎたくらいである。
 あとは、誰が王位を継ぐかという問題だけ。姉姫エレーナか、弟王子ユーリクか。
 幼いころから、愛し合い、憎み合い、対として共にあった二人の子。だが、ローズティアの王位を継ぐのは、たった一人だ。
 この王国で、民から王と呼ばれるのは、唯一無二の玉座を得た一人のみ。
 ――だが、ようやく決まった。王位を継ぐのは私だ。
 魔女の言葉を聞いて、エレーナはそう確信する。
 国王エリックが誰よりも信頼し、常に王のそばにある“王冠の魔女”フィアナ=ローズ。国王と王妃の病弱につけこんで、奸臣のはびこる王宮にあって唯一、王と王家に忠誠を尽くす、不老不死の魔女である。
 そんなフィアナが王の退位を告げに、エレーナを訪ねてきたというのは、国王エリックが次代の王として、彼女を――エレーナを選んだということに他ならない。
 実の息子であるユーリクではなく、自分の娘としながらも、本当は弟の娘であるエレーナを。許されぬ罪を犯したとはいえど、父母を同じくする実の弟を≪嘆きの塔≫に幽閉し、牢獄で死なせた罪滅ぼしのつもりだろうか?
 ――理由など、どうでも良いことか。私は王になる。父王のように弱い王ではなく、真の父のように玉座を巡る争いに敗れることもなく、母のように狂うこともなく……強い王になってみせよう。誰よりも、誰よりも。
 そのために、何を犠牲にしても。
 幼き日に、深紅の髪の王女が抱いた誓いは、いつしか現実となる。それが運命であったように。
 数ヶ月後、春が訪れる頃に、ローズティア王国に新たな女王が誕生した。

 そして、それこそが流血の薔薇と謳われた女王エレーナの、恐怖政治の始まりであったのだ。


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