「……魔女?貴女が?」
グリフィスがそう問うと、黒い鉄製の檻の中で、王国の魔女だと名乗った美しい娘――フィアナは「はい」とうなずいた。
その真紅の瞳は真摯で、とても嘘をついているようには見えなかった。
――王国の魔女。
その伝説を、グリフィスは幼いころにアイラと一緒に、隣に住んでいた老婆から聞かされたことがあった。
雪の降る夜、赤々と燃える暖炉の前で、しわくちゃの手で子供たちの頭を撫でながら、老婆は語った。城に住むという、美しい魔女の話を。
――ローズティアの城には、不老不死の魔女が住む。
――真紅の瞳を持つ、美しい魔女が。
――数百年の長きに渡り、王家を守護し続けた“王冠の魔女”が城にいる。
魔女の伝説を語る老婆の口調は、真剣そのものであり、その魔女こそが王国を守っているのだと、疑っていない様子だった。“光の王”レオハルトの時代より、魔女は王と共に在るのだと。
そんな老婆の話に、アイラは瞳を輝かせていたが、グリフィスは自分には関係ないことだと、そう思いながら聞いていた。ただの商人の養い子である彼に、国王や王城など関係あるはずもなかったし、養父であり商人としての師であるハイラムですら、王城の門をくぐったことは一度もなかったからだ。
自分もきっと、王城などとは関わることなく人生を終えるだろうと、グリフィスは思っていたし、それに何の不満もなかった。だから、自分にもアイラにも分け隔てなく、優しくしてくれる老婆のことは好きだったが、魔女の伝説には余り興味はなかった。
そう言うと、夢見がちな少女であるアイラはむくれてしまって、彼はそれをなだめるのに苦労した――今はもう、遠い日の記憶。
『グリフィス……王様のお城には、魔女がいるんだよ。月光の髪に、真紅の瞳の、美しい魔女が』
そんな老婆の言葉を思い出し、グリフィスは藍色の瞳で、黒い鉄製の檻の中にいる少女を見つめる。
フィアナ。
そう名乗った少女はたしかに、幼いころに聞いた魔女の伝説と同じ姿をしていた。
月光の髪も、真紅の瞳も、人間とは思えないほどに整った美貌も……。
昔、老婆に聞かされた“王冠の魔女”そのままの姿だ。
「本当に……貴女は本当に、王国の魔女なのか?」
真実を確かめたくて、グリフィスはフィアナと名乗った少女に、そう尋ねる。
彼の問いかけに、フィアナはそっと真紅の瞳を伏せた。
そうして、鈴の音のように澄んでいて、だが何処か悲しみを感じさせる声で答える。
「……ええ。私は王国の魔女フィアナ=ローズです……信じてもらえないかもしれませんが、この状況で私が嘘をいう理由はありません」
鉄製の檻の中に閉じ込められた、その姿は少年の目には、とても哀れに映る。
なぜ少女は――フィアナは、檻の中なんかに閉じ込められているのだろう?
何かの罰だろうか?
「……わかった。信じるよ」
問いたいことは山ほどあったが、グリフィスは魔女だというフィアナの言葉を、まずは信用することにした。それが真実なのかどうか、疑えばキリがなかったが、信じないことには話が進まないと思ったし、それが真実か確認する術を彼は持たない。
それに何より、グリフィスは疲れ果てていた。
何かを疑うには、余りにも精神を消耗し過ぎていたのである。
愛する家族と無理矢理に引き裂かれて、いきなり王城に連れてこられたのみならず、宰相ロウランとその息子だというレザンは、ただの商人の息子である彼を「グリフィス殿下」と呼ぶ。それだけでも、混乱するには十分すぎるほどなのに、彼らはグリフィスが国王の息子だと言う。
極めつけは、グリフィスに国王になれと――。
「……くっ」
先ほどの宰相親子との会話を思い出し、グリフィスは唇を噛んだ。
馬鹿げた話だ!ありえない話だ!グリフィスを国王になどと!
『――貴方が、このローズティアの王位を継ぐのです。グリフィス殿下』
息子のレザンと同じように、“蛇の目”をした狡猾そうな宰相は、彼の気持ちを無視して、そう宣言した。
グリフィスは王になりたいなどと、そんな望みを抱いたことはなかったのに。
ただ敬愛する養父ハイラムのように、一人前の商人になれれば満足だった。それ以外に、何も望まなかったのに。
養父のハイラム。
養父の妻のサラ。
娘のアイラ。
たとえ血は繋がっていなくとも、彼にとって何よりも大切で大切で、己を犠牲にしても守りたい存在だった。優しい家族と、誰よりも愛しい蜂蜜色の髪の少女……。彼らと一緒に居られたなら、グリフィスは幸福だった。貧しくとも、愛する家族と一緒に居られたなら、彼は何も望まなかった。
――それだけで、グリフィスは幸せだった。
それなのに、そんなささやかな願いすら、叶えられないのだろうか?
「貴方は……」
檻の中のフィアナが、そう声を出したことで、グリフィスは我に返った。
「貴方は名を何というのですか?」
フィアナの問いかけに、少しためらった後、少年は答える。
「……グリフィス」
「グリフィス……ですか。良い名ですね」
「僕も聞きたいことがある。貴女は……フィアナは、王家に仕える魔女なんだろう?」
「ええ」
うなずいたフィアナに、グリフィスはやや鋭い声で言った。
王国の魔女だという言葉を信用はしても、まだ信頼したわけではない。
グリフィスは藍色の瞳で、黒い鉄製の檻と、その中に閉じ込められた魔女を見つめた。
「――なぜ王家に仕える魔女が、檻の中なんかに閉じ込められているんだ?」
“王冠の魔女”。
それはローズティアの王家にとって、最も忠実な臣下であるからこそ、与えられた呼び名。
もし老婆に聞かされた伝説の通りならば、五百数十年の長き歳月に渡り、このローズティア王国の繁栄と衰退と、王族たちの運命を見守り続けてきた存在だ。
王家にとっても、特別な存在である“王冠の魔女”――そんな彼女が、なぜ罪人か囚人のように、檻に閉じ込められなければならないのだろう?グリフィスには、理解できなかった。
その問いかけに、黒い檻の中に閉じ込められたフィアナは、真紅の瞳を伏せて、さびしげな微笑みを浮かべた。
「これは……罰なのです」
「罰……?」
――これは罰なのです。
フィアナの答えに、意味がわからず、グリフィスは首をかしげた。罰?その意味は?何か罰を受けるようなことをしたのだろうか?
少年の困惑を察してか、胸の前で手を組みながら、フィアナは語る。
「私をこの檻に閉じ込めたのは、国王陛下と宰相のロウランです。宰相は、時代の流れと共に、魔女としての力が弱くなった私が、邪魔になったのでしょう。陛下は……宰相の言いなりでした。ですが、宰相ロウランのことも陛下のことも、恨んではいません。私は、罰を受けるべきなのです」
国王と宰相の手で、檻の中に閉じ込められたというのに、それを恨んでいないどころか、当然のように語るフィアナに、グリフィスは藍色の瞳を見開いた。なぜ――?
「なぜ……?」
そう問うグリフィスに、魔女は静かな声で答えた。
「……私は誰も救えなかったからです。誰も……誰一人として」
「救う……誰を?」
再度のグリフィスの問いに、フィアナは瞳を閉じた。過去を悔いるように、己の罪を思い起こすように。そんな魔女の表情は、グリフィスが今まで目にしたものの中で、最も美しく……そして、何よりも、悲しかった。
「――私は王国の魔女として、数百年もの間、このローズティア王国の繁栄と衰退を見守ってきました。軍事に優れた王によって、王国が豊かになるのも、逆に奸臣によって国が腐敗するのも間近で見てきました。王の喜びも苦しみも、愛も後悔も……その全てを。善き王もおりました。その逆も。だけど、皆、孤独でした」
涙も流さず淡々と、魔女は王国の歴史を語る。
「だけど、その王の孤独を誰よりも知りながら、私は誰も救えなかったのです。否、救おうとすらしなかったのです。それを……罪と呼ばずに何と呼ぶのでしょう?」
それは罪だ。
昔、銀獅子王と呼ばれた王が、フィアナを断罪した。
『――魔女なのに、なぜ誰も救ってくれない?』
その言葉は、残酷な真実だった。
フィアナは永遠の罪人だ。
「……」
淡々と己の罪を語る魔女に、グリフィスは何も言えなかった。
――出会ったばかりの彼が、何を言えるというのだろう?
己の罪を語り、己に向かって、断罪の刃を振り下ろす魔女に。
「……グリフィス。私も貴方に尋ねたいことがあります」
語り終えた魔女は顔を上げて、その真紅の瞳でグリフィスを見つめて、尋ねた。
「――貴方はどうして、こんな場所に閉じ込められたのですか?」
その問いに、グリフィスは言葉を失って、両手で顔をおおった。まだ少年らしい幼さの残る顔には、苦悩の色が濃い。悲しみと苦しみと後悔と憎しみと、それらを一身に背負ったような顔だった。
――なぜ?自分はこんな場所にいる?養父ハイラムと彼の妻のサラ……そして、アイラ。誰よりも大切な人たちを失って、自分はなぜ王城なんかにいるのだろう。
それは逆に、彼が問いたいことだった。
なぜなのだろう?
自分はただ家族と共に在れれば、アイラが笑ってくれれば、それだけで十分だったのに……どうして、彼らが殺されなければならなかったのだろう。
母を亡くし身寄りのなかったグリフィスを、家族として育て、慈しんでくれた優しい人たち。
それを宰相の息子レザンは、容赦なく殺した。
殺される理由なんて、何もなかったのに!
「それは……それは……」
グリフィスの唇は震えて、言葉にならなかった。
瞳を閉じると、家族の顔が浮かんでくる。
厳しくも優しかった養父ハイラム。
実の子と同じように、優しくしてくれた養父の妻のサラ。
そして、誰よりも好きだったアイラ。
家族の笑った顔。泣いた顔。怒った顔。そして……最期の顔までが。大切な大切な人たちは、もう失われてしまった。グリフィスの手が届かない場所に、旅立ってしまった。もう会えない。二度と会えない。
「……泣いているのですか?」
魔女の言葉に、グリフィスは初めて、己が泣いていることに気がついた。
藍色の瞳にあふれた涙が、頬をつたう。
声すら出さずに、少年は泣いていた。
「……っ!」
グリフィスは膝をついて、嗚咽した。
そうして、悲痛な声で叫ぶ。
「……僕のせいだ!全部、僕のせいだ!父さんも母さんもアイラも、みんなみんな僕のせいで死んだんだ!僕のせいで!」
養い親のハイラムもサラも、善良で優しい人たちで、人に恨まれたことなんてなかった。それなのに、なぜ殺されたか――グリフィスなんかと関わったせいだ。
グリフィスが、国王の息子だからというわけのわからない理由で、あの家族は殺されたのだ。母を亡くした彼を引き取らなければ、あんな目に合わずにすんだのだ。怒りを通り越した絶望に、グリフィスは拳を石畳に叩きつけた。
「僕のせいだ!僕がいなければ、父さんも母さんもアイラも、みんな死なずにすんだ!僕と関わらなければ……」
その言葉が、己を傷つけるものだと、グリフィスは知っていた。
知っていても、言わずにいられなかった。
いっそ、この言葉が本当の刃となって、自分の心臓を貫いてくれないかとさえ少年は願った。そうすれば、この胸の痛みも、どこかに消えてくれるのではないか――
「……きっと貴方だけの罪ではありませんよ」
そう言って、フィアナは檻の中から、嗚咽する少年に向かって白い手を伸ばした。
柔らかな指が、グリフィスの頬を撫でる。
「グリフィス……貴方の罪を、私は知りません。ですが、貴方が貴方であることに、きっと罪はないのですよ」
その柔らかな指を、グリフィスは拒まなかった。否、拒めなかった。
「アイラ……」
そうして、グリフィスは愛しい少女の名を呼んで、静かに涙を流した。
グリフィスが閉じ込められていた場所から、宰相ロウランと息子であるレザンによって連れ出されたのは、それから二日後のことだった。
当然ながら、魔女は檻の中から出されず、グリフィスはまた一人になった。
宰相ロウランと息子のレザンの工作によって、ただの商人の養い子であったグリフィスは、世継ぎの王子として城に迎え入れられた。
不治の病に侵された王の、ただ一人の息子として。
普通ならば、素性もよく知れぬ少年を、国王の息子として認めることなどなかっただろう。だが、それが許されるほどに、ローズティア王国の内部は腐敗していたし、何より奸臣たちは扱いやすい王を望んだ。
――ただ己の意のままに動く、傀儡の王を。
グリフィスは最初の暴れようが嘘のように、涙を流すこともなく淡々と、己の立場を受け入れた。涙も枯れ果てたのかもしれない。
彼は宰相親子や奸臣たちが望むままに、彼らの扱いやすい駒であることを、受け入れた。
泣くことも笑うこともなく、ただ人形のように。
そうして、彼が王城に連れてこられてから三月後に、一度も言葉を交わしたことのなかった実父――ローズティアの国王が死んだ。
長年に渡り離れ離れだった世継ぎグリフィスは、父である国王の死の報せに、涙ひとつこぼさなかったと、歴史書には記されている。
かくして、ローズティアに新たな王が即位する。
その名を、グリフィス。
見事な黄金の髪に、藍色の瞳を持つ、美しい王であったという。
後世において、愚王として歴史書に記されることになり、王国を滅びに導いた――そんな男の名である。
そうして、王国は終焉へと道を歩み始めていた――
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