約束。
それは魔女にとって、いつだって神聖で、守るべきものだった
レオハルト殿下の言葉を信じて、フィアナは王国を守り続けたのだから。
『――この首飾りを受け取ってくれ。これは、私の誓いだ。フィアナ。約束する。絶対に、お前を一人にしない。たとえ死んで魂になったとしても、お前のそばにいる……だから、泣くな。そして、笑え。幸せそうに』
孤独な魔女と王子が交わした誓い。
あの日から、もう何百年の月日が流れただろうか――
初夏の木漏れ日の下で、フィアナはまどろんでいた。
いつかと同じように、大樹にもたれかかり、爽やかな風に金の髪を遊ばせる。
あの約束から、何百年の月日が流れただろうか。
幼い日、後に光の王と呼ばれた少年は――レオハルトは、魔女の手を握って誓ったのだ。現実を知らない。愚かで、だが言いようもなく美しく、神聖な誓いを。
『フィアナは一人じゃないぞ。私がずっと一緒に居てやる!百年でも千年でも、フィアナが死ぬまで。ずっと一緒だ……そうしたら、寂しくないだろう?』
それは、叶うはずもない約束だった。
呪われた不老不死の魔女と、ただの人である王子。
実るはずもない恋だった。
出会った時から、別れは決まっていた。
それでも、たった一人で何百年という孤独な生を過ごす魔女にとって、彼の言葉は救いであり、唯一の光であったのだ。
そんな彼の愛したローズティア王国。
だからこそ、レオハルトが亡き後も、フィアナは王国の魔女で在り続けたのかもしれない。それが、魔女が王子のために出来る唯一つのことであったから。
あれから何百年もの月日が流れた。
その長い歴史の中で、ローズティアには何人もの王がいた。
善き王も悪い王も……賢王と民から慕われた者も、その残虐さで民から恐れられた王もいた。王冠の魔女として、フィアナの存在を重んじた者もいれば、魔女を嫌った王に《嘆きの塔》に閉じ込められたこともあった。
優しい者も残酷な者も、賢い者も愚かな者もいた――だが、皆、愛しい者たちだった。
王国の歴史を、王たちを見守り続けたフィアナにとって、王とはみな我が子のようなものだった。
魔女である彼女は、家族というものを持つことはない。子を生むことも、育てることも叶わない。だが、そんな魔女だからこそ、誰よりも王国を愛した。愛すべき我が子のように、家族のように慈しんできた。
そう、善き王も愚かな王も、悲しい運命に流された者も、運命に抗った者も皆――歴史に名を刻んで、フィアナより先に世を去った。それを辛くなかったといえば、嘘になる。
そうして、何百年の時が過ぎて、幾人もの王たちの人生を見守り続けた。その栄光も破滅も。これからも、そうした日々が続けていくのだと疑っていなかった。
それでも、この世に永遠は存在しない。
長すぎる魔女の生と、王国の歴史。
だが、物事には始まりがあれば、必ず終焉というものが存在するのだ。望むと望むまいと、それは必ず訪れる。こうしている間にも、時代は流れていく。歴史が、人の歩みが止まることはない。絶対に――
「……」
ここ百年ほど、魔女の力が弱まっていることを、フィアナは感じていた。
時代が動いている証だ。人は傷つきながらも歩み続け、自らの手で歴史を刻もうとしている。やがて、魔女の力が必要とされなくなる時が来るだろう。いや、それは近くまで迫っているのかもしれない。
かつて、師である千里眼の魔女イーリアは言った。
――魔女は、世界に必要とされるから存在していられると。
魔女の力を、人が必要としなくなった時に、魔女は滅びるのだと老いた魔女は語った。いつか必ず、その時が訪れると。
――その時が訪れたらどうなるのです?死んでしまうのですか。
幼い魔女の弟子は、フィアナはそう師に問いかけた。真紅の瞳を向けられた師は、幼い弟子の頭を撫でて、深みのある声で語った。
――いいや、魔女は死ぬことはない。ただ砂になって消えるのさ。この世界から跡形もなくね。
魔女が必要とされなくなった時に、その身は砂となって消えるだろう。自らの滅びを語りながら、老いた魔女の声に悲壮感はなく、どこかその日が来るのを待ち望んでいるようでさえあった。師もまたフィアナと同じように、孤独な魔女であったのかもしれない。
長すぎる孤独に耐えきれないのは、人も魔女も何も変わりはしないのだから。
その師も今はもう、フィアナのそばにはいない。
共に生きようと誓ってくれた少年は、偉大な王として名を残し、フィアナに蒼華石の首飾りを託して、遠い場所へと旅立ってしまった。
「レオハルト殿下……」
いつか、魔女の時代の終焉が訪れる時、自分は何を想うのだろう――
「……フィアナ!フィアナ!」
己の名を呼ぶ声に、フィアナは瞼を上げた。
ゆるゆると開かれた真紅の瞳に、幼い少年の姿が映る。
銀髪に薄青の瞳の幼い表情。
夢か現か。未だはっきりしない意識の中で、フィアナは少年の名を呼んだ。
「――オスカール殿下?」
フィアナが名を呼ぶと、少年――オスカールは、ホッと安堵したように息を吐く。
「大丈夫?フィアナ。うなされていたけど……」
優しい声だった。
否、優しげなのは声だけではない。
柔らかな色合いの銀髪も、穏やかな薄青の瞳も、少年の優しい性格によく似合っていた。もうすぐ十三歳になろうというのに、真っ白な肌と細い手足は、どこか少女のようですらある。
だが、その空の色を映したような瞳には、強い意志の光があった。優しげな容姿をしていても、その胸には次代の王としての、揺るぎない責任が宿っている。
そう、オスカールはローズティア国王の第一王子であり、王冠を継ぐべき立場にある少年だった。
「いえ……」
心配そうな顔をして、自分を見つめてくるオスカールに、フィアナは首を横に振る。
そして、幼い王子を安心させるように、淡い微笑みを浮かべた。
「大丈夫です……オスカール殿下。ご心配をおかけして、申し訳ありません。少し、過去の夢を見ていたものですから」
「……過去の夢?」
魔女の言葉に、王子は首をかしげる。
まだ幼いオスカールに、決して戻らない過去への想いなど、理解できるはずもない。それは知らないがゆえの愚かさで、だが、とても幸せなことなのかもしれなかった。
「――ええ。幸せで悲しくて、叶わなかった過去の夢です」
フィアナはそう言って、日が沈みかけた夕焼けの空を見つめた。
ずっと、そばにいる。
レオハルト殿下と交わした約束は、叶わなかった。だけど、フィアナは後悔してはいない。たとえ、願いが叶わなくとも、祈りが届かなくとも、彼と過ごした記憶はフィアナにとって大切なものなのだから。
夕焼けを見つめて、遠い過去に思いを馳せるフィアナに、オスカールは不安を感じて魔女の名を呼ぶ。
「……フィアナ?」
その真紅の瞳はあまりにも遠くを見ていたから、オスカールはフィアナがどこかに消えてしまうような、そんな錯覚を抱いた。
「はい。何でしょう?オスカール殿下」
振り返った美貌の魔女に、オスカールは何も言えなくなって、かすかに頬を赤く染めると「……何でもない」と、首を横に振る。顔が赤いのは夕焼けのせいなのだと、自分に言い聞かせながら。
もし、この淡く拙い想いを恋というならば、オスカールは魔女に恋をしていた。物心ついた頃から、ずっと。愛というには幼すぎて、恋というにも未熟すぎる想いを、王子はずっと抱え続けてきたのだ。
だけど、この想いは届くことがないのだと知っていた。フィアナは、もう居ない誰かを想い続けている――それが、彼女が決して手放すことのない蒼華石の首飾りの贈り主なのだと、オスカールは気付いていた。
胸に重いものを感じながら、彼は魔女に歩み寄ろうとした。その瞬間――
「オスカール兄上っ!」
そう声を上げながら、小さな二つの影が、彼らの方へと駆け寄ってきた。
「イネス殿下。ダリア様……」
最初に駆け寄ってきたのは、オスカールよりも更に幼い少年だった。
イネス殿下――オスカールの二つ下の弟だ。
柔らかな色合いの銀髪に、翠色の瞳。
兄であるオスカールとよく似た顔立ちは、一目で兄弟だとわかる。しかし、兄が穏やかで柔らかな印象を人に与えるのに対し、弟であるイネスは幼いながらも、どこか抜き身の刃のような鋭さを感じさせた。同じ母を持つ兄弟でありながら、その気質は正反対と言ってよい。
しかし、性格は真逆でありながら兄弟の仲は良く、将来は国王になる兄上を支える宰相になりたいというのが、イネスの口癖であった。
イネスはオスカールに歩み寄ると、その横に立つフィアナを、翠の瞳でキッと睨みつけた。
「探しましたよ、オスカール兄上。今日は僕に剣の稽古をつけてくださる約束だったでしょう」
そう言いながら、イネスの翠の瞳は変わらず、フィアナを冷ややかに睨んだままだ。
「……」
憎しみのこもった視線に、フィアナはそっと目を伏せた。魔女はもうずっと長い間、イネスに嫌われている。いや、憎まれていると言ってもいい。元から良好な関係ではなかったが、三年前――兄弟の母である王妃が亡くなった日からは、言葉も交わせていない。
『――何で、母上を助けてくれないんだっ!お前は魔女なんだろうっ!死者を生き返らすことだって、出来るんじゃないのかっ!』
その時のことを思い出して、フィアナは痛む胸を押さえた。
幼いながらも、王族としての誇りを持った少年が、ただ亡き母を想って泣いていた。
叶えられるならば、その願いを叶えてやりたかった。だが、神ならぬ身にそんなことが出来るはずもない。死者を生き返らせる――それは神の領域。魔女は万能ではない。たとえ、どれほど願おうとも叶えられないこともある。
だが、そんなフィアナの言葉は、イネスには伝わらなかった。
それも仕方のないことかもしれない。
身近に奇跡を起こせるかもしれない者がいれば、人は必ず頼ってしまう。それが、愛しい者にもう一度、会えるかもしれないという願いであれば。幼い王子が、魔女に頼ったのも無理のないことだ。
だが、それは叶わない。その時――彼は魔女を憎んだのだ。
「イネス殿下……」
フィアナの呼びかけに、イネスは表情を殺すと、ふぃと横を向く。
温厚な兄とは異なり、弟である彼の気性は激しい。
それは生まれゆえの傲慢さとも、王族ゆえの誇り高さとも取れた。
「イネス……」
オスカールがやや呆れた顔で、弟の態度を咎めようとした瞬間、イネスの後ろから一人の少女が顔を出した。
「あんまり意地を張らない方が良いですわ。イネス殿下」
ちょっと背伸びしたような口調で、イネスに話しかけたのは、彼とそう年の変わらない少女だった。
「――ダリア様」
フィアナが名を呼ぶと、少女――ダリアは微笑んで、慣れない仕草でドレスの裾をつまんで、小さくお辞儀をした。
「お久しぶりです。フィアナ様」
黒髪に藍色の瞳の少女。容貌は平凡で、端正な容姿のオスカールと並ぶと、どちらが娘かわからない。だが、その藍色の瞳はどこまでも真っ直ぐで、正直そうな娘ではあった。
穏やかな顔つきながら、その瞳にしっかりとした意思を宿しているところは、弟であるイネスよりもオスカールに似ているかもしれない。
ダリアは王族ではない。王家の遠縁にあたる貴族の娘だ。
しかし、今は亡きダリアの母が王妃の友であったことから、オスカールたちとは実の兄弟のように育った。そんな育ちゆえか、王子たちを前にしても、ダリアは物怖じすることがない。
特に年の近いイネスには、背伸びしたい年頃なのか、まるで姉のように振る舞うことも少なくない。
そんなダリアに、イネスは不快そうに眉を寄せた。
「……うるさい。黙れ。ダリア」
冷やかな王子の口調にも、共に育ったという想いがあればこそ、ダリアは怯まない。
時として、冷淡な王子と評されるイネスに睨まれても、ダリアはふふふっと苦笑するだけだ。
「黙りません。ダリアの役目は、イネス殿下を守ることです。亡き王妃様と母様の約束ですから」
――どうか、イネスを助けてほしい。
それは今は亡き王妃と、ダリアの母の約束。
オスカールとイネスの母は最期まで、幼い息子たちのことを気にかけていた。特に、穏やかで人望も厚い兄王子よりも、やや病弱で気性の激しい弟王子イネスの行く末を、心から案じていた。
だからこその約束。そして、それは娘であるダリアにも受け継がれている。
ダリアの言葉に、イネスはふんっと鼻をならす。
「ふんっ、忠義者だな……だが、お前が僕を守るなど無理だろう?ダリア。剣も満足に握れないくせに」
忠義心は認めながらも、黒髪の少女の細腕に、イネスは冷やかな視線を向ける。
あんな細腕で誰かを守れるものか。ましてや、イネスはダリアに守られるほど弱くない。むしろ、この少女こそが守られるべき存在ではないだろうか――
そんなイネスの想いを見透かしたように、兄であるオスカールは苦笑すると、クシャクシャと弟の銀髪を撫でた。
「まぁ、そう言うな。イネス。強いというのは、力の問題だけじゃないぞ。お前がいつか、ダリアに助けられることもあるだろう……それに、父上も言っていただろう。民を信じ、信頼されてこそ善き王だと……ダリアがお前を信じてくれるなら、お前も彼女を信じることだ。わかったな?」
「……はい。オスカール兄上」
敬愛する兄の言葉に、イネスも神妙な顔でうなづく。
「……」
そんな微笑ましい兄弟の姿に、フィアナは真紅の瞳を細めた。
兄は弟を信頼し、弟は兄を信頼する――理想的な兄弟の姿。
人を信じるということは、決して容易なことではない。ましてや、王宮という人と嘘と欲望が入り混じる場所にあっては、実の兄弟ですら敵同士になりうる。そうして、王国の歴史の中で、幾度となく悲劇が繰り返された。
あの“光の王”と呼ばれたレオハルト殿下ですら、最期まで異母兄ステファンの信頼を得ることは出来ず、生涯に渡り憎まれた。それは、レオハルトにとって癒えることのない心の傷であった。
だが、オスカールとイネスは違う。彼らならば手を取り合って、共にローズティア王国を支えていくことが、出来るかもしれない。お互いを信頼する兄弟ならば、きっと。
フィアナは目を閉じて、やがて訪れるはずの未来を想った。
――王国には賢く穏やかな王オスカールが即位し、そんな彼の横には、王が信頼する弟・イネスがいて王の治世を支えている。そして、そんなイネスの横には……。
幸福な未来を想って、フィアナは膝を折ると、ダリアの手を握った。
“王冠の魔女”に手を握られて、少し照れたような顔をするダリアに、魔女は微笑む。
イネス。オスカール。ダリア。皆、性格は違えど、心根は優しい子供たちだ。そんな彼らが、王国を良い方向に導いてくれることを、フィアナは心から願った。そして、どうか約束を叶えられますように――と。
「どうか、約束を守ってくださいね。ダリア」
私は約束を果たせなかった。
でも、貴方なら叶えられるかもしれない。
魔女の真紅の瞳で見つめられたダリアは、真剣な顔でうなづいて、藍色の瞳でフィアナを見つめ返した。幼くとも、その瞳に揺らぎはない。忠義心か、恋心か、いずれにせよダリアはイネスと共にあることを選んだ。
はい、と答えた声に迷いはない。
「――私はイネス殿下を守ります。必ず」
その誓いが、彼ら三人の運命を動かすことになるなど、この時は誰も想像していなかったのである。幸福な子供時代。その終りはまだまだ先で、しかし逃れようもない未来であった。
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