私は王にはなれなかった。
でも、貴方は思い違いをしている。
私は貴方を憎むべきだった。私から全てを奪った貴方を。でも、私は貴方を――
物心ついた頃にはすでに、ティアーナは籠の鳥だった。
いや、籠の鳥とは比喩に過ぎず、実際には≪嘆きの塔≫に幽閉された哀れな王女――それが、ティアーナだ。
高貴なる罪人を幽閉するための≪嘆きの塔≫。
五歳の誕生日を前に、その塔に幽閉されたティアーナにとって、外の世界というのは遠い記憶の彼方だ。物心ついた頃にはすでに、彼女は王に逆らった罪人として、この≪嘆きの塔≫に閉じ込められていたのだから。
十年前から一度も、王女は≪嘆きの塔≫から出たことはない。
――そんな王女の世界は、ひどく狭い。
灰色の壁。
小さな窓。
飾り気のない小さな机と寝台。
それが、幼いティアーナの世界の全てだ。
彼女にとって、外の世界というのは、窓から見るものに過ぎなかった。晴れ渡る青い空も白い雲も。太陽の光も、風の匂いも……ゆるやかな季節の移り変わりですら、彼女は窓を通して知った。
そんな彼女を籠の鳥のようだと――憐れみながら評したのは、誰だったか。今はもう、遠い記憶だ。
幼いころの彼女は、窓の外に広がる光景が、世界の全てなのだと半ば本気で信じていた。
――塔に幽閉される前、幼いころのティアーナの記憶は、ひどく曖昧だ。
善き王と呼ばれた父の一人娘として、大勢の侍女や兵士たちにかしづかれて、何不自由のない生活を送っていたと聞かされても、今の自分の立場とあまりに違いすぎて……。
薄れゆく過去の記憶の中で、かろうじて鮮明なものであるのは、落馬で亡くなった父の笑顔と頭を撫でてくれる大きな手のひら。そして、父の後を追うように世を去った母の、儚げで美しい微笑み。それだけである。十年にも及ぶ長い長い幽閉生活の中で、両親の記憶以外の全ては、時の流れと共に風化してしまった。
今となってはもう……何も思い出せない。
そう、両親を失い≪嘆きの塔≫に幽閉された王女は、何も持っていなかった。
絹のドレスも煌びやかな宝石も、世話をしてくれる侍女も騎士も、誰ひとりとして、何一つとして、幽閉された王女の手の中にはなかった。
幼い頃の彼女は何も知らなかった。
そのことを疑問に思いすらしなかった。
本来、それを手にするべきだったのは、自分であったなどと幼いティアーナは想像すらしなかった。彼女がその真実を知ったのは、ずっと後になってからのことだ。
王冠も居場所も、王の地位もティアーナから全てを奪い取った男――それが、彼女の実の叔父であり、ライナスの父であることを。
哀れな王女は、何も知りはしなかった。
だからこそ、彼を愛したのかもしれない。
ならば、その出会いは罪でしかなかったのだろうか?
それは、今から五年前の冬のこと――
「……ティアーナ姫様」
フィアナにそう呼びかけられて、十歳になる王女――ティアーナは、手にしていた書物から顔を上げる。
窓からの風で、王女の蜂蜜色の髪がフワリと揺れた。
「なぁに?フィアナ」
ティアーナは冬の空の色をした瞳を、彼女が最も信頼する魔女に向けた。
幼い頃に幽閉された彼女の周りには、誰もいなかった。
亡き両親はもちろんのこと、実の叔父である王に憎まれ≪嘆きの塔≫に幽閉された王女には、侍女ひとり付けられなかった。父王が落馬の事故で急逝さえしなければ、あるいは父の臣下が叔父――王に対して反乱を起こさなければ、彼女は多くの侍女たちに囲まれて、王宮で暮らしていたことだろう。
だが、現実には、王になるはずだった娘のそばには誰もいない。
家族も侍女も騎士も、誰ひとりとして、唯一つの例外が魔女だ。
そう、ローズティア王家に仕える“王冠の魔女”――ただ一人だけ。
「多分、そろそろライナス殿下がいらっしゃる頃ですわ」
そう言って、真紅の瞳の魔女は微笑んだ。
五年前、ティアーナが≪嘆きの塔≫に幽閉された日から、彼女は“王冠の魔女”――フィアナと共に塔で暮らしてきた。
魔女は幼い王女にとって、師であり姉であり、そして唯一の友であった。
それは王の――ライナスの父の愚かな行いを咎めたことで、王の不興を買って塔へと追いやられた魔女にとっても、きっと同様であったことだろう。外界から閉ざされて、誰にも会うことのない生活の中で、お互いの存在だけが支えであったのだ。
ゆるやかに波打つ金髪に、真紅の瞳の人間離れした美貌の魔女。
数百年の時を生きながら、ティアーナとさほど年の変わらない少女の姿をした彼女に、人として違和感を覚えないといえばウソになる。たとえ、どれほど近しい存在であろうとも、フィアナは魔女なのだ。人間ではない。
この五年で、彼女たちの見た目の年齢は、かなり近づいた。
子供の成長は早い。
このままいけば、あと数年で己がフィアナの背丈を追い越すであろうことは、ティアーナにも容易に想像が出来た。やがては、見た目の年齢も逆転するであろうと。
そして、王女が生涯を終える時も、終えた後ですらもフィアナは魔女はこのままの姿で生きていくのだろうと。それは、とても寂しいことに、ティアーナは思えたのだ。
王女にとっても、“王冠の魔女”と呼ばれる娘にとっても。
ティアーナは魔女のことを慕っていた。師のように、姉のように、友のように……それでも、彼女の孤独を癒すことは出来なかった。それも仕方のないことかもしれない。
塔に幽閉された王女の孤独は、あまりにも深いものであったから。
そして、その苦しみが、彼女と同じ孤独を持つ人にしか癒せぬものであったから。
――寂しかったのかもしれない。本当はただ、寂しかったのかもしれない。
――私は孤独だった。貴方も孤独だった。だから、過ちと知りながら、お互いの手を離せなかったのでしょう?
――そうでしょう?ライナス……。
コツコツ、という石段を上がる音に、ティアーナは立ち上がった。
この≪嘆きの塔≫を上ってくる者など、食事を運ぶ兵士の他には誰もいない。
いるとすれば、彼だけだ。
「――ティアーナ」
石段を上って、彼女たちの前に姿を現したのは、一人の少年だった。
麦穂のような金髪と翠の瞳をした彼に、ティアーナは少年の名を呼びながら駆け寄る。
「ライナス!」
ティアーナが駆け寄ると、ライナスは微笑んだ。
優しげな……しかし、少し影のある表情で。
彼がそんな表情をする理由を、この時のティアーナは知らなかった。そう、何も知らなかったからこそ、彼女は無邪気に振る舞うことが出来たのだ。彼の苦しみなど、想像すらせずに。
「久しぶり。ティアーナ。元気だったかい?」
「ええ。ライナス。貴方も?」
「ああ」
誰も訪れることのない――≪嘆きの塔≫。
毎日、毎日、窓の外の世界だけを見て過ごす日々。そんなティアーナの生活に変化が訪れたのは、三年前のことだ。
三年前のある日、王の息子であるライナスは≪嘆きの塔≫を上って、塔の住人たちに出会った。“王冠の魔女”――フィアナ=ローズと、己の父に何かも奪われた娘ティアーナと。
ライナスが何を想って、この≪嘆きの塔≫へと足を踏み入れたのか、ティアーナは知らない。だが、何の事情も知らないまま、幼い少女は年上の従兄であるライナスを慕っていた。王宮の事情も、己の置かれた立場もよくわからぬままに。
ただ兄のように友のように、彼を慕っていた。胸の奥に芽生えた淡い想いと共に。
「ティアーナ。約束のものを持ってきた」
「え……」
その言葉と共に、ライナスは胸に抱えた鳥籠を差し出した。
金細工の鳥籠は、美しかった。
しかし、それ以上に美しかったのは、籠の中で羽根を休ませる白い鳥だった。白い雪のように、真っ白な羽の小鳥は、ライナスの腕の中でチチチッと軽やかにさえずる。
『――それなら、今度、雪よりも綺麗な小鳥を君に贈るよ。ティアーナ。雪のように、白く美しい小鳥を』
それは、一月ほど前のライナスの言葉。
雪の降る日に交わした約束を、彼は覚えていてくれたのだろう。だけど、本当に小鳥を贈ってくれるとは、ティアーナは思っていなかった。
金の鳥籠と、雪のように白い小鳥。それと微笑むライナスの顔を順番に見つめて、ティアーナは戸惑うような表情を浮かべた。
そんな彼女に、ライナスは金の鳥籠を、小さな胸へと押しつける。
「君にあげるよ。ティアーナ」
ライナスはどこか切なげな顔をして、鳥籠を抱えた王女を見つめる。
偽りの王子。
ティアーナから全てを奪った王の、王女を≪嘆きの塔≫へと閉じ込めた父の息子であるライナス。
その己の罪が、こんなもので償えるなど、思うわけもない。ライナスの地位は本来ならば、この幼い王女のものだったのだ。許してくれなどと言えるはずもない。だけど、どうか君に――
「ライナス……」
戸惑うような顔をしていたティアーナは、金の鳥籠を抱えたまま、嬉しそうにライナスに抱きつく。
そうして、鈴を鳴らすような声で言った。
「――ありがとう。ライナス。大好きよ」
ティアーナの言葉に、王子である少年は、なんとも言えない表情を浮かべる。悲しいような辛いような……それでも、ライナスの唇はかすかに笑みの形を作っていた。
無邪気な王女は、偽りの王子を慕う。
自分から全てを奪った相手を、雪のように無垢な心で。その愚かさは罪なのだろうか。
「……ああ。僕もだ。ティアーナ」
どこか悲しげな瞳で、ライナスはうなづいた。
その翠の瞳は、愛しい少女を真っ直ぐに見つめている。蜂蜜色の髪に冬の空の瞳をした王女を。
――僕は王子と呼ばれるべきでなかった。真に王となるべきは、この王女であるのに……。
愚王と呼ばれた父は、この幼い娘から何もかも奪った。王位も地位も……本来、彼女が得るはずだった全てのものを。その息子である自分は偽りの王子でしかないのだと、ライナスは唇を噛む。
だから、これは偽りの幸福だ。
この王女と過ごす時は、いつかは淡くとけてしまう雪のようなもの。いつか真実を知った時に、ティアーナは自分を憎むだろう。
だが、自分から手を離すには、腕の中に体温はあたたかすぎて……向けられる微笑みは優しすぎて……どうしても、ライナスは手放せなかったのだ。
愚王と呼ばれる父を持つ、孤独な王子は全ての想いを胸の奥底におしこめて、ティアーナの蜂蜜色の髪をすいた。
そうして、ライナスは決して叶わぬ願いを言う。
「――いつまでも、このままでいられたら良いのに」
籠の中の白い鳥が、歌うように鳴いた。
それからの数年、魔女と共に≪嘆きの塔≫で暮らすティアーナの日常は、穏やかに過ぎていった。
もともと幽閉生活の身に、それほどの変化が起こるわけもない。
毎日、毎日、窓から外の世界を見つめて暮らす日々。それを退屈というには、王女はあまりにも長い幽閉生活を送りすぎた。
ティアーナはもうすぐ十五歳になる。
五歳の時から≪嘆きの塔≫に幽閉されて、はや十年もの月日が過ぎようとしている。父母と共に王宮で暮らしていた日々よりも、この塔で暮らしている月日の方が、遥かに長いのだ。
それを辛いと思うには、ティアーナはあまりにも外の世界を知らなすぎた。灰色の壁と小さな窓。それが、彼女の世界の全てだ。
長きにわたる幽閉生活は、王女の心ばかりでなく、体をも蝕んでいた。病弱だった母に似たのか、ここ数年というもの、ティアーナの体調は決して良いとは言えない。
彼女の身を案じて、薬草を差しいれてくれるライナスや、薬草を煎じてくれるフィアナには悪いが、そう長くは生きれないだろうという予感があった。
――この塔で生涯を終えるのだろうか?この灰色の世界で。
どんよりと灰色に曇った空を、塔に窓から見つめながら、ティアーナは胸を押さえる。
その白い指先が、かすかに震えていた。
彼女は祈るように胸に手をあてながら、彼の名を呼んだ――この灰色の世界でただ一人、彼女に色を与えてくれる人の名を。
「ライナス……」
八年前に出会った時から、時折、たった一人で≪嘆きの塔≫を訪れていた彼。
王子である彼が何を想って、この塔を訪れるのか、その理由はあれから数年の月日が流れた今も、よくわからない。だが、十日に一度ほど訪れる彼のことを、ティアーナは誰よりも待ち望んでいた。誰よりも、誰よりも……。
しかし、ここ三月ほど、ライナスは塔を訪れてはいない。
「ティアーナ姫様。あまり外の風にあたると、お体にさわりますわ」
冬も近い秋のこと。
すでに寒くなった風にも関わらず、窓の外を見つめ続ける王女に、見かねたようにフィアナはそう声をかけた。
「ああ、そうね……」
うなずきながらも、ティアーナはどこか上の空だ。
ふわり、と蜂蜜色の髪が風になびく。
冬の空を映したような、曇りのない青い瞳は、虚ろに空を見つめていた。
フィアナはふぅ、と呆れたように息を吐くと、上着を手にしてティアーナの肩にかけた。そんな魔女の心づかいですら、ぼぅと空を見つめる王女には届いていないようだった。
「……ティアーナ姫様?」
「ねぇ、フィアナ……」
ティアーナは窓から振り返ると、泣きそうな顔で言った。
「――ライナスは、もうここには来ないのかしら?」
そう言うと、王女は細い肩を震わせて、はらはらと涙をこぼす。
冬の空の色をした瞳から、こぼれ落ちる涙はひどく透明で、魔女は何も言うことが出来なかった。
その代わりに、ただ王女の細い肩を抱きしめることしか。
「大丈夫ですよ。ティアーナ姫様……ライナス殿下は、ほんの少し忙しいだけですわ。きっと、また塔にいらっしゃいます」
気休めと知りつつ、フィアナはなぐさめの言葉を繰り返すしかない。
ライナスが塔を訪れられない理由を、魔女は彼から聞いて知っていた。
――国王陛下が、ライナスの父が病に倒れたということを。そして、もう長くはないということも。
長年の無茶が響いたのだろう。
急な病に倒れたという国王は、寝台から起き上がることも、言葉も交わすことすらも出来ないのだと――王の長子であり、世継ぎの王子であるライナスは暗い顔で語った。決して、友好な関係ではなかった親子だが、迫りくる父の死を前にしては疲労を隠せない。
しばらく来れないと語った王子は、どうか父のことはティアーナに告げないでくれ、と魔女に懇願した。
『いずれ、父のことは自分の口から話す。だから、今はまだ……』
そのライナスの言葉を、迷いつつフィアナは受け入れた。
――その方が、ティアーナ姫様にとっては良いのだと。
肩を震わせて、静かに涙をながす王女を抱きしめて、魔女はそう判断した。
ティアーナ姫様は、まるで雪のような人だ。
無垢で純粋な心根。誰にも踏まれたことのない白い雪のような。そんな汚れなさを持つ反面、五歳にして何もかも奪われ、十年にも及ぶ幽閉生活を送ってきた王女は、儚く壊れやすい心の持ち主だった。
それは、汚れないゆえに、あっけなく消えてしまう淡い雪のようなもの。
王宮の深すぎる闇を知るには、ティアーナは無垢すぎて、壊れやすい心の持ち主でありすぎた。だからこそ、魔女は哀れな王女を想って、口を閉ざしたのだ――その決断が、悲劇を生むなど想像もせず。
「……」
その時、塔の石段を上ってくる複数の足音がした。
靴の音に、ティアーナは彼が来たのかと、淡い期待をこめて顔を上げるが、その期待は裏切られる。
石段を上がって来たのは、数人の騎士たちだった。
「――フィアナ=ローズ殿。ライナス殿下の命により、お迎えに上がりました」
ひときわ背の高い騎士が、代表するように前に出て、フィアナに主の言葉を伝える。
彼らはライナスに仕える騎士たちだ。
国王であるライナスの父が、意識すら確かでない今、王宮を取りまとめるのは世継ぎの王子であるライナスの勤めである。
若い王子は、愚王と呼ばれた父の行いの数々を、何とか正そうと必死に努力していた。その一つが、フィアナを――父が≪嘆きの塔≫に追放した“王冠の魔女”を王宮に呼び戻すことだった。
美女や酒に溺れ、国政を蔑ろにした王。そんな王の振る舞いに、苦言を呈したことで王の怒りを買った魔女は、地位を奪われた王女と共に≪嘆きの塔≫へと追いやられた。
しかし、それは過ちであったと、王の息子であるライナスは思っている。
数百年にも渡り、ローズティア王国を守護し、王家を支え続けてきた魔女――フィアナ=ローズ。そんな恩人を塔に幽閉するなど到底、許されることではないと。
「もう大丈夫よ。フィアナ。ライナスのところに行ってあげて」
騎士の言葉に、どうしたものかと後ろを振り返ったフィアナに、ティアーナは涙をぬぐうと気丈に言った。
「……わかりました。姫様もお気をつけて」
魔女はそう言うと、深く頭を垂れて、騎士と共に石段を降りて行った。
もしも、この時に魔女が王女のそばを離れなければ、後の悲劇は防げたかもしれない。だが、それは叶わない。
繰り返される悲劇の前では、誰もが悲しいほど無力だ。人はそれを運命と呼ぶのだろうか。
「――姫様」
魔女が≪嘆きの塔≫を去った後、その男はティアーナの前に姿を現した。
「……誰っ!」
誰の許可もなく、石段を上ってきた男に、ティアーナは悲鳴をあげて後ずさる。
みすぼらしい姿の男だった。
ボサボサの髪に、垢で黒ずんだ顔。片方の目には包帯が巻かれ、男が隻眼であることを示していた。衣服は裂け、みすぼらしいという言葉でも言い足りないほどだ。
まだ若いだろうに、その老けようは六十の老人と言っても通りそうなほどだ。
しかし、その青い瞳だけが、ギラギラと強い光を放っていた。
誰っ!、というティアーナの言葉に、男は一瞬、悲しげな表情を浮かべた後に、かすれる声で名乗った。
「お忘れですか?ティアーナ姫様。ディーク。ディークでございます」
「ディーク……?」
その名には聞き覚えがあった。
ティアーナが名を呼ぶと、男は疲れた顔に、喜びの色を浮かべる。
「そうです。姫様のお父上に、先王陛下にお仕えしておりました。ディークです。覚えていらっしゃいませぬか?」
「父上の……?」
そう言われて、その男――ディークの顔を見れば、たしかに見覚えがないでもなかった。
もう十年ほど昔、ティアーナの父が落馬の事故にあう前、彼女が世継ぎの王女として王宮で暮らしていた頃の記憶。その頃、彼女を守っていてくれた騎士の中に、ディークという名の者がいた。しかし、姿が違いすぎる。
ディークというのは金髪碧眼の、幼かった王女の目から見ても、実に見目麗しい騎士だった。眼前のみすぼらしい男と、顔は同じでも、印象がどうしても重ならない。あの凛々しい騎士が、どうして……?
「お会いしとうございました。ティアーナ姫様」
隻眼の瞳で、涙を浮かべるディーク。
その騎士の変り果てた姿に、ティアーナはなぜと問わずにいられなかった。
「……何があったのですか?ディーク」
そんな王女の問いに、ディークは隻眼の瞳に滲んだ涙をぬぐうと、ああと悲しい声をもらした。
「ああ……やはり、姫様は何もご存じなかったのですね」
「ディーク。何を……?」
戸惑うティアーナに、騎士は青い瞳をギラリと光らせると、淡々とした口調で語り出した。その瞳に憎しみを宿して――
「――悲劇の始まりは、国王陛下が、ティアーナ姫様のお父上が落馬の事故で亡くなられたことでした……」
感情を押さえるように、あえて静かな口調でディークは語った。
善き王と民から慕われたティアーナの父が、落馬で惜しくも命を落とした後、王位を継いだ異母弟――ライナスの父は、とんでもない愚王であったこと。
癇癪持ちで酒や女に溺れ、国費を湯水の如く無駄にし、それに苦言をていした臣下は何も言わずに首をはねられた。国王の不興を買えば、長年に渡り王家に仕えた忠臣ですら、残虐な方法で処刑された。そうして処刑された臣下は、数十人を超える……そんな王の振る舞いに、前の国王を――ティア―ナの父を慕っていた者たちは、耐えきれなかった。
それゆえに、王に不満を持つ家臣たちは団結し、反乱を計画したのだ。
――真に王位を継ぐべきは、今の王ではない。
――亡くなられた王の娘であるティアーナ様なのだ。
――偽の王を追放せよ。真の王に王冠を!
しかし、裏切り者が出たせいで、反乱は成功しなかった。
反乱の首謀者たちは捕らえられて、一族郎党もろとも処刑されたのだという。彼らを捕らえた王は――ライナスの父は、女子供まで皆殺しという、ひどく残虐な命を下したという。その処刑された一族の生き残りが……
「――私なのです。ティアーナ姫様」
そう言って、ディークは長い長い話を終わらせた。
「まさか。そんな……」
明かされた真実に、ティアーナは呆然とする。
自分が≪嘆きの塔≫に閉じ込められているうちに、外の世界で処刑が繰り返されていたのだ。しかも、女も子供も処刑された者たちは皆、ティアーナを真の王と信じたせいで死んだのだ。自分のせいで……
――世界が真っ暗になった気がした。
――自分が≪嘆きの塔≫で暮らしている間、何人の民が犠牲になった?そのことを、ティアーナは考えすらしなかったのだ。王の、ライナスの父の愚行を知らなかったなど、言い訳でしかない。
――あまつさえ、自分はライナスを慕っていたのだ。敵として、憎むべき立場にある王子を。それは許されることなのだろうか?
罪の意識に呆然とする王女に、騎士はディークは更に残酷な事実を告げる。
「ええ。私の父も母も叔父も、幼い妹ですらも愚王の手によって処刑されました。この片目も愚王の手の者によって奪われました……だからこそ、私は戻ってきたのです。愚王に復讐するために……」
王女と同じく、全てを失った騎士は、その瞳にあらんかぎりの憎しみを宿して告げた。
「――ライナス王子を殺すために」
そうして、運命の刻は訪れる。
慌ただしい父王の葬儀を終えて、四月ぶりに≪嘆きの塔≫を訪れたライナスは、奇妙な静けさに首をかしげた。
日頃から、静かな場所ではあった。元より、高貴なる罪人を閉じこめておく塔なのだ。賑やかなはずもない。だが、物音ひとつしないというのは、いささか不気味だった。
そう、不吉なほどに――
「……気のせいか」
こうも沈んだ気持ちになるのは、父が死んだせいだろう。愚王であった。残虐な行為で、民を苦しめた。王としても父としても、決して褒められた人ではなかった――それでも、ライナスにとっては父だった。
不吉な予感を感じつつも、彼は塔の上に繋がる石段を上る。
その先に待つ、運命も知らずに。
「――ティアーナ?」
石段を上り終えたライナスが、そう声をかけた瞬間だった。
視界に銀の刃がきらめいたのは。
「……くっ!」
自分に振りおろされた剣を、ライナスはかろうじて避ける。
剣を向けてきたのは、みすぼらしいなりをした男だった。顔に包帯が巻かれており、隻眼だとわかる。昔、どこかで見たような顔をしていた。
男は青い瞳に憎しみを宿して、銀の刃を振りおろす――
「父の母の叔父の、妹の敵だ……愚王の息子よ、後悔して死ねええええええっ!」
振り下ろされた刃の後ろに、ライナスは見た。
蜂蜜色の髪に、冬の空の瞳をした娘が、細い肩を震わせて立っているのを。
――ああ、無事だったのか。
ライナスはティアーナが無事であったことに、命の危機も忘れて安堵した。そして、良かったとも。
死の寸前になって、ようやく気付けることもある。
父が愚王であることも、自分が偽りの王子であることも、許されない罪も本当は全てどうでも良いことだったのだ。ライナスはただ、あの王女が愛しくて、その手を放したくなかっただけなのだ。
『――ありがとう。ライナス。大好きよ』
『……ああ。僕もだ。ティアーナ』
『――いつまでも、このままでいられたら良いのに』
それが、どんな罪だとしても、この想いだけが真実だったのだ。
だから、ライナスは微笑んだ。
誰よりも愛しい娘に、最期になるはずの言葉を。
「――ああ。無事だったんだな。ティアーナ」
その言葉に、男が剣を振りおろす速度が、一瞬にぶくなる。
「やめてえええええっ!ディークううううっ!」
その瞬間、ティアーナが絶叫した。
叫ぶと同時に、王女はライナスに駆け寄ると、その体を突き飛ばした。
一瞬の出来事だった。
止める間すらなかった。
そして、標的を失ったディークの剣は空をさまよって、飛び出したティアーナの背を貫く。
「あ……あ……」
背中を剣で貫かれた王女は、短い悲鳴を上げると、床に崩れ落ちた。
「ティアーナああああああっ!」
ライナスは絶叫して、ティアーナに駆け寄る。
背を剣で貫かれ、床に倒れた王女のドレスは、赤い血に染まっていた。
医者でない彼でも、一目で致命傷とわかる――大きな傷。
背を貫いた剣を引き抜くと、無惨にも血が吹き出す。
もうティアーナの命が長くないことを察しながら、それを認めたくないライナスは、王女の体を抱き起こした。
「しっかりしろ!ティアーナっ!助かるから、目をあけてくれ……」
ライナスの必死の呼びかけに、ティアーナは閉じていた瞼を上げる。 目が合ったのは、冬の空の色をした悲しいほどに綺麗な瞳だった。
「あ……ライナス……」
「なぜ?……なぜなんだ?ティアーナ……君は僕を……」
恨んでいたんじゃないのか。その先は言葉にならなかった。
「だって……」
かすれる声で、ティアーナは言った。
悲しみも憎しみも寂しさも……全ての想いが消えた後に、ただ一つ残った言葉を――
「――私は貴方と一緒に居たかったの」
己の身が籠の中の鳥だとしても、憎むべき相手だとしても、私は貴方を……。
「ティアーナ……?」
王女はそう言うと、青い瞳を閉じて、もう二度と目を覚まさなかった。
「目をあけてくれっ!ティアーナっ!王になるべきは君なんだ。ティアーナあああああっ!」
王女を失った王子は、天に向かって慟哭する。
主の死を嘆くように、窓辺に吊された鳥籠の白い鳥が、悲しげに鳴いていた。
ローズティア王国の歴史書の中で、国王ライナスの名は善き王として記された。愚王と呼ばれた父の治世とは対照的に、民や臣下に慕われて、在位四十年を数えたという。
しかし、その長い生涯に渡り、一度たりとも妻を娶らずに甥に王位を譲った王の真の想いを知る者は、王冠の魔女ただ一人である。
彼の死後、王国はゆるやかに滅びへの道を辿ることになる――
善き王と慕われたライナスは、雪の降る朝に没した。
王にならなかった娘ティアーナが没してから、五十年後のことである。
国王ライナスの死から三日後――
「……お久しぶりでございます。ティアーナ姫様」
王城の片隅。
とても王族とは思えないほどに、ささやかな墓の前にフィアナは立っていた。
そう、ティアーナの墓だ。
「ライナス陛下がお亡くなりになりました。もう寂しくはないでしょう?ティアーナ姫様……これからは、ずっと一緒にいられますわ」
そう語った魔女は、両手に抱えた金の鳥籠を、ティアーナの墓の前に置く。
金の鳥籠の中には、雪のように真っ白なつがいの鳥たちが入っていた。
フィアナは静かに微笑むと、鳥籠を開けて、つがいの鳥たちを空へと放つ。
「――さぁ、どこまでも飛んでいきなさい。離れないように」
羽ばたいた二羽の鳥は、ゆるやかに天へと飛んでいった。どこまでも、どこまでも――
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