女王の商人

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  九章  貴族と商人 10−1    

「母上……」
 事前に何の打ち合せもなく、唐突に招待客の前に姿を見せた母親に、コンラッドは凍りついた。
 しかも、あの派手派手しい装いは何なのだ。母であるリーディアがあんな風に、若い娘のような化粧をしているのを見るのは、十数年ぶりだ。
 否、そんなことは問題ではない。
 心を病んでしまってからの母は、部屋に引きこもることが多くなり、他者との交流を避けるようになった。そうだ。同腹の兄妹である先王陛下の葬儀の折ですら、外聞をはばかって参列が叶わなかったというのに。
 それなのに、『女神の血』を求めて、オークションへと集まった客たちに、女主人らしい堂々とした風格を見せつけているのは、ほんとうに母なのだろうかと、コンラッドは信じられないものを見るように、唖然とした顔をしていた。
 あの不幸な事故以来、ずっと生きる屍のように、喪服を纏い、意思のない人形のように振舞っていた母がと思うと、嬉しさよりも、警戒が先に立つ。
 それでも、彼の息子という立場上、女主人である母のそれに、口を挟むことは出来ず、不安を抱えながらも、なりゆきを見守るしかなかった。
 それまで翠の瞳を、シアに向けていたリーディアだったが、紅い唇をゆるめ、にこりと微笑むと、招待客たちの顔を順繰りに見て、声も高らかに告げる。
「皆さまにお伝えしたいことがありますの。『女神の血』のオークションは、明日の夜、この屋敷の大広間で行いますわ。それまで、招待客の皆さまにはお部屋と、ささやかながら、お食事を用意いたしますので、どうぞ、ごゆっくり、おくつろぎくださいませ」
 慇懃な口調ではあったが、それは女王の命令のように、逆らい難い威厳に満ちていた。異論を唱えることは、許さないとでも言いたげに。
 そんな女主人の一言に、オークションの参加者たちはザワっと、ざわついで、ついで、あちらこちらから不満げな声が上がる。それも当然の感情だろう。
 数日に渡り、開催されるオークションならともかく、今回の落札対象は『女神の血』ただ一つだ。
 いくら相手が部屋や食事を手配してくれるといっても、もともと泊まる予定のなかった者にとっては、まさに寝耳に水だ。時間の浪費と言ってもいい。
 忙しい商人の中には、気分を害し、帰り支度を始めそうな男もいるし、やんごとなき主人の名代として遣わされたらしい執事や使用人たちは、互いに顔を見合わせ、どうしたものかと思案顔だ。
 足の速いフットマンの中には、一度、自分のお屋敷に戻り、主人の指示を仰ごうかというものまでいる。
「アレクシス、どうする?」
 人波をかきわけて、シアはそっとアレクシスに耳打ちする。
 黒髪の青年は仕方ないと言いたげに、首を縦に振った。
「主催者がああ言っているのでは、泊まって、明日の夜を待つしかないだろう」
「まあ、そうよね」
 シアも同調した。これが、自分の目的だけならば、一度、リーブル商会に帰って出直すというのも、少しだけ考えたが、今回は女王陛下たってのご依頼だ。万が一にも、主催者の機嫌は損ねたくない。
「失礼、この件を降りさせてもらってもいいだろうか?」
 その時、前方に居た身なりの良い紳士が、片手を上げた。
 仕立ての良さそうな、上等な服を着ているが、その目に宿る抜け目のなさは、貴族よりも商人を思わせる。男はぐい、と一歩、前に進み出ると、リーディアに意見した。
「私は明後日、大事な商談を控えている身なので、明日の夜では遅いのだ。諸君らも、それぞれ大切な予定があるはずだろう?」
 男の言葉に、招待客たちが少なからず、うなずく。
「第一……突然でそのようなことをいわれるのは、困る」
 男は苦い顔で言ったが、リーディアは先程と同じく、どうぞ、と余裕ある微笑を浮かべていた。
 その微笑みには凄みがあり、年に似合わぬ艶に、男はう、と呻く。
「お帰りになりたければ、どうぞ。こちらから、お引き止めは致しません。ただし……」
 リーディアは栗毛のメイドを呼び寄せると、銀色に輝く、宝石箱を持ってこさせた。
 銀細工とサファイアで彩られ、薔薇と一角獣の意匠が施されたそれは、それだけでも目も眩むほどに美しい品だ。
 商人として、確かな審美眼を持つ男にとって、それは垂涎ものの品であった。けれど、箱の中身は、それを遥かに上回っていた。
 リーディアが宝石箱を開いた瞬間、中から、紅の輝きが零れ出る。
 青いビロード地の中央に座す、星の輝きを内包する、ルビー。
 大人の拳ほどの大きさを持つそれは、宝石としては勿論、かつて神聖王国の宝冠を飾った、レイスティア侯爵家の家宝であり、その価値は到底、計り知れないものであろう。
 女神の血。
 これほどのものを手放すというのが、男にも、その場に居た招待客たちにも信じられなかった。
「お帰りになった場合、この女神の血は二度と、貴方の手には入らぬことは覚悟してくださいませ」
 それで構わぬなら、どうぞ御随意に。微笑混じりに告げる女主人に、みっともなく狼狽したのは、男の方だった。
「その、必ずしも帰るとは言っていない。商談相手には書状を出しましょう。だから、わたくしもオークションに参加させてください」
 先程までの威勢の良さは一転、媚びへつらうような相手の態度にも、リーディアは何の感情も覚えていないようであった。
 童女の如く、澄んだ翠の瞳が、かえって違和感をかきたてる。
「ええ、よろしいですわ」
 あからさまにホッとした様子の男に、周りは道化を見るような目を向ける。
「それでは皆さま、明日の夜のオークションを、わたくし心から愉しみにしております。コンラッド、お客様たちのご案内を、お願い」
 私は少し休みます、とメイドを引き連れて、闇色のドレスの裾を引きずりながら、去っていったリーディアに、招待客たちは何とも言えない顔をする。
 そんな重苦しい空気を、変えようとしてだろう。
 コンラッドはわざと大きな声を出した。
「さあ、皆さま方、大広間に酒とつまみが用意してございます。お疲れでしょう、喉を潤してくださいませ」
 その言葉通り、大広間のテーブルにはワインと、ナッツや生ハム、チーズなどのつまみが用意されており、それに舌鼓を打つものもいたが、さほど話題は盛り上がらず、酔っ払うような輩もいなかった。
 ぼそぼそと語り、会話が盛り上がらぬのも、しょうがなかろう。
 明日の夜のオークションの目的はただひとつであり、この大広間に集った者たちが皆、『女神の血』をめぐる、ライバルなのだから。
 シアはといえば、壁の隅でちびちびとアルコール度数の低い、ほぼジュースと変わらぬような果実酒を口にしていた。
 ワインを飲もうとしたら、すかさず、傍に控えていたアレクシスに止められたからだ。
 頭を下げ、後生だから飲まないでくれ、と懇願されては、さすがのシアも飲むのを躊躇う。酔っ払うと記憶がなくなってしまうことが多いが、一体、自分は何をしたというのだろう。
 おかげで、雑談の輪にも入れず、すっかり壁の花だ。
 まあ、このギスギスした空気では、不満もないが。
 赤に黒いレースの縁どりの、ドレス姿のシアは、いつもよりも大人っぽく、匂いたつ薔薇のような美しさで、先ほどから、ちらちらと男たちの視線を集めているのだが、鈍い当人は一向に気づく素振りもない。
 そんなシアが壁の花を気取っていられるのは、さっきからさりげなく、彼女を庇うような様子のアレクシスのお陰だ。
 滅多にいないような、とびっきりの美少女の横に、上背もあり、洗練された物腰と、鍛えられた身のこなしの、凛々しい青年が守るように傍らにあれば、周囲は彼らを似合いの一対として見る。
 先ほどから、周りをウロウロし、さもシアに声をかけたそうだった若い男も、アレクシスを二度見、とても敵わぬと判断すると、悔しげに身を引いた。
 アレクシスはシアに向けられる眼差しの意味には気づいており、よからぬ輩から大切な彼女を守ろうと、気を引き締めていたが、己に向けられる女性からの視線には無頓着であり、それにシアが苦い顔をしているのも、さっぱり理解していなかった。
「この、鈍感男」
 唇をとがらせたそれに、アレクシスは首をかしげる。
「うん?何か言ったか?」
「いーえ、何でもないわよ」
 ぷくりとリスのように頬を膨らませて、シアは濃い檸檬色をした果実酒のグラスを、面白くないとばかりにあおった。一体、いつになったら、アレクシスは自分に向けられる好意の多さに、気づくのだろう。それを、シアが面白くないと思っていることも。

 酒宴はほどほどの所で、散会となり、コンラッドはオークションの参加者たちを、客室に案内するように、メイドに命じた。
 贅を尽くした屋敷の内装に目を奪われながら、ぞろぞろとメイドの背中をおっていた参加者たちだったが、ひとり尿意を覚えて、列を離れた少女が居た。シアだ。
 彼女は小走りで、列の前方を歩くメイドに駆け寄ると、顔を赤くして、もじもじとしながら「教えて、お手洗いはどこ?」と尋ねる。
「ああ、ご不浄でしたら、ここを曲がって、右に進んだところでございます。お嬢さま」
「わかったわ。ありがとう」
 メイドに礼を言うと、シアはアレクシスに一声かけて、教えてもらった場所を目指す。
 ここを曲がって、右に……あれ?何か違う?
 簡単なはずのそれは、おかしいことに、簡単ではなかった。あれ、ここ、さっき通った気がする。
 身体をもじもじとさせて、尿意をこらえながら、屋敷の中で迷子になったシアは、必死にお手洗いの場所を探す。
 腹具合にも、限界というものがあるのだ!
「は、あ……何とか間に合った」
 苦労の末、なんとか間に合ったシアは、安堵の息を吐く。
 しかし、周りを見回した途端、その表情が再び曇る。
「あれ……?あたし、どっちから来んだっけ?」
 そう呟きながら、青ざめる。迷子はどこまで言っても、迷子だった。
「アレクシスー!誰かー?近くにいないの?」
 迷惑にならない程度に、声を張り上げてみたものの、シアのそれに応じる声はない。
「どうしよ……」
 その時だった。うろうろと辺りを見回していた青い瞳に、その扉が映ったのは。
「一角獣の紋章……?」
 通路の奥深く、ひっそりと静寂な空気を纏わせたそこに、その扉はあった。
 扉には、精緻な一角獣の紋章が彫り込まれており、このレイスティア侯爵家で何度も目にしたそれだった。のみならず、シアにはもうひとつ、別の意味がある。
「お母さまの……」
 シアが幼き日に、母のエステルから譲られた、宝石箱。
 扉に彫り込まれていたのは、それと同じ、一角獣の優美な姿であった。
 自分の過去を恐れて、語らなかった母との繋がりである。
 無意識のうちに、シアの手がその扉のノブへと伸びた。

(おいで)
(ここへおいで、貴女をずっと待っていた)

 屋敷に足を踏み入れた時から、聞こえた声が、今もまた聞こえる。
 シアは見えない何かに突き動かされるように、真鍮のドアノブを握り締め、そして……
「探したぞ。こんな場所に居たのか?シア」
 耳慣れたそれで、ハッと我に返り、勢いよく扉から飛び退いた。
 視線の先、アレクシスが心配そうな顔で立っている。
「探してくれたの?」
 アレクシスは無言でうなずく。
「貴女が、いつまでも戻ってこないからな。焦った」
「ごめん」
 己の非を認めて謝ると、アレクシスは気にしていないと首を横に振り、行こう、手を差し伸べて、彼女を促した。
「俺たちの部屋は、斜向かいだ。案内のメイドが待ちかねていたぞ」
「うん」
 アレクシスの手を取りながら、シアは一度、後ろの扉を振り返った。
 真実を知るために、その扉を開けてみたい心境にかられながら。
 呼びに来てくれたのが、アレクシスで良かった。もし、屋敷の住人であるコンラッドや、メイドであったなら、不審の目で見られたかもしれないし、そうでなくても、相当に気まずい思いをしたことだろう。
 でも、もしも、アレクシスが呼びに来なかったなら?自分は、あの扉をあけていたのだろうか。
「どうしたんだ?さっきから、ボーッとしているようだが……」
「何でもない」
「だが……」
「何でもないよ。大丈夫」
 漆黒の瞳によぎる、心配の色にシアは気づかないふりをした。


 その日の夜のことだ。
 招待客全員を招いてのディナーは、女主人のリーディアは不在であったものの、コンラッドが卒なくホスト役を務めた。
 海亀のスープ、鴨のオレンジソースがけ、白身魚のポワレ、杏のタルト、檸檬のシャーベットなどを味わいつつも、片時も、シアの頭から、あの扉のことが離れることはない。
 臨席のアレクシスは、相棒である彼女が上の空だったことを察してはいただろうが、今度はもう注意しようとはしなかった。
 晩餐を終えて、それぞれの客室へ戻る。
 アレクシスの母からの借り物である赤いドレスを脱いで、動きやすい部屋着に着替えたシアは、考えることに疲れて、早く寝台に入った。こんな日はもう、早く眠ってしまうに限る。
 明日は大事なオークションだ。女王陛下の為に、シアの商人としての矜持をかけて、なんとしても『女神の血』を落札せねば。
 そう思って、毛布をかぶったものの、妙に頭だけ冴えて眠れない。イライラしながら、寝返りを打つ。ごろんごろん。
 ぽすっと、乾いたまくらの音がした。
 シアは眠るのを諦めて、手元にあった本を開いたものの、ぱらぱらと頁をめくるだけで、内容はさっぱり頭に入ってこなかった。
「ああ、もう……っ」
 思うようにならない苛立ちを抱えながら、シアは跳ね起きると、クローゼットにあったガウンを羽織り、燭台を握りしめると、そっ、と足音を殺して、廊下へと出た。この棟に泊まっている、他の招待客を起こさないように、慎重に、慎重に。
 このまま悶々としていても、あの一角獣の謎は、深まるばかりだ。
 母の遺した宝石箱、まるで幽霊を見たようなコンラッドの態度、屋敷の陰鬱な空気、そして、喪服の貴婦人……幼い頃から、シアを取り巻いていた謎の糸が、ここにきて、一気にほぐれ始めている。
 女王陛下の商人として、このレイスティア侯爵家を訪れたのも、何かの運命なのだろうか。ならば……
 シアはぐっと、燭台を握る手に力を込めると、決意をこめて、暗い廊下の奥を見つめた。
 確かめなければなるまい。
 ――この道の先がきっと、母の過去を教えてくれるはずだ。
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