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五章 愚王と呼ばれた男 5−4


 グリフィスがローズティアの国王として即位してから、六年もの歳月が流れた。

 その六年もの間、グリフィスは国王という立場にありながら、実際は高貴な囚人のようなものだった。
 王という立場にありながら、政治に口を出すことは許されず、宰相親子のような奸臣たちの手によって、全てが決められた。
 グリフィスには常に護衛と称した監視がついており、自由に行動することは許されず、彼の意思はないものとして扱われた。グリフィスの――王の行動は全て、宰相ロウランとその息子レザンによって管理されており、王としての実権は無いに等しかった。
 そんなグリフィスのことを、王宮の人々は、まるで囚人のような王だと蔑んだ。だが、そんな己の評判に、グリフィスは無関心だった。
 いや、そもそもグリフィスは城に連れてこられた日より、何に対しても関心を持とうとしなかった。
 愛する家族を殺されて、望まない玉座に無理やり座らされたあの日から、グリフィスの心は死んだのだ。心を閉ざしてしまった彼は、まるで抜け殻のようなものだった。
 守るべきものを全て無くしてしまったグリフィスは、もはや宰相たちに逆らう気力を失って、まるで人形のように振舞い続けた。心を閉ざし、何も見ないふりをして、何も感じないようにした。
 宰相たち奸臣の言いなりになり、王という名の操り人形として、六年もの歳月を過ごした。
 傾き続ける王国にも、貧困にあえぐ民の声にも、王である彼は無関心だった。役人たちが不正に富を貯えている横で、都で餓死者が出ているのを目にしても、王であるグリフィスは何もしようとしなかった。ただ見ていただけだ。
 少年だった頃のグリフィスなら、そんな国の現状に、あるいは苦しむ民に心を痛めたかもしれない。だが、心を閉ざしてしまった今の彼は、何も感じなかった。その藍色の瞳には、もはや何の真実も映らない。
 ――そうして、金髪に藍色の瞳の聡明な少年は、虚ろな目をした青年になり、傀儡の王と呼ばれるようになった。
「……陛下。グリフィス陛下」
 自分の名を呼ぶ声に、玉座に座っていたグリフィスは顔を上げた。
 そうすると、まるで悪夢のような現実を直視することになる。
 ほんの数年前まで、ただの商人の養い子だった自分が、この国の王として玉座に座っている……それだけでも、まるで出来の悪い滑稽な喜劇のようなのに、この城の住人は誰一人として、グリフィスを――王という存在を敬ってはいないのだ。
 この王城で最も身分の低い者ですら、グリフィスのことを哀れんでいる。宰相たちに操られるだけの傀儡の王のことを、誰も王とは認めはしない。今の彼は、ただ玉座に座っているだけの人形のようなものだ。
「ロウランとレザンか……何の用だ?」
 グリフィスの藍色の瞳に映ったのは、もし叶うならば、顔も見たくなかった二人の男だった。
 この国の宰相ロウランと、宰相の息子であるレザン。
 六年前、グリフィスから愛する家族を奪い、玉座という名の牢獄に彼を縛り付けた男たち。その憎しみは、たとえ宰相の一族郎党を皆殺しにしたところで晴れないほどに深い。もし叶うならば、グリフィスは己の手で、宰相と息子を八つ裂きにしてやりたい。
 しかし、そんなことは叶うはずも無い。もし、グリフィスが宰相たちに危害を加えようとすれば、兵士たちが止めに飛んでくることだろう。この国の実権を握っているのは宰相であり、グリフィスはただの傀儡の王に過ぎないのだから。
「はい。グリフィス陛下に、考えていただきたいことがあるのですが……」
 グリフィスの問いかけに、宰相は蛇を連想させる酷薄そうな目を細めて、前に進み出た。
「何だ?」
「そろそろ妃を迎えていただきたいのですが、いかがでしょうか?グリフィス陛下はもう二十歳でいらっしゃる。そろそろお世継ぎのことも考えていただいても、早すぎるということはないのでは」
「断る。妃は必要ない」
 宰相の言葉を、グリフィスはあっさり切り捨てた。
 ――そろそろ王妃を、駄目ならば側室でも……。
 グリフィスに、宰相親子がそう薦めてくるのは、これが初めてのことではなかった。
 口調こそ穏やかだが、内心は焦っているのだろう。
 王家の直系は、王位の継承を巡る血族同士の醜い争いの果てに、今やグリフィスただ一人しか生き残っていない。もし、若いグリフィスが子を残さず死去すれば、このローズティアの王位を継ぐ資格がある者は誰もいなくなる。
 傀儡の王にどこまで価値があるのかわからないが、それは宰相親子にとっても望ましいことではないようだった。
 宰相たちの思惑とは反対に、グリフィス本人は、妃を迎えることなど欠片も望んでいなかった。どんな女が連れて来られるにしろ、宰相親子の息がかかっていない者であるはずがなかったし、そんな女と世継ぎをもうけろと言われても、グリフィスは不快でしかない。
 グリフィスは誰も愛さない。愛す気もない。彼が愛したのは、たった一人だけだ。
 蜂蜜色の髪をした優しい少女――アイラ。
 彼女のことが好きだった。守りたかった。ずっと一緒にいたかった。そう願っていたのに……グリフィスのせいで、彼女は死んだ。宰相の息子レザンに、両親ともども殺された。彼の目の前で。
 死んだアイラのことを、グリフィスは一日たりとも忘れたことはない。
 グリフィスのせいで、何の罪もなかったアイラが死んだのに、グリフィスがそれを忘れて、誰かを愛するなんてことが絶対に許されるはずない。たとえ神が許しても、グリフィス自身が許せない。宰相親子に何と非難されようと、それを曲げる気は彼にはなかった。
 しかし、宰相は引き下がらず、なおも言葉を続けた。
「妃は必要ないとおっしゃいますが、お世継ぎをもうけられるのは、国王陛下の義務でございます。実は……私の遠縁にあたる娘が、陛下にお仕えすることを望んでおります。どうか、お情けをかけていただけませんか?」
 遠縁の娘を紹介したいという宰相ロウランの言葉に、グリフィスは眉をひそめた。
 親族をグリフィスに差し出すことで、さらなる権力を望んでいるのだろうか――浅ましいことだ。
「……」
 グリフィスが無言でいると、何が面白いのか、宰相の息子レザンがニヤリ、と唇を吊り上げて言う。
「グリフィス陛下。どうか、私たちの遠縁の娘に会っていただけませんか?“あの娘”の代わりです。きっと、陛下のお気に召すでしょう」
 ――あの娘の代わりです。
 意味深なレザンの言葉に、言いようのない不快感を覚えて、グリフィスは藍色の瞳でレザンを睨んだ。
 そうして、低い声で「どういう意味だ?」と問う。
 レザンは薄く笑うと、
「そのままの意味でございます。“あの娘”に似た者を探すのは、思ったよりも骨が折れました」
と答えて、扉の方へ「入って来なさい」と声をかけた。
「――入って来なさい。レイラ」
 レザンの呼びかけに応じて、静かに扉が開けられる。
 そうして、十五、六歳の少女が室内に入ってきて、玉座のグリフィスに頭を垂れた。
 さらり、と綺麗な蜂蜜色の髪が揺れる。
 その少女の顔を見たグリフィスは言葉を失って、表情を凍りつかせた。蜂蜜色の髪と、薄青の瞳……何もかもが彼女に似ていて、言葉にならない。これは、夢か幻か、それとも果てのない悪夢なのか。
 グリフィスは喉を震わせて、その少女の名を呼んだ。
 今はもう、この世にいないはずの初恋の少女の名を、グリフィスのせいで死んでしまった少女の名を。
「……アイラ」
 しかし、グリフィスの呼びかけに、アイラによく似たその蜂蜜色の髪の少女は答えなかった。その薄青の瞳には、何の感情も宿っていない。――違う。この娘はアイラであるはずがない。とグリフィスは思った。あれから、もう六年もの歳月が流れているのだ。
 別れた時、アイラは十四だった。もし、生きていたとしても、こんなに若いはずはない。
 それに、アイラは六年も前に死んだ。グリフィスの目の前で、殺されたのだ。宰相の息子レザンの手によって。
 (……違う……違う……この娘はアイラじゃない。アイラは死んだ。自分のせいで殺されたんだ……)
 そう思いながら、グリフィスは唇を噛み締める。血が流れるほどに、強く、強く。そうしなければ、とても正気をたもっていられなかった。否、自分はすでに狂っているのかもしれない。これは、自分の狂気が見せた幻かもしれない。
 ――アイラに対する罪悪感が、こんな幻を生み出したのだろうか?
 視界が灰色の染まっていくのを感じながら、グリフィスは震える声で、宰相親子に問うた。その娘は誰だ、と。
「その娘は……誰だ?」
 グリフィスの苦悩も知らず、宰相はにこやかに答える。
 それが、グリフィスを狂気の淵に追いやるとも知らず。
「この娘は私の遠縁の娘で、名をレイラと申します。もし、陛下のお気に召しましたら、どうか側室の一人にでも加えていただきたい。レザン……息子から聞いたのですが、グリフィス陛下は蜂蜜色の髪の娘がよろしいと……」
 宰相の言葉を、グリフィスは半分も聞いていなかった。
 彼はその藍色の瞳を、宰相の遠縁だという、死んだアイラと瓜二つの娘――レイラへと向ける。
 グリフィスの視線に、その娘――レイラはそっと伏せていた顔を上げて、薄青の瞳でグリフィスを見つめ返した。その薄青の瞳には、緊張と怯えしか宿っていない。
 確かに、冷静になってみれば、そのレイラという娘はアイラとは別人だった。
 蜂蜜色の髪と薄青の瞳はそっくりだが、よく見れば顔立ちはあまり似ていないし、そもそも年齢が違う。何より、アイラ本人ならば、グリフィスを前にして無反応なはずがない。そんな他人を見るような目で、彼を見ない。
 ――アイラは死んだ。だから、この娘は彼女じゃない。
 それを認めることに、身を引き裂かれるような苦痛を感じながら、グリフィスは宰相の横に居るレザンを見た。
 宰相は、こう言った。「レザン……息子から聞いたのですが、グリフィス陛下は蜂蜜色の髪の娘がよろしいと……」と。つまり、これは宰相の息子レザンの仕組んだ茶番なのだ。アイラを殺した男の!
「レザン……どういうつもりだ?」
 グリフィスは血の気の失せた顔で、レザンを問い詰めた。
 六年前にアイラを殺した男が、どうしてアイラに似た娘――レイラを、グリフィスの前に連れてきたのか。グリフィスに、さらなる絶望を味あわせるためだろうか。あまりにも残酷で、悪趣味だ。宰相もレザンも、狂っているとしか思えない。
 しかし、グリフィスの追及に、レザンは涼しい顔で笑った。
 そうして、何でもないことのように、レザンは穏やかな声で答える。
「おや、レイラはお気に召しませんでしたか?グリフィス陛下。出来るだけ、あのアイラという娘に似た娘を、私なりに苦労して、見つけてきたつもりだったのですが……それならば、また別の娘を見つけてくることにしましょう。また蜂蜜色の髪の娘がよろしいですか?陛下は、あの娘に執着されていましたから……ご安心ください。今度は、もっと良い“代わり”を連れてまいります」
「……」
 すらすらと流れるようなレザンの言葉を、グリフィスは呆然と聞いていた。
 この男が何を言っているのか、全く理解できない。
 アイラに似ているから、このレイラという名の少女を、グリフィスの前に連れてきたというのか。蜂蜜色の髪と、薄青の瞳が似ているからというだけの理由で。アイラを殺したレザンが、何でもない顔をして、アイラの“代わり”を……。
 それに、宰相はさっき何と言った?
 このレイラという娘を側室にしろと、世継ぎを作れと、そう言った。グリフィスの愛した者たちを、父さんを母さんをアイラを、身勝手な理由で殺したお前たちが、今度はアイラの“代わり”を妻にしろと、そう言うのかっ!
「……聞いていらっしゃいますか?グリフィス陛下」
 レザンの問いかけに、グリフィスは答えなかった。否、答えることが出来なかった。こみあげてくる吐き気をこらえるだけで、彼は精一杯だった。
「……」
 顔を伏せて、グリフィスは口元を押さえる。吐き気がした。こいつらは殺してなお、死者を辱める気なのか――。
 グリフィスはもう限界だった。
 この六年、ひたすら心を閉ざすことで、なんとか正気をたもってきた。腐敗していく王宮で、人形のように振舞うことで、心の均衡をたもってきた……。だが、それも、もう限界だ。
 そんなグリフィスに追い討ちをかけるように、宰相が言う。
「……今回はともかくとしても、いずれグリフィス陛下には世継ぎをもうけていただかなくてはなりません。それが、王の義務であり、このローズティアのためなのですから」
 その宰相の言葉で、ギリギリのところで踏みとどまっていたグリフィスは、正気を手放した。彼の心を狂気が支配する。その唇から、「ははははは……」と乾いた笑い声がもれる。
 国のため、ローズティアのためにだと?笑わせてくれる。
 お前たちがそんな気持ちで、この国を治めていたならば、この国がここまで腐敗していくことはなかっただろう。今や、この王城には、自分たちに都合の良い傀儡の王を望む奸臣たちしか残っていない。
 何の罪もない人々を殺しても、都で大勢の餓死者が出ていても、宰相や家臣たちは気にも留めない。このローズティアは、そんな国なのだ。
 こんな国、滅びてしまえばいいと、グリフィスは思う。
 ――滅びてしまえ!こんな腐った王国は滅亡するべきだ!滅びないならば、いっそ自分が滅ぼしてやる!自分から、全てを奪ったこの王国に、復讐を!
 そうして、グリフィスは……王である彼は、国の終焉を望んだ。
「……わかった。お前たちの言う通りにしよう。宰相。レザン」
 グリフィスは伏せていた顔を上げると、わざと穏やかな笑みを浮かべて、宰相親子にそう言った。
 ……全ては、復讐という目的のために。
「お前たちの遠縁だという娘……レイラといったか。その娘を側室にしよう。お前たちには感謝しているよ。宰相。レザン……あの娘の“代わり”を見つけてきてくれて」
 ただ宰相親子を油断させるためだけに、心にもない偽りの感謝をのべると、グリフィスは「……レイラ」と側室となる娘の名を呼んで、自分のそばに近寄らせる。蜂蜜色の髪の少女――レイラは、緊張のせいか体を小さく震わせて、薄青の瞳でグリフィスを見上げた。
 この少女は何も知らないのだろうと、彼は思う。
 おそらく宰相とレザンに言われるままに、国王の前にやって来ただけなのだろうと。
 そんな娘の姿に、少年だった頃のグリフィスなら同情し、なんとか助けてやろうとしただろう。だが、そんな人間らしい感情を持ち続けるには、グリフィスは余りにも多くのものを、失いすぎていた。だから、彼は迷わない。
 この哀れな娘を、己の復讐の道具とすることを。
「……レイラ」
 まるで、その名が愛しいものであるかのように、グリフィスは優しい声で、レイラと娘の名を呼んだ。
 王城で傀儡の王と蔑まれていても、グリフィスは金髪と藍色の瞳の美しい容姿の青年だった。そんな若き国王に、優しく名を呼ばれたことで、蜂蜜色の髪の少女は頬を朱に染める。
 そんなレイラの耳元に、グリフィスはささやいた。
「私の子を生んでくれるか?レイラ」
と。

 ――それが、復讐の始まりであった。

 それから三月後に、宰相親子との約束通り、国王グリフィスは宰相の遠縁にあたる娘――レイラを側室とした。
 あれほど結婚を拒んでいたグリフィスだったが、側室となったレイラとの仲は良好であり、半年後にはレイラは国王の子を身ごもった。グリフィスにとっては、初めての子供であり、その子供が無事に生まれれば、王宮内での宰相派の権力はますます強いものになる。
 もしも生まれてくる子が男児であれば、その子がローズティアの王位を継ぐことも、十分に考えられる。そして、それは宰相親子の野望でもあった。権力を握り続けるためには、自分たちの血を継ぐ傀儡の王が、王位を継いでくれるほど都合の良いことはない。
 側室・レイラの懐妊が、王宮に仕える侍医より、グリフィスや家臣たちに知らされてから十日後――
 宰相の息子レザンは、グリフィスに呼び出された。
「……ああ、来たか。レザン」
 レザンが部屋に入ると、玉座に座っていたグリフィスは顔を上げて、その藍色の瞳で宰相の息子を見た。
「はい。グリフィス陛下」
 国王からの突然の呼び出しを、いささか不審に思いながらも、レザンはうなずく。
 初めて会った時から、グリフィスとレザンの関係は、お世辞にも良好とは言えない。少年だったグリフィスの目の前で、育ての親であった商人夫婦と彼らの娘を殺したのだから無理もないが、こんな風にグリフィスがレザンを呼び出すのは、これが初めてのことだった。
 いつにない王の行動に、レザンは不吉なものを感じたが、それは杞憂だと首を横に振る。
 異国の商人に育てられていたグリフィスを、王宮に連れて来て、傀儡の王としてから七年もの歳月が流れているが、その間、グリフィスが宰相ロウランや宰相の息子であるレザンに牙を向いたことは、ただの一度もない。最初こそ家に帰らせろと暴れていたが、家族が死んだと聞かされてからは、まるで魂が抜けたように、自分たちの言いなりだった。そんな王が今更、何か復讐をするとは思えない。
 そんなレザンの考えを裏付けるように、グリフィスはにこやかに微笑んで言った。
「――レイラが懐妊したそうだ。侍医から報告があった。春には生まれるそうだ……そのことで、レザンに礼を言いたいと思ってな」
 微笑みながら言うと、グリフィスは傍に控えていた侍女を呼んで、葡萄酒と杯を持ってこさせる。
 そうして、グリフィスは酒をなみなみと注いだ杯を、手ずからレザンに渡した。その顔に、笑みを浮かべたまま。
「こんなものでは礼にならないだろうが、お前のために用意した酒だ。レザン……さぁ、飲んでくれ」
 促されたレザンは、杯を手にしたものの、酒を飲むことを躊躇した。断る理由は、何もない。だが、その酒を飲んだら、無事ではいられない気がした。
 ここに至って、彼はようやく気がついたのだ。
 先ほどから、笑みを浮かべているように見えるグリフィスの藍色の瞳が、実は全く笑っていないことに。
「……」
 酒の杯を手にしながら、それに口をつけようとはしないレザンに、グリフィスは「くっくっ……」と喉を鳴らす。
「どうした?飲まないのか?レザン」
「……」
「美味い酒だ。飲んでくれ。さぁ……」
「……」
「飲んでくれないのか。せっかく用意をしたのに、残念だな……」
 いくら言っても、決して酒を飲もうとはしないレザンに、グリフィスは落胆したように言う。そして、「残念だな……」と言った後に、さらに言葉を続けた。
「残念だな……宰相は、お前の父は飲んでくれたのに」
 そう言ったグリフィスに、レザンは己の耳を疑った。宰相は……父は、この酒を飲んだのか?それで、どうなった?
「グリフィス陛下……貴方は宰相に、父に何を……?」
 レザンの問いかけに、グリフィスは「ああ」とうなずいて、玉座からおりると、何でもないことのように答えた。
「ああ、飲んでくれたよ。レイラが懐妊した祝いだと言ったから、油断したのか、宰相はたっぷりと飲んでくれたよ。レザン。お前が持っているのと同じ、その……毒入りの酒を。今頃、もだえ苦しみながら死んでいることだろうさ」
 淡々とした口調が、かえってグリフィスの狂気を感じさせた。
 レザンの手から、酒の杯が転がり落ちる。
 ばしゃ、と床に広がった真紅の液体が、赤い絨毯を汚した。
「グリフィス陛下……なぜ……」
 レザンは唇を開く。だが、その先は言葉にならなかった。なぜなら、グリフィスの抜いた剣が――レザンの胸を貫いていたからだ。
「お前は、酒は飲まないだろうと思っていたさ。レザン……それでも構わなかった。最初から、毒なんかで楽に殺してやる気はなかったからな。苦しんで、苦しんで、父さんや母さんやアイラの分まで、苦しみぬいて死ね」
 レザンの胸に剣を突き刺して、その手を血で染めながら、グリフィスは語りかける。復讐を果たしたというのに、その表情は決して、晴れやかなものではない。グリフィスの藍色の瞳には、ただ虚無だけがあった。
 それから、どれほどの時間が流れただろうか……。
 レザンの体が冷たくなり、その心臓が完全に動きを止めた時、グリフィスはようやく剣を抜いた。
「……死んだか」
 愛する家族を殺し、グリフィスを玉座という名の牢獄に閉じこめた男の、あまりにも呆気ない死。
 そのレザンの亡骸を一瞥すると、グリフィスは興味を失ったように、血に染まった剣を床に捨てた。宰相は死んだ。息子のレザンも死んだ。だが、まだ足りない。この腐った王国を崩壊させるには、宰相親子の命だけでは足りない。
 ――滅びてしまえ!こんな腐った王国は滅亡するべきだ!滅びないならば、いっそ自分が滅ぼしてやる!自分から、全てを奪ったこの王国に、復讐を!
 その決意は、あの時から変わっていない。
 たとえ道の先に、破滅しか待っていないとわかっていても、グリフィスは歩み続けるより他にないのだ。
「……ああ、そうだ。宰相たちが死んだ今、フィアナをあの檻から出してやらないと」
 思い出したように言うと、グリフィスは返り血を浴びた姿のままで、目的の場所へと歩きだした。目指す場所は、地下牢――そこに、あの魔女がいる。

 地下牢へと続く階段を降りてくる足音に、黒い檻の中のフィアナは、伏せていた顔を上げた。
 ここを訪れる人はいない。
 魔女のいる地下牢に足を踏み入れることは、宰相によって禁じられているはずだ。それを知っているフィアナは、不思議そうに首をかしげる。
 ここ数年、この場所に来た者は一人しかいない。グリフィスという名の少年だけだ。宰相の息子に家族を殺されたと泣いていた彼は今、どうしているだろうかと、フィアナは思った。何とかして、助けてあげたかった。だが、時代と共に魔女の力の大半を失って、檻の中に閉じ込められたフィアナは、何も出来なかった。彼は、グリフィスはあれから、無事に生きているだろうか――
 そんなことを考えていると、階段の方から、誰かがフィアナのいる檻の方に歩み寄ってくる。……血の臭いがした。
「貴方は……」
 檻の前にやって来た男の顔を見て、フィアナは驚きの声を上げた。
 金髪に藍色の瞳の青年。
 その両手はなぜか、赤い血に染まっている。
 名乗られる前から、フィアナには青年の名前がわかった。あの少年が、成長した姿なのだと。
「――グリフィス」
 フィアナに名を呼ばれると、藍色の瞳の青年はうなずいて、その赤い血に染まった手を檻の方へと伸ばす。
 そうして、グリフィスは魔女を閉じこめていた檻の錠を外し、檻の中の魔女に向って微笑んだ。
「檻から出れるよ。フィアナ。王国の魔女……宰相とその息子が死んだから」
 グリフィスの言葉に、フィアナは喜べなかった。
 彼の手を赤く染めた血が、誰のものであるのか、長き時を生きた魔女は察する。ああ、この城でまた血が流されたのだと思った。
 それを悲しく感じながら、フィアナは真紅の瞳でグリフィスを見つめて、「なぜ死んだのですか……?」と問う。答えはわかっていたが、それでも問わずにいられなかった。
 魔女の真紅の瞳に見つめられたグリフィスは、目を伏せて、唇を歪める。
 泣いているような、笑っているような、ひどく奇妙な表情だった。
 宰相もレザンも死んだ。だが、グリフィスの大事なものは二度と戻ってこない。そうして、グリフィス自身も少年だった頃には戻れない。
 彼はもう選んでしまったのだから。ローズティア――自分から全てを奪った、この腐り果てた王国に、復讐することを。
「――殺した。私が、この手で」
 そう言ったグリフィスの瞳から、ひとすじの涙が流れる。それは、彼が最後に見せた人間らしい感情だったかもしれない。後に、グリフィスは多くの人間を処刑するが、涙を流したのはこの時が最後だった。

 
 国王グリフィスの手による宰相親子の惨殺によって、ローズティア王国は長い暗黒の時代を迎える。
 宰相とその息子を殺したグリフィスは、さらには宰相の一族と宰相に従っていた家臣たちをも容赦なく処刑し、己の子を身ごもっていた側室のレイラをも地下牢へと監禁した。その残虐さゆえに民から“愚王”あるいは“狂王”と恐れられることになる。
 そんな王の狂気にのみこまれるように、ローズティアは滅びへの道を歩んでいく。
 王国の終焉の日まで、あと二十年――


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