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六章 伝説を終わらせる者 6−2


 柔らかな春の風が、ふわりっ、とフィアナの金髪を撫でた。
 あたたかな太陽の光を身に浴びながら、魔女はゆるやかな足取りで、今まで何百年もの月日を過ごした、王城の中庭を歩く。
 甘やかな花の香りと、芽吹いたばかりの樹木の瑞々しさに、フィアナは真紅の瞳を細めた。
 赤い花、青い花、白い花、紫の花……色あざやかな花たちが、春という短い季節を謳歌して、美しく咲き誇る。そんな花々の間を可憐な蝶や蜜蜂が飛びまわり、樹の上では白い小鳥が、まるで春の訪れを祝福するように、高らかに鳴いた。
 花々があざやかに咲き誇り、蝶が舞い、小鳥が春を歌う――その光景はさながら、お伽噺で語られる楽園のようだと、フィアナは思った。
 夢のように美しく、穏やかで、箱庭のように外から守られた場所。
 この場所にいると、何百年も時の流れが止まっているのではないかと、魔女はそんな想いにとらわれる。
 そのようなことは、ありえるはずもないのに……。
 人の世は、年を重ねることも、また老いることもないフィアナとは、違うのだ。人が望むと望むまいと時は流れ、彼らの手によって歴史は紡がれ、やがては何もかも変っていく。永遠は何ひとつとして存在せず、また……決して、存在してはならないのだ。
 繁栄と衰退を繰り返し、それでも人が歩みを止めることは、決してない。魔女のように長い生を持たない人間は、しかし、短い生の中で歴史を紡ぎ子孫を残し、この世界を少しづつ変えていく。……それを、羨ましいと思ったのは、何時のことだっただろうか。
 ――魔女と、人間は違う。
 それを誰よりも知りながら、フィアナはローズティア王国の歴史を、王の生涯を見守り続けた。
 愛されたこともあった。
 憎まれたこともあった。
 憐れまれたこともあった。 この場所は、ずっと変わらない。何十年も、何百年も……魔女の見守った王族たちが世を去り、その名が歴史の一部となったとしても、やがては忘却の彼方に消えたとしても……。あるいは栄えた王国が腐敗し、滅びへの道を歩もうとも、この場所は昔と変わらず、光に満ちている。それを残酷ではないかと、フィアナが思い始めたのは、いつのころだったか。

 必要とされたことも、疎まれたこともあった。
 それでも、フィアナが王国の魔女であり続けたのは、それがあの方の、レオハルト殿下の願いだったからだ。
 最期の日、黄金の髪と碧玉の瞳の青年王は、ローズティアの民から“光の王”と呼ばれたあの方は――レオハルト殿下は、魔女に言った。
 泣きたくなるほど残酷で優しくて、それでいて救いでもある言葉を。
『王国の魔女の契約を、永遠のものにして欲しい……たとえ、私の血筋が絶えたとしても、このローズティアという国が滅びるまで……』
 ――と。
 魔女として、このローズティア王国の行く末を見守れ。それが、レオハルト殿下との約束だった。だからこそ、フィアナは五百数十年もの長い歳月、この王国の歴史を見守り続けたのだ。――貴方のいない、この場所で。
「レオハルト殿下……」
 五百年以上の歳月が流れようとも、決して色あせることのない過去の記憶を思い出し、フィアナはふっと真紅の瞳を閉じると、そっと胸元の蒼華石の首飾りに触れた。
 白い指先にふれる、ひんやりとした宝石の感触は、懐かしい過去を思い起こさせた。
 決して、戻ることの出来ない過去を。
「……フィアナ!」
 己の名を呼ぶ声に、魔女は閉じていた瞼を上げ、後ろを振り返った。
 そうしたフィアナの真紅の瞳に映ったのは、こちらに歩み寄ってくる褐色の髪の少年だ。
 フィアナはこちらに来る少年の姿をみとめると、彼の方に向き直って「イヴァン殿下……」と、褐色の髪の少年の名を呼ぶ。
「イヴァン殿下……どうかなさいましたか?」
 その問いかけに、三月前に十六の齢を迎えたばかりの褐色の髪の少年――イヴァンは、微笑んで首を横に振った。
 彼の身長はいまや、魔女よりもずっと高い。
「いや、そういうわけじゃないんだけど、良い天気だからね。春の陽気に誘われて、中庭を散歩したくなったんだ」
 イヴァンはそう言うと、中庭の花々に、穏やかな優しい目を向ける。
 その黒茶の瞳は、凪いだ海のようにどこまでも静かで、穏やかな光を宿している。そんなイヴァンを見ていて、フィアナは切なさに、胸がしめつけられるような気持ちを味わう。――この方は……イヴァン殿下は、昔と何も変わっていない。六年前と変わらず、愚かなほどに優しいままだ。
 愚王と呼ばれる父を持つがゆえに、周囲から愛されなかった幼い王子は、そんな環境にも関わらず、幼い時の純粋さと愚かなほどの優しさを失わず、十六歳の少年へと成長した。
 愚かなほどに優しい。そんなイヴァンの性質を、フィアナは愛おしい、貴いものだと感じる。だが――
 その先を考えて、フィアナは真紅の瞳を伏せた。
 腐敗した王国。
 こうしている間も、刻一刻と滅びへの道を歩み続ける斜陽の王国にあって、そんなイヴァンの性格は救いとなるのか、あるいは……。愚王と呼ばれた男の息子は、父とは異なる道を歩むのか、それとも……その先は、数百年の時を生きた魔女ですら、わかるはずもないことであった。
「……それより、フィアナの方こそ、どうかした?さっきまでぼーっとしてて……声をかけなきゃ気づかないなんて、何か考え事?」
「え……?」
 思わぬイヴァンの言葉に、フィアナは顔を上げて、首をかしげた。
 顔を上げると、心配そうな少年の黒茶の瞳と目が合う。
 どうやら、王子に余計な心配をかけてしまったようだと、魔女は申し訳ない気持ちで「いいえ……」と答えると、ゆるゆると首を横に振った。
「いいえ……大したことではないのです。ただ、少し昔のことを思い出していただけで……」
「昔のこと?」
 フィアナの言葉に、イヴァンは不思議そうな顔をした。
 はい、と魔女はうなずく。
「はい……今より何百年も前、イヴァン殿下がお生まれになるよりも、ずっとずっと昔の……私が、ローズティアの王家に仕え始めて、まだ百年も経っていなかった頃の話です」
「フィアナが、王家に仕え始めた頃の話?」
「ええ。ずっと、ずっと昔の」
 懐かしさと、わずかな寂しさを感じながら、フィアナは過去へと想いを馳せる。――あれから、六百年もの歳月が流れたのだということを、魔女は時々、信じられなくなる……。まるで夢のようだ。レオハルト殿下と別れた日から、もう、そんな長い時が過ぎ去ったのかと。
 今でも目を閉じると、あの方と過ごした日々を思い出す。
 ――黄金の髪に碧玉の瞳の少年が、あざやかな花々と太陽の光に包まれた王宮の庭を、息を切らせながら駆けてくる。そうして、彼は魔女の姿を見つけると、微笑んで手を伸ばすのだ。『フィアナ!』と――
 何度、あの手を取りたいと願っただろう。
 今は、もう遠い昔の……
「ねぇ、フィアナ……聞いても良いかい?」
 過去に想いを馳せる魔女を、イヴァンは黙って見守っていたが、しばらくすると遠慮がちに、唇を開いた。聞いても良いか、という王子の問いかけを、フィアナが断る理由はない。
 魔女が「何なりと。イヴァン殿下」と言うと、イヴァンは静かな声で、言葉を重ねた。
「フィアナは……フィアナはどうして、何百年もの長い間、ローズティア王国に仕え続けてくれたんだ?辛いことも悲しいことも、数え切れないほどあったはずだ。それなのに、なぜ……?」
「……約束だからです。大切な、大切な」
 イヴァンの問いかけに、フィアナは微笑んだ。それは、触れれば消えてしまいそうに儚げな微笑みで、しかし言いようもないほど美しくて、王子はしばし言葉を失う。
 それでも、イヴァンは気を取り直し、「……約束?」と魔女に話の続きを促した。――その答えを、知らなければならないと彼は思った。魔女がどうして、数百年もの長すぎるほどの時を、王と共に歩んでくれたのか?いずれ王冠を継ぐ者として、その真実を。
「……貴方が望むのなら、昔語りをいたしましょう。お若い貴方には退屈かもしれませんよ?イヴァン殿下」
「かまわない。聞かせて欲しい」
「では……昔、今より何百年も前のことです。ある国に、孤独な魔女がおりました……」
 そう前置きをすると、フィアナは語りだした。

 ――その娘は、魔女としての力を持って生まれたがゆえに、両親から疎まれ、赤子の時に捨てられてしまいました。
 そこを魔女だった師匠に拾われて、赤子は魔女として生きることになったのです……娘は成長し、やがて王国の魔女として、師匠の役目を引き継ぐようになりました。
 ですが……魔女として生きる場所を手に入れても、娘は孤独でした。なぜなら、娘は決して、老いることも死ぬこともなかったからです。子供を生むことも、家族を得ることも出来ません。娘の時は、ずっとずっと前から止まっていました。
 自分と同じ時間を生きれぬ者を、誰が愛せるというのでしょう?絶対に、共に生きることが出来ぬと、最初からわかっているのに。
 誰も自分を愛さないであろうことを、娘はわかっておりました。
 魔女は、人になりたいと願ってはならない。
 人のように生きたいとは、決して願ってはならない。
 それが、娘が師匠から教えられた魔女としての心得でした。人を愛するには、その娘はあまりにも異端でありましたから……だから、その娘は魔女として生きると決めた日より数十年、誰も愛さず生きておりました。静かで、でも孤独な時間でした。
 それでも、たった一人だけ、そんな魔女に近寄ってくる幼い王子がいました。
 黄金の髪に、碧玉の瞳の……優しく、強く、聡明で、誰からも愛されるような子供でした。
 その王子は不思議なことに、魔女である娘を慕って、そばにいることを望んでおりました。そうして、いつしか魔女のことを好きだと言うようになったのです。
 最初、娘は王子の言葉を信じようとはしませんでした。それは、幼い王子の戯れに過ぎず、いつかは忘れていくのだろうと思い込もうとしていました。なぜなら、王子が成長し娘の背を追い越しても、青年と呼ばれる年齢になっても、魔女はずっと少女のままだったのですから……。
 でも、王子が言葉を変えることはありませんでした。
 魔女と人で時の流れが違うことを、十分に知りながら、決して同じように生きれぬことを理解しながら、それでも青年になった王子は、魔女に「愛している」と言いました。
 それが、どんなに辛く、また勇気のいることであったのか、私には想像することしかできません。ただ、その王子の言葉に、魔女は救われました。その時、魔女は初めて、人のことを……王子のことを愛したのです――
 
 そこまで語ったところで、フィアナは言葉を途切れさせた。その切なげな表情を見ていれば、この昔語りが決して、そうして二人は幸せに暮らしました――というような、他愛もない、だが幸せな終わり方をしたわけではないことがわかる。
 話の続きを聞くことに、わずかな恐れを抱きながらも、イヴァンは尋ねた。
「……それで、魔女と王子はどうしたの?」
「魔女と王子は……結局、共に生きることは出来ませんでした。それから数年後に、王子の兄上が若くして亡くなり、その唯一人の弟である王子が、ローズティアの王位を継ぐことになったのです。王子は王になりたいと望んだわけではありませんでしたが、それでも、王国の民を見捨てるような人ではありませんでしたから……それを理解していた魔女は、恨まれると知りながら、王子の元から姿を消しました。ただ、王子の治める王国が、いつまでも平和で豊かなものであるように願いながら」
「……」
 その時の魔女の……フィアナの気持ちを考えると、イヴァンは胸が痛くなって、何も言うことが出来なかった。どんなに辛かったか、苦しかったか、さびしかったか。――唯一人の愛した人と、自分の意思で、別れなければならないとは。
「フィアナ……」
 目頭をうるませたイヴァンに、フィアナは優しい眼差しを向ける。
 昔と変わらず、優しい子だと、そう思った。
「どうか、泣かないでください。イヴァン殿下……魔女は、不幸ではないのですから」
 手を伸ばし、幼い時のように優しくイヴァンの褐色の髪を撫でながら、フィアナは穏やかな声で言った。
「――あの方と……レオハルト殿下と出会えただけで、魔女は……私は十分、幸福でした。魔女たる身には過ぎたるほどの。たとえ共に生きることは叶わなくとも、その想いは変わりません」
 穏やかな、だが揺るぎや迷いのない声に、イヴァンは悟った。――フィアナが大切な約束をした相手とは、その王子であるのだと。
「……その王子とした約束が、フィアナが何百年もの間、ローズティア王国に仕え続けた理由なのか?」
 イヴァンの問いかけに、魔女はうなずいた。
 彼らの間を吹きぬけた春の風が、フィアナの金髪をさらさらと揺らす。
「はい。王子は私に、こうおっしゃいました。この王国を、そして王を見守り続けろと――と」
「そうか……」
 イヴァンはうなずいて、フィアナに何かを言おうとした。うまくは言えないが、数百年もの長い間、王国と王と共にあってくれた魔女に、何かを言わねばならないと思う。
 伝えるべき言葉が、きっと……。
 しかし、その先の言葉は続けられることはなかった。
「――イヴァン殿下っ!イヴァン殿下!どちらに、いらっしゃるのですか!国王陛下がっ!国王陛下が……」
 中庭に響いた突然の大声に、イヴァンは声の方角を振り返る。
 そこにいたのは、彼の侍従だった。
 侍従のひどく慌てた声と、蒼白な顔色に嫌な予感を感じつつも、イヴァンは声を上げた。
「ここにいるっ!国王陛下がどうかされたのか?父上が……」
 父上の――グリフィスの身に何かあったのか?
 そう続けようとしたイヴァンの声は、切羽詰った侍従の声にかき消された。
 悲痛な声で、侍従は叫ぶ。
「――国王陛下が、お倒れになりました!」
 侍従の叫びに、国王の唯一人の世継ぎであるイヴァンは、表情を凍りつかせた。彼は蒼白な顔で、「父上が……」と唇を震わせる。
 侍従の血の気の失せた顔と、悲痛な叫びが、事態の深刻さを物語っていた。父の命が危ういのだと、イヴァンは悟る。
「……父上っ!」
 イヴァンはフィアナに背を向けると、侍従と共に、父の元に向かって駆け出した。――父を失いたくなかった。たとえ、父がイヴァンのことを愛していなくとも、彼は父のことを愛しているのだから。


 愚王と呼ばれた男の命の炎が、もうすぐ尽きようとしていた……。


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