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六章 伝説を終わらせる者 6−4


 その王国の終焉が、いつから決まっていたのか、それは定かではない。
 しかし、始まりがあれば必ず終わりがあるように、色鮮やかに咲き誇る花がいつか必ず散るように、長い長い歴史を紡いできたローズティア王国にも、一つの区切りが訪れようとしていた。
 王国が進むべき道と守るべきものを見失い、腐敗の王国となり果てた時、名も無き民衆たちは《革命》という新たな風によってローズティアを生まれ変わらせようと、必死に戦っていた。
 愚かな王や貴族たちに不当に搾取されることもなく、また貧しい者が理不尽に苦しめられることもない、誰もが笑って暮らせる国。そんな理想の国を、自分たちの手で作り上げるために。
 そのための犠牲を恐れもせず、多くの民衆は革命に身を投じていった。
 貧しさに喘ぐ民衆のために何もしない国王を倒し、まるで終わりなき夜のような暗黒の時代を終わらせて、夜明けを迎えるために――
 かくして、ローズティア王国は革命への道を、突き進んでいく。
 これは、そんな激動の時代に紡がれた、魔女と最後の王と、そして“伝説を終わらせた者”の語られざる真実の物語……

 貧しさに苦しむ民衆が暴動を起こし、それを国王の軍隊が鎮圧し、その暴動の中心となった者たちを捕らえ処刑して以来、国王と民衆の亀裂は決定的なものになりつつあった。
 たとえイヴァン自身が望んだことではなくとも、王や王城の様子など知る由もない多くの民衆にとって、イヴァンは自分たちを救ってくれない無能な王であり、また革命を志す者たちにとっては、憎むべき敵だった。
 いや、もし彼がどれほど優れた王だったとしても、革命という大きな時代の流れを、食い止めることは叶わなかったかもしれない。
 イヴァンの曾祖父の代から、乱れ始めたローズティアの国政、度重なる戦争と私利私欲に走る貴族たち、貧しさや飢えに苦しむ民衆と、長く続いた暗黒の時代……。
 数代の王に渡り、積もりに積もった民衆の不満と恨みが、イヴァンの代になり革命という形になったことは必然であったのかもしれないのだから。
 国王に不満を持つ民衆たちの間では、王をひどく中傷するビラや悪意のある風刺画の類がばらまかれ、それを見た貧しい平民は強い強い憎しみと共に、それらを土足で踏みにじる。
 王の治める都にあって、民衆の税を使って放蕩にふけっているだの父に似た無能な王であるだの、王に対する悪意のある噂がささやかれない日はなく、王の……イヴァンの人柄など、知りようもない多くの名も無き民衆らは、それらの悪意と敵意に満ちた噂を鵜呑みにし、心の底から王と王に味方する貴族たちを憎んだ。
 貴族や王に近しい裕福な商人たちの屋敷が、打ち壊しにあったり火を放たれたりしたのは、この時期のことである。
 それは、崩壊への序章であったのかもしれない。
 この時すでに、王と民衆の間には修復しようもない、深い溝が出来ていたのである。
 そして、貧しさに耐えかねて暴動を起こした民たちが国王軍によって捕らえられ、公開処刑されたのが契機となり、それまで水面下で密か準備を整えていた革命を志す者たち……革命軍は蜂起した。
 それが、イヴァンが亡き父に代わって王位を継いでから二年、彼が十八の年のことだった。それから、ローズティアの民衆の心は、急速に革命へと傾いていく。
 革命軍には、王や貴族に不満を持つ多くの平民が参加し、その数と士気の高さは国王軍を上回るほどだった。
 その革命軍の中心となったのは、輝く黄金の髪の、イヴァンとそう年の変わらぬ、後に“革命の英雄”と呼ばれることになる勇敢な青年だった。
 その青年はただの平民とは思えないほどの高貴な雰囲気と、さまざまな立場にある人間をまとめ上げ、指揮する天性の才能に恵まれていた。革命軍が士気の高さを維持できたのは、彼の功績も大きかったと言われる。
 当然のことながら、王を倒そうとする革命軍と、国王軍は衝突し、双方、決して少なくはない犠牲を出しながら、終わりの見えない戦いは幾度も繰り返された。
 つまり貧しさに苦しむ民が、武力による王政の打倒を望まずにいられないほどに、王国の内部は腐敗していたのだ。
 どれだけ血を流せば、国があるべき姿を取り戻せるのか、あるいは革命による新しい時代を切り開くことが出来るのか、それは国王にも貴族にも革命を志す者にも、誰にもわからないことだった。
 そして、幾度目かの革命軍との戦いの後、大臣の一人がイヴァンの元に報告に訪れた。
 革命軍との戦いについて話す大臣に、まだ年若い国王は苦悩したような、憂い顔で尋ねる。
「……それで、戦闘での被害は?負傷者の数は?」
 イヴァンの問いかけに、問われた大臣は渋い顔で答える。
「少ない、とは申せませんな」
「そう……」
「……」
 予想されていた答えに、イヴァンは「そう……」と苦い声で言い、うなずいた。
 たとえ、流された血が国王軍のものでなく、革命軍のものであったとしても、王の心の痛みが軽くなることはない。
 同じ国の民同士で血を流しても、救われるものなど何もない。この戦いに正義など、何処にもないのだ。
 胸の奥に、ひどく重いものを抱えながら、イヴァンは大臣に言う。
「すまない……少し間、考えたいことがあるから、一人にしてもらえるかな?」
「……はっ」
 王の言葉にそう答えて、大臣は退出した。
「……」
 しばらくの間、まったく先の見えない王国の行く末について考えこんでいたイヴァンだったが、ため息と共に立ち上がると、疲れ果てたような足取りで、扉の方へと向かう。
 今は誰かと話すよりも、部屋で一人で考えたかった。
 この王国をどうするべきなのか、王として何をするべきなのか、考えなければならないと思う。
 それは他でもない、王である彼の役目なのだから。
 しかし、扉の前に見慣れた顔を見たことで、イヴァンは足を止める。
「フィアナ……」
 扉の前に立っていたのは、真紅の瞳の魔女だった。
「イヴァン陛下」
 まるで、天才と呼ばれる人形師が精魂をこめて作ったかのように、一点の歪みすらもなく整った美しい顔が、イヴァンの方に向けられる。
 その真紅の瞳には、悩める若き王――イヴァンを気遣うような色があった。
「……」
 そんなフィアナの想いを感じながらも、イヴァンは何も言うことが出来なかった。
 胸にこみ上げてくる想いが、上手く言葉にならない。
 長い長い歴史の果てに、腐敗し、革命へと向かおうとするローズティア王国。
 数百年もの間、“光の王”との約束を守り、王家と王と共に在り続けた王国の魔女。
 そして、腐敗の王国の中にあって、「王とは何だ?民とは何だ?」と答えのない問いに苦しみながら世を去った父王。
 結局、最期まで王国を愛することのなかった父……。
 言葉にしようもない、さまざな想いが、彼の胸をよぎる。
 数百年もの間、積み重ねてきた想いを、容易に言葉に出来るはずもない。だから、イヴァンは彼の子供の時から年を重ねることのないフィアナを見つめ返し、静かな声で言う。
「ごめんよ。フィアナ……貴女はずっと、この王国を見守ってくれたのに、この国は変わってしまった……」
 ――でも、自分にはわからないんだ。この王国は、どうしたら救われるのだろう?
 そう言って、王は扉の外へ出ていくと、魔女に背を向けた。

 自室に戻ったイヴァンは、疲れ果てた顔でうなだれた。
 そこにいるのは、長い歴史を誇るローズティアの国王の姿ではない。
 ただ、己の進むべき道に迷い、一人で背負うには余りにも重すぎる責任に苦しむ青年の姿だった。
「どうして……」
 うなだれながら、イヴァンは呻くように言った。
 誰もそれを望んでいなかったはずなのに、どうしてこの国は……ローズティアは、こうなってしまったのだろう?と。
『――だからね、いつか僕が王様になったら、みんなが笑顔で幸せに暮らせる国になるといいと思うんだ』
 幼き日、母のように姉のように慕っていたフィアナに、ああ言ったイヴァンの気持ちは、決して嘘ではない。
 しかし、少年の日に夢見た未来は訪れず、現実は彼にとってあまりに過酷で辛いものだった。
 貧しさや飢えに苦しむ民衆は王や貴族を深く憎み、腐敗した王国は内から崩壊への道を辿り……そして、国王であるイヴァンは、愛すべきローズティアの民から、いまや最も深く憎まれる存在である。
 もはや、この王国の民たちは誰一人として、王を必要としていないのだ。
 むしろ、イヴァンの存在は、この国にとって害になりつつある。
 国王軍と革命軍の衝突によって、自国の民同士で、本来、流されなくても良いはずの多くの血が流され、多くの命が失われた。
 それによって、愛する夫を失った妻がいただろう。
 あるいは、父を失った子もいただろう。
 中には、恋人を亡くした娘もいたかもしれない。
 失った命も流された涙も、もう決して、取り戻すことは出来ないのだ。
「うぅ……」
 イヴァンはうつむいたまま、肩を震わせた。
 自分のせいで、大勢の人々の命が失われたのだと思うと、怖くて怖くて仕方がなかった。
 もし、自分が民に慕われる善き王であったならば、革命軍が立ち上がることもなく、自国の民同士で血が流されることもなかったに違いない。
 そう思うたび、イヴァンは深い後悔と罪悪感に、押し潰されそうになる。
 流された血が、国王軍のものでもあるいは敵である革命軍のものだとしても、彼の心が安らぐことはない。
 ……苦しい。
 国王軍の兵士か、そうでないかの違いはあっても、どちらも同じ王国の民であり……イヴァンが、国王が愛し、そして守るべきローズティア王国の民なのだから。
「……」
 うつむいたイヴァンの頬を、窓から差し込んだ夕日が照らした。
 イヴァンは、その明るくも何処か儚い光に引き寄せられるように、黒茶の瞳を窓の方に向ける。
 空は、夕焼けの色に染まっていた。
 ――今まさに太陽が沈もうとしていた。ゆるやかに茜色に染まりつつある空は、ひどく鮮やかで、言葉に出来ないほど美しい……切なささえ感じるほどに。
 沈みゆく太陽は、繁栄の時を経て、今まさに終焉へと向かおうとする王国にも似ていた。
「……ああ」
 茜色に染まっていく空を、沈んでいく太陽を見つめていたイヴァンの黒茶の瞳から、涙があふれた。
 ――あの沈んでいく太陽は、今のローズティアそのものだ。
 輝き大地を照らす太陽も、一日の終わり共とも必ず沈み、そして夜が訪れる。いかに抗おうとも、それが覆されることはない。栄えた王国が時の流れと共に衰退し、滅びへと向かうのも同じこと。
 始まりがあれば終わりがあるように、歴史には必ず変革期が存在するように、永遠など存在しない。
 太陽が沈むように、長い長い歴史を重ねた王国にも、いつか終わりの時がやってくる……今がその時なのだろうかと、イヴァンは思った。それが、運命なのだろうかと。
 そうだとしたら、自分は何の為に王になったのだろう。
 王国の終わりを、この目で見るためだろうか。あるいは、最後の王として歴史に名を刻むためだろうか。それとも……
 イヴァンの頬を、涙がつたった。
 沈みゆく太陽と、今の王国の姿が重なる。
 夕焼けに染まった空を見ていると、自然と涙があふれてくる。
 王が必要とされない王国で、自分はこの国のために、どうするべきなのだろうか。
 沈みゆく太陽と、崩壊しつつある王国を重ねて見ているのか、イヴァンの静かに涙を流し続け、いつの間にか眠りの世界へと落ちていった。
「……ぁ」
 どれほどの時間が流れただろう。
 イヴァンが目を覚ましたのは、明るい光を感じてのことだった。
 ゆっくりと瞼を上げた彼が目にしたのは、窓の外、朝日に照らされた王都の街並みだった。
 ――朝日に照らされた王都は、革命で揺れているとは思えないほど静かで平和そうで、柔らかな朝の光の受けて輝いている。
 終わりを感じる夕陽とは対照的に、朝日は再生と始まりを感じさせた。
 綺麗だと、イヴァンは思う。
 朝日に照らされた王都は、人々が笑い、泣き、悲しみ、誰かを愛し、時として傷つきながらも、懸命に生き抜くその場所は……どこまでも汚れなく、美しいものに思えた。
 ああ、そうか。
 自分は、この王国を……
 胸にこみ上げてくる想いに、イヴァンは眩しさに目をを細めながら、朝日に照らされた王都を見つめた。
「……ここは、僕の国だ」
 静かに、だが短い言葉の裏に深い深い想いをこめて、イヴァンは呟く。
 王が守るべき国だ。
 自分はこの国の為に、何が出来るだろう……
「……」
 そして、イヴァンはあることを決断した。
 とても愚かで、誰にも理解されない。だが、それでも、王として国の為に出来る最後のことをしたいと思った。

 翌朝、イヴァンは主立った重臣たちを集合させると、己の決断を告げた。
 ――今、革命軍と戦っている国王軍をすみやかに降伏させて、今後、革命軍と戦うことはしない、と。
 あまりといえばあまりの言葉に、その場にいた臣下たち全員が、王の、イヴァンの正気を疑った。
 たしかに、勢いと気力にあふれた革命軍に押されて、数で劣る国王軍の旗色は悪く、兵士の犠牲も少なくはない。だが、それでも降伏を考えなければいけないほどの劣勢ではなく、戦う気さえあれば、まだまだ数年は戦い続けることは出来るはずだ。
 いくら勢いがあるとはいっても、革命軍とは王に不満を持つ者たちを集めただけの正規の軍隊ではない、しょせん烏合の衆である。
 もし、仲間割れや裏切り者が出れば、国王軍の勝利もあり得ないことではない。
 そんな状況であるのに、今後、革命軍と戦うことはしないという、自ら進んで敗北を受け入れるようなイヴァンの言葉は、臣下たちを大いに困惑させた。
 その場にいた誰一人として、王の気持ちを理解することは叶わない。
 臣下たちは皆、王は革命という異常事態を前にして、その心の均衡を崩したのではないかと、本気で疑った。
 しかし、イヴァンは穏やかな目をして、だが凛とした雰囲気をまといながら玉座にあった。
 皮肉とも言えることに、そんな彼の姿は、今までで最も王らしい威厳に満ちていた。
 奸臣たちに操られるままに、傀儡の王として過ごしていたイヴァンとは、別人と言ってもいい。
 王としての己の役目を、覚悟を持って受け入れた時、彼はようやく真の王となったのかもしれない。
 そんなイヴァンの姿は、臣下たちに感銘を抱かせるに値するものだったが、だからといって王の言葉は受け入れ難いものだった。
 革命軍に降伏するということは、無条件で、革命を成功させるということである。
 それは、国王の退位を示し、このローズティア王国の歴史を終わらせるということだ。
 王城は革命軍によって占拠され、王であるイヴァンは革命軍の手によって捕らえられ、最終的には断頭台か何かで処刑されるであろう。
 革命の成功とは、そういうことだ……そんなことは、許せるはずもない。たとえ、王の決断であっても、降伏とは惨めな敗北を意味する。
 それを、受け入れられるはずもない。
「……それは本気でいらっしゃいますか?陛下」
 臣下たちの全員の気持ちを代表するように、イヴァンの父の代から、ローズティアの王家に仕えている大臣の男が言った。
 その問いかけに、イヴァンは静かに、だが揺らぎや迷いのない声で答える。
「本気でなければ、こんなことは言えない……今まで、王家のために力を尽くしてくれた者や、国王軍として戦って散った者たちには、本当にすまないと思う。この王国を守れなかったのは、自分の責任だ……でも、この国の未来のためには、これ以上、革命軍と戦って血を流すことは、許されない」
 すでに血は流された。
 革命の為に、大勢の人々が、その大切な命を散らした。
 もう十分だと、イヴァンは思う。
 これ以上、同じ国の民同士で無駄な血を流すことはない。――人々が必死に懸命に生きる国、この美しいローズティアの大地を、これ以上、血で汚す必要は何処にもないのだ。
 王も国も、民があってこそのもの、それを傷つけてまで守るべきものなど何もない。
「……」
 そんなイヴァンの返事に、問いかけた大臣は一瞬、言うべき言葉を見失ったように押し黙った後、本当にそれで良いのかと言うように、再度、問いかけた。
「立派なお考えでいらっしゃいますが……本当に、それでよろしいのですか?イヴァン陛下。もし、今、国王軍を降伏させるということは、王家の敗北を意味します。そうなれば、この王城は革命軍の者たちによって占拠され、王家に仕えていた私たちも、おそらく無事にはすまないでしょう。投獄か、処刑か……勿論、陛下も、例外ではございません。形ばかりの裁判しかされず、処刑場で罵声を聞きながら、断頭台に立たされましょう……それだけのお覚悟がおありになりますか?」
 大臣のその言葉に、イヴァンは民から石や罵声を投げつけられながら、断頭台に立たされて、処刑人の手によって己の首を落とされる瞬間を想像した。
 ……吐き気がした。
 苦しくて仕方ない。
 怖くて、怖くて、怖くて、正直、もし許されるものなら泣き叫びたかった。
 そんな風に民に憎まれ、罵声を投げつけられながら、死にたくないという思いも勿論ある。
 逃げられるものならば、王という立場を捨てて、逃げてしまいたいほどの恐怖だった。だが、イヴァンは王なのだ。
 たとえ、どれほど無力でも、民に愛されなかったとしても、イヴァンはこのローズティアのただ一人の王なのだ。
 だから――
「王は……」
 イヴァンの答えは、最初から決まっていた。
「王は国と運命を共にするものだ。それで、命を失うことになったとしても、仕方ないと思う。でも……」
 イヴァンはそこで一度、言葉を切ると、周囲の臣下たちを見回した。
 よく知った者も、あまり馴染みのない者もいた。
 若い者も年老いた者もいた。
 言葉を隠さずに言うならば、そこにいたのは信頼できる臣下ばかりではなかった。
 奸臣たちが王を傀儡として操る、腐敗の王国。
 それが、ローズティアの実情だったのだから。
 もし、イヴァンの周りに本気で国を憂う忠臣たちがいて、王の言葉に従い、本気で国を救おうと努力していたならば、こうして革命が起こることはなかったかもしれない。だが、王は今更、そのことを責めようとは思わなかった。
 何も出来なかったのは、自分も同じなのだから。今は憎しみよりも、ただ……
 代わりに、臣下たちの目を見つめながら言った。
「大臣や城に仕えた者たちは、違う。貴方たちは、滅びる王朝と運命を共にする義務はない。そして、無駄に命を散らすこともない。城から逃げてくれて良い……むしろ、全員、どうか逃げてほしい。お願いだ」
 もう、これ以上、この国で血が流されるのは耐えられないと、イヴァンは王としての威厳をかなぐり捨てて、泣きそうな顔で言う。
 それは、懇願に近いものだった。
 王としての威厳など、何処にもない。だが、それは彼にとっては真実の、心からの言葉だった。
「……」
 覚悟はあるのかと、王に問いかけた大臣は、イヴァンのその言葉に何も言わなかった。
 開きかけた唇は、結局、何の言葉も紡がない。
 代わりに、その年老いた大臣はイヴァンに頭を垂れると、扉の方へと向かい、その場を出ていく。
「……」
 その場にいた他の臣下たちも、イヴァンの言葉に顔を見合わせて、それぞれに家族や大切な者の顔を思い浮かべながら、扉の方へと向かう。
 一人、二人、三人……王に話しかけようとする者も、数人はいたのだが、イヴァンは黙って首を横に振り、何も言わせなかった。
 そうして、その場にいた臣下は全て立ち去り、誰もいなくなった。
 残されたイヴァンは、そっと目を閉じると、「……これでいいんだ」と小さな声で呟く。
「――イヴァン陛下」
 そう声をかけられて、イヴァンは瞼を上げる。
 彼の黒茶の瞳に映ったのは、数百年に渡り、王国の歴史を見守り続けた魔女……フィアナの姿だった。
「……フィアナ」
 フィアナはうなずくと、その真紅の瞳で正面からイヴァンを見つめて尋ねた。
「これが、貴方の望んだことなのですか?イヴァン陛下」
 本当にそれで良いのかでもなく、覚悟があるかでもなく、ただ貴方の望んだことなのですかと、フィアナは問う。
 それは、王としての彼に対する問いというよりも、イヴァンという一人の人間の想いを尋ねていた。
「ねぇ、フィアナ……」
 だからこそ、イヴァンも偽りのない本心を話すことが出来る。
 幼き日、『――だからね、いつか僕が王様になったら、みんなが笑顔で幸せに暮らせる国になるといいと思うんだ』そう言った時と同じ気持ちで。
「ねぇ、フィアナ……僕は今でも、この国を愛しているよ。だから、僕に出来る唯一のことをしたいんだ」
 そう言って、イヴァンは穏やかに微笑んだ。

 ローズティア王国の最後の王・イヴァン――革命によって、あまりにも若くして逝ったその王のことを、後世において語る者は残念ながら、そう多いとは言えない。
 わずか数年というイヴァンの在位の短さと、革命の混乱によって、多くの貴重な資料の数々が散逸してしまったのが主な理由である。
 それに“光の王”と呼ばれたレオハルトや、“銀獅子王”との異名を取ったイネスと比べて、イヴァンの生涯は決して華やかなものではないために、ただ最後の王としてのみ彼の名は語られる。
 愚王と呼ばれた父の跡を継ぎ、最後の王として革命と向き合うことになったイヴァンのことを、悲劇の王、という人もいる。
 あるいは、腐敗した王国の現状を知りながら、何もしようとしなかった凡愚の王と、厳しく批判する者もいる。
 また、平凡で善良な青年ではあったのだろうが、国王となるには決断力や判断力が欠けていたのだろうと、冷静な評価を下す者もいる。
 しかし、その者たちの誰に尋ねても、イヴァンの最後の決断については首をかしげるのだ。
 なぜ、王はあの時、敗北するのがわかっていて、国王軍を退いたのだろう?……と。
 たしかに、イヴァンのその決断によって、革命で流される血や失われる命は、少なくてすんだだろう。もし、彼が革命軍と最後まで戦うことを選び、時代の流れに抗っていたならば、流される血の量も犠牲となった者の数も、もっと多かったはずである。
 そうしなかったことを、結果としてイヴァンの功績という者もいないわけではないが、その理由となると皆、首をひねる。
 革命軍の勢いに、王は怖じ気づいたのだという人もある。
 あるいは、ただ単純に勝利を諦めて、敗北を受け入れたのだという人もいる。
 その者たちの誰一人として、真実を知らない。
 最後の王と呼ばれるイヴァンが、革命の時代に何を想い、何を守ろうとしたのかは大きな歴史の流れの中に、水泡のように儚く消えてしまった。
 歴史に残らなかった真実を知るのは、最後の王・イヴァンと、魔女だけである。

 そうして、王国の魔女フィアナ、最後の王イヴァン、そしてローズティア王国の全ての民にとって運命の日……王国が終焉を迎えるその日が、もうすぐ訪れようとしていた。


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