悲劇というものは、いつも突然だ。否、突然であるからこそ、それは悲劇と呼ばれるのだろう――
ゴォォン!ゴォォン!
鐘が鳴る。
葬送の鐘が鳴る。
弔いの鐘が、若すぎる王子の死を悼んで鳴り響く。
ローズティアの第一王子オスカールが、落馬の事故で急死を遂げてから三日後に、王宮の大聖堂で彼の葬儀は行われた。
将来を期待された王子の若すぎる死に、王国の民は身分の貴賎なく嘆き悲しんだ。聡明で、穏やかな人柄を慕われたオスカールの死に、誰もが言われるまでもなく心から喪に服したという。
だが、王宮でも気の早い者たちは『オスカール殿下が亡くなられた今、次の王位を継がれるのは、イネス殿下しかいない』と声をひそめて噂し、不謹慎なことよと聖職者たちから睨まれたりしていた。
そう、しかし王宮のかしましい雀たちの噂話も、至極もっともなことである。
現王陛下のたった二人の実子――兄のオスカール殿下と弟であるイネス殿下。
今のローズティア王国の中で、王から王位を……そして、王冠を継ぐ資格があるのは二人の王子だけ。その二人の王子の一人であるオスカール殿下が亡くなった今、父王の跡を継ぐべきはイネスしかいない。
もし、これが王位を巡って争う兄弟であったならば、イネスの嘆きもさほど深いものではなかったかもしれぬ。だが、オスカールとイネスは血を分けた二人っきりの兄弟であると同時に、共にローズティア王国を支えていこうと誓った同志でもあったのだ。幼い頃から、いずれ王となるオスカールを守り支える人間になることこそが、イネスの願いであり夢であった。
民に慕われ善き王と呼ばれるはずの兄を補佐して、共に力を合わせて、王国を守っていく――それはいずれ必ず、現実となるはずの優しい未来だった。
突然の悲劇に――オスカールの死によって、その夢を打ち砕かれて、最も敬愛する兄を失ったイネスは大切な片翼を失ったに等しい。
だが、兄の死をどれほど嘆き悲しもうとも、王子であるイネスにはローズティア王国を支えて、父と同じく国王として国を導いていく義務がある。しかし、そのイネスは今、深い深い絶望の中にいた――
「どうして……オスカール兄上が……」
葬儀の行われた大聖堂で、イネスは翠の瞳で兄・オスカールの眠る黒い柩を見つめながら、その現実を認めたくなくて、震える拳を握りしめた。
ほんの数日前まで、共に笑いながら言葉を交わしていた兄が、物言わぬ骸になっているなどイネスは信じたくなかった。何かの間違いではないか。この黒い柩に眠っているのはオスカール兄上ではなくて、誰か別の人間なのではないか。
辛い現実を受け入れたくない余り、そんな馬鹿馬鹿しい幻想すら頭に浮かぶ。
無論、イネスとて理性ではわかっている。兄は……オスカール兄上は死んだのだ。どれほど嘆き悲しもうとも、それが覆ることはないのだと。
だが、頭ではわかっていても、心が現実を拒んだ。
愛する兄の死に、イネスの心は悲鳴を上げる。これは嘘だと、心の中の自分が叫んだ。
(嘘だ。オスカール兄上が、亡くなったなんて……)
(私は……こんな現実を認めない)
(私は認めない。絶対に……)
イネスとて、頭では理解している。
オスカール兄上は亡くなり、この黒い柩に眠っているのだと。王妃であった亡き母上と同じ、黒い柩で……
「イネス……イネス殿下」
その時、イネスの名を呼びながら大聖堂の扉が開けられて、黒い喪服を着たダリアが入ってきた。
その艶やかな黒髪を漆黒のベールで隠して、藍色の瞳に透明な涙をにじませている――同じ憂い顔だった。九年前にイネスの母が、王妃が亡くなった時と。
あれから十年にも近い歳月が流れようとも、少女から女に変わろうとしていても、ダリアの泣き顔だけは何も変わっていない。そう、愛しい者を亡くした悲しみと、あふれる涙をこらえて……イネスを守ろうとする表情は。
「――ダリアか」
殿下、と呼びかけられたイネスは、ゆっくりと顔を上げる。彼の翠の瞳に宿る空虚さに、ダリアは息をのむ。
――それは絶望だった。
だが、それでも彼女は怯みながらも、ふるえる白い手をイネスへと伸ばした。子供の時と同じように。
「はい。イネス殿下……」
「ダリア……皆、死んでしまったな。母上も兄上も……私だけを残して」
そんなダリアの腕に身を任せながら、悲しみを通り越して、感情の感じられない声でイネスは言う。彼の婚約者であるダリアは、そんなイネスに痛ましげな視線を向けつつも、いいえと首を横に振った。
「いいえ……イネス殿下はお一人ではありませんよ。私には何の力もありまんが、私は……このダリアは命が尽きる時まで必ず、イネス殿下のお側におりますから」
――イネス殿下を守る。
そう、それは約束だ。王妃様も、オスカール殿下も亡き今は、ダリアが絶対に守らねばならない誓いである。
「ダリア……」
イネスは少女の名を呼ぶと、己の腕の中にいるダリアの華奢な体を抱きしめた。強く、強く、欠けたるものを埋めようとするように。
そのあたたかな体温を感じるほどに、冷たい柩で眠る兄・オスカールを想って、イネスは身を震わせた。オスカール兄上は、もう二度と……
「――イネス殿下」
大聖堂の奥から響いた声に、イネスは顔を上げ、声の主を確認すると不快そうに顔を歪めた。
そうして、翠の瞳に悲しみではなく怒りの炎を宿し、声の主を睨みつける。秀麗な容姿の若者だけに、そうすると冷ややかさが際立つ。
彼は声の主を睨みつけながら、憎しみに満ちた声で言った。
「――今更、何をしに来た。オスカール兄上を、救ってくれなかったフィアナが」
そう言った彼の視線の先にいたのは、黒い喪服を着た王冠の魔女だった。
青ざめた顔をしたフィアナはイネスの糾弾にも、何も反論せずに黙って、真紅の瞳を伏せる。イネスの激しくも脆い性格を承知していて、こんな時に何を言っても無駄だと悟っていた。
そんな風に血の気が失せた魔女の顔は、こんな時ですらイネスが憎しみを覚えるほどに、彫像のように美しい。母が死んだ時と、同じように。
――あれから、さまざまな大事なものが失われたのに、この魔女だけは何も変わらないままだ。
そのことに、イネスはどうしようもなく苛立ちを覚えた。
どうして、この魔女だけ何も変わらないのだろうか。人は悩み、時として苦しみ、そして生涯を終えるというのに、この魔女はどうして――紡がれる歴史の傍観者でしかないのだろうか。
人知を越える力を持つ“王冠の魔女”ならば、オスカール兄上を死の運命から救えたのではないだろうか。どうして!
イネスはダリアから離れると、翠の瞳で魔女を睨みながら問うた。
「どうして……どうしてだ?フィアナ。なぜ兄上を助けてくれなかったんだ。数百年も生きている魔女なのに……」
「……」
さながら鋭利な刃のように、イネスの糾弾の言葉はフィアナの胸を切り裂く。
幼い頃から見守り、共に歳月を過ごしてきた王子に、燃える炎のような憎しみを向けられる。そのことに悲しみを覚えないと言えば嘘になるが、イネスの怒りも痛いほどに理解できるがゆえに、魔女はただ沈黙を守った。
そう、どれほどの時を人と共に過ごそうとも、魔女は人間にはなれない。イネスの行き場のない怒りや苦しみを理解しても、決して同じにはなれないのだ。
昔、まだフィアナが“王冠の魔女”でなかった頃に、師である千里眼の魔女から言われたことがある――
『良いかい?フィアナ。魔女は絶対に人間になりたいなんて、思ってはいけないよ……自分が苦しいだけだからね』
ああ、そうだ。お師匠様の言っていた通りだ。そうフィアナは思った。魔女と人間は違う……だから、こんなにも苦しい。
「なぜだ?オスカール兄上は、お前のことを慕っていたのだぞ!それなのに……どうして……」
「私が……」
どうしてだっ!なぜ助けてくれなかったんだ!
そう魔女を責め続けるイネスの言葉に、フィアナはずっと沈黙していたものの、やがて悲しい目をして唇を開いた。真紅の瞳に宿るのは、諦めの色だった。
その余りに静かな瞳に、イネスも口をつぐむ。
フィアナは激昂することもなしに、穏やかな声で言った。そう、悲しいほどに穏やかな声で――
「――私が、オスカール殿下を、救いたくなかったとでも思っておられるのですか?イネス殿下」
救えるものなら、いつだって助けたかった。悲しい運命を歩む人々を。でも、一度も救えなかった。
魔女はただ見守るのみ。
運命を変えることは出来ない。
「……フィアナ」
凍りついたような顔で、己の名を呼ぶイネスに、魔女はただ頭を垂れる。
「失礼いたします。イネス殿下。オスカール殿下を救えなかった私に、ここにいる資格はございませんので」
それが、決別の合図だった。
イネスと魔女の。
そこまで言われても、フィアナの心を支配するのは怒りではなくて、ただ純粋な悲しみだった。
理解されなかったということに虚しさを覚えたが、それでもローズティアの“王冠の魔女”が、王宮から去ることは許されない。ローズティアの歴史を見守る。この国が滅びる、その日まで。
それは師匠である千里眼の魔女イーリアより受け継いだ使命であったし、何よりレオハルト殿下との約束であったから……
「待て!フィアナ!」
叫ぶようなイネスの呼びかけには応じず、フィアナは呪文を唱えると、フッと彼らの前から姿を消した。
そんな魔女の行動に、ダリアは慌てた様子で立ち上がるとフィアナを止めようと必死に手を伸ばしたものの、その寸前で魔女の姿は跡形もなく消え去って、全ては徒労に終わる。何も掴めなかった。空っぽの手を見つめて、ダリアはハァと息を吐く。
「フィアナ様……」
そう呟く少女の幼馴染みであり、婚約者であるイネスは険しい顔で、魔女の去った場所を睨み続けたのである。
かくして、彼らの前から姿を消した魔女が、イネスの前に再び姿を現したのはそれから七年もの月日が流れた後のことだった――
オスカール殿下が落馬の事故で亡くなり、その弟であるイネスが“王冠の魔女”フィアナと決別した日から、瞬く間に五年もの月日が流れた。オスカールが亡くなった三年後に、世継ぎの王子を亡くしたことに落胆したのか、ローズティアの国王も急な病で帰らぬ人となった。
わずか二年の間に、国王陛下と世継ぎの王子を続けて失った民は悲嘆に暮れたが、今や王位を継げるのは年若いイネス殿下しかいない。
齢二十にもならぬ王に若すぎるという声も上がったが、重臣たちの支えにより、イネスは十九歳の若さでローズティアの国王として即位した――それが、今より二年前のことだ。
若き国王の即位は国に新風を吹きこんで、民からは歓迎された。
その即位した新しい国王が、武勇に優れた銀髪の美丈夫であったことも、民が喜んだ理由の一つではあろう。
光の王と称されたレオハルト国王の時代より、ローズティアの民は武勇に優れた王を望むようになった。その点において、イネスは理想の王と言える。
幼き頃より鍛錬を積み続けたイネスの剣の技量は、今や騎士団長を打ち負かすほどであったし、また軍の指揮官としても優れた才の持ち主だった。もっとも、それらは全て王となる兄・オスカールを支えるために、イネスが血のにじむような努力で手にしたものであった。しかし、それが王としてのイネス自身の評価を高めることになったのは、いささか皮肉ではあるが。
イネスが即位してから一年が過ぎた頃に、隣国であるカスタークと領土を巡る戦争が起きた時も、国王である彼が自ら戦場で目覚ましい武勲を上げ、最終的にはカスタークを倒して領土を広げた。
それは激しい戦であったにも関わらず、戦場で刃を振るった若き国王イネスは傷一つすら負わず、王の剣を赤く染めるのは敵兵の血ばかりであったことから、まさに鬼神の如き強さよ、とカスタークの敵兵から恐れられた。
そのカスタークとの戦争における迅速かつ見事な勝利は、イネスの名を軍才に優れた王として、近隣諸国に知らしめることになったという。
イネスは後に、ローズティアの銀獅子王と――その勇名を大陸に響かせることなるのだが、その片鱗はこの頃からあった。
しかし、ローズティアの王位を継いだばかりの当時、イネスはまだ若く思うようにならないことがままあった。
そのような理由から、その日、宰相が進言した言葉を退けることが出来なかったのである――
「……婚姻だとっ!」
エルメリア王国の第一王女リアラを、イネス陛下の王妃として迎えてもらいたい。
宰相の口から、そう進言されたイネスは翠の瞳に不快そうな色を宿し、眉を歪めて低い声で問うた。
「王妃だと……?エルメリア王国の王女とやらを、妻として迎えよというのか?何の意味があるのだ?」
婚約者であるダリアの顔を思い浮かべて、イネスは顔をしかめる。
兄や父の死。即位のゴタゴタに加えて、カスタークとの戦争……さまざまな要因が重なり、イネスとダリアの結婚は先延ばしにされていた。その期間に、ダリアの父が亡くなってしまったことも、原因の一つではある。
しかし、イネスにとってダリアは彼がまだ王子であった頃からの婚約者であるし、何よりも長年の苦楽を共にしてきた友人である。ダリアをイネスの妻に――というのは亡き母の望みでもあったし、イネスとしては約束を反故にする気はなかった。
ダリアのことを愛しているか、と問われれば、幼い頃から共に在りすぎたので、イネス自身もよくわからなかったが、ダリアが大事な人間であることは疑いようもない。
妻として守れ、慈しめ――亡きオスカール兄上と約束したそれを、イネスは守るつもりであった。それなのに……
不快そうな王とは対照的に、宰相は嬉々とした表情で、熱っぽく説く。
「我がローズティア王国にとっては、エルメリアとの同盟は不可欠でございます。先の……カスタークとの戦は勝利いたしましたが、やはり国を治めるには外交も重要でございます。つきましては両国の同盟の証と致しまして、イネス陛下にはエルメリアのリアラ王女を妻となされば……ローズティアとエルメリア、両国の和平は約束されましょう。これは家臣一同の総意でございます」
「なるほど。お前たちの考えはわかった……だが、私の婚約者であるダリアはどうするのだ?まさか今更、別の人間に嫁がせよと申すのか?」
イネスの反発は予期していたのだろう。宰相は薄く笑うと、ややネチっこい声で、王の問いに答えた。
「簡単なことです。イネス陛下。ダリア様は陛下の側室になさればよろしい……歴代の国王陛下も、そうなさってこられました」
つまり、王妃は国のために役立つ女を、側室には気にいった女を……。
イネスにとって不快なことではあったが、宰相の言い分は至極もっともなことであった。
一国の王ともなれば、その婚姻ひとつですら、国を生かし……また逆に滅ぼすこともある。国のために有益な結婚をすることも王族の義務であり、父も祖父も先祖もしてきたことであった。
家臣が両国の和平のために、エルメリアの王女とイネスの結婚を望むというなら、それを叶えてやるのも王の義務なのでは――
(それが、正しい道なのか……)
イネスの心は揺らいでいた。
気楽な第二王子として暮らしていた頃が、オスカール兄上とダリアと共に過ごしていた日々が、ただ懐かしかった。
『――私が、イネス殿下をお守りします』
そう言ったダリアの声が、涙をこらえた顔が、イネスの頭をよぎった……。
王というのは、不自由なものだ。結婚ひとつとて、思うままにならない。
そんな若き国王の迷いを見抜いてか、宰相が重々しい口調で言う。
「陛下の決断には我が国の平和がかかっております。どうか、ローズティアのために正しい決断を……」
国のために。そんな宰相の言葉に、イネスは決断した。国のために、ただ国のために、己を犠牲にするのも王の勤めだ――国のために働き続けた亡き父王も、王位に就く前に亡くなった兄も、そういう人であった。ならば、自分も……善き王でなければならない。
「……わかった。エルメリア王国と同盟を結び、その同盟の証として第一王女を王妃として、我がローズティアに迎えよう。支度をせよ!」
凛として宣言する王に、宰相は「はっ」と頭を垂れたのだった。
そうして、それから三月後にローズティアとエルメリアとの間には同盟が結ばれて、その証としてエルメリアの第一王女・リアラが嫁いできたのは更に二月後のことだった。
「お初にお目にかかります。イネス陛下……」
流れるような見事な金髪に加えて、神秘的な薄紫の瞳に成熟した女らしい体つき。どこか妖しい魅力を持つ美女が、そこにいた。
どこか人形のようなフィアナとは、正反対の美貌である。
しかし、どちらの女も、目を逸らし難い美しさであることには変わりがない。
その美しい女は紅い唇を開いて、
「――エルメリア王国の第一王女・リアラでございます」
と、微笑んだのである。
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