女王の商人

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  八章  宝石と商人 9−12  

 古来、美しい宝石には、人の心を狂わす魔力があるという。
 その、まばゆい輝きに目がくらんだばかりに財を投げ出し、不幸になった者さえ少なくない。
 されど、人は宝石の無垢な曇りなさを愛し、それを己がものにしたがる。
 未来永劫、不滅の輝きを持つ宝石を、永久の愛になぞらえることも少なくない。
 人の愛や欲さえ呑み込んで、なお純粋な輝きを放つ貴石を前に、焦がれた人はただ、ひれ伏すしかないのだ。

 ……さて、レイスティア侯爵家の屋敷、その一室。
 其処には、産まれた時から、金や銀、金剛石、碧玉や真珠、希少な宝石に囲まれてきた人がいる。
 誰であろう、この屋敷の女主人だ。
 先王のたったひとりの妹君、王宮では蝶よ花よと愛でられた、リーディア王女殿下。
 幼い頃からの婚約者に降嫁してのちは、レイスティア侯爵夫人と呼ばれる、彼女。
 代々の奥方が暮らしてきた、女主人のための部屋は、数十年前、王妹であるリーディアを迎え入れるにあたり、大改装をし、調度品はすべて 最高級品を揃え、壁紙も絨毯も、すべて新妻たる王妹の好みに合わせた。
 その改装費だけで、平民の家が十軒は建つと言われたが、美丈夫で知られた夫のレイスティア侯爵は、その金額に眉間に皺を寄せるでもなく、縁談を取りまとめた父の意向に沿 い、莫大な金貨を淡々と支払ったという。
 王の同腹の妹を戴くことは、それだけの価値があった。
 否、それはリーディアにとって、贅沢や我が儘ですらなかった。
 王女として、生を受けたその瞬間から、ドレスも宝石も、その小さな手のひらにあふれんばかりに用意されていた。
 文武両道に秀で、穏やかで明朗な人柄、 美丈夫で知られたレイスティア侯爵の嫡男、クリストファーとの婚約さえも、彼女の為に用意された、価値あるもののひとつに過ぎない。 全ては、最初から決められていたことだ。されど、幸いなるかな、リーディア王女は恋をした。美しく、従順に、彼女を愛することを定められた婚約者の青年に。
 それが果たして、作られた幸福なのか、自然に生まれた感情なのかわからぬまま、リーディアは生涯、ただ一度の恋をした。
 王女の家族も、国民も皆、愛する王女の結婚を祝福した。
 我らの可愛らしい、ちいさな王女さま……どうか、お幸せに……花が咲くような微笑みを、なくさないで……
 大聖堂での挙式、王都の中心を花嫁と花婿を乗せた馬車が、民から投げられる、色とりどりの花びらを受けて、走っていく。雲一つない青空 、陽光が降り注いで、本当に綺麗だった。――あぁ、お幸せな王女さま、幼い頃から、想い焦がれた方と結ばれて、誰よりも幸せな王女さま。
 それから、数十年の歳月が流れた。
 女主人の部屋は、相変わらず豪奢であるものの、壁紙や絨毯には年月相応のくすみや痛みがあり、ややくすんだオリーブグリーンの長椅子が、過ぎ去った日々を感じさせる。
 しかし、その部屋の片隅で、籐の揺り椅子に腰掛けている夫人ほど、流れた歳月の残酷さを感じさせるものはなかった。
 揺り椅子が軋んだ音をさせる。ギィギィ。
 銀にも近かった金髪は歳月によって白く染まり、ミルク色の陶器のようだった肌には、深い皺が何本も寄っている。
 かつて、明るい知性の輝きを宿していた翠の瞳は、どんよりと濁っていた。
 昔日は清楚な美貌で知られた人だったが、今の姿は実際の年齢よりも、十は老けて見える。
 神の定めたもうた、時の流れの無情さを恨みたくなるほどに、または王女の結婚生活が苦悩にまみれたものだったことを物語るように、その変化は顕著であった。
 ――ギィギィ。
 籐の椅子に揺られていた老女は、痩せた胸に抱え込むようにして、銀とサファイアの細工が施された、宝石箱を持っていた。
 薔薇と、レイスティア侯爵家の守護たる、一角獣が描かれたそれ。
 鍵穴には、金の鍵が差し込まれており、箱の中には青いビロード地がのぞいている。
 宝石箱自体も美しいが、その青いビロードの中心に座すのは、さらに目もくらむような至上の輝きであった。
 大人の拳ほどもあろうかという、大粒のルビー。
 中には、白い星のようなラインが光って見える。
 『女神の血』
 かつて西大陸に比類なき繁栄を築き上げた、神聖エストリア帝国、その宝冠を飾った、ルビー。
 皇帝の中の皇帝の頭上にて、比類なき輝きを放ったもの。
 代々のレイスティア侯爵家の当主が、家宝として、妻や子供よりも大切に、かしづくようにして守り抜いてきたもの。
 白く、枯れ木のように痩せた指で、そのルビーをつまみ上げたリーディアは、しげしげと、あどけなくさえ思える表情で、希少な宝石を見つめる。
 茫洋としたその眼差しは、正気と狂気の危うい境を、さ迷っているようだった。
 しかし、刹那、ふっ、と翠の瞳がかつての理性のきらめきを取り戻す。
 圧倒的な輝きを放つ、ルビーを見つめて、王女と呼ばれていた女は、儚く、消え入りそうな微笑を浮かべた。
 それは、かつて純粋に婚約者を慕っていた頃の、過去の残滓であっただろうか。
「こんなもの……あの人の愛に比べたら、何の価値もなかったのに、ね」
 いらないわ……切ない響きと共に、その指先から、誰もが喉から手がでるほどに欲するであろう、ルビーがすべり落ちた。


 始まりは、純粋な恋だった。
 歪んでしまった恋心は、憎しみへと変わる。
 そうして、捻れてしまった愛は、狂気と呼ばれるのだ。


 オークションの招待客たちは、主人の代理であるコンラッドに従い、ぞろぞろと連れ立って、広間へと移動しようとしていた。
 競売に参加する、シアやアレクシスも例外ではない。
 アレクシスと並んで歩きながら、シアはそっと、前を歩むコンラッドの背を盗み見た。
 穏やかな風貌、紳士的な物腰、凛と伸びた背中。
 コンラッドとは初対面ではあるが、エミーリア女王陛下とはいとこの関係であるとあって、どこか似た雰囲気を持っており、シアは以前、どこかで会ったことがあるような錯覚に陥る。
 先ほど、あきらかに狼狽した様子で、妙な態度を取ったコンラッドだったが、いまはオークションの参加者たちを気遣うように、あれやこれやを案内し、ホスト役に徹している。
 一体、何なのだろう、とシアは首を傾げざるを得ない。
 先ほど己の顔を見たコンラッドは、顔色をなくし、さながら幽鬼を見たような表情をしていた。
 訝しがるシアに、男は、人違いだった、申し訳ないと詫びたきり、一言だって、詳しい事情を話そうとはしなかったが。
 変なの――シアはため息を吐いて、肩をすくめた。
 やたら頑なであった父親の態度といい、コンラッドと名乗った男の狼狽ぶりといい、彼女には何もかもわからないことだらけだ。けど、だからこそ、己の預かり知らぬところで、よからぬ何かが起こっているようで、不気味だった。
 そして、胸に重石を乗せられたような、どうしようもない不快感……無意識のうちに、シアは胸に手をあてた。
 亡き母の言葉が、耳の奥でこだまする。
「シア。決して近づいては、駄目よ」
「お願いだから、あの家には関わらないで」
「黒いドレスの貴婦人には……リーディア様には……」
 シア。
 アレクシスが囁くような声音で名を呼び、再三、気遣わしげな目を向けてくるのに、シアは大丈夫だと、軽くうなずいた。
 コンラッドを先頭に、客たちが大広間に繋がる扉をくぐり、螺旋階段の横を通ろうとした時、頭上から高らかな声が降ってくる。
「ようこそ、レイスティア侯爵家へ!紳士、淑女の皆様方」
 唐突に階段の上から降ってきたそれに、顔を青ざめさせたコンラッドは、わなわなと唇を震わせて、シアら客たちはギョッとした顔で、声の降ってきた頭上を仰ぎ見る。
「あいにく、主人は体調を崩しておりますが、妻のわたくしが皆様を、心から歓迎いたしますわ。あぁ、申し遅れましたわ……わたくしは当主クリストファーの妻、そして、先の王の妹、リーディアと申します」
 舞台の女優のように朗々と、高らかに名乗ったリーディアは、艶やかに微笑み、誇り高く、女王のような威厳をもって、民を、オークションに訪れた客たちを睥睨した。
 唐突に現れた老女に、オークションの客たちは当惑を隠せず、目と目を見合わせては、ひそひそと小声で話し出す。
「リーディアさま……?」
「先王の妹姫だ」
「兄上の葬儀の折りには、ご体調を崩されていると、専らの噂だったが……」
 驚きと興味本位のささやきが、ざわざわとさざ波のように広がっていく。
 不躾な大勢の視線を前にしても、リーディアはゆったりとした余裕を崩さず、大輪の花のように、あでやかに笑んでみせた。
 そう、老いてなお、刹那、かつてのきらめきを取り戻したように、王女は美しかった。
 常と同じ黒いドレスに身を包みながらも、淡い金髪は綺麗に結い上げられ、顔には薄化粧、ダイヤの耳飾りと、真珠とエメラルドのネックレスがまばゆいまでの輝きを晒している。
 一瞬だけ、客人たちの目に、アルゼンタールの麗しの月、と讃えられた王女時代の姿と、着飾った老女の姿が重なった。
「は、母上……」
 先触れもなく、いきなり姿を現した母親に、息子のコンラッドは困惑気味に呻いた。
 ここ最近、母はめったに己の部屋から出ることがなかったというのに、急にどうしたのだろう?
 己が提案した競売だから、参加者たちの顔ぶれが気になって、わざわざ出てきたのだろうか。
 それに、顔には白粉を塗り、過剰なまでに派手派手しく着飾った今の姿は……?
 彼女のたったひとりの息子であるコンラッドでさえも、リーディアの真意は計りかねた。
 普通の精神状態ではない母を案ずる気持ちは、誰よりも強かったものの、客人たちの前ということが、コンラッドの動きを鈍くさせた。
 黒いドレスの貴婦人は、しずしずとした足取りで、階段の踊場まで降りると、小首を傾げるようにして、オークションに訪れた客たちを見回した。
 翠の瞳が、すぅ、とすがめられる。
 その目に映るのは、誰であろう、真紅と黒のドレスを纏った、銀髪の少女だ。
 儚げで繊細な面立ちをしているが、その青い瞳はいきいきと力強く、活力に満ちている。
 あの女と、そして、あの娘と同じだ。
 触れれば壊れそうな、繊細な容姿をしている癖に、決して折れず、何度でも何度でも、変わらぬ美しい容姿で、老いたリーディアの前に姿を現すのだ。
 そうして、世の中の穢れなどなにも知らないような顔をして、リーディアの最も大切な人からの愛情を、奪い取っていくのだ。――この泥棒猫が!
 負けるものか、負けるものか。クリストファーさまは、わたくしのもの。他の誰にも渡しはしない。
 そのような心の声をおくびにも出さず、リーディアはおかしげに目を細めた。
 眼前の銀髪の少女と、あの日、大事そうにぬいぐるみを抱えていた幼女の面影が重なる。
 ――ほぅら、また見ぃつけた。
 紅をぬった唇が、つり上がった。
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