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四章 魔女を憎んだ王 4−2


 ――幼い頃から、王子イネスは魔女のことを嫌っていた。いや、憎んでいたと言ってもいい。
 
 その理由は色々ある。
 幼い頃は敬愛する兄――オスカールの信頼を独り占めしていようで、気に食わないという子供っぽい嫉妬心もあったし、ずっと年を取らない少女のままの容姿は、はっきり言って不気味だった。
 その違和感を上手く説明することは出来ないが、何というか人の理から外れた存在であると感じたのだ。歳月というのは、この世で生きる全てのものに対して平等であるはずなのに、フィアナだけは違う。
 生まれた時は遥かに年上だったはずの見た目が、いつしか逆転していく。それは不気味としか言いようがない。
 結局のところ、イネスは魔女という存在を受け入れられなかった。
 歴代のローズティアの王族の中には、フィアナに――“王冠の魔女“に恋をした者もいたという。愚かなことだと、イネスは思わずにいられない。人ではない存在に恋をしても、上手くいくはずがないのに。
 ましてや、時の流れから逃れることのない人間と魔女では、その恋が実ろうと実るまいと、悲しい結末を迎えることになるのだから。
 たしかに誰よりも、美しい容姿の娘ではある。
 月光のような金髪も、宝玉のような真紅の瞳も白磁の肌も……全てが、この世のものとは思えないほど美しい。
 良い意味でも悪い意味でも、作り物めいた美貌だった。歪み一つない美貌は、人に恐怖すら抱かせる。その美しささえも、フィアナが人でない証明のように思えて、イネスは好きではなかった。
 しかし、昔は嫌いではあっても、憎んではいなかった。
 王妃が、母が死んだ日から、イネスは魔女を憎むようになった。九年前のあの日から――
「ひっく……ひっく母上ぇ……目を開けてぇ……」
 幼い王子が、黒い柩――彼の母が眠るそれにすがりついて、嗚咽していた。
 まだ七つにしかならないイネスにとって、死というのはひどく遠いものだった。
 それが何かわからぬほど幼くはないが、母の死という残酷な現実は幼い彼を打ちのめし、イネスは運命を受け入れることも拒むことも出来ず、ただ透明な涙をこぼしていた。
 母譲りの翠の瞳から流された涙が、ぼたりぼたり、と母の眠る柩を濡らしていく。
 その涙をぬぐってくれる母は、もう永遠に目覚めることはない。
「母上……こんなの嘘だ……きっと元気になるって約束したのに」
 何かを答えるはずもない柩に、イネスは語りかける。
 そう、病に倒れた母を見舞いに行った時に、母上は「きっと元気になる」と約束してくれたのだ。優しくて正直で、王妃として誰からも慕われた母――たとえ子供であっても、約束を破ったことなど一度もなかった。だから、こんなのは嘘だ。認められない。母が二度と目覚めず、もう会うことが出来ないなんて。
 名を呼んでくれる優しい声も、頬を撫でてくれる白い手も、全てが失われてしまったなどイネスは信じたくなかった。
 しかし、運命は残酷だ。亡き母を想って、イネスがどれほど涙を流そうとも、嗚咽して声を枯らそうとも母は二度と戻ってこない。
 かすれた声で、「母上……母上ぇ……」と泣き続けるイネスの肩に、小さな手が置かれた。
 いたわるような優しい仕草だった。
「――あまり泣き続けてはいけないよ。イネス。母上は安らかな眠りにつかれたんだ。もう苦しむことはないんだよ」
 そう泣きはらした目で言いながら、弟の小さな肩を抱いたのは、兄王子のオスカールだった。
「……オスカール兄上ぇ」
 兄の名を呼んで泣きじゃくるイネスを抱きしめながら、自身は必死に涙をこらえたオスカールは、震える声で弟をなぐさめた。
「ほら、イネスがそんなに泣き虫だと、母上が天の御国に行かれないよ……大丈夫。葬儀の時に大司教さまも言っていただろう?母上は天の御国から、僕らを見守ってくれるって。だから、悲しむことはないんだよ」
 泣きやまない弟を抱きしめながら、オスカールは大司教の言葉を借りて、自分は涙をこらえイネスをなぐさめる。母上は天の御国に行ったのだから、悲しむことはない――いかに大司教の言葉を信じようとも、悲しくて泣きたいのは、オスカールだって同じだった。
 いかに大人ぶって、大司教の言葉を語ろうとも、オスカールだって弟と二歳しか違わない九歳の子供なのだ。辛くないはずも、泣きたくないはずもない。今だって、幼い弟を抱きしめていなければ、声を出して嗚咽していただろう。
 ただ、第一王子としての責任感と、亡き母に代り弟を守るのだという強い決意が、彼に涙を許さなかった。
 ――自分がしっかりしなければ。王子である自分が、王国と弟を守るのだ。自分が必ず……。
 胸に痛いほどの決意を秘めて、オスカールは震える弟の背を、小さな手でさすり続けた。
「ううっ……イネス殿下……オスカール殿下……」
 彼らと同じように泣きじゃくりながら、よろよろとした足取りで歩み寄ってくるのは幼い少女――ダリアだ。
 王子たちの幼馴染である彼女は、まるで自分が母を亡くしたかのように、心から嘆き悲しんでいた。幼い王子たちの遊び友達として、昔から王宮に出入りしていたダリアにとって、王妃は母にも等しい存在であったから無理もない。
 娘のいなかった王妃は、ダリアを実の娘のように可愛がっていたから、大事な人を亡くしたという痛みは彼ら兄弟と同じだった。
 泣きじゃくったせいか、普段は綺麗に整えられた黒髪は乱れ、藍色の瞳は真っ赤に腫れている。
「……ダリア」
 兄の胸から顔を上げたイネスが、少女の名を呼ぶと、ダリアはわっと泣きながら彼に抱きついた。
「イネス殿下……王妃さまが、王妃さまが……」
 ほらはらと涙をこぼすダリアを見つめて、悲しみをこらえられなかったのか、再びイネスの瞳からも透明な雫が落ちる。幼い少年と少女は互いの涙をぬぐいながら、最愛の母を失った悲しみを受け入れようとしていた。
 そんな弟と幼馴染みの少女を、薄青の瞳で見つめながら、オスカールはぎゅっと唇を噛みしめる。王位を継ぐ者は耐えなければならない。どんな苦しみにもどんな悲しみにも、王国の民のために耐えなければ。
 ――そうでしょう?母上。
 イネスとダリアが泣きじゃくり、オスカールが唇を噛んで耐えてきたそこに、コツコツという靴音が近づいてくる。その音にオスカールは顔を上げて、後ろを振り向いた。
 そうして、扉のあけた人の名を呼ぶ――
「――フィアナ」
 オスカールが名を呼ぶと、フィアナは真紅の瞳を伏せて、スッと頭を垂れた。
 亡き王妃の喪のためか、黒い服をまとった――“王冠の魔女”。
 黒づくめの服装の中で、胸元に咲いた赤い薔薇のアザと、フィアナがいついかなる時も、決して外そうとしない蒼華石の首飾りだけが目にあざやかだった。
 どのような姿をしていても、その作り物のような美貌は隠しようもない。幾度も見慣れたはずの、しかし決して慣れることのない容姿に、オスカールは息をのむ。その人間離れした姿は、まるで亡き母を迎えにきた冥府の使者のようにすら感じられて、彼は身動きすることすら叶わなかった。ひどく神聖で、近寄り難いものに思えて……。
「……イネス殿下。そろそろ戻られないと、お体に障ります」
 フィアナはゆっくりとした足取りで、王妃の眠る黒い柩に近寄ると、その柩にすがりついて離れない弟王子に痛ましげな目を向ける。そうして、柩から離れようとしないイネスを、静かな声で諭した。
 きっと、体の弱いイネスの身を案じて、部屋に戻るように説得しに来たのだろう。母が亡くなってから三日間、イネスは食事も睡眠も碌に取っていないのだから。
「……」
 魔女に声をかけられても、イネスは身動きすらしなかった。
 ただ、黙って翠の瞳で魔女を睨みつける。
 そんなイネスの姿に不安を感じて、ダリアが心配そうな顔で、彼の顔をのぞきこんだ。
「……イネス殿下?」
 少年は燃えるような瞳で、“王冠の魔女”を睨み続けると、低い声で「どうして……」と呟いた。
「フィアナ。どうして……」
「……イネス殿下?」
 眉をひそめたフィアナに、イネスは怒鳴った。
 禁忌ともいえる言葉を。
 悲しみと怒りに任せて、魔女にぶつけた。
「――どうしてっ!どうして母上を助けてくれなかったんだっ!フィアナっ!魔女は“魔法”を使えるんだろう?なのに、なぜ救ってくれなかったんだっ!フィアナあああああっ!」
 なぜ母上を助けてくれんなかったのか、と。
「……申し訳ありません。イネス殿下」
 イネス殿下の問いに、フィアナは何も答えることが出来なかった。
 たとえ、どれほど願われようと乞われようと、死した人を救うことは魔女にも出来ない。
 魔女は“魔法”は、万能ではないのだ。むしろ、魔女であるからこそ、多くの誓約に縛られている。もし、人の運命を変えることが出来たなら、悲劇から救いたい人もいた。何としても守りたい人もいた。そして、共に生きたい人も……。
 しかし、それは叶わなかった。魔女であるがゆえに、叶えられなかった。
 そんなフィアナにとって、イネス殿下の言葉は残酷でしかない。しかし、ひどく悲しいことに、そう言いたくなる気持ちは痛いほどにわかったのだ。大事な人を失う痛みを知っているから。
 ――大事な人を失った時に、救ってほしいと祈らぬ者がいるだろうか?
 それでも人間は、その運命を受け入れるしかない。たとえ、どれほど残酷なものでも必ず。
 だが、イネスの前には魔女がいた。奇跡を、魔法を操れる存在が――何で、救ってくれなかったと罵らずにいられない気持ちが、魔女には痛いほど伝わった。だからこそ、翠の瞳で自分を睨みつけてくる王子に、何も言うことが出来なかったのだ。
 うつむく魔女の心を、イネスの言葉が切り裂いた。
「――何で、母上を助けてくれないんだっ!お前は魔女なんだろうっ!死者を生き返らすことだって、出来るんじゃないのかっ!」
 パァン、と乾いた音が響いたのは、イネスが魔女を怒鳴ったのと同時のことだった。
「……言葉が過ぎるんじゃないか。イネス」
 オスカールはそう言って、振り上げた手を下ろした。
 彼の平手が、弟の頬を叩いたのだ。
 イネスは叩かれた赤い頬を押さえながら、呆然と兄を見上げる。なぜという思いが、胸にこみあげていた。
「……オスカール兄上?」
「……」
 その呼びかけに、オスカールは何も答えてくれず、ただ黙って弟に背を向ける。そうして、母の柩の前から去る王子の瞳に涙がにじんでいたことは、横に立つ魔女しか気づかなかった。
 そうして、魔女も去り、イネスとダリアだけが残された。
「イネス殿下……」
 ダリアは藍色の瞳に涙をためて、母の柩から離れようとしない王子の背を、小さな手で抱きしめた。母が倒れた日から食事も取っていないせいで痩せた肩は、ひどく抱き心地が悪かったが、それが愛おしかった。彼女は知っている。イネスはオスカールのように、大人びているわけではない。だが、母を心配する優しい心根の持ち主なのだ。
 ――何があっても、自分だけはイネス殿下の味方であろう。最後まで、彼を守るのだ。
 それは恋か忠義心か、幼い彼女にその境目はひどく淡くて、どちらとも決められはしなかったが、大事な想いであることは疑いようもなかった。
「――魔女なのに、なぜ誰も救ってくれない?」
 母上も自分もオスカール兄上も、誰一人として救われていない。
 イネスはそう呟きながら、握った拳を震わせた。握りしめた手のひらには爪がささり、噛み締めた唇には赤い血がにじんでいる。
 その九年前の日から、イネスは魔女を憎むようになった。人には持たぬ力を持つ存在でありながら、人を救ってくれない魔女を呪った。“王冠の魔女”を。しかし、オスカールは違ったのだ――

「――イネス」
 書庫で本に目を通していたイネスは、兄の呼ぶ声に顔を上げた。
「オスカール兄上」
 母が亡くなった日から、九年――
 そう兄の名を呼んで立ち上がったイネスの背丈は、すでに兄の背丈に追いつき、追い越していた。
 あの日、亡き母の黒い柩にすがって号泣していた少年は、先月十六の誕生日を迎えた。翠の瞳を真っ赤に泣きはらしていた弟王子は、今や凛々しい若者へと成長している。
 幼い頃は病弱で、周囲からは成人すら危ぶまれたほどであったのに、今では長身で堂々たる偉丈夫である。昔と変わらないのは、兄と同じ銀髪くらいのものだ。
 武勇の腕も優れており、騎士団長とも互角に戦うほどの腕前だ。もうイネスを病弱な王子と侮る者は、王宮に誰もいない。
 そんな弟をオスカールは、どこか眩しげに見上げた。
「ここに居たのか。イネス……ダリアは?一緒じゃないのか?」
 オスカールの問いかけに、イネスはハァと息を吐く。
「さっきから待ちぼうけです。わが婚約者殿は、未来の夫を待たせても平気な人種らしい。女たちの支度というのは、何でこうも長いんでしょうね?オスカール兄上」
 ぶつぶつと愚痴るイネスに、オスカールは苦笑する。
「まぁ、そう言うな。ダリアは心根の優しい娘だ。良い妻になるだろう」
 ――今から一年前に、イネスとダリアは婚約した。
 イネスが十五で、ダリアが十四の年のことだ。二人とも若年ゆえに、婚儀こそ伸ばされたものの、来年の春には婚儀が行われることだろう。そんな未来を兄として、オスカールは心から祝福していた。
 この婚約は、王子と有力貴族の娘という政略的なものではあるが、国王や大臣たちの思惑とは別に、幼い頃から共に過ごしてきた彼らには絆があった。
 たとえ国の安定のための結婚だとしても、ダリアがイネスを好いているのは疑いようもなかったし、イネスもそれを受け入れていた。オスカールの見たところ、幼い頃から近くにありすぎたせいか、イネスは愛や恋を自覚してはいないようだったが、それでも二人は似合いの夫婦になるだろうと思えた。
 だから、素直に祝福した。それが、自分に叶わぬことであっても……。
「そうでしょうか?ダリアは昔から、ずっとそばにいましたから……いきなり妻と言われても」
 オスカールの言葉に、イネスは首をかしげる。
 幼い頃からずっと一緒にいた娘を、結婚した途端いきなり妻と思えと言われても、十六歳の少年であるイネスには受け入れづらいことだった。そんな弟の悩みを察して、兄は励ますように言う。
「ははっ。それも普通だが、未来のことはわからないぞ。お前がいつか、ダリアに苦しいほどの恋をすることもあるかもしれん」
「……そういうものでしょうか?オスカール兄上」
「ああ。そういうものさ。ダリアを大事にするんだぞ。イネス……」
 そう言うと、オスカールは笑顔を消して、真面目な顔で告げた。
「――王族とは孤独なものだ。イネス。お前もいつか、それを悟る日が来るだろう。裏切りや謀略の中にあって、真実を見つめ続けるのは難しい。だからこそ、お前を信じて愛してくれる者は、誰よりも大事にして守りぬけ。必ず」
 それは兄としての立場よりも、王位を継ぐ王子としての言葉だった。
 兄の言葉の重さに、イネスは言葉を失う。
「オスカール兄上……」
 イネスが戸惑ったように言うと、オスカールはふっと微笑む。
 幼い頃に弟の頭を撫でていた時と、同じ笑顔だった。
「焦られなくても良いさ。お前にも必ずわかる」
「……はい。オスカール兄上」
 幼少時代に戻った気分になりながら、イネスはうなずいた。
 子供の時からイネスにとって、二つ年上の兄オスカールは、誰よりも尊敬する存在だった。歳はそう変わらないのに、昔から兄は大人びていて聡明であった。父母よりも身近で、母が亡くなってからはいつも、イネスを支え導いてくれた自慢の兄……。
 そんな兄の助けになりたくて、イネスは子供の時から学問と武芸に打ち込んできたのだ。
「お待たせいたしました。イネス殿下……あら、オスカール殿下?」
 その時、書庫の扉が開けられて、ダリアが部屋に入ってくる。
 十五歳になったダリアだが、黒髪が腰まで伸びたこと以外はあまり変わらない。しかし、うっすらと化粧した顔は可憐で、花が開く前のつぼみのようだった。
 ダリアの姿を見たオスカールはうなずいて、腰を上げた。
「久しぶりだな。ダリア。元気にしていたか?」
 未来の義兄オスカールに話しかけられ、ダリアはにこやかに微笑みながら答える。
「はい。オスカール殿下もお元気そうで、何よりでございます……今日は狩りに行かれる前に、書庫にお寄りになったのですか?騎士の方々がお待ちでしたわ」
 ダリアの言葉に、オスカールより先にイネスが反応した。
「狩りに行かれるですか?オスカール兄上。珍しいですね」
 兄は狩りをそれほど好まない。
 それを知っているイネスは、不思議そうに言う。
「ああ。たまにはな。王宮にいると見合いの肖像画ばかりを見せられて、息がつまる」
 オスカールは冗談めかして言ったが、それが兄の本音であることを、イネスは知っていた。
 兄は今年で十八歳だ。次の王位を継ぐべき者として、結婚が早すぎるということはない。
 ローズティアの王族は代々早婚であるから、オスカールは今ごろ世継ぎをもうけていたとしても、おかしくはない年齢なのである。しかし、オスカールは世継ぎはおろか、妻を迎えることすら拒んでいた。
 あと数年で父が退位し、兄が王位を継ぐことを考えれば、家臣たちがオスカールに結婚を望むのも無理からぬことだろう。
 ――政略結婚は王族の義務。王は政治を考えて、妃を娶る。
 だが、聡明で穏やかな人柄かつ、武芸にも優れ理想的な王子と称されるオスカールが、結婚だけは拒んでいた。政略結婚が王族の宿命であることを知りながら、決して妻を迎えようとはしない。その理由をイネスは知っていた――
「オスカール兄上。まだ魔女のことを……」
 兄の秘めた想いを知るイネスは眉をひそめる。
 ――オスカールは魔女に恋をしている。ずっと前から。
 聡明な兄らしくもない。愚かなことだ。人間と魔女の恋など、実るはずもない。仮に実ったとしても、幸せな結末など望めまい。それなのに、どうして……。
「それ以上、言わないでくれ。イネス」
 弟の心配を知りつつ、オスカールは言葉を拒む。
 数百年の孤独な生を送る――“王冠の魔女”。
 その存在を知った時から、オスカールはフィアナに恋をした。
 報われるはずのない想いだというのは、最初からわかっていた。自分は王位を継ぐべき者であり、彼女は王国を守護する魔女なのだ。たとえ天地が逆になろうとも、結ばれることなどなどないし、オスカールは愛する国を捨てられない。
 もし、想いが実ったとしても、彼は必ず魔女を残して死ぬのだ。だから、想いを告げる気はオスカールにはなかった。ただ魔女をフィアナを想うことだけは、許してほしかった。
 想うことが罪だとしても。
「イネス殿下……」
 兄弟の間にただよう不穏な空気を感じて、ダリアが心配そうな顔で、イネスを見つめる。
 そんな彼女の姿を見て、オスカールはふっと肩の力を抜いて、表情を和ませた。
「すまない。イネス。お前にそんな顔をさせるつもりじゃなかったのに……」
「いいえ……」
 オスカールの言葉に、イネスは首を横に振る。
「……そろそろ狩りに行ってくる。あまり待たせると、騎士たちに不満が出るからな。続きは帰ってきたら話そう」
 そう言うとオスカールはイネスとダリアに背を向けて、書庫の扉の方へと歩いていく。――帰ってきたら話そう。その言葉に訳もなく不吉なものを感じて、イネスは去っていく兄の背に向かって叫んだ。
「――オスカール兄上っ!」
 イネスの呼び声に、オスカールは振り返る。
「何だ?イネス」
「いえ……お気をつけて」
 不安で兄を呼び止めたものの、言うべきことが思いつかず、イネスは言葉を濁した。胸を支配する不吉な予感。説明の出来ないそれが、どうか杞憂であれば良いと願いながら……。
 弟の言葉に、オスカールは「ああ」とうなずいて、いつものように微笑んだ。幼い頃から見慣れた優しい兄の顔で。
「ああ。ありがとう。イネス」
 そして、オスカールは狩りに出かけるために、書庫から出て行った。
 遠ざかる兄の背に、言いようのない不安を感じつつも、イネスはそれを見送ることしか出来なかったのである。
 それから数十年後、彼が人生を終えるその日まで、イネスはこの時に狩りに行く兄を見送ったことを深く後悔することになる。あれが、兄と交わした最期の言葉になるなんて……。

 ――翌日。王宮に届けられた報せは、オスカール殿下が狩りの最中、落馬の事故で急死を遂げたというものであった。


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