女王の商人

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  九章  貴族と商人 10−11      

 妻に刺されたクリストファーは、二月ばかり生死の境を彷徨い、半身に麻痺を負ったものの、なんとか一命を取り留めた。
 しかしながら、レイスティア侯爵家の混乱はひどく、跡取り息子であるコンラッドは突如、精神を病み、老婆のようになってしまった母の面倒と、寝たきりになってしまった父親の世話を、一手に引き受ける事となった。
 裕福な侯爵家であるが故、使用人など人手には困っていなかったが、それだけで済む問題でもない。
 逃げたエステルの事は、勿論、案じてはいたものの、寝台より起きあがれなくなってしまったクリストファーが、とても、その行方を探せるような状況ではなかった。
 ただでさえ、父親と母親の世話を一手に引き受け、必死にレイスティア侯爵家を守ろうとしている息子に、そのようなことを頼めば、より困らせてしまうことは想像できたし、エステルのとっては、侯爵家に閉じ込められて一生を送るよりも、このまま、どこか遠くに姿をくらませた方が、幸せではないかとすら思った。
 籠の中の鳥のまま、一生を終えるよりも、自分の翼で大空に羽ばたいていく方がどんなにか。
 自由を得て、貴族の血統とも、権力とも縁遠い場所で、幸せになってくれたら……そんな身勝手なことを願う己を、ひどく勝手な父親だと、クリストファーは自嘲した。
 あの娘も、あの娘の母も守ってやれず、とうとう、身ひとつで飛び出させてしまうとは。
 しかし、半月もすると、不安が胸の内に湧き上がってくる。
 正妻に虐げられていたとはいえ、エステルはこのレイスティア侯爵家から、ほとんど出たことなかったエステルは、世間知らずとしか言いようのない娘だ。そんな娘に、世間は甘くはなかろう。
 それに加えて、銀の髪、白磁の肌、すみれ色の双眸、母親譲りの妖精のような美貌の娘である。悪い男に騙されはしないか、娼館に売り飛ばされはしないかと、嫌な想像ばかりが浮かんでくる。
 悪い想像ばかりに耐えきれなくなったころ、クリストファーは自身が青年の頃から仕え、絶対の信頼を置く執事に、エステルの行方を捜すように頼んだ。
 居場所がわかったところで、もし、今、幸せなら、屋敷に連れ戻す気は、毛頭なかった。
リーディアが刃物を振り上げた恐怖を、エステルは生涯、忘れることはなかろうし、このレイスティア侯爵家に、彼女の居場所はない。
 執事はことのほか有能で、街で買い物していたエステルを見つけて、会話を交わしたらしい。
 少しふっくらとして、屋敷にいた頃よりも、血色が良さそうだったという。穏やかな暮らしをしているようだったと。
 クリストファーの寝台に寄り添い、執事はそっ、と目を伏せて、続けた。
「侯爵家に戻る気はないと、そう、エステル様は仰っていました」
「……そうか」
 執事は更に噛んで含めるように、言葉を重ねる。
 ――エステル様は、お幸せそうでした。この屋敷に閉じ込められていた頃よりも、ずっと。
 彼も又、エステルの憐れな境遇に、同情している一人であった。
「……そうだったか」
 クリストファーは己を納得させるように呟いて、エステルを屋敷に連れ戻そうなどとは、絶対に考えまいと、心に誓った。


 しばらくして、エステルが商会の跡取り息子と結婚し、元気な女の子を産んだらしいと、執事の口から聞かされた。
 臥せり、屋敷から動けなくなったクリストファーの代わりに、執事は時折、エステルや産んだ子の様子を見に行って、変わりない、幸せそうに暮らしていると教えてくれた。
 思えば、昔から職務だけに忠実なようでいて、心根は優しい男だった。少年時代から厳しい事は山のように言われたが、不思議と離れる事はなかった。
 クリストファーがこのように四肢の自由を失い、寝たきりの身になっても、その忠義は変わることがない。得難い、実に得難いことだ。
 そんな日々が、数年続いた後の事だ。
 髪に混じった白いものが、だいぶ増えてきた執事が、エステルさまのお身体の具合が、あまりよろしくないようです、と憂い顔で告げてきたのは。
 その報告を耳にした時、ほぼ寝たきりの身となり、息子に政務を全て任せることになってからというもの、半ば生きているのか死んでいるのかわからないような、茫洋とした気持ちで過ごしていたクリストファーは、久方ぶりに動揺した。
 思うようにならぬ日々の中で、執事が聞かせてくれる、エステルやその娘の成長ぶりは、ささやかな幸福と、忘れ得ぬ罪の意識を、クリストファーの胸にもたらしていたからだ。
 娘や孫に会いたい気持ちは、痛い程にあった。けれど、同時に、会ってはならぬと誓ってもいた。
 あの父を父とも呼べぬ、母に存分に甘えることも出来なかった娘が、貴族の屋敷から、閉ざされた鳥籠から、傷つきながらも逃げ出して、ようやく、ようやく掴んだ、家族、ささやながらも平凡な幸せなのだから。
 病にかかったという話を聞いて、お世辞にも頑丈とは言えぬエステルの事が心配になったのは、確かだ。
 しかし、同時に、リーブル商会の跡取り息子と共にあるならば、安心だという信頼もあった。
 国一番とも評される、大商会。当代のエドワード=リーブルは稀代の傑物と名高く、その息子も有能との評価だ。
 そのリーブル商会の庇護の元にあるならば、十分な治療と、娘の面倒も見てもらえるだろうと思った。金がない平民なら、医者にも診てもらえず、その辺で野垂れ死にもあることであるから、エステルはだいぶ恵まれた環境と言えるだろう。
 そんな風に無理やりに己を納得させた。


 その半年後くらいであろうか、クリストファーは病弱な娘と、彼女の産んだ孫娘の暮らしぶりが気がかりで、こっそりと執事に様子を見に行かせた。


 リーブル商会の本部の前で、初老の男が何処か所在なさげに、たたずんでいる。
 ピンと伸びた背筋と、実直な眼差しが印象的だ。
 商会を訪ねてきた客や商人というには、いつまでも立ち尽くしているのが不自然だった。
 その所作は従者として、十分すぎる洗練されており、見る者が見れば、それ相応の身分のある貴人に仕えていると察せられる。
「おじちゃん……っ!!」
 幼い声と同時に、水色の小さなボールがころころと、執事の目の前を転がった。
 靴先に、コトンと当たったそれを、執事はそっと拾い上げると、駆け寄ってきた幼い少女に渡してやる。
「ありがとう、おじちゃん」
 鈴を鳴らすような声は、記憶のものよりずっと幼くはあったけれど、エステルの声によく似ていた。
 ボールを大事そうに抱えながら、えへへとはにかむように笑う、銀髪の幼女。
 仕立ての良さそうな紺色のワンピースに身を包み、銀糸の髪は綺麗に結われて、バラを模した髪飾りがついている。血色の良い頬はふっくらと、子供らしく愛らしい。
 幼いながらも、人形のように整ったそのかんばせは、将来の美貌を想わせた。
 貴族の令嬢とは異なるが、十分な富と教育を受けている事が察せられる、その姿。それは、このアルゼンタールの平均的な子供から見て、ずいぶんと恵まれていた。
 リーブル商会の一人娘として、大切に大切に、キズひとつつけぬように育てられているのだろう。

 何より、執事は知っている。
 レイスティア侯爵家で暮らしていた、子供の頃のエステルは、ちっとも幸せそうでなく、子供らしい無邪気さとは無縁だった。
 いつも愛人である母親の影に隠れて、どこか陰鬱なものを感じさせた。
 そんな母親の幼少期と比べて、今ここにいるエステルさまの娘は、なんと幸福そうであることか!
「おじちゃん?」
 自分をまじまじと見つめてくる執事を、不思議に思ったのだろう。幼女の、空のような海のような、澄んだ青の瞳がパチパチと瞬く。小首を傾げる、その愛らしい仕草に苦笑して、執事は膝をかがめ、シアと目線を合わせた。
「お嬢さんのお名前は?」
「シア。母さまがつけてくれたの」
 そう名乗り、銀髪の少女は誇らしげに胸を張る。
「……シア、良い名前だね。うん、とても」
 瞼の裏に、在りし日のアリシアやエステルの姿を思い描き、執事は優しく微笑んで、余計なことを語ることなく、静かに踵を返した。
 クリストファーと共にあった時間、執事もまたアリシアやエステルを見守ってきたのだ。特別な感慨が胸を打つのは、自然と言えば自然な事であった。
 貴族だとか、平民だとか、大人たちの思惑であるとか、そんなことは、無垢な幼子の前では、些細な事だ。
 幼い子供が愛を疑うことなく、幸せそうに日々を暮らしている。
それに勝る、幸いはない。
 レイスティア侯爵家に戻った執事は、長年の主人であるクリストファーの前に跪いて、暇乞いをした。
 シアという娘は、母が臥せりがちで寂しい思いをしているだろうに、健気に日々を過ごし、すこやかに成長している。その幸せを、大人の都合で壊すべきではないと。
 もし、彼女を静かに見守ることが出来ないのなら、己がこの屋敷を辞し、二度と戻っては来ないと。
「そうか……エステルの娘にとっては、この貴族の血と、レイスティアの名は邪魔なのだな」
 最も信頼する片腕であり、長年の友人でもある執事の滔々した訴えに、クリストファーはうすうす察しつつあった事実を、ようやく真の意味で受け入れた。
 エステルには、屋敷で共に在りながら、何もしてやれなかった。実の娘であったのに、抱き上げることも、優しい言葉をかけることさえも。だから、せめて、孫である彼女には。
 しかし、ただ見守る事さえも、シアにとっては迷惑な事なのだ。彼女を愛し、その成長を見守るのは、祖父や父親、リーブル商会の面々であり、クリストファーに許された役目ではない。
「お前は辞める必要はない。エステルや娘の様子を見に行かせるのは、今日で最後だ。余計な事はしないと、誓おう」
 クリストファーはそう断言し、言葉通り、二度とシアの様子を見に行かせようとはしなかった。
 病弱な娘の事は、何より気がかりであったけれど、きっと回復して、健やかな日々を過ごしていると信じた。まさか、儚くなっているなど、考えもせずに。
そうして、十年以上の時が流れた今、一度、切れたはずの糸は再び繋がる――
「……というわけで今に至るのだ。妻も娘も、初恋の相手も守れなかった老人の、恥ずかしい話だよ」
年寄りの昔語りに、長々と付き合わせてすまなかったと、クリストファーは穏やかな口調で詫びた。強い痛みを伴うであろう過去の記憶も、いつしか年月が癒した部分も、あるのだろう。
 シアとアレクシス。孫娘と客人の騎士に、全てを語り終えたクリストファーは、どこか肩の荷が下りたような、さっぱりとした表情をしていた。
 老人は苦しみを、ずっと独りで抱え続けてきたのだ。二十年近くの間、ずっと。
「祖父であると名乗るのを、諦めたあの日から、君とこんな風に再会できるとは思わなかったよ。お嬢さん……シア」
 エステルが既に儚くなっていたとは、何よりも辛いことだった。生来、病弱な子ではあったけれど、まさか、こんなに早く天に召されてしまうとは。
 そう語る、クリストファーの声は、かすかに震えていた。何故なら、あまりにもシアと若き日のエステルが瓜二つであったから。アリシアともよく似通った、雪のように融けて、消え入りそうな美貌。だから。
 シアがこの屋敷を訪れた時、彼女が、いなくなったはずの彼女が戻ってきたのかと、手放してしまった大切なものが、もう一度、戻って来てくれたのかと――。
 これも、レイスティア侯爵家の守護である、一角獣の導きかとそう思ったのだ。
 あの優しく清らかな子が、もうこの世にいないなど、信じたくなかった。
「……母が亡くなってから、しばらくして、お墓に花束が供えられている事があったんです。どなたかわからないんですけれど、何度も何度も」
 父と知り合いに聞いても、皆、首を横に振る。
長年、謎であった花の贈り主が、シアはようやくわかった気がした。
「きっと、あの執事さんだったんじゃないでしょうか。母が亡くなったことを知って……でも、おじいさまには言えなかったんだと思います」
 執事は噂で、エステルが亡くなったことを聞いたのだろう。だが、その悲しい報せを、主人にはどうしても告げられなかったのだ。
 妻の凶行により、寝たきりの身となった主人は、娘の幸福を誰よりも強く願っていた。そんな父親に、娘が儚くなったことを告げるには、執事は余りにも長くクリストファーの傍に在り過ぎた。
 そんな執事の葛藤は、よく理解しているのだろう。
 まだ少年だった時分から、傍に仕えてきた己の半身のような存在。そうだったのだろうな、とクリストファーは目を細めて、深く息を吐いた。
 あれは若い時から、優しすぎるほどに優しい男であったから。
 もう一度、そうだな、と呟く。
 きっと、心底の悪人は誰も居なかった。
 言い訳になるが、クリストファーとて、リーディアに全く情を持っていなかったわけではない。あれは純粋で、哀しい程に一途な女だ。
 ただ、ほんの少しのボタンの掛け違いが、悲劇を生み出し、後には、傷つきやすく脆い心をもった、寂しい大人たちが残っただけだった。
「……誰も悪くはなかったのでしょう。ただ、皆、想いが強すぎただけで」
 それまで控えめに聞き役に徹していたアレクシスが、全員の想いを代弁するように、穏やかに言った。
 クリストファーがアレクシスの顔を見ると、真っ直ぐな漆黒の瞳と目が合う。穏やかで、けれど、意思の強さも感じさせる、清々しく、一点の曇りもないそれ。良い若者だ。まだ青い、だが必ず、良い男になるだろう。優しいけれど、真実から目を背けるでもない若者のそれは、老人には眩しかった。だが、頼もしくも、愛おしくもあった。
 ほんの少しし、口角が上がる。
 孫娘は、ずいぶんと人を見る目があるようだ。
「ありがとう。君にそう言ってもらえると、少し救われるよ」
 クリストファーは頷くと、「さて、」と改まった口調で前置きをして、シアの方へと向き直った。
 意気消沈した老人はそこにはおらず、堂々としたレイスティア侯爵家の当主が、其処にいた。
「老人の過去の話はこれ位にして、これからの話をしなければな。シア殿」
「これからの話……?」
 首をかしげるシアに、ああ、とクリストファーは続けた。
「妾腹とはいえ、君は私の、レイスティア侯爵家の孫娘にあたる……今は私と息子が家督を継いでいるから、正統なる後継者になる事は出来ないが、君が望むのならば、然るべき爵位や財産を用意しよう。もっとも、リーブル商会の一人娘である貴女にとって、金は然程の意味を持たないだろうが……」
 吐息がこぼれる。
「貴族の系譜や血は、どれほど金を積んでも、手に入らない」
 それは、望んでも、
「人によっては、喉から手が出るほど欲する者もいる……どうするかね?」
「あたしは....」
 貴族と平民。それは、決して相容れない存在だ。
 祖母も母も、その壁に苦しんだ。
 大商会の跡取り娘として育ったシアは、身分で軽んじられる事なく、貴族の生まれであるアレクシスとも臆することなく、対等に接せられる。それが許される。でも、皆がそうなわけではない。
 クリストファーの誘いは、悪い話ではなかった。レイステイア侯爵家は、王女が降嫁するほどの名門、本物の貴族だ。
 その富は莫大なものであろうし、名誉だって手に入るだろう。
 身分の差に泣いた者が、過去、どれほどいたことか。
 でも。
 シアは膝の上に置いた手を、ぎゅっと握りしめた。小さな、頼りない手だ。けれども。自分は、リーブル商会の跡取り娘だ。
 商会の仲間たち、三つ子、かしましく、だけども愛情を持って世話をしてくれるメイドたち、商会の事務をしてくれるおばちゃん、みんなみんな大切な、シアの家族だ。
「あたしは......ですから」

 結局、シアはなにも受け取ることなく、侯爵家を去った。
 一角獣の指輪を返すと、クリストファーは少し寂しげに「それは、エステルにあげたものだから」と首を横に振るが、シアは「いえ、これは此処の屋敷にあるべきものでしょうから」と祖父である老人の手を、そっと両手でくるんだ。
 それが、きっと亡き母の、エステルの願いでもあるのだろう。
 レイステイア侯爵家の名も、紋章入りの指輪も、母にはきっと重荷だった。
 命尽きるまで、その事を悔いていた母。
 形見ではあっても、相応しい人の手に戻るのならば、そして、また再び息子であるコンラッドへと受け継がれていくならば、エステルは喜んでくれるはずだ。

 屋敷の外へ出ると、ふっと肩の荷が下りたような気がした。
 ひんやりとした空気は澄んでいる。
 シアとアレクシスは顔を見合わせると、どちらともなく手を伸ばし、その手を繋ぎ合った。
 いつか、この日の決断を後悔する日が来るのだろうか、とシアは思う。
 それでも、今、この時は。
 繋いだ手のあたたかさが、何よりも心強かった。



「……リーディア」
「クリストファーさま、怖い人たちはもう帰ったの?」
 ようやく妻と向き合ったクリストファーに、リーディアは幼子のように無垢な表情で、甘える。
 ――愛しているの。ずっと、ずっと永遠に、貴方だけを。
クリストファーは深く息を吐き出すと、痩せて、老いた妻の背中を、そっと抱きしめた。
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