女王の商人

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  九章  貴族と商人 10−9   

 急遽、侯爵家の屋敷に呼び出された医師は、ふうふうと息を切らせながら、慌てた様子でやってきた。
 丸眼鏡をかけた小太りな初老の医師は、あまりうだつの上がらない風体に見えたが、怪我人を見ると、急に背筋を伸ばし、てきぱきと治療にあたり始めた。
 シアは、自分を庇ったアレクシスの怪我の具合を、ことのほか案じ、医師の診察の間も、寄り添っていたが、額を軽く切ったせいで、派手に出血こそしたものの、アレクシスの怪我が重いものではないと聞き、ホッと安堵した様子だった。
 もしも、自分を庇ったせいで、アレクシスが命にかかわるような、重篤な怪我を負った日には、幼少の頃からの守りである従僕のセドリックや、彼の母・ルイーズ、従妹のシルヴィ ア、アレクシスを愛する人々に、どれほど詫びても済まないだろう。
 良かった、と繰り返し、吐息のように呟いて、シアはアレクシスの手を握る。幼少時から剣を握り続け、長い指は節くれだっている。手の甲は硬く、されど、あたたかい。
 よかった。あなたが無事で、あなたが生きていてくれてよかった。
 そんな彼女の心情が伝わったのだろう、アレクシスも心配をかけたという風に、そっと、やわいものに触れるように、重ねられた手を握り返す。
 たおやかで、いっそ頼りなくもある少女の手が、今はとても心強くもあった。
 短くはない歳月を、女王の商人とその騎士として、共に過ごした。
 共に協力して、困難を乗り越えてきた。
 意見を違えた日も、お互いを思いやりながらも、些細なことから、すれ違ってしまった時もあった。けれども、青年と少女は共に歩み続けてきた。時に、思い悩み、多くの葛藤を抱えながらも。
 微笑ましいやりとり。
 若人たちの間にある信頼を見て取ったクリストファーは、胸に安堵とかすかな痛みを宿しながら、目を細めた。
 それは、幼き日のクリストファーとアリシアの間に、確かに存在しえたものであり、哀しいことに、夫婦となったクリストファーとリーディアが、終ぞ築けなかったものであった。 それを愛情、と人は呼ぶのだろう。
 自分なりに、妻としてのリーディアを大事にしていたつもりであったが、お互いを思いやり合うシアとアレクシスの姿を見ていると、すでに老人と言われる身でありながら、女ひとりも幸せに出来なかった己を、クリストファーは恥じた。
 同時に、大事にされている孫娘の姿に安堵を覚える。
 娘のエステルには、父親らしいことを何もしてやれなかった。
 覚えているのは、柱の陰に立ちながら、母親のエプロンの裾を握り締めて、こちらを見つめていた幼い娘の表情。
 母譲りの銀髪。
 潤んだ、すみれ色の瞳。
 おとうさん。
 声なきつぶやき。
 唇がかすかに動いた。
 正妻のリーディアを伴って歩くクリストファーとは、距離を置きながら、アリシアら母娘は黙って、頭を垂れていた。他の使用人と同じように。その胸に秘めた真実を、決して表に出すことはなく。
 あの時、どうすれば、あの娘の孤独を救ってやれたのか。その答えは、亡き今、永遠に謎のままだ。
 ただ、孫娘が幸せに、愛されて生きている姿を見ると、抉られ続けた古傷が、ほんの少し、癒された気になるのは、気のせいではないだろう。

 医師によるアレクシスの治療が済んだ後、彼とシアは、当主であるクリストファー自ら、別室へと案内された。
 青年の腕に巻かれた、真新しい白い包帯は痛々しいが、顔色はそう悪くないことに、シアはようやくひと安心する。
 通された侯爵家の部屋は、淡いグリーンの壁紙と、クリーム色の家具。壁に飾られた絵画は、子供たちや、長閑な田園風景を描いたものだ。
 ごくごく私的な、家族がくつろぐための部屋なのだろう。
 いままでの豪奢な内装に比べると、あたたかみのある、控えめな様子であった。
 そういう部屋に案内されたことで、シアとアレクシスもやや、肩の力が抜けて、硬かった表情も緩む。
 執事に支えられながら、クリストファーは背もたれのある椅子に寄りかかるように、ゆっくりと腰を下ろした。
 円形のテーブルを挟んだ向かい側には、アレクシスとシアが座る。
 執事はメイドに紅茶を運ばせると、耳打ちし、人払いを命じる。
 紅茶の芳香を味わうように、一口、口に含んだ後、クリストファーは「まずは、謝罪から始めるべきだろうな……」と、ゆるり、唇を開いた。
「アレクシス殿、私の妻がしてしまったことで、このような怪我を負わせてしまって、誠に申し訳なかった。シア殿にも、本当に怖い思いをさせてしまったこと、重ねてお詫び申し上げる。すべては……夫である私が、彼女の行動を止められなかったことこそが、原因だ。どれほど謝っても、謝り足りない」
 訥々と、だが、心から悔いるように、謝罪の言葉を述べるクリストファーに、危うく死にかけていたはずのアレクシスは、持ちの前の人の好さで、構わないと頷いて、シアもまたうな垂れる老当主に対する同情もあり、「アレクシスが無事で、良かったですから」と、慰めた。それより、とシアは気になっていたことを切り出す。
「教えてください。奥方さまが、何故、私を恨んでいるのか?亡くなった母、エステルとレイスティア侯爵家が、一体、どのような関係があるのか」
 シアの質問は、予想の範疇であったのだろう。
 クリストファーは目を細めると、吐息を零し、「最初に」と前置きした。
「最初に聞いておきたい。シア殿、貴女にとっては、少々、辛い話になるかもしれない。それでも?」
 シアはクリストファーの目をしっかりと見て、大丈夫だと首を縦に振る。最初から、覚悟は出来ていた。辛い話になるかもしれなくとも、それでも、知りたいのだ。
 優しく、儚げで、美しかった亡き母・エステル。
 黒いドレスの貴婦人の影に震えながら、幼い娘を抱きしめて、それでも頑なに己の出生のルーツを、語ろうとはしなかった母。
 クラフトやエドワードは、承知していたであろうそれを、シアが知る事はなかった。そのせいか、幼くして亡くしてしまった母は、いつまでも若く美しく、どこか現実味のない、穢れない妖精のような存在だ。
 そんな母を、シアは心から愛し、今も敬慕し続けている。
 亡き母に生き写しとも言われる、己の容姿。止まってしまった時計、亡き母と年齢がじょじょに近づいている。鏡を見ると、記憶の中の母に会える。
 己の出生に至る謎を知りたい。父・クラフトと出逢うまで、母がどのような生涯を送っていたのか。それは、当然ともいえる欲求だった。
 彼女の決意を見て取ったのか、アレクシスも控えめに、「自分が聞いても良い話ならば」と口にする。シアに否やはない。
 ここまでアレクシスを巻き込んでしまったからには、シアの出生にまつわることも含めて、きちんと事情を説明するべきだ……いや、違う。アレクシスがいたから、ここに辿りつけた。ここまで来れたのだ。きっと。だからもう、迷わない。
「さて、何から話せば良いものかな……私が貴女の祖母、アリシアに出逢ったのは、もう数十年も前、私がまだ、ほんの子供だった時の事だ。早くに両親を亡くした彼女は、洗濯女だった叔母に手を引かれて、この屋敷にやって来た」
 クリストファーは若き日を懐かしむように、ゆったりと一言、一言を噛みしめるように、語り始めた。
 男女の差もなく無邪気に戯れた子供時代、生まれや身分の差を歯痒く思いつつも、甘い思いに胸を焦がした青年期、悩みはありつつも、アリシアと共に在れたそれは、人生で最も美しい時ではあった。
 過去を回顧する老侯爵の目には、遠く過ぎ去った歳月をいとおしむように、優しい光が滲んでいる。
「彼女、アリシアはエステルと、あまり似ていなかったな。子供の頃からお転婆で、飄々としていて、次に何をするか予想がつかないようなところがあった……大人になってからは、お互いの立場を慮ってか、あまり感情を出さないようになってしまったが」
 初恋だったのだと、クリストファーは言った。
 拙くとも、最初で最後の、生涯をかけた恋だった。
 おそらく、アリシアにとってもそうであっただろう。飄々とした性格で、あまり本音を見せない彼女であったけれど。愛していると言ってくれた事は、唯の一度もなかった。愛人の身であるが故に、決して言ってはいけないと、自制しているようだった。
 でも、最期まで傍にあってくれた。日陰の身で、辛い思いをしながらも、侯爵家の当主として立つ、クリストファーを見守ってくれた。幼き日に約束した通りに。
 人の上に立つ者はみな、孤独だ。
 それが、高貴なる血を持つ者であればなおのこと。
 妬みも羨望も憎しみも、全てを受け止めて、柔らかな微笑みを浮かべながら、誇り高く、茨の棘に向かっていかなければならない。
 アリシアはそれを理解し、子供の頃から寄り添ってくれた、稀有な存在だった。けれども、おそらく誰にとっても不幸だったのは、リーディアがクリストファーに寄せる想いも又、それに劣らなかったことだ……
「すべては、私の至らなさが招いたことだ。彼女、リーディアをあんな風に追い込んでしまったのも、全部……」
 美しい容姿と、小鳥のさえずりのような愛らしい声、無垢で純粋な性格。
 国民の誰からも愛され、慕われた小さな王女さま。
 彼女が初めて恋した相手は、凛々しい侯爵家の跡継ぎで、彼にはすでに愛する人がいた。けれども、王女さまは初恋の相手に妻となることは出来た。でも、決して、一番に愛されることはなく。
 純粋であったが故に、狂気に蝕まれた彼女に、真実を知る者は皆、同情を寄せていたのだ。
 クリストファーの口から、そういった事情を聞いたシアも又、黒いドレスの貴婦人――リーディアに対し、すでに憎いだけの感情は、持てなくなっていた。
 初恋の人と結ばれた王女は、どんな喜びに満ち溢れていたのだろう。でも、夫となった人にはすでに最愛の女がいて、己が永遠に愛されることはないのだと、悟った瞬間の絶望はいかに――
 シアの隣で、黙ってクリストファーの語りに聞き入っていたアレクシスも又、心中、複雑な様子だった。
 彼の両親は、愛していると声高にいう事こそなかったが、父が亡くなるまで、とても円満であった。息子の目から見ても、仲睦まじい夫婦で、喧嘩しているのを見た記憶がない。
 寡黙なカーティスなりに、妻のルイーズを大事にし、日々、気遣っていた。
 相手の人柄を知らないで嫁いだはずの、従姉のシルヴィアも、夫に深く愛されていた。
 そうであるが故に、夫に愛されない妻というのが、いかに辛いものかと思う。
 自分にも今、愛する者がいる。
 アレクシスは無意識のうちに、シアの横顔を見つめた。
 いつの日か、愛する人と、亡き父と母のように、寄り添い支え合う、そんな関係を築くことが出来たら――
 そこまで考えて、アレクシスはそんな場合ではないと、脳内にほわわーんと浮かんできた、雑念を振り払った。侯爵が重要な秘密を語っている時に、と恥ずかしくなる。
 模範的な騎士とならん、としているアレクシスも、心身ともに健全な十八の男で、隣に好きな女がいれば、そんな妄想をしてしまうのもしょうがないことだ。
 ぽややんとした脳内のお花畑を振り払ったアレクシスは、再び、クリストファーの話に聞き入った。
「年頃になっても、婚約者の定まらない私に、先代のレイスティア侯爵――私の亡き父が用意したのが、リーディア王女との婚約の話だったのだ。我が侯爵家は、王家の縁戚であり、王女を臣下に降嫁させるのは、珍しいことではない……それが、彼女、リーディアたっての希望だと聞いたのは、ずっと後になってからだ」
 最初から、クリストファーに断るという選択肢は用意されていなかった。家柄も良く、心身ともに若く健康で、幸いなことに婚約者もいない。
 愛らしいリーディア王女のたっての頼みとあらば、遠国の王家に嫁いで苦労させるよりはと、王も首を縦に振っていた。
 父親のそれはもはや命令で、聞かされた時には既に、クリストファーとリーディアの結婚は約束されたことだったのだ。
 しかし、と全てが遅い今にして、クリストファーは思う。幼い王女が自分に思いを寄せているならば、どんな手段を使っても、断るべきだったのだと。
 典型的な政略結婚ならば、まだ救われた。己の父母のように、愛はなくとも、両家の利を見極め、割り切った関係を築けるならば。けれど、そうなるには、リーディアは純粋すぎたし、周囲に愛され過ぎていた。
 しあわせに、しあわせに。我らの美しい王女さま、しあわせに、しあわせに……愛された王女は、幸福でなければならないのだ。絶対に。国民の過ぎたる愛は、王女にとって、いつしか呪いになる。
 ……否、それも言い訳に過ぎないと、クリストファーは軽く頭を振った。
 どのような事情があろうとも、己を愛してくれた二人の女を不幸にしてしまったのは、他ならぬ彼自身なのだから。
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