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三章 玉座を望んだ姫君 3−5


 ――ローズティア王国に、新たな女王が即位してから、二年の月日が過ぎようとしている。

 炎を想わせる深紅の髪に、エメラルドの瞳の若き女王エレーナ。
 新たな美貌の女王の即位は、王国の民に期待を抱かせ、また王宮においても歓迎された。なぜ、年若き女王が宰相や大臣たちに受け入れられたかといえば、扱いやすいと思われたからだ。
 先王エリックの治世において、王が年々、何事に対しても無気力になっていくのにつけこんで、多くの奸臣たちが王宮にはびこり、甘い蜜を口にするように、卑劣な手を使って私腹を肥やすものが後を絶たなかったという。
 そんな彼らとは対照的に、真に国を憂う忠臣たちは王のそばから遠ざけられた。
 エレーナが女王になることを望んだのは、どちらかといえば、権力を手放したくない奸臣たちだった。
 数々の不正を行い、私腹を肥やしていた彼らは、その罪が明らかになることを何よりも恐れた。そんな彼らが王の望んだものは、自分たちに都合の良い傀儡としての役割だった。自分たちの言いなりになる、傀儡の王を。
 ローズティアの歴史の中には、幾人かの女王が存在するが、いずれも次代の王が誕生するまでの繋ぎというものだった。そんな歴史から、女王はやや軽んじられる傾向にあった。
 数少ない忠臣たちは、聡明といわれる弟王子ユーリクの即位を強く望んだが、それは叶わなかった。そういう事情から、女王エレーナの即位には奸臣たちの野心が、少なからず影響していたのだ。彼らが欲したのは、年若く自分たちの言いなりになる女王。いずれは適当な夫をあてがって、自分たちが国を操れば良い。おそらく、奸臣たちはそんな風に考えていたはずだ。
 だが、彼らは知らなかった。
 新たな女王エレーナの恐ろしさも、その野心も何も――
 女王の即位から半年後、大臣の一人が、女王の命令で処刑された。断頭台で首を落とされて。
 いくつもの不正を行い、私腹を肥やしていたというのが、処刑の理由だった。それを皮きりに、わずか数ヶ月の間で、十数人もの人間が処刑された。さまざまな不正や、王家への反逆というのが、処刑の理由であったという。
 そこに至って、愚かな奸臣たちは、ようやく己の過ちを悟った。その時には全てが、遅かったけれども。
 彼らの女王は傀儡などではない。
 むしろ、傀儡などにはなりえるはずもない性質の人間だということに、首を落とされる寸前、ようやく彼らは気付いたのだった。気付いたところで、彼らに逃れる術などなかったが。
 ローズティアの女王は、見目麗しい人形のような存在ではなく、自分たちを支配する王であった。そのことを奸臣たちが悟り始めた頃には、王宮に彼らの居場所はなくなっていたのである。
 ――女王が即位してから、断頭台から赤い雫が絶える日はない。
 いや、奸臣たちだけではない。長くローズティアの王家に仕えてきた忠臣たちにすら、女王エレーナの容赦のないやり方は、恐怖の的であった。不正を犯した者は、たとえ長く王家に仕えた者であろうとも、容赦なく罰せられた。それが、命をもっての償いであることも、決して珍しいことではなかったのだ。
 エレーナは、決して愚王というわけではない。
 不正を犯さねば、家臣をむやみに罰することはしないし、無理難題を押し付けることもしない。
 国政に対しては、先王であるエリックよりも、よほど優れた才を発揮した。政治の才だけでいうならば、光の王と呼ばれた彼女の祖父レオハルトにも、優るとも劣らないほどの技量の持ち主であった。
 ――ただ、容赦のない王であった。
 良い働きをした部下には、十分な恩賞を与えた反面、エレーナは自分に逆らうものには慈悲に欠片もなかった。
 処刑された大臣の身内が、反乱を犯した時、軍隊によって反乱を鎮圧した女王は反乱に関わった全ての者を、ただ一人の例外とてなく処刑したという。それは反乱軍の身内とて例外ではなく、女子供も見逃されることはなかったと――
 ローズティア王国の短くない歴史の中には、民から慕われる賢王も、誰からも眉をひそめられる愚王もいた。しかし、敵対した者たちに対する残虐さでは、エレーナは上回る王はそう多くない。彼女の命によって、断頭台で処刑された者の数は、今や数えるのも馬鹿馬鹿しいほどだ。
 炎を想わせる深紅の髪は、やがては血の赤のようだと、称されるようになった。
 そうして、いつしかエレーナは、こう呼ばれるようになった。“流血の薔薇”――と。

「――ユーリク」
 殿下、と敬称をつけずに、彼をそう呼ぶのは両親を除けば、二つ年上の姉エレーナだけだった。決して、柔らかいとはいえないが、姉の声は硬質で美しい。
 母・ユリアーナの小鳥のさえずるような、愛らしい声とは無縁であったが、姉の声には静かな威厳があった。幼いころのユーリクはそれを慕いこそすれ、恐れたことなどなかった。
 そう、あの闇夜の晩に、姉が≪嘆きの塔≫に行くまでは――
 幼いころは、姉を無邪気に慕っていた。長じてからは、その炎のような性格を恐れていた。今は……どうなのだろうか。自分のことであるのに、ユーリクは己の気持ちが判断できない。
 あの炎のような姉を、愛しているのか、憎んでいるのか、それさえ――
「ユーリク殿下」
 どんなに願おうとも、戻れない過去へと思いを馳せていた弟王子を、鈴を鳴らすような澄んだ声が、現実へと呼びもどした。
 幼かった日から、十数年の時が流れて、ユーリクはすでに青年へと成長している。
 ユーリクは椅子から腰を上げると、歩み寄ってくる魔女の名を呼ぶ。幼いころから、慣れ親しんだその名を。
「フィアナ。エレーナ姉上……いや、陛下は?」
 姉上、と言いかけて、ユーリクは言い直す。
 エレーナが女王となってから二年、今ではもう姉上と呼ぶのは、相応しくないだろう。
 自分たちの立場は、幼いころとは違う。王子と王女であったのは昔のこと。今では、女王と王弟殿下と呼ばれる身だ。
「エレーナ陛下は、執務室にいらっしゃいます。ユーリク殿下をお待ちです」
 ユーリクの問いに答えるフィアナの姿は、彼が幼い日と何も変わっていない。昔のままだ。
 姉であるエレーナもユーリクも、こんなに変わってしまったというのに、”王冠の魔女”だけが何も変わらない。悲しいほどに。
 ゆるやかに波打つ金の髪も、ガーネットのような真紅の瞳も、白磁の肌も歳月というものを感じさせない。胸元に咲く薔薇のアザも、輝く蒼華石の瞳も、何一つとして変わらない。
 ――まるで、時の流れから、取り残されているように。
 フィアナがローズティアの王家に仕えるようになってから、百年以上の月日が流れているというのに、あたかも彼女の周りだけ時が止まっているようだった。あの春の日から、何年もの月日が流れたことを一瞬、忘れてしまいそうになる。
 王宮の中庭で、共に過ごした日々は、今やあまりにも遠いというのに――

『待ってよぉ!エレーナ姉上』
 亜麻色の髪に、若草色の瞳をした少年が、姉を追いかけて草花の間を駆ける。
『こっちだぞ!ユーリク!』
 深紅の髪に、エメラルドの瞳をした少女が振り返って、笑顔で弟の名を呼んだ。
『ねぇ、フィアナも手伝って?せっかくだから、父上の分も作ってあげよう!きっと父上も喜ぶよね』
 病の母のために作ろうとした花冠。父上の分も作ってあげよう、とユーリクが言うと、魔女は優しい微笑みを浮かべて、彼の頭を撫でてくれたものだった。
 あの時のユーリクは何も知らなかった。ただ、この平穏な時間がずっと続くものだと、信じて疑わなかった。あの幸福なひと時が、永遠のものであると。
『うん!フィアナにも作ってあげるよ。綺麗な花冠を!』
『ありがとうございます。ユーリク殿下』
 自分たちの道が分かれると、想像してすらいなかったあの頃――
『わかった。綺麗な花冠を作ろう。ユーリク』
 エレーナが笑う。
 弟の手を握った姉の手は、ほんのりと草の香りがして、あたたかい。
 たった一人の姉と共に、ローズティア王国を守っていくのだと、信じて疑わなかった春の日、ユーリクは確かに幸福だった。

「……ユーリク殿下?」
 返事をかえさないユーリクに、フィアナは怪訝そうな顔で、首をかしげた。
 あの春の日から、自分たちはこんなに変わってしまったのに、魔女は何も変わらない。この世で変わらないものなど、何一つないというのに、“王冠の魔女”だけが。それは、ひどく残酷なことだと、ユーリクは思った。
「――いや、何でもない。行こう。フィアナ」
 ユーリクは首を横に振ると、迷いを振り切るように、足を踏み出した。
 ――エレーナ女王が即位してから、処刑の列が途切れることはない。
 姉・エレーナの暴虐を、止めなければならない。
 ユーリクはそう決意していた。
 エレーナは決して、愚か者ではない。
 父王エリックが寛容であることを利用し、かつての王宮では奸臣たちが甘い蜜をすすり、民のための政治をおろそかにし、私利私欲のための政治を行っていた。真に国を憂う忠臣たちは、国政の中心から退けられて、ローズティアの政治は少しつづ狂いだしていた。姉はそんな現状を変えたかったのだろう。
 それは十分に理解できる。だが――
 姉のやり方こそが問題なのだ。
 いくら罪を犯したといえども、ああも次々と処刑していくなど、王のするべき行為ではない。
 反乱を犯した者に対しても、その一族まで処刑する必要はなかった。あんなに多くの者に、血を流させてはいけなかったのだ。そう、断頭台から血が絶えぬ王として、姉はこう呼ばれているらしい。
 流血の薔薇――と。
 自分が炎のようだと感じた深紅の髪は、処刑される者たちからは血の紅に見えるらしい。その女王はさながら、血染めの薔薇のようだと。
 ――エレーナ姉上の存在は、ローズティア王国を傾けるだろう。
 幼い頃の予感が現実となるのを、ユーリクは感じていた。
 姉は炎のような人だった。その姿も心も。人を惹きつける反面、全てを燃やしつくすような激しさを、併せ持っていた。だから、こうなりそうな気がしていたのだ。
 姉上の存在は国を傾けるだろう、と。
「……」
 ユーリクは若草色の瞳を伏せて、腰におびた剣を見つめた。もし、姉が国を滅ぼす存在になるならば、自分は――
「――久しぶりだな。ユーリク」
 執務室に足を踏み入れた弟王子に、ローズティアの女王――エレーナは、そう声をかける。
 ユーリクの後ろに、王冠の魔女の姿を見つけて、深紅の髪の女王は書類にサインをしていた手を止めると、椅子から立ち上がった。
 弟王子は穏やかな若草色の瞳に、剣呑な光を宿して、姉である女王を睨んだ。
 そうして、低い声で問う。
「エレーナ姉上……いや、女王陛下。また罪を犯した臣下を処刑されると聞いたが、それは本当か?」
 ユーリクの問いかけに、エレーナは赤い唇をつりあげ、弟に問い返した。
「本当だといったら?」
「なぜ?そこまでしなくても良いはずだ!父上はそんなことはしなかった!」
 そう、父王エリックは優しい王だった。確かに、祖父レオハルトほどの才は持たない凡庸な王だったかもしれないが、姉のように残虐な行為はしなかったのに。
 拳を震わせるユーリクに、姉である女王は憐れむような目を向けた。愚かな者を見るような視線を。
「甘いな……父上のアレは優しさではない。弱さだ。弱い王には誰もついてこない。奸臣どもが、ローズティアの王宮にはびこって、甘い蜜をすするのを黙って見ていろと?……お前はそう言うのか?ユーリク」
「そうは言っていない!だが、エレーナ姉上にやり方が正しいものだとは、とても思えない!」
 退位した父王とて、こんな統治を望んでいなかったはずだと、ユーリクは思う。こんな恐怖と赤き血が、人々を支配する国など。
 カチャリ、とユーリクの剣の鞘が鳴る。
「ああ、お前は優しい子だよ。ユーリク。私とは違う……もし、今の国の在り方に我慢が出来ぬなら、お前が王となれば良い。私の手から、王冠を奪い取ってみせよ。それとも……」
 エレーナは微笑みながら、ほっそりとした白い指を、ユーリクの首筋へと伸ばした。あの日と同じように。
 ――姉上の存在は危険だ。この炎のような姉は、このローズティア王国の歴史に、狂王として名を刻まれることになるだろう。悪名高き流血の薔薇として。
 王家に生まれた者として、この姉を止めなければならない。たとえ兄弟殺しとして、忌むべき存在になり果てようとも。
 その指が首筋へと伸ばされるのと、ユーリクが剣を抜いて、エレーナの喉元に剣を突き付けたのは、ほぼ同時だった。
 銀の刃を喉元に突きつけられながら、エレーナは艶然と笑った。
 ふふふと軽やかに。
 あの春の日と同じ笑みで。
「――私を殺すか?ユーリク」
 そして、王となるのかと。
 女王である姉の言葉に、剣を握ったユーリクの手元は震えた。エレーナ姉上は良い王ではない。きっと、凡庸な王と称された父上よりも、このローズティア王国を傾けることだろう。
 もしかしたら、国を滅ぼすことになるかもしれぬ。だけど、姉を己の手で殺して、自分が王位につくのか――そうまでして、王になりたいのか。
 あの春の日、共に野原を駆け回った姉を、己の手で殺すのか。
『摘みたい!母上のために、綺麗な花冠を作ってあげる!ね?エレーナ姉上』
『わかった。綺麗な花冠を作ろう。ユーリク』
 あの闇夜の晩を境に、全てが崩れた。
『――お前は良い子だ。ユーリク。私の愛しい弟よ……お前はいつだって姉想いで優しくて、父上によく似ている。だからこそ、お前が愛おしくて憎いよ。己の出生に、何の疑問も持たぬ、お前が』
 その炎のような姉を恐れていた。誰よりも誰よりも。
『――私がお前か、玉座につくのは、どちらだろうな?』
 それでも、それでもユーリクは――
「……くっ」
 ユーリクは苦悩の声をもらすと、姉の喉元に突きつけていた剣から、その手を離す。
 彼の剣が支えを失って、床へと転がった。宝石と紋章で飾られた王家の剣が、床を転がるのを、ユーリクは若草色の瞳で見つめていた――それが、ユーリクの決断だった。
「……殺せない。どうしても、出来ない。たとえ国のためだとしても、自分には……」
 姉を愛していた。
 同じくらい恐れていた。
 その愚かさを知りながら、自分は最後まで姉を憎むことが出来なかった。それは血の繋がりゆえか、その炎に魅せられたゆえか、その両方であったのかもしれない。
「それが、お前の決断か。ユーリク」
 エレーナがわかっていたという風に、息を吐く。
 最初から、こうなることはわかっていた。
 血を分けた姉を殺すことなど、この弟には出来ないと、エレーナにはわかっていたのだ。だから、ユーリクはエレーナに勝てない。王になることも出来ない。だが、それもまた弟の選択なのだろう。
 最後の最後で、彼は父とは違う道を選んだ。
「ユーリク殿下……」
 絶望に顔をおおい、座りこむ王子の名を呼んで、フィアナは彼へと歩み寄った。
 そうして、震える彼の手へと、己の手を重ねる。
 貴方のせいではないと、なぐさめるように。
 ――魔女は歴史を動かしてはいけない。ただ許されるのは、見守るのみ。
 ローズティア王家に仕える魔女として、彼らを見守る“王冠の魔女”として、彼らの幸せを願ってきた。幸せであれと、幸せになって欲しいと、そう願い続けてきたのに。
 時の流れから見捨てられて、人と共に生きることが叶わぬ魔女だからこそ。
 だけど、運命はいつだって皮肉で残酷だった。憎み合うべきでない人たちが憎み合って、いくつも悲劇を重ねて、悲しい結末を紡いでいく。誰一人として、こうなることを望んでいなかったのに――
「ああ……」
 魔女の真紅の瞳から、流れた透明な涙が一滴、胸元で揺れる蒼華石へと落ちた。

 それから後に、弟王子ユーリクは女王エレーナの命により、ローズティア王国の辺境の土地へと追いやられた。それ以後、彼は二度と王都の土を踏むことも、姉や“王冠の魔女”と再会することもなく、その地で生涯を終えたという。
 辺境の地では穏やかな生涯を送ったとも伝わるが、流血の薔薇と呼ばれた姉について、生涯にわたり彼は何も語らず、また一文たりとも記さなかった。それが、弟王子のささやかな復讐であったのかもしれない。
 だから、彼の想いと苦しみを知るのは、魔女ただ一人である。
 女王エレーナの名は、恐怖と共に歴史に刻まれた。
 悪名高き流血の薔薇――だが、彼女の複雑な出生の秘密も、また歴史の闇に葬られて、知る者は誰もいない。全てを知るは、やはり真紅の瞳の魔女ただ一人のみだ。
 多くの戦と処刑を繰り返したという女王は、たった一人の娘を残して、四十歳の若さで生涯を終えた。その早すぎる死には、毒殺であったという噂もある。
 かくして、魔女に選ばれた国王レオハルトから、三代に渡る物語は幕を閉じたのである。


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