女王の商人
九章 貴族と商人 10−10
国民から祝福されて始まった、クリストファーとリーディアの夫婦生活は、始まりこそ順調に見えたものの、内実、新婚らしい甘やかさなどはなかった。
降嫁する王女のために設えられた、夫婦の為の寝室、何十ものドレスや靴が用意された衣装部屋。
連れて来られる侍女のための使用人部屋も、新たに作らせた。
ピカピカに輝く金細工の鏡台に、年若い夫人に似合う、青い小花の壁紙、純白のテーブル、猫足の椅子、美しく、可愛らしく、国中の少女が夢見るであろう、花嫁の為の支度がそこにはなされていた。
リーディア王女の降嫁に、レイスティア侯爵家はいくら金を用意したのかわからないと言われたし、実際、侯爵家にとっては、それだけの価値がある婚姻であった。
嫁入り支度だけではなく、クリストファーとリーディアの夫婦もまた、社交界の羨望の対象であった。
彼女は、月を見上げていた。
雲一つない夜空に輝く、綺麗な満月だった。
欠けたるところない、満ち足りたそれ。
天より注ぐ優しい月光が、リーディアの美しく整った横顔を照らす。若々しい彼女は、まだレイスティア侯爵夫人としての貫禄よりも、誰からも愛される、可愛らしい姫君と言った方がしっくりくる。
けれども、繊細で儚げで、どこか頼りなげであった少女の顔つきが、どことなく変わったように思えるのは、気のせいではないだろう。リーディアはそっと、まだふくらんではいない腹部に手を当てた。そっ、と撫でる。己の中に、もう一つ命が宿っていると思うと、とてもいとおしい。
妊娠が判明してからというもの、レイスティア侯爵家の義父母は大喜びで、不自由はないか身体に障りはと、何くれとなく世話を焼いてくれる。自分たちの孫であると同時に、降嫁した王女が産む、王家の血を引く子でもあるのだ。当然の事でもあるのだろう。
義母は、最近、リーディアの顔が優しくなったという。お腹の子の性別は、男だろうか、女だろうか。
「リーディア」
ふわり。肩にあたたかなものがかけられて、リーディアは振り返った。
困ったように苦笑する、クリストファーがそこに立っている。
あなた。
彼女ははにかむように微笑って、肩にかけられたショールを巻きなおした。
「体を冷やすと、お腹の子によくない」
リーディアの一方的な思慕によって結ばれた二人だが、クリストファーは常に優しく、紳士的に振る舞う。
そう、クリストファーは優しい。――いっそ不自然なほどに。
リーディアは父である王よりも、クリストファーを愛している。だからこそ、気がついてしまったことがある。
「愛しています、クリストファーさま」
いつも困ったように微笑む、あなた。
わたくしが夫を愛するようには、夫は愛していてはくれないのだ。
……夫に、愛人がいるのは気付いていた。
それは、レイスティア侯爵家に降嫁してから、しばらくしてからの事だ。
いつだって求める前から与えられていたリーディアが、生まれて初めて、自ら何かが欲しいと父に懇願し、初恋の人と結ばれた。クリストファーの妻となった瞬間、彼女は幸せの絶頂にあった。
全てが順調に思えた。
夫は紳士的で優しく、義父母は降嫁してきたリーディアを何よりも可愛がり、新婚生活は何も不足がなかった。
いつまでも、自分を王女として扱い、どこか一歩、引いた様子の夫に小さな不安を覚えることはあっても、日々は充実していた。
だが、しかし。
ある日、気がついてしまったのだ。
誰に対しても優しく穏やかで、態度を変えることのないクリストファーが、唯一人、特別な目を向ける女の存在に。
屋敷の中で、その女を見つめる時だけ、クリストファーの目には、ほんの少しだけ色が宿る。
夫の妾の名は、アリシア。
王女であるリーディアから見れば、取るに足らない平民でも下の部類、下働きの卑しい女だ。
確かに、見た目だけは、とても美しかった。流れるような銀髪、潤んだ瞳、透けるような白い肌。
王国の至宝と称えられたリーディアのような、華やかな美貌ではないものの、無垢で穢れない妖精のような美しさだ。
それでも、しばらくは平穏だった。
月が満ちて、リーディアは男児を産んだ。よく泣き、乳房に吸い付いて離れない、元気な赤子だった。
母にとっては、誇らしい子だった。
握り締めたちいさな手が、いとおしい。
レイスティア侯爵家にとっては、待望の跡取り息子だ。
コンラッドと名付けたのは、父親のクリストファーだ。
リーディアは幸せだった。息子はかわいい。
狡い考えだが、これでクリストファーの関心が妻に向いてくれるかもと、淡い期待を抱いた。結局、そうはならなかったけれども。
コンラッドがまだ幼い時、アリシアが妊娠したとの噂を耳にした。
誰の子か、決まっている、クリストファーさまの、我が夫の子供だ!
「奥方さま……っ」
「お気を確かに……っ!」
気がつけば、リーディアは無我夢中で、屋敷の廊下を走っていた。
走らなければ、走らなければ、だって、奪いとられてしまう!
柱の陰で、雑巾を絞っているアリシアの姿が目に入る。まだ腹はふくらんでいない。妊婦かどうかはわからなかった。
アリシアの瞳が、こちらを映す。
おくがたさま、と唇が動いたようだった。
細い首筋を、さらりと銀の髪が一筋零れる。肌は透けるように白く、こんな時も嫌になるほど美しい女だった。
何でそんなことをしたのかわからない。嫉妬に狂っていたのか。
リーディアは傍にあったバケツを持ち上げると、汚れた水を、アリシアの頭からぶちまけた。ぽたぽた、メイド服に水滴がしたたる。
ずぶぬれになったアリシアを、リーディアは見下ろした。いい見た目だ。人の夫に手を出す、泥棒猫には相応しかろう。
「何か、わたくしに言いたいことはないの?」
リーディアに問い掛けに、虚ろな、硝子玉のような目をしたアリシアは、束の間、目を伏せ、小さくかぶりを振った。
そして、かすかに、苦笑するように口角を上げた。
笑った。
そう、微笑んだのだ。
どす黒い嫉妬にかられ、自分に汚水をぶちまけたリーディアに、怒りを示すでも、怯えるでもなく、ただ穏やかに、困ったように微笑んで見せた。
まるで、聞き分けのない子供を見るような目をして。
アリシアは、強い感情を持たない女だった。情が深く、辛抱強い女だったが、リーディアが夫を愛するようには、クリストファーが己を愛するようには、彼女はクリストファーを愛していなかった。その狂おしい程の恋情は、いっそ羨ましかったのだ。
それが、リーディアに伝わることはなく、そんな表情が、嫉妬に狂った女の神経を、余計に逆撫でしてしまうとしても。
「なんなの、その顔は……!わたくしを、馬鹿にしているの!平民風情が、王の娘である私を!」
手を振り上げ、頬を平手打ちにしようとする。
そんなリーディアとアリシアの間に、割って入ったのは、クリストファーだった。
「落ち着いてくれ、リーディア……っ!彼女は、何も悪くない!」
「クリストファーさま……」
最愛の夫が止めに入ったことで、リーディアも振り上げた拳を下ろす。
クリストファーがほっ、と安堵したように息を吐き、その目がちらりとアリシアに向けられるのを見て、己が嫉妬に狂えば狂うほど、夫の心は自分から、遠く離れていくのだということを、リーディアは嫌というほど思い知ったのだった。
臨月が近づいてからというもの、しばらく屋敷から下がっていたアリシアだったが、やがて、女児を産んで戻っていた。
母の腕に抱かれ、すやすやと眠る幼子の名は、エステル。母によく似た面立ちの、愛らしい赤子だった。
己の胸で再び、どす黒い嫉妬の炎が燃え上がるのを、リーディアは感じた。クリストファーさまは、この女と、この女の産んだ子を愛しているのだろう。私と、わたくしが産んだ息子よりも。
許せない。許せなかった。
そうする事で、ますます夫の心は離れていくとわかっていたけれども、リーディアはアリシアの母娘に辛く当たった。
クリストファーもそれを察して、アリシアをリーディアとは出来るだけ関わりを持たせないようにしていたようだが、それでも傍に置いておきたかったというのは、よほど愛していたのだろう。その愛が、誰かを傷つけるとしても。
レイスティア侯爵家の内、歪な関係は、何年も何年も続いた。
十数年の後、アリシアが病を得て、若くして死ぬまで。
最愛の女を喪ったクリストファーは、目に見えて憔悴していたが、その間、リーディアは心ひそかに歓喜していた。アリシアさえいなくなれば、クリストファーさまは、こちらを振り向いてくれるかもしれない。愛してくれるかもしれないと。――けれど、それは、最悪の形で裏切られることになった。
レイスティア侯爵家には、先祖代々、伝わる家宝があった。
≪一角獣≫の紋章が刻まれた、銀の指輪。
躍動する一角獣の周りを囲むように、サファイヤが星のように輝いている。美しいそれ。
穢れなき乙女を守るという、神獣。一角獣は、レイスティア侯爵家の守り神だ。
その指輪は、歴代の当主に大切に受け継がれてきたものである。
伝統にのっとり、当代のクリストファーから、やがては息子であるコンラッドに託されるべきもの。リーディアは、そのことを微塵も疑ってはいなかった。
……そう、あの瞬間までは。
「旦那さま……?」
血の繋がった父を、父とは呼べぬ娘は、スミレ色の大きな瞳を瞬かせた。
怪訝そうに小首を傾げ、母譲りの銀髪が一筋、頬を流れる。
エステルはおずおずと、遠慮の滲んだ瞳で、実父であるクリストファーを見上げる。その顔には、困惑が浮かんでいた。
細く白い指には、銀の指輪。
そこに刻まれた一角獣の紋章が、エステルにとっては恐怖でさえあった。これを受け取るわけにはいかない。愛人の子である自分は、正統な後継者ではないのだから。
この指輪は、クリストファーから、コンラッドに大切に受け継がれるもの。自分なぞの手にしていいものではない。
「お許しください。こんなことを見られたら、奥方さまがどう思われるか……」
半ば涙目になり、いやいやと頭を振るエステルの耳に、「あなた、そんな場所で何をしているの?」と、ゾッとするほど冷たい声が響いた。
「お、奥方さま……っ」
そこに立つリーディアは、笑っていた。
今まで見た事もないような、心底、愉しそうに。
厨房から持ち出してきたのだろうか、振り上げたその手には、果物ナイフが握られている。鈍い銀の輝きに、心臓が凍る。
「うふふ、面白いわね。泥棒猫の娘は、やっぱり、わたくしから大事なものを奪うのねえ」
歌うように言うと、リーディアはエステルを目がけて、そのナイフを振り下ろした。
エステルは覚悟し、思わず目をつぶった。
鮮血が飛び散る。
赤い雫が、リーディアの頬を濡らした。
……死?
死んではいない?
痛みを感じなかったエステルは、こわごわと瞼を上げた。
振り下ろされたナイフは、己の身体ではなく、娘を庇うように妻の前に立ちふさがった、クリストファーの肩に刺さっている。白いシャツが、みるみるうちに赤く染まっていく。
生死に関わる怪我だと、すぐにわかった。
「いやああああああああああっ、あなた、クリストファーさま!」
瀕死の夫に、リーディアが絶叫する。
息も絶え絶えといった様子で、クリストファーはエステルに手を伸ばした。
「逃げろ、逃げるんだ。エステル……」
声も出なかった。
真っ青な顔で、震えるエステルは、首を横に振る。けれど、クリストファーは再度、「逃げろ」と繰り返し、彼女は踵を返すと、雨の中、屋敷の外へと飛び出して行った。
そうだ。それでいい。遠くなっていく娘の背中、薄れゆく意識の中で、クリストファーは安堵した。
わかっていた。自分の我がままで、あの優しい子を、この鳥籠のような窮屈な屋敷に、ずっと閉じ込めておくべきではなかったのだ。
どうか、どうか、幸せになっておくれ。アリシアの分まで、どうか。
願わくは、外の世界が彼女にとって、優しいものであればいい。
ああ、悲鳴が遠く……。
駆けつけた医師によって、クリストファーは何とか一命は取り留めたものの、傷は深く、寝たきりの身となった。
降り注ぐ雨の中、エステルは呆然と街をさまよっていた。
これから、どこに行ったら良いのだろう。
何をして生きていけばよいのだろう。
ずっと、牢獄のようなレイスティア侯爵家の屋敷から、逃げ出したかった。けれど、いざ飛び出してみると、己には何も無いことに絶望する。
帰る家も、家族も、誇るべきものは何一つない。
指にはめられた一角獣の指輪は、重い枷のように思えて、震える手でポケットへと突っ込む。
雨に打たれ、蒼白な顔で震えながら、街をさまようエステルは、さながら幽霊のようだった。白いドレスには、クリストファーの血が滲み、ひどい有様だ。
消えてしまいたい。どこか誰も知らない場所で。
「君は……?」
亜麻色の髪の、やや垂れた目が印象的な青年が、困惑したように立ち尽くす。
何もかも失い、孤高の身となったエステルを拾ったのは、リーブル商会の跡取り息子、のちにシアの父親となる、クラフト=リーブルだった。
「何故、どうしてなの?クリストファーさま、どうして……」
寝たきりとなったクリストファーの寝台に跪いて、リーディアは何故、どうしてと、子供のように繰り返した。
自分は唯、愛する人に愛されたかっただけなのに、ささやかな幸福を望んだだけなのに、何で、こんな風になってしまったのだろう。
そうして、それっきり、リーディアは心を病んで、ふたたび正気に戻ることは二度となかった。
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