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四章 魔女を憎んだ王 4−4


 今より二十年も前のことだ。
 イネスとオスカールが母を亡くしておらず、まだ魔女との関係もさほど険悪でなかった頃に、幼馴染みのダリアを交えて四人で中庭で遊んでいたことがある。花の香りに包まれながら、膝の上にダリアをのせたフィアナは、このローズティアに伝わる昔話をしてくれた。
 それは、とても短い話であったが、イネスに忘れ得ぬ記憶を残したのだ。
 ――それは、ある騎士の話だった。
 その昔、光の王と呼ばれたレオハルト陛下の時代よりも、さらに昔のことだ。
 この国に、それはそれは立派な騎士がいた。武勇に優れ、王からも信頼されていた立派な騎士には、優しい妻と可愛い息子がいた。
 彼らは平和に幸せに暮らしていたが、ある日、隣国との間に領土を巡る戦争が起こってしまった。
 優れた騎士であった男は、それが国王と家族のためになるならばと、勇んで戦場に行った。奪うためではない。守るための戦いだと、そう信じていたから。
 何年かの後に、隣国との戦争に勝利し、騎士は喜んで故郷へと戻った。優しい妻と可愛い息子に、一刻も早く会いたかったから。
 しかし、国に戻ってきた彼を待っていたのは、息子の葬式だった。
 泣きながら騎士の妻が語ったのは、騎士が戦争に行っている間に、流行病で息子が死んでしまったということだった。もう少し、早く帰ってきてくれれば助かったのにと、騎士の妻は泣いた。
 ――こうして、騎士は大事なものを一つ失った。
 それから何年か後に、再び隣の隣の国との戦争が起きた。
 前の隣国との戦争の時に、活躍した騎士には再び王から声がかかり、また男は戦争に行くことになった。泣いて別れを悲しむ妻に、騎士は君を守るために戦場に行くのだと告げて、再び戦争で剣を振るった。それから数年が過ぎて、また戦争が終わり、国に戻ってきた騎士を待っていたのは妻が死んだという報せだった。
 ――そうして、騎士は再び大事なものを失った。
 その先も昔話はその調子で続き、騎士は戦が起こるたびに戦場へと出かけて、武勲をあげて出世していく。そのたびに、その出世の代償であるかのように、騎士は大事なものを一つ……また一つと失っていくのだ。
 そうして、昔話の終わりでは騎士は将軍の地位にまで上り詰めるが、その手には守るべきものは何も残っていないことに気づく――そんな悲しい話だった。
 フィアナの口から、その騎士の昔話を聞いた幼い子供たち……イネスとダリア。そして、オスカールの三人は妻や息子が可哀想だと、魔女に訴えた。
 なぜ、いつも大事な時に戦争に出かけてしまうのか。
 妻や息子が可哀想じゃないのかと――そんな子供らしい彼らの意見に、フィアナは少し困ったように笑って、「そうですね。でも……」と何かを言いかけた。だが、そこで父王が息子たちに会いに来たので、その先を聞くことは出来なかった。
 その時に魔女が「でも……」の先に何を言わんとしたのか、イネスはずっと長い間わからなかった。だが、今ならわかる。
 ――本当に哀れだったのは、騎士の妻や子供ではない。騎士自身なのだと。
 戦い続けた果てに、何も守るべきものが残っていないと気づいた騎士こそ、真に哀れな男なのだと。
 そうして、イネスはいつしか気がつくのだ。その哀れな騎士に近い自分に。どれほど戦おうとも、大事なものは彼の手のひらから、こぼれ落ちていくのだ。サラサラと、まるで砂のように……

 ローズティアの“銀獅子王”。
 いつから自分がそう呼ばれるようになったのか、イネスはよく覚えていない。
 ただ王として即位してから、いくつかの戦争で勝利を続けるうちに、味方からは信頼をこめて、敵からは恐れられて“銀獅子王”などと呼ばれるようになっていた。
 それについて“銀獅子王”と呼ばれるイネス自身は、別に嬉しさも悲しさも感じなかった。たかだか数度、戦争で勝利をしたくらいで、敵も味方も随分とご大層な呼び名をつけたものだ――そんな皮肉気な思いさえも、胸をよぎる。
 大陸にその勇名を響かせようとも、戦の天才と自国の民から讃えられようとも、イネスの心が安らぎを感じることはなかった。ただ、空虚な想いだけが若き国王の胸を支配する。
 戦争は嫌いではなかった。
 戦の高揚感と勝利した時の興奮は、迫る死の恐怖を差し引いたとしても、たしかに魅力的なものであった。
 幸いにも、イネスは戦の才には恵まれていた。即位してから隣国カスタークとの戦を始めとし、同盟国の戦争に力を貸したものもふくめれば、それなりの数の戦争に出陣したものの、彼は一度として敗北を喫することはなかった。
 広がる領土によってローズティアは豊かになり、民はイネスを善き王よと讃えた――だが、本当にそうだろうか。
 戦で勝利することでしか、国に繁栄をもたらさない王は本当に、父上やオスカール兄上が目指した善き王なのだろうか?
「――何か考え事ですの?イネス陛下」
「リアラか……」
 そうして玉座に座りながら、物思いに沈んでいたイネスを現実に引き戻したのは、媚びるような女の声と、胸にしなでかかる柔らかな体の重みだった。
 彼が顔を上げると、艶やかな深紅のドレスと真珠の首飾りで、華やかに着飾った女と目が合う。
 流れるような見事な金髪に薄紫の瞳の、魅惑的な美女――エルメリアの第一王女にして、今はイネスの王妃であるリアラが、紅い唇をつり上げて微笑む。
 その微笑みは、まさに傾国の美貌というに相応しい。例えて言うなら、王妃――リアラはトゲのある大輪の薔薇のような女だった。艶やかで、香り高く、たとえ破滅するとしても、手を伸ばさずにはいられない……そんな女である。
 王妃・リアラは魅惑的な微笑みを浮かべると、国王にして夫であるイネスに身を寄せながら、媚びをにじませた声で問うた。
「イネス陛下は、何を考えておいでなのかしら?リアラにも聞かせてくださいませ」
 そんなリアラの甘い態度も、イネスの心を動かすことはなかった。
 彼は身を寄せてくる王妃をチラッと一瞥すると、素っ気なく首を横に振る。
「いや……このところ遠征が続いて、少し疲れているだけだ。貴女が気にするようなことではないよ。リアラ」
 イネスの素っ気ない答えに、リアラは一瞬、その美しい顔をひきつらせたものの、すぐに気を取り直して、大輪の華のような艶やかな微笑を浮かべた。その薄紫の瞳に嫉妬の炎が宿っていることに、夫である国王は気付かない。
 ふふと軽やかな笑い声を上げて、リアラは紅い唇を扇で隠した。
 その胸に宿る、増悪という感情を押し殺すために――
「ふふふ。イネス陛下でもお疲れになる時があるのですね。民から“銀獅子王”と呼ばれる御方でも」
 王妃の媚びと賞賛と、少しばかりの恐れをふくんだ言葉に、イネスは冷ややかに笑う。
 自分は断じて、賞賛されるような王ではない。ただ大陸に多くの血を流し、他国を滅ぼしただけの王だ。
「ふん……大仰な呼び名をつけたものだ」
 そう言って、冷ややかに笑うイネスに対しても、王妃リアラは艶やかな微笑みを崩そうとはしなかった。
 薄紫の瞳に危険な光を宿しながらも、彼女は口調だけは穏やかに、国王に話題を振る。
「このたびの戦争の勝利を私の兄上も……エルメリアの王も喜んでいるようですわ。同盟国であるローズティアの勝利を、母国エルメリアの民も、我が事のように喜ばしく受け止めていると……」
 ローズティアの同盟国――エルメリア王国の第一王女にして、現王の妹でもある王妃・リアラの報告に、イネスは「そうか」と重々しくうなづいた。
 イネスとリアラの婚姻によって結ばれた、ローズティアとエルメリアの同盟は、今も破られてはいなかった。今後も、おそらくは破られることはないであろう――どちらかの国が裏切らない限りは。
「そうか。実は……今度、エルメリアの国王陛下に、そなたの兄上に書状を送ろうと思っている。エルメリアとは長年の同盟関係にある、ハイネン公国と我が国が戦をすることになりそうだ。そなたの母国エルメリアとハイネン公国は縁戚関係でもあるから、もし戦になれば、そなたの兄上……エルメリアの国王陛下にも、辛い決断を迫ることになるだろうが……」
 ハイネン公国。
 エルメリア王家とは縁戚関係であり、長年に渡る同盟国の名が出たことで、リアラがサッと顔を青ざめさせた。
 ローズティア王国とハイネン公国の軍事力の差は、歴然としている。ましてや戦の神の加護を受けているとまで言われる“銀獅子王”が攻めるのだ。万に一つも、負けることありえない。
 ローズティアの民はそれで良いだろう。だが、母国エルメリアはどうなるのかと、今は嫁いだとはいえエルメリアの王女であるリアラは、不安を感じずにはいられなかった。
ローズティア王国に、戦の天才である“銀獅子王”イネスに味方すれば、勝つだろう。長年の同盟国であるハイネン公国を裏切り、国王イネスに味方すれば――だが、その先はどうなるのだろうか。
 ハイネン公国が滅びれば、ローズティアの若き王が次に手を伸ばすのは、王妃・リアラの母国であるエルメリアかもしれないのだ。
 そうならないという保障が、どこにあろう。
(母国に……エルメリアに未来はあるのかしら?)
 王妃はゾクッと鳥肌が立つのを感じながら、戦場において“銀獅子王”と敵味方から称されるイネスの横顔を、薄紫の瞳で見つめた。
 腰まで伸ばした銀髪と、切れ長の翠の瞳……端正に整っているが、容姿から受ける印象が冷たいのは、この男が戦場で多くの血を流したからだろうか。夫であるイネスが、逆らう者には容赦のない性格であることを、リアラは知っていた。
 この恐ろしい男はきっと、必要であれば王妃の母国であるエルメリアすら、何の容赦もなく攻め滅ぼすであろうと――リアラのそれは、すでに確信であった。
「何か私に言いたいことがあるのか?リアラ」
 急に沈黙した王妃に、イネスが声をかける。
 王の問いかけにリアラはゆるゆると首を横に振ると、扇を口元にあて「いいえ……」と答える。
 その薄紫の瞳の奥に、危険な光が宿っていることに、イネスは気づけなかった。否、気づこうという努力すらしなかった。
「――いいえ。イネス陛下。何でもありませんわ」
 エルメリアの王女にして、今はイネスの王妃であるリアラは、静かな声で言った。
 きっと、この時すでに、ローズティアとエルメリアの運命は決していたのだ。

 それから、二日後――
 イネスは側室であるダリアを訪ねようとしていた。
 ダリアの部屋に近づくと、部屋の中から柔らかな歌声が響いてきた。ダリアの声だ。
「眠りなさい。眠りなさい。我が愛しき嬰児よ……」
 歌われているのは子守歌だった。
 イネスも幼い時、亡き母によく聞かされた、懐かしい子守歌。耳に心地よいそれを聞きながら、イネスはその部屋の中へと入る。
 彼が「ダリア」と声をかけると、部屋の隅で背を向けて歌っていた黒髪の女が、ゆっくりと振り返った。
「――イネス陛下」
 藍色の瞳にイネスを映すと、国王の側室であるダリアは微笑む。
 そんな彼女の腕の中には、赤ん坊が抱かれていた。
 母譲りの黒髪に、父と同じ翠の瞳をした赤ん坊――イネスとダリアの息子である。
 半年前に生まれた息子を子守歌であやしながら、ダリアはイネスの側へと歩み寄ってきた。
 イネスは椅子に腰をおろすと、彼女に話しかける。
「久しぶりだな。ダリア。何か変わりはないか?」
「ええ。元気ですわ。イネス陛下。私も、この子も……」
 夫に――イネスによく似た面立ちの息子を抱いたまま、ダリアは微笑んで答える。そんな彼女の微笑みが、イネスには眩しかった。
 王の子供を生んでも、ダリアがイネスに向ける眼差しは昔のままだ。優しい光に満ちている。
 平穏だった子供時代に、王城の中庭でオスカール兄上と幼馴染みのダリアとイネスの三人で過ごしていた頃と、何ら変わることがない。
 いつだって、この娘はイネスのそばにいたのだ。母を喪った日も、兄を喪った日も、そして“王冠の魔女”が彼の前から去った日も……。十数年前のあの日から、何もかも変わってしまったというのに、ダリアだけが残った――幼き日の、約束とも言えないような約束を守って。
『――私がイネス殿下を守ります』
 あの時、何の力もない幼馴染みの言葉を、イネスは愚かだと思った。剣すら持てぬのに、と。だが、今なら何と思うだろうか……?
「……ダリア」
 もう決して戻ることの出来ない優しい思い出。その懐かしさに突き動かされるように、イネスは幼馴染みの少女の名を呼んだ。
 息子を抱いたまま、ダリアは首をかしげた。
「はい。何でしょうか?」
「いや……何でもない」
 今でもあの時と、気持ちは変わらないか。
 そう問いかけようとして、イネスは止めた。
 今の自分に、それを問う資格があるとは思えなかったから。
「イネス陛下?」
「……」
 不思議そうな顔をするダリアから目を逸らして、イネスは机の上に置かれた葡萄酒を、口にふくんだ――異変が起きたのは、その瞬間だった。
「……ぐっ!」
 葡萄酒を口にした瞬間、喉に焼けるような熱さを感じて、イネスは飲んだばかりの酒を吐き出した。
 呼吸が苦しい。
 (……毒か!)
 意識が朦朧として、足がふらつく……毒だ!葡萄酒に毒をもられた!
 朦朧とする意識の中で、イネスはただそれだけを思った。
「イネス陛下っ!誰か来てっ!イネス陛下が――!」
 ダリアの悲鳴を最後に、イネスの意識は途切れた。


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