女王の商人

モドル | ススム | モクジ

  九章  貴族と商人 10−2      

 人生には、幾つもの選択肢がある。
 そして、道は進んでしまったら、きっと後戻りは出来ない。
 知るべきでない秘密も、知らない方が良いことも、シアが思うよりも遥かに多く、世の中に存在するだろう。
 でも。
 シアは知ることを選んだ。だから、それを、絶対に後悔したりしない。

 燭台を手にした銀髪の少女は、息をひそめ、人目につかぬように足音を殺しながら、廊下の暗がりを一歩、一歩、慎重に歩いた。
 屋敷には、夜の見回りをする使用人も居るはずだから、目的を果たすためにも、その者たちに見咎められるわけにはいかない。慎重に、慎重に。
 ほどなく、シアは今日の昼間、迷い込んだ際に目にした、ある扉の前へと辿り着く。
 扉に彫り込まれているのは、精緻な一角獣の紋章だ。
 一角獣のそれは、この屋敷を訪れてからというもの、まるで運命に導かれるように、幾度も幾度も、目にすることになった。シアの亡き母・エステルの隠していた秘密が、おそらくは、この扉の先にある。
 シアは扉のドアノブに右手で触れて、束の間、躊躇するように立ち尽くした。
 唐突に、暗闇にひとりっきりで取り残されたような、心細い気持ちにかられた。
「シア、お願い。どうか、黒いドレスの貴婦人には、近づかないで……」
「とても、恐ろしいことが起きてしまうから」
「母さまは、どうしても貴女を守りたいの。私の愛しい娘……」
 幼い娘に、何度も何度も、懇願するように言い聞かせた、母。
 優しく、美しく、たおやかだった母さま。
 でも、黒いドレスの貴婦人のことを語る時は怯え、鬼気迫る表情を浮かべていた。
 怖い、そう感じたことさえある。
 それは、宝石のような記憶に落ちた、一点の黒いシミのようだ。
 母は絶対に、自分の生い立ちについて語ろうとはしなかった。ただの一度も。だから、シアは自分の、祖母や祖父にあたる人を知らない。それを尋ねると、悲しげに、いっそ怯えたような目をする母さまに、幼いなりに、それは聞いてはいけないことなのだと、察したからだ。
 あの淑やかな母の過去に、どのような恐ろしいことがあったのか、それは想像することしかできない。それでも、母が精一杯、大事な娘を危険から守ろうとしてくれたであろうことは、疑う余地がない。
 だからこそ、シアはにわかに躊躇する。
 この扉を開けることは、短い生涯の中で、シアを全力で愛してくれた母の気持ちを無にすることなのでは、と。
 ドアノブを握る手が緩んで、アレクシスを呼んでこようかと思う。
 彼が隣にいてくれれば、この心細さも、すぐに何処かに飛んでいってしまう気がした。だけど。
「……駄目だよね。これは、あたしの選んだことだもの」
 大切な人を、大切な人だからこそ、アレクシスを巻き込むわけにはいかない。
 シアが、コツコツ、と扉をノックすると、「どうぞ」と掠れる声が返った。
「あの、失礼します……」
 一応、部屋の主の了承を得て、シアは扉を押し、部屋へと足を踏み入れる。
 室内は揺れる蝋燭の、橙色で照らされていた。
 テーブルセットや書棚、天井のシャンデリアなど豪奢な作りであるものの、其処に生活感というものは、あまり感じられない。
 その部屋の中心にあるのは、四隅に馬頭の飾りが施された、立派な寝台だった。
 寝台には、六十ほどであろう白髪の老人が眠っている。
 老いてなお、はっきりとわかるほど、端正な顔立ちをしていた。
 橙の灯りに照らされた、その顔色は蝋のように白く、一瞬、シアがゾクッとする程だった。
 所在無さげに立ち尽くしたシアの前で、重く、閉ざされていた老人の瞼が、ゆっくりと上がる。
 二度、三度のまばたきのあと、水色の双眸がシアを映した。
 部屋を訪れた少女の前にしても、老人の目は虚ろで、濁ったようであった。だが、シアの顔を認識した途端、老人の顔に驚愕の色がよぎり、自由にならぬ四肢を動かして、彼女に近づこうとする。
 あーあーうーと、乾いた唇から、うめき声が漏れた。
「エステル……っ!戻ってきてくれたのか!」
 老人の叫びに、シアは少し怯えたように後ずさり、あの、と困惑の声をあげた。
「あの……、エステルはあたしの母で、あたしの名前はシアです。おじいさま」
「娘……そんな、まさか、瓜二つじゃないか」
「よく似ているって言われますけど……ほら、見てください。瞳の色が違うでしょう?母は菫色で、あたしは青なんです」
 シアの言葉に、老人はああ、と深い溜息をつき、落胆したように、首を横に振った。
「……すまない、君があまりにも、エステルによく似ていたからな。だが、そんなはずはないんだ。あの娘がこの屋敷を去ってから、もう二十年近い歳月が流れているのだから」
「いいえ……あの、」
 詫びる老人に、シアは逆に気になっていた質問をぶつける。
「おじいさまは、母のことをご存知なのですか?」
 老人は、ようやくシアとシアの母を別人だと認識したようで、しげしげとシアを眺める。
 懐かしむような、何とも言えない目をしていた。
 初めてあったはずの老人が、何故か他人だと思えなくて、シアはその瞳を見つめ返す。
 祖父のエドワードと話している時のような、不思議なやすらぎがあった。
「ああ、よく知っている。君は……エステルの娘だといったな。良かったら、名前を教えてもらえるか?」
「シア。シア=リーブルです」
「……シアか、良い名前だ。年は幾つになる?」
「十六です。おじいさまのお名前は?」
 近くの椅子に腰を下ろすように、シアに勧めながら、老人は名乗った。
「クリストファー。私の名は、クリストファー=ロア=レイスティアだよ。お嬢さん」
 ひっ、と短く叫んで、シアは腰を浮かせかけた。
 クリストファー=ロア=レイスティアといえば、レイスティア侯爵家の当主で、王妹を娶った人ではないか。
 先程、自ら屋敷の案内をしてくれた、コンラッドとは父子ということになる。
「ご、ご当主さまでしたか……大変、大変、失礼いたしました」
「ああ、いや、そんなに私相手に畏まる必要はないよ。お嬢さん……こんな身体で、もう半ば隠居したようなものだ。実際に、屋敷を取り仕切っているのは、息子のコンラッドだからね。おじいさまと、呼んでくれて構わない」
「ですけど」
「その方が嬉しいよ」
「……わかりました」
 躊躇っていたシアも、にっこり微笑んで、そう頼まれてしまっては断れない。
 先ほどまでの、生きる屍のような様子が嘘だったように、クリストファーは束の間、生きる輝きを取り戻している。
「ひとつ、教えてくれないか?お嬢さん」
「はい?何でしょうか?」
 クリストファー胸の前で手を組み合わせると、意を決したように言った。
「エステルは今、どうしているんだ?元気に生活しているか?」
「それは……」
 母と知り合いらしい、老人の受ける心の痛みを思うと、シアは言いよどんだ。
 しかし、それこそが答えだと、クリストファーは悟ったらしい。
 水色の瞳に、寂しげな色がよぎり、祈るように手を組む。
「母は病気で、亡くなりました。あたしが子供だった頃に」
「……そうか」
 半ば覚悟していたのだろう。
 クリストファーはもう一度、「そうだったのか」と繰り返した。
「おじいさまと母は、どういう……?」
「あの娘は、エステルはお嬢さんに何か教えたのかな?自分の生い立ちについて」
 問いをぼかされたシアは、「いいえ、何も」と、首を横に振った。
「そうか。私にとって大切な人だったよ、とてもね。私自身の命よりも、ずっと」
 老人は頷くと、シアを手招きして、寝台のそばに呼び寄せた。
「私のことはいいから、お嬢さんの話を聞かせてくれないかな?君のお父上、エステルの夫はどんな人だい?」
 初対面のはずなのに、ずっと前からの知り合いだったような気がして、シアは自然と笑顔になった。
「父親ですか?そうですねぇ、一言で言うと、タヌキです」
「タヌキ?」
「煮ても焼いても、食えない奴、って意味です。まあ、あたしみたいな商売人にとっては、褒め言葉でもあるんですけどね」
 ほうほうと、クリストファーは相槌を打った。
「なかなか面白いお父上だね。あの大人しかったエステルの夫とは、とても思えない」
 ええ、とシアは肩をすくめて、でも、と青い瞳を輝かせた。
「あたしにとっては、世界で一番の父親ですけどね」
 本人を前には、調子に乗るから、絶対に言ってあげないことではあるけど。
 クリストファーは目を細めた。
「お嬢さんは幸せなんだね。それは、あの娘が最も望んだことだったと思う」
 大人しいけど芯は強い子だったから、と。

 その後も、時間を忘れたように、シアは家族や、商会の仲間たちとの日々、商人としての仕事や夢、女王陛下のお役目や相棒のアレクシスのことなどを、楽しげにいきいきとした口調で語り、クリストファーは優しい微笑を浮かべて、うんうん、と時折、相槌を打ちながら、幸せそうに耳を傾けていた。
 カーテンに閉ざされた、窓の外が白み始めて、ようやく夜が明けようとしていることに気づいて、シアは慌てて席を立った。
「ご、ごめんなさい。もう、こんな時間……っ!話し始めたら、つい止まんなくなっちゃって……」
 早くしないと、朝番のメイドが、この部屋に来てしまうだろう。
「いやいや、とても楽しい時間だったよ。お嬢さん、こんなに楽しかったのは、数十年ぶりだ。こんな老人のために、本当に……本当にありがとう」
 クリストファーは微笑んだまま、「メイドが起こしに来る前に、部屋に戻りなさい」と、促す。
「はい。こちらこそ、楽しかったです。また今度、お話させてくださいね」
「ああ、いつか、機会があればね。楽しみにしているよ」
 スカートの裾をひるがえし、バタバタと立ち去ろうとしたシアの背中に、クリストファーは遠慮がちな声を寄せる。
「最後にひとつだけ、エステルは、あの娘は、お嬢さんの目から見て、幸せそうだったかい?」
 シアは振り返り、力強くうなずいた。
「ええ、とても」
 母の過去に何があったのかは、まだわからない。でも、父と寄り添う母の表情は、間違いなく、愛し、愛された幸せなものだった。
 それだけは、胸を張って、断言できる。
「安心したよ。それが知れて、救われた」
 目頭を押さえて、俯いたクリストファーは、「ほんとうに良かった」と、小さく肩を震わせた。
「昔のことはわからないですけど、」
 そう前置きして、シアは続けた。
「母は一角獣の宝石箱を、ずっと手放さずに持ち続けていました。高い値段で売ったり、捨てたりする機会だって、幾らでもあったと思うんです。でも、そうしなかったのは、それとの繋がりを、断ち切れない未練があったからじゃないかと……そう思います」
 自分の言葉に、黙って聞き入るクリストファーに、扉に手をかけながら、シアは、にこりと笑いかけた。
 この優しげな老人と、母と、己の間にあるであろう、その繋がりを感じながら。
「そうは思いませんか?お祖父さま?」
 クリストファーがそれに応えると同時に、扉が閉められた。
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