宰相ロウランと息子レザンをその手にかけ、最愛の家族を殺された復讐を果たした後も、国王・グリフィスの凶行は終わることがなかった。
少年時代の彼を地獄へ突き落とした元凶――宰相親子を手にかけてもなお癒えぬほどに、グリフィスの絶望は深かったのだろうか。
宰相親子の死から半年も経たぬうちに、宰相の一族の主だった者は残らず投獄され……そして、処刑された。
罪のある者はともかくとしても、罪のない者までもが、身に覚えのない罪をきせられ処刑された。
ただ、死んだ宰相たちと血を同じくするというだけで。
また宰相たちに従って不正を重ね、甘い蜜をむさぼっていた奸臣たちの多くは、もっと悲惨な末路を辿った。
国王を軽んじ、宰相親子に媚び、民から不正に富を巻き上げていた奸臣たち。
彼らは断頭台で処刑された上に、見せしめとして、その無残な亡骸は民の目にさらされた。
それから半年もの間、処刑場から血の臭いが絶えることは、ただの一度としてなかった。
淡々と処刑を命じる若き国王を、臣下や民たちは恐れた。何よりも民を恐れさせたのは、グリフィスが多くの処刑を命じながら、表情ひとつ変えないことだった。泣くことも、怒ることもせず、ただ静かに狂っている。
グリフィスは藍色の瞳で、処刑場に並べられた首を、じっと見つめていた。その心に、復讐だけを宿しながら。
昔の、商人の養い子だった頃の家族を愛していた少年は、もう何処にもいない。
そこにいるのは、復讐に狂った“愚王”だった。
――悲惨な時代だった。
――暗黒の時代だった。
――救いのない時代だった。
腐敗した王国に、復讐に狂った愚王……そして、それを見つめるしかない人々。誰もが王の狂気と、近づく王国の終焉を感じながら、何もすることが出来なかった時代のことである。
……処刑場から、血の臭いが絶えることはない。
昨日は宰相の甥が、その首を落とされた。
明日は、宰相の叔父が。
おそらく明後日は、臣下の誰かが処刑される。
それを痛ましいと思いながら、フィアナは王城の廊下を歩いていた。
宰相親子の死をきっかけに、地下牢に閉じ込められていた王国の魔女は、こうして牢の外に出ることが出来た。
国王・グリフィスが、牢から出してくれたからだ。しかし、それを嬉しいとはフィアナは思わなかった。地下牢から出れたことを素直に喜ぶには、この王城はあまりにも、血と……死の臭いに満ちていた。
魔女が牢より出た日から、もう何人が処刑されただろうか?
すでに両手の数では足りないはずだが、王が――グリフィスが復讐を止めない限り、その数はまだまだ増えることだろう。
ひどく悲しいことだと、数百年に渡り、王家を見守り続けた魔女は思った。国王が己の復讐のために、血を流し続けることは。国のためでもなく、何かを守るためでもなく、ただ己の復讐心を満たすためだけに、多くの血を流し続ける。
それは、許されざる罪だ。
「――失礼いたします。グリフィス陛下」
フィアナが扉の前で、そう声をかけると、中から「入れ」という声が返ってきた。
扉を開けると、魔女の真紅の瞳に映ったのは、椅子に座って、虚ろな目で窓の外を見つめているグリフィスの姿だった。
青年の藍色の瞳は、どこか遠くを見つめているようで、実際は何も見ていない。
その瞳にあるのは、ただ虚無だけだ。
「フィアナか……」
そう魔女の名を呼んだきり、振り返ろうともしないグリフィスに、フィアナは静かな声で尋ねた。
いつまで、こんな処刑を続けるつもりなのか、と。
「――いつまで、こうして血を流し続けるおつもりなのですか?グリフィス陛下」
フィアナの問いかけに、グリフィスはゆっくりと窓から振り返り、ふっと冷やかに笑いながら答えた。
その声はあまりにも乾いていて、フィアナは息をのむ。
グリフィスの深い虚無を抱えた藍色の瞳から、魔女は目を逸らせなかった。
「これは復讐なんだ。フィアナ……だから、私が死ぬか、あるいは国が滅びるまで終わることはないよ」
「復讐……宰相とレザンが死んでも、まだ貴方は復讐を欲するのですか?グリフィス陛下」
宰相親子をその手で殺し、グリフィスは愛する家族の敵を討ったはずだ。
それなのに、まだ貴方は復讐を続ける気かと、フィアナはグリフィスにそう問わずにはいられなかった。
長年に渡り、グリフィスを傀儡の王として虐げていた奸臣たちや、宰相の一族の大半は投獄あるいは処刑された。処刑場に赤い血の雨が降り、王城に悲鳴と怨嗟の声が満ちてなお、その復讐は終わらないのかと。
どうか、もう止めて欲しいと、フィアナは思った。こんな歪んだ復讐を続けても、誰も救われないのに――
「そうじゃないんだ。フィアナ……私が復讐したいのは、宰相とレザンだけじゃない。たしかに、自分を引き取って育ててくれた父さんや母さん……アイラを殺した奴らは、誰よりも憎かった。自分の手で殺しても、殺し足りないぐらいにな。だけど、宰相親子を殺しても、私の復讐は終わらない」
魔女の問いかけに、グリフィスはそう答えた。
――復讐は終わらない。
王の言葉に、フィアナは唇を噛みしめる。なぜなのだろう?一体、誰がこの青年を、ここまで狂わせた?グリフィスから愛する家族を奪った宰相親子か、傀儡の王を虐げ続けた奸臣たちか、あるいは腐敗した王国こそが元凶なのだろか。
「なぜ、なのですか?」
無意味と知りつつも、フィアナは問う。
今更、何を言ったところで、グリフィスの狂気が癒えることはないと知っていた。それでも、問わずにいられなかった。
「正直に言おう。私は……この国が、ローズティアが憎いんだ。早く滅びてしまえと、そう願うほどに」
だから、この国が滅びる日まで、私の復讐が終わることはない――そう続けられたグリフィスの言葉に、フィアナは絶句した。
「……」
今、この王は何と言った?
国を憎んでいると、滅びればいいのだと、そう言った。
誰よりも国を愛し、また国を守るべき王が、国を憎んでいるとは何という皮肉だろうか。誰がこの国の在りようを憎んだとしても、貴方だけは、ローズティアの王である貴方だけは、この国を憎むべきではないのに!
そんなことは、そんなことは、決してあってはならないのだ。なぜなら、王国も魔女もただひとり、王のために存在するのだから。
このローズティアの王冠を抱く、ただ一人の王のために……。
「フィアナ。いや、王国の魔女よ……」
言葉を失い、まるで人形のように立ち尽くすフィアナに、グリフィスは哀れむような目を向けた。五百年以上の長きに渡り、王家を見守り続けた魔女の、その皮肉なる運命を哀れむように。
そうして、グリフィスは椅子から立ち上がると、フィアナと正面から向き合って、静かに言葉を重ねた。
藍と真紅の瞳が重なり、交差する――
「――腐敗した王国は、滅びるべきだ。そうは思わないか?傀儡の王に、王を操り人形としか思わない私腹を蓄える奸臣ども、その裏で飢えや病に苦しむ民……そんな腐敗した王国に、守るべき意味が、歴史を重ねる価値が本当にあるのか?答えてくれ。魔女……フィアナ=ローズよ」
グリフィスの問いかけに、ある、とも、ない、とも魔女は答えなかった。
その問いに、完璧な正解など存在しないと、彼女は知っていた。ただひとつだけ言えるのは、グリフィスが哀れな王だということだ。己の国を愛せない王ほど、悲しい人はいない。たとえ腐敗した王国だとしても、貴方だけは……王である貴方だけは、このローズティア王国を愛さねばならなかったのに……。だから、魔女は真紅の瞳に哀れみを宿して、グリフィスを見つめた。
「貴方は、哀しい王ですね。グリフィス」
「……哀しい王?」
首をかしげるグリフィスに、フィアナは「ええ」と続けた。
「ええ。国を愛せない。国を憎む貴方は、誰よりも哀しい王です……五百年以上、このローズティア王国に魔女として仕えてきて、幾人もの王の生涯を目にしてきました。国を愛すがゆえに血を流し続けた王も、戦うことでしか国を愛せない王も、国を愛すがゆえに絶望した王もいました……ですが、それでも国を憎んだ王は、誰もいませんでした。国を憎んだのは……」
その先を続ける必要はなかった。
「――私だけ、か」
そう言って、グリフィスは目を伏せた。
魔女はただ黙って、そんな王の姿を見つめていた。
国を愛せない、誰よりも哀しい王の姿を。
グリフィスは顔を上げると、「それでも……」と唇を開いた。その青年王の藍色の瞳に宿る、青い炎を――復讐に人生を捧げた者の瞳を、フィアナは哀しいと思った。純粋すぎて、心を壊してしまった王。もはや、その心が癒えることは永遠にない。
「それでも……私はこの道を歩み続けるしかない。たとえ、この復讐の先に待つのが、破滅だとしても。私は、この腐敗した王国に、滅びをもたらす愚王になる。それが、私から全てを奪った、この国への唯一つの復讐だ」
――私はこの腐敗した王国に、滅びをもたらす愚王になる。
誰よりも国を憎んだ王――グリフィスの決意に、五百年以上も王国に仕え続けた魔女は、何も言うべき言葉をもたなかった。何が言えるというのだろう?王国の破滅と復讐を心から望み、その先の絶望をしりながら、それを受け入れた若き王に、かけるべき言葉など存在するだろうか。
フィアナの胸を支配するのはただ、気の遠くなるような絶望だけだ。
それでも最後に、魔女は真紅の瞳で王を見つめて、問いかけた。
「……貴方は本当に、それで後悔しないのですか?誰も救われない、誰も理解しない、そんな道を歩んで……本当に後悔しないのですか?グリフィス陛下」
「……」
魔女の問いかけに、王は何も答えなかった。
そして、それこそがグリフィスの答えだった。
後悔なら、今まで何度もしてきた。最愛の家族を殺されたあの日から、彼の心に平穏が訪れたことはない。
この道を歩み続ける限り、グリフィスが幸福を感じることは、もう永遠にないだろう。
復讐に狂った者に、幸福な未来などあるはずもない。
それでも、グリフィスは不毛と知りながらも、この国を許すことなど出来ないのだ。ましてや、王として国を愛することなど、永遠にありえない。醜く腐敗した王国は、滅びるべきだ――その決意は、あの日から何も変わっていないのだから。
今の自分の姿を見たなら、亡き父さんや母さんやアイラは、ひどく悲しむことだろうと思った。それでも、復讐を止めることはできない。一度、復讐でその手を血に染めた者に、他の道など残されているはずもないのだ。
「もし、私が気に入らないのなら、この国から去ればいい。フィアナ……貴女が、このローズティアの終焉を見たくないというなら、去ればいい。私はそれを止めはしない。どうする?王国の魔女……フィアナ=ローズ」
グリフィスの問いかけに、魔女は「……いいえ」と首を横に振った。
この王国の終焉が、どれほど残酷なものになろうとも、彼女にはそれを見届ける義務がある。
――いつか、この王国が終焉を迎える、その日まで。
「いいえ。私は最後の日まで、王国の魔女として、このローズティア王国と共にあります。それが……私とレオハルト殿下の約束ですから」
そう言って、フィアナは己の胸元に輝く蒼華石の首飾りを、そっと握り締めた。青く澄んだ光を放つそれは、五百年以上も前に、レオハルト殿下より贈られたもの。約束の証。
あれから何百年の歳月が過ぎようとも、その約束はフィアナの胸の中にある。
「……そうか」
グリフィスはうなずくと、哀れむような目で、五百数十年の長きに渡り、王国を見守り続けてきた不老不死の魔女を見つめた。
彼がフィアナの何を哀れんだのか、それは定かではない。
ただ、グリフィスはそれには触れず、静かな声で魔女に命じた。それは彼がローズティアの王として魔女に命じた、最初で最後の命だった。
「――ならば、見守れ。王国の魔女。このローズティア王国の終焉を」
かくして、狂った愚王の望むままに、腐敗した王国は終焉への道を歩み始める。
グリフィスの部屋から出たフィアナは、地下牢へと続く階段を降りていた。
かつて、先代の国王と宰相ロウランの陰謀により、数十年も地下の黒い檻に閉じ込められていた魔女としては、そこは決して好ましい場所ではない。しかし、それでもフィアナが地下牢へと向かっているのは、そこに会わねばならない人がいるからだ。
階段を降りて、暗く寒々しい地下牢へ着くと、フィアナは最近まで己が閉じ込められていた黒い檻の方へと歩み寄る。
今、その黒い檻の中には……別の女が閉じ込められていた。
カツカツ、というフィアナの足音に、檻の中でうずくまっていた少女が顔を上げる。
暗い檻の中で、少女の蜂蜜色の髪だけが、きらきらと淡い光を放っていた。
薄青の瞳が、怯えたように魔女を見る。
かすれる声で、少女はフィアナに問いかけた。
「貴女は、誰?……私を殺しにきたの?」
怯えたように、檻の中で震える少女の腹は丸みを帯びていて、その身に赤子を……新しい命を宿していることがわかる。
その腹に宿っているのは、グリフィスの子だ。
ぶるぶると震えながら、無意識に腹部を庇おうとする少女に、フィアナは静かに語りかけた。
「怖がらないで。貴女を傷つけるために、来たわけではありません……レイラ」
名を呼ばれたことで、檻の中の少女――レイラは、びくっと、身を震わせる。
宰相の遠縁の娘として、国王・グリフィスの側室となったレイラは、宰相親子の死後、グリフィスの命令で地下牢に閉じ込められていた。
その身に、王の子を宿しながら。
檻の中で震えるレイラを、フィアナは痛ましいと思った。この少女は、犠牲者なのだ。何も知らぬままに、宰相の遠縁だというだけで王城に連れて来られた。ただ、亡きアイラという娘と、髪の色や瞳の色が似ているというだけで。――そこに何の罪があるだろうか?
少なくても、レイラの腹の子には、何の罪もないはずだ。
たとえ、国を滅ぼすであろう愚王の息子だとしても。
「レイラ」
魔女が名を呼ぶと、レイラは怯えた目をしながらも、フィアナの方を向いた。
薄青の瞳が、不安そうに揺れている。
「……」
フィアナは真紅の瞳で、黒い檻の中で震えるレイラを見つめる。
そして、白い腕を檻の方へと伸ばすと、カチャリと――レイラを閉じ込めていた檻の錠をはずした。以前、グリフィスがそうしたのと同じように。
ここから逃げていい。逃げなさい。そういう意味だ。
いきなりの檻からの解放に呆然とするレイラに、フィアナは皮の袋に入った金貨を手渡して、言った。
「……ここから逃げなさい。レイラ。貴女はここにいたら、殺されるでしょう。生きたいのなら、城から逃げなさい」
「どうして……」
呆然とした様子で、檻の中から出てきたレイラに、フィアナはゆっくりと首を横に振った。
「残念ですが、説明している時間はありません。どうするのですか?逃げるのなら、今しかありませんよ。レイラ」
フィアナの言葉に、レイラは一瞬、これは何かの罠ではないかと思ったが、今の自分を罠にかけても得する者など誰もいないと思い直す。たとえ罠だとしても、彼女に抵抗する術はない。ならば、救いの手だと信じた方が幸せだった。
戸惑いつつ、レイラは首を縦に振った。
生きたい。ただ、それだけの理由で。
うなずいたレイラの手に、フィアナは一枚の古びた地図と――鞘の部分に、蒼い宝石がはめこまれた短剣を握らせた。
「この地図には、地下からの抜け道が書いてあります。この通りに行けば、城下町の方へ抜けられるはずです……もし、何かあれば、この短剣で身を守りなさい。魔術がかかっているから、多少は役に立つはずです……さぁ、早く」
フィアナの声に促されるように、短剣と地図を抱えたレイラは、地下牢から逃げ出そうと歩き出した。
しかし、その途中で、どうしても気になったのか振り返り、魔女に問いかける。
「あの、貴女の名前は……?」
レイラの問いかけに、フィアナは名乗った。
五百数十年の長きに渡り、名乗り続けてきた魔女としての名を。
「――王国の魔女フィアナ=ローズ」
魔女はそれだけ言うと、もう何も言うことはないと口を閉ざす。
それを見たレイラは、ぎゅっと口元を引き結び、フィアナに背を向けて、その場から立ち去った。小さくなっていくレイラの背中を、フィアナは見送った。もう、二度と会うことはないだろう。そう思いながら。
その予感は、現実のものとなる。
当時の記録には、こう記されている。
地下牢から逃げ出した側室レイラの行方を兵士たちが捜索したが、側室本人もその腹に宿っていた国王・グリフィスの子の行方も、ようとして知れなかった――と。
その在位中、幾度となく行われた処刑と、また晩年は酒に溺れたことからグリフィスの名は愚王としてローズティアの民の記憶に残った。
しかし、愚王と呼ばれた男が自らそうあることを望み、王国を憎んで滅びに導いたのだという真実は、魔女以外の誰も知らない。
そうして、望まずして王位についた青年の数奇な生涯と彼の人生を支配した絶望については、歴史の闇に埋もれ、誰に知られることもなく消えていった。
しかし、王国の滅びを望みながら、グリフィスは最後の王にはならなかった。
側室レイラの失踪後に、グリフィスは政略結婚で王妃を娶り、王妃との間に男児をもうける。その子が、ローズティアの最後の王となった。
その最後の王の名を、イヴァンという。
「イヴァン殿下」
そうフィアナが声をかけると、中庭にいた褐色の髪の幼い少年が振り返った。
少年は黒茶の瞳でフィアナを見ると、嬉しそうに無邪気に笑う。
その身に背負った滅びの運命など、何も知らないように。幸せそうに。
「――フィアナ!」
名を呼ばれた魔女は、少し哀しげに微笑んで、褐色の髪の少年と手を繋いだ。
そうして、最後の王の時代が幕を開ける。
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